變面(へんめん):The King of Masks
中国映画に『變面(へんめん)』という作品がある。
主人公の老人は旅芸人である。仮面を瞬時に変えるという特殊な芸を持つその老人は、北京の有力な劇団からの誘いも断って、一人旅を続けることを選んでいた。もうだいぶ歳をとってきたので、その芸を伝える子供が欲しいと思う。その芸は一子相伝であって、我が子しかも男の子以外には伝えてはならないしきたりになっていた。ある日、老人は捨て子をもらい受ける。利発で愛くるしいその子を老人は愛する。旅の途中、少年は老人から様々な技術を習っていく。だが少年には秘密があった。彼は、実は女の子だったのだ。もらわれたいがために嘘をついたのだ。夜、寝静まってから、船の舳先に座っておしっこをする幼い少女。
少年が女の子だと知った老人は、激怒し少女を追い出す。老人の船を少女は追うが、老人は少女を許すことはない。やがて、誘拐の嫌疑をかけれて獄中で死にかけた老人を少女は死を覚悟して救い出す。瀕死の少女を老人は抱きしめて、彼女の深い愛情を知って泣くのだ。老人はこの幼い少女よりはるかに自分が愚かだったことにやっと気づいたのである。
老人は決心する。男子にのみ伝える一子相伝のルールを破って、少女と共に生きることを。
必死であるということは生きることであり、生きるということは必死であることだ。汗と糞尿にまみれ、あくせくし、汚れていても、裏切ることはすまいと必死に生きる姿は愛おしい。失望し幻滅してもなお、それを乗り越えようとする姿が美しいのである。
夢中であるとき、人は意味のある人生を生きている。夢から覚め、一所に居座るとき、人生の意味は消え失せ、存在は無意味になる。
人には物語が必要だ。それは、自己や他者に幻想を抱かせるための装置としての神話化ではない。自分自身を含めた物語化である。ただし、その物語化は自己憐憫や自己韜晦とは無縁でなければならない。しかも、物語化は過去についてのみならず、むしろ現在進行形の物語化が必要なのだと思う。自己の負の側面は、同時に他者の負の側面でもある。夢とは現在進行形の物語を意識するということではないかと思う。夢中という言葉は、現在進行形の人の在り方を捉えた表現なのではないだろうか。
夢中であるとは、無意識であることではない。夢中であるとは、その瞬間に己のすべてを投げ入れる態度のことだ。
物語を読むことや観たことで心が騒ぐのは、その物語に自己を見出したときだろう。そして、そこに我と汝の間の関係性を見出したとき、物語に意味があったし、己自身の人生の意味も感じとることができるのである。
八十年代に事あるごとに物語は死んだと言われ、今は物語化の欺瞞が言われているが、それでも物語は在ったし、これからも在り続けるだろう。それは僕らを夢中にさせるから。
物語に入り込むというこの人間の想像力は、他の動物たちには見られない特性かもしれない。しかも、その物語を己自身の人生に見出せるのは、人間の最大の特権かもしれない。
※一子相伝の技を伝えるため、老人が身寄りのない男の子を買いに行く場面。この少年は、女の子なのです。
これが二人の出逢い。本当に美しい場面です。
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