2009年9月30日水曜日

文化学院にて

今日は久しぶりの文化学院☆

ロッカーだね

怪しいパツキンの依田さん!イェイ!

そして、もう一名!

なんか魔女っすね

ドツキ眼鏡の金崎さん☆

みんな、いろいろと常に楽しませてくれますね!ありがとね!!
来週またみんなで写真撮ろうね!!
今日はちょっぴり急いでました☆
すまぬ。。。。


☆上野火山☆

毎日と一日

Photo by Sorairo Telegraph


『毎日と一日』

上野火山


毎日僕たちは、同じ道を歩き

毎日僕たちは、同じ空を見て

毎日僕たちは、同じ空気を吸って

毎日僕たちは、同じ朝を見る

でも本当だろうか

毎日が、同じだなんて

昨日と今日が、同じだなんて

本当だろうか

僕は

今日という一日を、生きる

その今日という一日は

二度と

戻ってこない

僕たちは、毎日、たった一日を

生きている

2009年9月29日火曜日

生き直す☆


いろんなことがありますが、それでも生きて意味のある生き方をしたいのが人間です。

苦しいことも、悲しいことも、怒りたいことも、笑っちゃうことも、全てが人生の重要な要素です。

決して驕らず、
決して倦まず、
決して冷笑せず、

明日を夢見て生きていきたいものです。

まずは健康で、
楽しく、
やれることを精一杯やって、
愛のある暮らし。

それだけでいいんだよな。

大切に生きよう!今日を!

2009年9月28日月曜日

Winesburg, Ohio


“ Winesburg, Ohio ”
by Sherwood Anderson

「ワインズバーグ・オハイオ」が最初の出逢いでした。
シャーウッド・アンダスン(アンダーソンとも言いますが、僕はこっちの方が好き)は、会話の書けない作家だったのです。地の文ばかりで、人間の会話がない。それが彼の物語を古臭いと呼ばせる原因にもなっていました。

でも、フォークナーがあえて言うように「彼、シャーウッド・アンダスンこそ、ロストジェネレーション以降の作家の父だった」のだと思います。
みんな作家達は彼の影響を受けたようです。

この本の冒頭のテーマ通り、彼には甘ったるい物語より人間のグロテスクな部分を観てやろうという姿勢が強かった。
なのに、不思議なのは、彼の書く作品はどこかもの悲しく、切ない。
それは、人間をとことん観察した後の諦念から発せられたものかもしれません。

ウィーラード館という旅館の息子ジョージの観た田舎町ワインズバーグの人間模様は笑ってしまうのに、どこかもの悲しく、様々な人間の類型を見せつけられます。
そして物語の最後にジョージは町を出て行きます。作家になるために。

アンダスンは、長編作家というより、短編作家です。
ワインズバーグ自体が一種の短編集と言える作品です。
最近、なぜかこの作品のミュージカル版だとか、映画化だとかが相次いでいます。長く無視されていた作品なのに、みんな気がついたのかな?
これはメチャメチャいい物語だぜ!

以前ご紹介したATG映画「祭りの準備」は、日本における「ワインズバーグ・オハイオ」のような気がします。

授業のレポートして「ワインズバーグ・オハイオ」のビデオを作った人がいます。
この物語の背景を垣間見ることができます。

This is my Assignment 2.1 project for my English 111c course in the Spring of 2008. My group chose to animate Winesburg, Ohio through the use of still images and overlaid text from the story.
(from comments of the student who made this VIDEO.)

Winesburg, Ohio

The Dumb Man by Sherwood Anderson

いきなりですが、シャーウッド・アンダスンの超短編「The Dumb Man」を載せときます。
よかったら読んでね!
なんで人は口を閉ざすのでしょうか?
アンダスンの解答の一つがこれかもね。

The Dumb Man
There is a story.--I cannot tell it.--I have no words. The story is almost forgotten but sometimes I remember.
The story concerns three men in a house in a street. If I could say the words I would sing the story. I would whisper it into the ears of women, of mothers. I would run through the streets saying it over and over. My tongue would be torn loose--it would rattle against my teeth.
The three men are in a room in the house. One is young and dandified. He continually laughs.
There is a second man who has a long white beard. He is consumed with doubt but occasionally his doubt leaves him and he sleeps.
A third man there is who has wicked eyes and who moves nervously about the room rubbing his hands together. The three men are waiting-- waiting.
Upstairs in the house there is a woman standing with her back to a wall, in half darkness by a window.
That is the foundation of my story and everything I will ever know is distilled in it.
I remember that a fourth man came to the house, a white silent man. Everything was as silent as the sea at night. His feet on the stone floor of the room where the three men were made no sound.
The man with the wicked eyes became like a boiling liquid--he ran back and forth like a caged animal. The old grey man was infected by his nervousness--he kept pulling at his beard.
The fourth man, the white one, went upstairs to the woman.
There she was--waiting.
How silent the house was--how loudly all the clocks in the neighborhood ticked. The woman upstairs craved love. That must have been the story. She hungered for love with her whole being. She wanted to create in love. When the white silent man came into her presence she sprang forward. Her lips were parted. There was a smile on her lips.
The white one said nothing. In his eyes there was no rebuke, no question. His eyes were as impersonal as stars.
Down stairs the wicked one whined and ran back and forth like a little lost hungry dog. The grey one tried to follow him about but presently grew tired and lay down on the floor to sleep. He never awoke again.
The dandified fellow lay on the floor too. He laughed and played with his tiny black mustache.
I have no words to tell what happened in my story. I cannot tell the story.
The white silent one may have been Death.
The waiting eager woman may have been Life.
Both the old grey bearded man and the wicked one puzzle me. I think and think but cannot understand them. Most of the time however I do not think of them at all. I keep thinking about the dandified man who laughed all through my story.
If I could understand him I could understand everything. I could run through the world telling a wonderful story. I would no longer be dumb.
Why was I not given words? Why am I dumb?
I have a wonderful story to tell but know no way to tell it.
    - End
これを映像化している人がいましたよ。
The Dumb Man - Sherwood Anderson

A Bout de Souffle-勝手にしやがれ


A Bout de Souffle-勝手にしやがれ:1959
À bout de souffle; literally "at breath's end") is a 1960 French drama film directed by Jean-Luc Godard.
Michel (Jean-Paul Belmondo) is a young thug who models himself on the film persona of Humphrey Bogart. After stealing a car in Marseille, Michel shoots a policeman who has followed him onto a country road. Penniless and on the run from the police, he turns to his American girlfriend Patricia (Jean Seberg), a student and aspiring journalist, who sells the New York Herald Tribune on the streets of Paris.

ゴダールの名作「勝手にしやがれ」のフィルムにマイルス・デイビスのJazzがミックスされた素敵なビデオを見つけましたよ。

ハンフリー・ボガートを気取った自動車泥棒ミッシェルとアメリカ人の少女パトリシアの交流と別れを描いたこの作品は、メタフィクションの要素もあり、何度観ても飽きない映画の一つです。
冒頭のボガートを真似たベルモンドの表情からはじまって、どこからどこまでが物語で、どこからどこまでがハプニングなのか、すべてが壮大なジョークなのか、それとも生と死を正面から描きたかったのか、おそらくそのどれでもないでしょう。
ゴダールはこの映画で遊びたかったのだと思う。

たとえば、ラストシーンで、ベルモンド演ずるミシェルが警官に撃たれふらつきながら必死に通りを走るシーンは、まさに迫真の「演技」です。
ですが、倒れて死ぬ瞬間に自分の瞼を自分で閉じるというは「遊び」です。
ドラマはこんな遊びで溢れていていいんだ、とゴダールは言ってるんだな。
とにかく遊べ!
すべてはそれからだ!

テンポを出すためのジャンプ・カットの手法であるとか、今でも輝き続ける青春映画です。

A Bout de Souffle (Jean-Luc Godard)- All Blues (Miles Davis)

東京の空


tokyo.sora: 2002


2002年製作のこの「tokyo.sora」という映画はとっても変わっていて、シナリオがありませんでした。
全篇、監督に与えられた状況説明だけを基に、俳優たちが即興で演じていきます。
それはまるで、ヌーベルバーグの頃のジャン・リュック・ゴダールの演出を彷彿とさせます。

でも、大きく違うのは、新しい手法を試そうとか、奇をてらおうとか、といったテクニカルな面での新奇さを狙っているわけではないということです。
俳優の内側から溢れ出てくるものをフィルムに定着させたかったに違いありません。
そんな、即興でしか表現し得ないリアルな瞬間を求めたんだろうと思います。

東京の空の下に暮らす六人の女の子。
それぞれがそれぞれの現実とぶつかり、苦しみ、生き直していく。
不思議な感動のある映画なんだな。
それは、演じる女優達が、生きている日常をしっかり追体験してるからでしょう。
カメラの目の前で、真に生きることができたからでしょう。

静かなのに、どこか激しい息づかいの聞こえる映画です。

映画の一場面を観てみましょう。

酔っぱらって走り出す二人の女の子たち。
なぜか胸に迫ります。。。

南極料理人

南極料理人:2009

先日、さとじゅん君がすすめてくれた映画「南極料理人」の予告編を発見!

まだ本編観てないんですけど、ゆるしてね☆

これもフード・コーディネイターの飯島奈美さんの手になる料理の数々☆☆☆

料理が主題になる映画が昨今生まれている背景は、かつてのグルメブームとはちょっと違ったものを感じます。
グルメブームは、やがて金をかけた贅沢品へと収斂していったのに対し、料理主題の物語の特徴は決して金で買えない、細かな人の手の行き届いた「ありふれた料理」という点でしょうか。

う~ん、この「ありふれた」ってのがポイントだな。
誰もが普通に食べているありふれた食材、食物、料理、例えばオニギリにラーメン?そんなごくフツウの食べ物が「愛おしくなる」、それが今生まれている料理主題の映画たちかもしれませんね。

平凡で普通の暮らし。
その中で、一所懸命、手をかけて生活を楽しむこと。
お金ではない価値観を喜ぶこと。
それが、幸せってもんじゃなかったのかな。

最近の我が家の流行は、オヤジの作る「オトコのニギリメシ」。
究極の正三角形をめざす「オトコのニギリメシ」。
みんなニコニコ、「オトコのニギリメシ」

さて、どうも「南極料理人」というこの映画はそんなオトコの料理のお話しみたいです。
楽しみです☆☆☆

南極料理人:予告編

2009年9月27日日曜日

サローヤン

William Saroyan (pronounced /səˈrɔɪən/; 31 August 1908 - 18 May 1981) was an American-Armenian dramatist and author. The setting of many of his stories and plays is the center of Armenian-American life in California in his native Fresno.



「この世界こそ真の劇場であり、劇なのだ」

ウィリアム・サローヤン(サロイヤンという人もいます)


サローヤンという作家を知ったのは、十九歳の頃、まだ浪人生で人生の右も左もわからず生きていた頃のことでした。

『人間喜劇』という小説があります。
バルザックじゃありません。
サローヤンの「人間喜劇」です。

14歳のホーマーは、イサカの町で戦死の知らせを運ぶ電報配達。彼が運ぶ青年たちの戦死の知らせは、人びとを悲しみのうずにまきこむ。やがて自分の兄の死を最愛の母に伝える日が訪れた…。一家を支えて働くホーマー少年と幼い弟のユリシーズ。
苦しい生活をほのぼの描いた最後にやってくるのは、兄の戦友の訪問でした。
松葉杖をついた傷痍軍人の彼は、二人の少年にとって兄そのものになる・・・。

そんなお話しです。

サローヤンという作家は上にも書かれてあるように、アルメニア系アメリカ人で、地元のカルフォルニアのフレズノ周辺を背景として小説や演劇を執筆しました。
場所が作品を生むというのを実践した作家の一人です。
彼の残した言葉通り、世界が劇場であることを、彼は認識し見つめました。暗い話もただ暗いのではなく、明るさと光に満ちています。人生とはそんな場所なのかもしれません。

もし辛い日々があったとして、人生は生きるに値しないとなんとなく思ってしまうような日々があるとしたら、彼の本を読むことをお薦めします。
人生捨てたもんじゃないということを、十九歳の僕が教わった本でした。

1943年、戦前ですが、「人間喜劇」は、ミッキー・ルーニー主演で映画になりました。

shagadelic★

Austin Powers: The Spy Who Shagged Me

お気に入りの映画に「オースティン・パワーズ」があります。
Dr.イーブルもミニミーも大好きですが、一番のお気に入りはシリーズすべてのオープニングでしょう!
クィンシー・ジョーンズのナイスな曲『ソウル・ボサ・ノバ』に乗っかって、羽目を外すマイク・マイヤーズにすっかりやられてしまいました。
全3作のうち、我が家で最も受けまくったのがこれ、第2作目「オースティン・パワーズ:デラックス」原題は「Austin Powers: The Spy Who Shagged Me」です!

あまりのそのハレンチぶりに、呆れながら、魅せられます。
本当です。
この映画は勿論007のパロディーとしてはじまったのですが、その節操のない飽くなきお笑い精神でどこまでも突っ走ります。地球征服計画の名前が「アラン・パーソンズ・プロジェクト」だったりするところに同世代的な、「わかるわかる」的な笑いで溢れてんです。
この映画の中で使われるshagadelicという言葉があります。
ネットの現代英語辞典では以下のように説明されています。


#1. shagadelic
overly erotic to the point of being ridiculous.
Saddam Hussein built himself shagadelic palaces.

#2. shagadelic
Someone who is very sexy and shaggabble.
Your mum is very shagadelic.


例文もどうかと思いますが、この映画のセンスがなんとなくわかると思うんですけど。
気のせいですか???
Let’s be shagadelic!!!

Austin Powers: The Spy Who Shagged Me - opening

2009年9月26日土曜日

今夜はナポリタン☆

ミートソースに明太子、ボンゴレ・ビヤンコにロッソ、カルボナーラ、それからペペロンチーノと、僕はスパゲッティが大好きだッ!
メタボ一直線!

でもって、今夜の我が家の献立は「ナポリタン」。

ナポリタンを最近外で食べる機会が少なくなった。昔、喫茶店でスパゲッティを食べると大概ナポリタンでありました。
ですが、ナポリタンは本家イタリアには存在しないそうです。たとえあったとしても、だいぶ日本化しているようで、今では(ダサイ?)ナポリタンを見る機会が随分減ったような気がします。

しかーし、ナポリタンは決してダサクありませんね!!

以前、このブログの読者、さとじゅん君からのコメントにもありましたが、ナポリタンはうまい!
トマトソースとケチャップをあえて(ここがミソ)、更にそのソースをパスタと絡める。
シンプルでしかもどこか懐かしいナポリタン。たまりませんねぇ!
ナポリタンは日本のスパゲッティの王道です。

そこで、今夜は久しぶりにナポリタンでゴー!です。
みんなおおよろこび!だといいんだけどなぁ。。。

You Tubeで拾ったこんなレシピも美味そうだぞ☆☆☆
You Tube、料理のレシピも充実してるなぁ~。。。。。

ナポリタンのレシピ・作り方 How to cook Japanesestyletomato ketchup pasta

学校公開日のある日

これも先日の写真!

体育の跳び箱を見せて頂きました。

何十年も前に、自分もこんな校舎で、跳び箱を跳んでいたんだねぇ〜。

あの頃から幾星霜。


今では人の子の親ですが、あんまり変わってないよ〜。

☆上野火山☆

数日前

いつもの見慣れた風景も、時間やアングルが違えば、違ったものに見える。
この人間の知覚の特性に気がつくと、毎日が生き生きしてくる!

数日前の写真を見てそう思いました。


目を凝らし、耳を澄ましたい☆


☆上野火山☆

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ:WHERE THE WILD THINGS ARE
モーリス・センダック作


娘たちの幼かった頃、大好きな絵本の一つがこれ。
「かいじゅうたちのいるところ:WHERE THE WILD THINGS ARE」

とんでもなくわがままな男の子がいたずらばっかりするものだから、部屋に閉じ込められます。
ところが、うとうとしかけて、不意に目を覚ますとそこはジャングル。やがて舟に乗って海を渡ると、ある島へ。そこは「かいじゅうたち」が暮らす島だったのです。。。。
ひねくれ者でいじわるな主人公の少年のキャラクターが秀逸☆

全体が脱力的な笑いに満ちています。恐ろしげなかいじゅうたちとオオカミの着ぐるみで威張っている男の子。かいじゅうたちは、てんで弱くて男の子の言いなりなんだな。最後に男の子が島を離れるときのかいじゅうたちがとても泣かせます。
やさしさってなんだ?
うれしいってなんだ?
かなしみってなんだ?
わがやってなんだ?
お母さんの用意してくれたスープってなんだ?
いろいろな「寓意」に満ちた絵本の傑作です!

その絵本が映画になったそうです。来年の公開なのかな。期待してます☆
ただ、映像では少年のひねくれぶりが少々足りない気もするのですが。。。。


「かいじゅうたちのいるところ:WHERE THE WILD THINGS ARE」映画予告編2009


映画のテストフィルムらしいです。ちょっとだけ。

赤坂見附

昨夜は赤坂見附で「えまおさん」の一人芝居を観劇。

地下鉄の赤坂見附駅を降り、地上に出るとすぐ交番の隣で、学生らしき人々のデキシーランドジャズ☆
ジャズで迎えられるとは、さいさきいいぞぉ〜!と思いながら、いざ赤坂レッドシアターへ!!
こぢんまりとした中で、洗練されたステキな劇場です。
途中で、本番前にコーヒーを一杯い飲んで、劇場入口の階段を降り、地下へ入ります。
大きな花束の向こうに、劇場受付が見えました。

とても充実した2時間を過ごせました。

いわゆるアラフォー世代と呼ばれる女性の日常が過去と現在を行き来しながら、じっくりと語られていきます。今時の映像を使った演出も、嫌味な感じがなく、むしろ「映画」を主題とするこの芝居には不可欠な要素に思えました。劇構造がしっかりしているので、主人公の生活に入り込むことができました。
いつも、僕が考える「敷居の低さと奥の深さ」が同居する舞台でしたよ!

帰りはふたたび赤坂の雑踏の中を、芝居の余韻に浸りながら駅まで歩きました。

ラストがいいんだ。
今日を含め、まだあと二日間あります。
ぜひ、お時間在りましたら、ご覧下さい。素晴らしい2時間を過ごせると思いますよ。
おすすめの舞台です!!

えまお一人芝居  『シネマにXXX(キスキスキス)』

9月26日(土)14時開演・19時開演   
9月27日(日)14時開演

会場:赤坂レッドシアター

料金:一般前売:4,000円 一般当日:4,500円
        
学生:3,000円   
シニア:3,500円
※学生.シニア券はトム・プロジェクトのみで販売いたします。
              

チケットぴあ  : 0570-02-9999(音声自動認識/Pコード396-430)

ローソンチケット: 0570-000-407(オペレーター対応)/0570-084-003(Lコード37269)
e+(イープラス)http://eplus.jp
トム・プロジェクト 03-5371-1153 http://www.tomproject.com

☆上野火山☆

2009年9月25日金曜日

告知!!


僕の大切な女優さんのひとり「えまお」さんの一人芝居の告知です!
すでに公演は始まってます!
僕は、実は今日劇場に足を運ぶ予定です!ぜひみなさんもいらして下さい☆
劇場でお会い致しましょう!!


えまお一人芝居  『シネマにXXX(キスキスキス)』


9月23日(祝) 14時開演     
9月24日(木)19時開演
  9月25日(金)19時開演
  9月26日(土)14時開演・19時開演   
9月27日(日)14時開演

会場:赤坂レッドシアター

料金:一般前売:4,000円 一般当日:4,500円
        学生:3,000円   シニア:3,500円
※学生.シニア券はトム・プロジェクトのみで販売いたします。
              

チケットぴあ  : 0570-02-9999(音声自動認識/Pコード396-430)

ローソンチケット: 0570-000-407(オペレーター対応)/0570-084-003(Lコード37269)
e+(イープラス)http://eplus.jp
トム・プロジェクト 03-5371-1153 http://www.tomproject.com

地方公演のご案内えまお一人芝居  
『シネマにXXX(キスキスキス)』


日時 : 10月3日(土) 15時開演
会場 : 藤沢市湘南台文化センター
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~geibnzai/


詳細(チケット販売等)につきましては、
下記へお問い合わせ下さい。
問い合わせ先
藤沢市芸術文化振興財団
0466-28-1135
※本公演チケットにつきましては、
ファンクラブ及びトム・プロジェクトでのお取り扱いはありません。

2009年9月24日木曜日

比較するということ

本日より、大学にて後期の講義を開始します。

今日が、講義初日!!

講義のテーマは、相変わらずあれこれ考えていますが、前期語りきれなかった「共感論」をまとめようと思います。それをやっぱりいろいろと比較対照しながら検討を加えるということになるでしょう。なにしろ「比較演劇学」などという講義タイトルがついているので。

比べてみてはじめて、自分の立ち位置も含め、いろいろと見えてくるのではないでしょうか。

たとえば、ここに昭和10年頃(1935年頃)の東京のカラー映像があります。
そして、もうひとつ、戦後間もない頃(1945年頃)に撮影された東京をはじめとする爆撃で破壊された日本の都市の映像があります。
どちらもカラー動画ですので、そのリアリティーは、よく目にする白黒のチャカチャカした映像とはまったく別ものです。

まず、昭和10年頃の東京の都市の美しさに驚かされます。
僕の父はもう生まれていましたが、母は翌年に生まれますから、まだ僕の母すらこの世にいない頃の風景なんですね。銀座と、そこを走る車や自転車、人力車、都電の風景、フランク・ロイド・ライトの手による帝国ホテルの荘厳な美しさ。
ナツカシズムではなく、戦前の日本の豊かさをはじめて知った驚きが胸に迫るんだな。逆に言えばまったく僕には懐かしくない。見たこともない風景ですから。だからこそ、驚きながら、過去の日本に感心する自分がいるんです。

その素晴らしい風景を見た直後、爆撃で吹き飛び破壊されつくした日本の都市の風景には、だからこそ胸が痛む思いがします。

どこかで見たことがあっても、比べることで、その変化に気がつくことができる。
こんなところにも覚醒の一歩があるのかもしれません。

1935年(昭和10年)東京の貴重なカラー映像


空襲で破壊された日本の大都市

2009年9月22日火曜日

志願させられる戦争

すべてが民営化された自由な世界。
それは、言い換えれば、自由の名の下に我々が一握りの金融資本の手に、すべてを押さえられてしまっている世界、ということなのだ。

堤未果:『ルポ 貧困大国アメリカ(岩波新書 2008)』

この本を先日購入。とてもまとまった良くできた本でした。すばらしい!!!

宮台真司氏は「新自由主義」の安易な批判はその批判だけで満足し終わるムードが思考停止を生む、だからこそ、自分は真の意味で新自由主義者である、と述べていますが、確かに彼は新自由主義者なのだと思います。それは特権的なエリートによる支配的な世界を志向するという意味で、まさに新自由主義者であると言えるだろうと思います。
だから、彼には本質的な問題は決して口に出すことはできないのだ。彼は、一人のエスタブリッシメントであり、確かに向こう側の人間なんだろうな。

当たり前のことだが、民営化や規制緩和にはその領域と限度がある。
今の風潮は民営化と規制緩和に反対すると、自動的に民主主義に反対していることになるらしい。そうではないのだ。最低でも健康保険や医療を代表とする「生存権」をはじめとして、教育、生活の基本的な部分は決して民営化してはならない部分である。国家が責任を持つという社会主義的な政策を完全になくしてしまっていいはずがない。

民主主義がイコール資本主義ではない。同時に社会主義がイコール共産主義ではないだろう。国家もしくは政府が責任を果たすべき仕事がある、ということを、私有財産の収奪をめざす共産主義であるとは言わないだろう。それはまったく違う話である。
国家が小さくなりすぎず、国民の権利を保障することのどこがまずいのだろう?
ある程度大きな政府で、社会主義的な介入があっても、それがひとっ飛びに共産へ向かうわけではない。国民の生活と命に関わる部分は逆に社会主義的でなければならないのである。

むしろ、困った問題は、民主化したことになっているロシアや、中国共産党のように、市場原理を都合のいい形で利用し民衆から一部のエスタブリッシメントが利益を奪いさる構図である。
イデオロギーのまったく違うはずのアメリカと、利害が完全に一致して見えるのも、この点なのである。
そして、今、この国もそれらに近づいている。
アメリカに近づき、中国に近づき、ロシアに近づき、朝鮮半島に近づく。それは果たして、本当に「友愛」なのだろうか?「平和」ということなのだろうか?

世界中が、今、おぞましい一部の国際資本によって搾取されるという、本物の恐怖にさらされているのだと思う。
あらゆる分野で、見た目とは違う逆転が起こっている。表面と内容が完全に矛盾し逆転しているのだ。
つまり、戦争一つ取ってみても、かつてのような徴兵制などもうしないだろう。むしろ、志願せざるを得ない状況を作りだしているのだから。争い傷つけあうように仕向けられているのである。
選択肢が狭められていることに気がつきたいものである。


視点・論点 「貧困大国の未来」 堤未果
とてもいいお話しです。本とあわせてお聞き下さい。

2009年9月21日月曜日

On History by Noam Chomsky

ノーム・チョムスキーの対談です。

これも貴重なもので、59分と多少長いですが、ご興味のある方はどうぞ!

以前にもチョムスキーについてはいろいろ書きましたが、言語学者としてより、政治的発言者としてのチョムスキーに大いに惹かれている次第でございます。

なにしろ、彼の発言の素晴らしさは二点あると思っています。
まず一点は、情報の詳細さと、その正確さです。彼の話では友人やスタッフが細かくチェックしてくれているのではじめて為せる業のようですが、なにしろ膨大な資料の数に驚きます。そして、これまで書かれた内容で否定されたことはありません。否定しようがないほど確実な情報収集なんだ。それは驚くべきことです。

更に二点目は、決して「陰謀論」の論調に捲き込まれないように気を遣っている点です。
実に上手に、陰謀論から一線を画して、言論を発信しているんです。言葉の端々から、実際は陰謀論という文脈で扱われるであろう様々な事実を彼は知っているとうかがわせるのですが、けっしてその罠にはまらないように行動しているようです。たとえば、彼は、真相を突き止めることが今後もできそうにない9/11の問題には、けっして深入りせずにいます。勿論、彼の言葉の随所に、本質を掴んでいる形跡が見受けられるのですが、その件で騒ぐことはありません。
正しい態度だと思います。
なぜなら、そこまで慎重に問題を扱っても、それでも彼のことを怪しい陰謀論者という見方をする人間が後を絶たないのです。

彼にとって言語学はとても興味深いものだったようですが、政治学はそれ以上にエキサイティングだと言っています。

彼は反米じゃありませんよ。彼は愛国者そのものです。
アメリカを知ることは、日本の現在を知ることです。テレビや新聞のプロパガンダに振り回されないために、僕らは彼の話に耳を傾けるべきではないだろうか。

政治的実践主義、アナーキズム、そしてアメリカの今日の世界での本質的な役割について語っています。

Conversations with History: Noam Chomsky

On History by Howard Zinn

非常に興味深いハワード・ジンによる歴史の対話です。

42分と少々長いですが、興味のある方は聞いて下さい。

「民衆のアメリカ史」はアメリカの黒い歴史を僕らに教えてくれる傑作でした。この本はアメリカの学校では教科書、もしくは参考書として採用されることはないそうですが、非常なベストセラーになりました。反米と呼ばれる著作が、実は母国に対する深い愛情から語られていることに、アメリカ人達の一部は気がついています。

社会民主主義者というのが彼ハワード・ジンの立ち位置かもしれません。
ですが、彼のもう一つの重要な著作「You can’t be neutral on the moving train」のタイトルが示すように、世界が、あるいは社会が動くとき、立ち位置はどちらかに偏るのであって、僕らは完全にニュートラルなどという立場には立てないのかもしれません。
社会が左に傾けば、真ん中は自動的に右になり、社会が右に傾けば、真ん中は自動的に左になる。
従って、もはや政治信条としての右と左というのは、無意味です。
問題はそこにはない。

アメリカはダメで中国やロシアがいい、などという単純な状況じゃありませんし、勿論その逆でもありません。国家というより、国際金融資本という一握りの暴走がこの世界と時代を作り上げているような気がします。それは最早国境を越えているのです。人はそれを「グロバリゼーション」、「グローバリズム」と呼んでいるわけです。

Conversations with History: Howard Zinn

2009年9月20日日曜日

正しいということ

「歴史上の戦争は二つの種類に分けられる。
一つは正義の戦争であり、もう一つは不正義の戦争である。すべて、進歩的な戦争は正義のものであり、進歩を阻む戦争は不正義のものである。
われわれ共産党員は、進歩を阻むすべての不正義の戦争に反対するが、進歩的な正義の戦争には反対しない。」
 ー 毛沢東

この毛沢東の言葉と、合衆国前大統領であるブッシュの「一般教書演説」2003と比べてみたい。

「米国は平和を希求する。そして平和のために戦う。そして、時に平和は守られなければならない。大きな脅威におびえたままの未来では、平和とは呼べない。もし戦火が避けられないならば、われわれは正義の名の下、正しい方法で戦う。それは、罪のない人々に対する危害をできる限り避けることである。われわれは、米軍の力を結集して戦い、そして勝利する。」
 ー G. W.ブッシュ


そして更に、合衆国現大統領オバマの「就任演説」2008ではこうなる。

「この世界を破壊しようとする者たちに告げる。われわれはお前たちを打ち破る。
平和と安全を求める人たちにお伝えします。私たちはみなさんを支援します。そしてアメリカと言う希望の灯はかつてのように輝いているのかと、それを疑っていたすべての人たちに告げます。私たちは今夜この夜、再び証明しました。この国の力とは、もてる武器の威力からくるのでもなく、もてる富の巨大さからくるのでもない。この国の力とは、民主主義、自由、機会、そして不屈の希望という私たちの理想がおのずと内包する、その揺るぎない力を源にしているのだと。」
 ーバラク・オバマ

さて、イデオロギーの違いは、決してその本質の違いを示してはいない、というのが僕の主張だが、この三人の言葉を読む限り、共産主義者、民主主義者の違いなどどこにもないことに気がつくはずだ。
彼らはみな同じだ。
ここにスターリンやヒットラー、そしてルーズベルトやチャーチル、さらにレーガンやサッチャー、日本の歴代の首相達を持ってきても、大きな違いは見あたらないのである。どの人物達も「正しい戦争と正しくない戦争」があると必ずどこかで述べ、世界平和の名において正しい戦争を擁護するという主張をするはずである。
人類がこの世にある限り、戦争はなくならないかもしれない。戦争を利用する人間が必ず存在し、その戦争を利用する一握りの集団に奉仕するのが各国の各時代の政治指導者の使命に他ならないからである。

はっきり言おう。
正しい戦争などない。ただ戦争状態に引きずり込まれるか、身を守るためやむを得ず戦争状態になるだけである。戦争を煽る者の言動に注意しよう。その者達がいったい誰に奉仕しているのかに注意しよう。

オバマの演説に涙する前に、日本の政権交代がなされて手放しで喜ぶ前に、彼らは誰に奉仕している人々なのか、もう一度考えてみてもいいのではないだろうか。

「正しい」と「正しくない」という二項対立は、人々の価値観を誘導する便利な方法だ。ヘーゲルの弁証法は支配者の道具として誕生したのかもしれないな。

2009年9月19日土曜日

放送禁止歌

以前、このブログでご紹介した高田渡さんの「生活の柄」という曲は、放送禁止歌です。

メディアでは全曲流してはいけないことになっています。

それは、野宿の歌なので、浮浪者(ホームレス)を歌ったということで差別を助長するという理由で、放送禁止歌、もしくは自粛されたのです。

これがこの世界の現実だと思うよ。

すこしは、正気でいたいと思うよ。
この歌の、どこが、聴いてはならない歌なんだ?
この歌の、どこに、差別があるんだ?
この歌の、なにが、人の心をいらだだせるんだ?
この歌で、だれが、いったいどうして、苦しくなるのだろう?

僕には、この歌は、人間らしい生活を歌っているとしか思えないのです。
ライブ中に、眠り込むような自由な人でした。

ったく、ちいせい国だぜ!


高田渡『生活の柄』

一本道


友部正人
『一本道』

歌手 友部正人 作詞 友部正人 作曲 友部正人

ふと後をふり返ると
そこには夕焼けがありました
本当に何年ぶりのこと
そこには夕焼けがありました

あれからどの位たったのか
あれからどの位たったのか

ひとつ足を踏み出すごとに
影は後に伸びていきます
悲しい毒ははるかな海を染め
今日も一日が終ろうとしています
しんせい一箱分の一日を
指でひねってごみ箱の中

僕は今 阿佐ヶ谷の駅に立ち
電車を待っているところ
何もなかった事にしましょうと
今日も日が暮れました
あヽ中央線よ空を飛んで
あの娘の胸に突き刺され

どこへ行くのかこの一本道
西も東もわからない
行けども行けども見知らぬ街で
これが東京というものかしら
たずねてみても誰も答えちゃくれない
だから僕ももう聞かないよ

お銚子のすき間からのぞいてみると
そこには幸せがありました
幸せはホッペタを寄せあって
二人お酒をのんでました
その時月が話しかけます
もうすぐ夜が明けますよ



僕はこの歌を忘れない。こんな歌を心に刻みつけて生きてきた。
僕も僕の歌を歌おう。

上を向いて歩こう!!

夕方、家に戻ってきて、仕事を再開する。

この時代が、どこか歪み破裂しそうな感じがしてならない。明日はきっと良くなる、などとお気楽なことは口が裂けても言えない。世界はどこまで行こうとしているのだろう?
昼間ちら読みした本の中で、ハリケーン・カトリーナの時のFEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)の不穏な動きが書き込まれていた。
ニューオーリンズは黒人の多いジャズの発祥の地としても有名な土地ではありますが、ハリケーンに襲われたとき、孤立してしまったことはニュースでも取り上げられていました。
しかし、本来緊急事態で対応するはずのFEMAが動かないどころか、一切の救出活動を無視し、政府も発生から五日以上も放置していたその詳細を知り、やはりという思いが僕にはあります。

ブッシュからオバマに代わろうと、民営化の進む新自由主義的な政策は、装いを変えただけでそのまま続行されるでしょう。
日本では、やはり政権交代はしましたが、民営化の本質的な見直しよりも、むしろいつの間にか外国人参政権等の新法案の成立が静かに進められることでしょう。
九条を守りながら、戦地で自衛隊は今まで以上に活動を迫られるでしょう。のうのうと米国の核の傘下にありながら、核廃絶と平和を高らかに言うのでしょう。今度の政権は社会主義的な一見福祉制度を重視するような政治スタイルに見えますが、同時に国民に対して権利よりも義務を要求するでしょう。逆に一部の特定外国人の権利は拡大するでしょう。
新自由主義的な小さな政府の権力であろうと、社会主義的な大きな政府の権力であろうと、どちらにしたって、実際は一握りの特権階級の権力による、政治制度の私的利用であるということに変わりはない。
先進国は今やどこも似通ってしまい、実際イデオロギーの差異では区別がつきがたくなってしまったようです。
新自由主義と共産主義は、実はめざすところは同じだったことに、気づきたいと思う。

そんな時代にあって、メディアの戯れ言に惑わされることなく、自分自身の感覚を信じ、状況を見据えていけば、今の自分の位置がわかるはず。
何度も言いますが、本当の問題は右翼も左翼も関係ないですよ。利権を生む構造を維持したい連中のやりたい放題に、世界が蹂躙されているということなんだな。

まずは、現状を認識するところからはじめましょう。
我々一人一人が、覚醒するところに、解決の糸口がある。

さて、清志郎さんを聴きませんか?
清志郎さんの「上を向いて歩こう」。甲本ヒロト君とデュオですよ☆

「上を向いて歩こう」 : 忌野清志郎w/ 甲本ヒロト


忌野清志郎 スペシャル・メッセージ・オーケストラ「 JUMP」 
FUJI ROCK 2009

キワモノから本格へ☆レッチリ伝説

Red Hot Chili Peppers

レッチリはデビュー当時はキワモノバンドでしたが、今ではすっかり大御所感が出てきました。
ですが、相変わらず。
このバンドで特に惹かれるのが、ベースのフリーです。世界中の多くのベーシストに影響を与えたかつて類を見ないリード・ベーシストなんだな。

リード・ギターという概念に決して負けてないリード・ベーシスト。
なにしろこのバンドは、重低音が魅力です。羽目を外しているように見えても、実際はしっかりとした重厚で激しいベースとドラムで創り出される「重低音」こそ、レッチリをレッチリらしく存在させる要素でしょう。この重低音の魅力はやがて「Rage Against the Machine」に引き継がれて行きました。

ベーシスト・フリーはタトゥーの上半身をたえずさらけ出しながら、ちょっと見にはロクデナシにしか見えないその風貌の向こうで、しっかり仕事をする、職人さんです。
もくもくとベースをチョップする彼の仕事ぶりに、そのあまりの誠実さと一途さに、僕は胸打たれてしまうのですよ。ほんと。スゴイ奴なんだフリーは。ほんと。

というわけで、ベースを聴くだけでも価値のあるバンド、それがRed Hot Chili Peppersだね。
日本の映画で取り上げられたせいもあって、一般の知名度も上がりましたが、今もなおどこかインディーズの匂いがする彼らです。
ちなみに、僕と彼らは同世代。うれしいね!こんな馬鹿がいるとは!!

1995年の傑作「Warped」(レッチリの電撃ワープ)


そして、「By the way」

曇りで風が吹いている日に

RADWIMPS

結局昨日は、午後から曇ってしまって、午前中の太陽は一瞬の出来事でした。

そして今日は朝から曇っております。

デスク前の窓から見える緑色が薄れつつある桜の木の枝が、ゆっくり風になびいております。

最高気温も24度以上にはならないそうで、そろそろ本格的に秋めいてきましたよ。

朝晩はすっかり涼しくなったので、久しぶりにパジャマを出して着ています。夏はパジャマなんか着られないもんね。でもその季節はすでに過ぎ去りました。

さて、あと1時間もしたら仕事で外へ出るので、それまでに今日の音楽を何曲かご紹介☆

去年、教え子の一人から「聴いてみて」と言われ、聴いてみてとっても気に入ってしまったのが、RADWIMPS。

たとえば、彼らの『叫べ』を聴いて欲しい。
今の日本の音楽の良質の部分を発見できると思う。九十年代に小室達がでてきた頃、日本のポップスシーン、あるいはロックシーンでは、歌詞が死んでしまった時期がありました。機械的なリズムだけの虚しい音楽の時代がありました。そんな時代にスピッツやミスチルは確かに異彩を放ってはいましたが。
そして今、少し音楽が言葉と出会い始めています。
その言葉と出会った感が、このRADWIMPSにはあるんです。
一度、耳を澄まして聴く価値はあると思うけどな。僕は、好きだな。
彼らの音楽に心洗われている今日この頃。。。。

『叫べ』RADWIMPS

2009年9月18日金曜日

Short Filmの魅力

Short Filmというジャンルがあります。
それは短編小説の味わいであり、それでも映像の持つ色彩と音のマジックに酔えますね。

僕はラジオドラマも好きです。
音だけで勝負する、その潔さがラジオドラマを質の高い芸術へと引き上げているのかもしれません。
Short Filmの場合は、その短さ故のスピードと濃さが常に課題になると思われます。
スピードを意識することは構成を認識することです。それらがなければ、短時間でストーリーをまとめることは至難の業でしょう。
そして、濃い何かが語られなければイメージフィルムと何ら変わりがありません。それもShort Filmかもしれませんが、物語ることの薄いものやないものは、ビジュアルイフェクトで終わるでしょう。

そんな究極の課題を乗り越えたShort Filmの数々を目にすることのできる幸福☆

興味のある方はまずこの辺りから観てみてください!
Future Shorts


Future Shortsの中から二つほどセレクトしました!
ひとつめは、『The Black Hole』
星新一のショートショートに通ずる面白さ!


そしてもうひとつは、『Bicycle Messengers』
アニメと実写が組み合わされていますが、カラフルな中に、熱いものがあるんです!

スローライフという落とし穴

癒しという言葉は、どこか卑しい。
Slow Life という言葉も、どこか Sorrow Life という感じがする。

早期発見、早期治療と言われている癌治療において、たとえば「抗がん剤」が実は強力な毒薬であり、それ以外に手はないにしろ、体内に入れた抗がん剤で逆に痛みと苦しみが発生しているのは事実。
にもかかわらず、医療現場は高価な抗がん剤を投入しようとする手を休めることはない。
よくよく頭を冷やして考えてみれば、これまで当たり前と思ってきた治療方法であっても、どこか利権の匂いがしてこないだろうか?
そこら中に意味の逆転現象が起こっているような気がしてならない。勿論、それはすべて果てしなく貪欲な商業と結びついているのですが。

近年、よく耳にする「スローライフ」という言葉も、おお!なんて素敵な生活よ!などとは思えない。
これもまた、いわゆる金銭的に余裕のある人々のステータスシンボルになり、今までやったこともない農作業を美化し、過疎が進む地方を必要以上に礼讃し、そこにまた商機をみる企業が参入してくるというこれまで同様の流行廃りのパターンそのものを繰り返しているようです。

演劇で一時期「なにも起こらないドラマ」というのを殊更のごとく取り上げる時代があった。
最近は少しバランスが取れてきているように思うのですが、ほんの少し前まで、市川準さんの映画より一足遅く、「なにも起こらない」つまり「なにも語らない」ドラマが最も先端的な時代がありました。
もし、今でもそんなことを金科玉条のごとく言っている人間がいたら、それは単なるアホですから放っておきましょう。
確かに、作り事くさい嘘くさいドラマが溢れていた時代には、リアリティーは何も起こらないことを求めたと思います。日常の時間では2時間で人はまず変化しませんから、2時間で登場人物が大きく変化するのは「嘘くさい」つまり「クサイ芝居」だと思われたわけです。
その意味では「なにも起こらない」には一理あったわけです。ですが、同時に何かが起こり変化することがまるで底の浅いリアリティーを無視した嘘に過ぎないという偏見も生み出したのでした。
でも、それは違います。
なにも起こらない、というのも日常の生活に対する思い込みと偏見であり、そういう面もあるし、確実に何かが起こってはいるのですよ。しかし、なにも起こらない方が「深い」と思い込む癖がこの国には未だにあるようです。

「癒し」と「スローライフ」という価値観は、その「なにも起こらないドラマ」と軌を一にしているような気がするんです。
変化を嫌い、今のままを持続させたい、そして、人よりも余裕のある暮らしがしたい。ゆえに、精神的にゆとりのある勝ち組みには「癒し」と「スローライフ」が相応しいライフスタイルになるのです。この価値観は「今が変わらない」ことを望むんですから。
そこに企業を中心とした商業組織から発せられたプロパガンダと新興宗教的な匂いを僕は感じるのです。
なぜなら、人間の幸福の在り方を、まるで新自由主義的(乃至は市場経済的)とは逆行するようなスタイルで、本質的な「市場経済的意志」を隠すからに他なりません。

癒し系という言葉はだいぶ古くなってはきましたが、未だに使用に耐える表現ではあります。しかし、スローライフも含め、ずいぶんと落とし穴が隠された言葉だなぁと僕は思います。

なにも起こらない、という感覚は間違っている。
あらゆることが起こっており、僕らが主体的に「取捨選択」を繰り返しているというのが真相でしょう。だとすれば、なにも起こらないことを「癒し」だとか「スローライフ」などと呼んで殊更価値を与えるのはよした方がいい。

都会であろうが、田舎であろうが、人は、自分自身のまわりに独特の世界を創り出していく性質があるようです。
簡単で単純なレッテル貼りをやめ、複雑で味わい深い自分とそのまわりの世界を味わいたいものです。
僕たちは、殊更、山には入る必要もないし、ヒルズに部屋を持つ必要もない。
僕らの世界は、今、目の前に、あるんだから。

笑いの職人モンティ君

モンティ・パイソン

モンティ・パイソンは観ておくべきです!

ほんとに。

問答無用でおもしろい。まさにガチでおもしろいっす!かつては映画館で観る程度で、それほどまとめて彼らの創り出す「笑い」を観る機会はなかったかもしれません。でも、今は違います。ネットでガンガン拾って観ることができますよ!
字幕も付けてある動画が多数アップされています。
アップされた方々に感謝!!!
そして、もちろん高品質の笑いをもたらしてくれたモンティ・パイソンの面々に感謝です!!!

ひとつもスカはありません。
ただし、少し悪ふざけが過ぎる?なんて思うところもあるかもしれません。しかし、それこそがモンティ・パイソンを観て試される部分なんだな。
自らが如何に頑ななものになっているのか、認識できると思うよ。
やわら~く遊べばいいのさ。

まず最初は「哲学者サッカーと一人レスリング」
哲学者オールスターズのキャラが最高!なのになぜにベッケンバウワー???
ユーレイカァー!!と叫びたくなるかも。。。。
(注)ブラジルの伝説「黄金のカルテット」セレーゾ、ファルカン、ソクラテス、ジーコの四人が元ネタでは?という話があるのですが。。。


そしてもうひとつは「フリーメイソン」
いい味出してます。さすがの世界最強の秘密結社もグダグダよ。

Blue Sky Blue

Blue Sky


今日は天気が悪いなんて言ってたけど嘘だね。
最高にゴキゲンな青空だぜ!

久々に懐かしのElectric Light Orchestra(ELO)を聴いてみた。いいなぁ。ハードさはないけど、クラシックのフレーバーが効いた洗練された楽曲です。

今日も一日頑張りましょう☆

ELO - Mr.Blue Sky (Original Promo)

2009年9月17日木曜日

越境者☆Mingus


Charles Mingus, Jr. (April 22, 1922January 5, 1979) was an American jazz bassist, composer, bandleader, and pianist. He was also known for his activism against racial injustice.
Mingus is considered one of the most important composers and performers of jazz, a pioneer in bass technique, and he recorded many highly regarded albums. Dozens of musicians passed through his bands and later went on to impressive careers. Mingus was also influential and creative as a band leader, recruiting talented and sometimes little-known artists whom he assembled into unconventional and revealing configurations.

チャールズ・ミンガスの「直立猿人(Pithecanthropus Erectus)」を知ったのは、高校生の時。
友人のブラスバンドをやってる奴が教えてくれた。「Evolution(進化)」「Superiority Complex(優越感)」「Decline(衰退)」「Destruction(滅亡)」の4部から構成されていると聞いて、すげぇ!と思ったものでした。
Jazzという音楽のジャンルが、一気に考古学から哲学、さらに文学に飛躍的に接近した瞬間でした。

56歳で亡くなったミンガスは、もっと歳がいってるものとあの頃は勝手に思っていました。が、実際は若くして筋萎縮症という難病を抱え、晩年はベースも弾けなくなりながら、それでも最後まで音楽と関わろうとしたんですね。

力と知性の両方を感じるジャズマン。
アメリカの人種隔離政策と戦ったというのは、政治的抵抗運動が彼にとって音楽することと同じ次元にあったということを示しています。政治であろうと芸術であろうと、その境界線を軽々と越えていこうとするパワーが、ミンガスという人にはありました。音楽に単純に耽溺し、芸術のための芸術ではなく、芸術を生活の一部にし、同時に人間に対する批評精神の現れにしたのだと、僕には思えます。歌詞という言葉はなくとも、その奏でる音楽自体と音楽の構成で、文明に対する批評を行う。これが彼のスタイルだったに違いありません。

きっと批判よりも批評を、この世界は必要としているのだと思うな。
なにしろ、新鮮な眼差す視点を、僕らはたえず必要としているし、必要としなくてはならない。
そうでなければ、誰かに与えられた視点(時代の価値観)でのみ、物事を判断してしまう可能性が常にあるからです。
既成の、ステレオタイプな視点(価値観)に批評的な視点がぶつかることで、世界は変更と定着を交互に繰り返していくのでしょう。

あらゆる人間の個人的な「営為」こそが、世界をほんの少し変更する機会を含んでいるのだと思う。
それを「可能性(Probability)」と呼びたい。

チャーリーと呼ばれるのを嫌ったチャールズ・ミンガスは、時々不機嫌な顔で人間の「進化の傲慢さ」即ち「文明の危うさ」を様々な音楽を通し僕らに提示してくれたんだな。
音楽を音楽とだけとらえることは寂しい。
だから、彼は音楽は単なる音楽ではなかった。それは、彼にとってベースが単なる低音を受け持つ一楽器ではもはやなく、ベースに中心的なクリエイティビティーを持たせている、というのと同じです。
あらゆるジャンルが、その自らの境界線を越える可能性を秘めている。そのことにいち早く気づき、実行していたのがジャズベーシストにして作曲家のチャールズ・ミンガスだったのだ。
その意味でミンガスの音楽は「越境者の音楽」なのだと思う。

Jazz Classics: Charles Mingus - Boogie Stop Shuffle
Charles Mingus was the undisputed greatest Jazz Bassist of all time. he was a bop player but also played with many artist before and after bop including Duke Ellington and John Coltrane. he is the man responsible for the bass being used for more than just time keeping purposes. he was also a great composer. he died in 1979, but left a legacy behind to make it seem he will never die. enjoy.         (by eboyd32)

Sand Artの世界


Sand Artというのはご存じですか?
ガラス板の上に砂を撒き、下から照明をあて、指で砂に絵を描いていく。それをプロジェクターでスクリーンに映しだし、絵の作成過程まで見せてしまう。即興の絵画とも言えます。
即興という意味では、絵画の中でもスケッチに次いで、音楽に最も近いジャンルと言えるかもしれません。

まるで、流れるように、止まることのない手の動きの中で、砂で描かれた絵は、刻々と姿を変えていきます。その変化は地球時間を早廻しにしたような、どこか地上の変化を連想させます。
一種の絵画に違いないのに、数分間の中に歴史を感じるのです。

無数に存在する、Sand Artはどれも見ていて飽きることがありませんね。
もしご興味がおありになれば、ぜひご覧下さい。
一期一会の、舞台芸術や音楽に最も近い絵画です。


Sand Art By Ilana yahav...
Title : Let's Get Together

カレーライスとコロッケ


『心のままにいけ、最後はきっとうまくいく』 
ーby ボブ・ディラン


子供の頃から、カレーライスとコロッケが好きだった。

お寿司も焼き肉もラーメンも大好きだが、結局カレーライスとコロッケなんだな。
まさに昭和の香りか?

カレーライスとコロッケとロックのお話し。

子供の頃、キンケイのインドカレーが大好きで、その後発売されたゴールデンカレーが世界で一番辛くてうまいカレーであることに気がつき、弟たちも僕も、誕生日にはゴールデンカレーを作ってもらいました。お袋の味の一つだな。
そして、やがて、ジャワカレーの時代がやってくる。
友達の誕生会でバーモントカレーが出されても、何か違う感じがした。うん、カレーライスは自分の生活の味だったんだな。
カレーライスは、まんま少年時代の歴史のような気がする。今でもジャワカレーは好きだな。

コロッケ。
僕がこれまで一番美味いと思ったコロッケは、友達のトオル君の家でもらったコロッケだ。
小学校の頃、学校帰りに、肉屋のトオル君の家の前を通ると、きまってトオル君のお母さんが「コロッケ、食べるかい?」と訊いてくれて、僕がうなずくと、揚げたての熱々コロッケを新聞紙にくるんでくれた。
それを、歩きながら食べる。うまかった。まさに昭和の味でございます。
だから、コロッケはスーパーやコンビニのものより、今でもお肉屋さんのコロッケが好きです。

ロックは生活だ。
僕が生きてきた時代と場所に、ロックはあった。そして今もある。
だから、カレーライスとコロッケは、ロックと馴染むのであります。
カレーライスとコロッケは、夕陽が似合うのであります。
カレーライスとコロッケを思い出すと、お父さん、お母さん、ありがとう、と何気に言いたくなるのであります。
カレーライスとコロッケを食べると、我が家の子供たちも幸福そうなのであります。
ロックは否定じゃない。
ロックは生活の肯定なんだ。
ロックから遠く離れて、僕は生きていけない。
カレーライスとコロッケから遠く離れて暮らすことはできない。
ロックとは「愛する」ことなんだ。「大好き」って言える力のことだ。

そんなロック魂を僕は生きたいと思います。


遠藤賢司(エンケン)さん『カレーライス』


Bob Lennon(gutalala sudalala ver.) by Urasawa Naoki from 20th century boys


Naoki Urasawa singing Bob Lennon Live !



2009年9月16日水曜日

野外劇 The Sultan’s Elephant


The Sultan’s Elephant

フランスのストリートアート劇団ロワイヤル・ド・リュクスRoyal de Luxe製作の野外巨大人形劇「The Sultan’s Elephant」という催しがロンドンで行われたそうです。

こちらのサイトに詳細が書かれています。UKStyleさん。

超巨大なマリオネットで幻想的な物語、八十日間世界一周がベースだそうですが、それをロンドンの街中で繰り広げられる。
何年かしたらお台場辺りでやるんだろうか?ぜひ観てみたいですね。アトラクションとして眠りから覚めた巨大な女の子に、実際に子供たちが乗って遊べるみたいです。



みんな絶対大喜びするだろうなぁ。。。

本当に幻想的です☆☆☆

The Sultan’s Elephant : in London


The Sultan’s Girl


Down by Law


Down by Law
is a
1986 black-and-white independent film written and directed by Jim Jarmusch. It stars Tom Waits, John Lurie, and Roberto Benigni.
The film centers on the arrest, incarceration, and escape from jail of three men. It discards jailbreak film conventions by focusing on the interaction between the convicts rather than on the mechanics of the escape. A key element in the film is
Robby Müller's slow-moving camerawork, which captures the architecture of New Orleans and the Louisiana bayou to which the cellmates escape.

“ It's not where you start - It's where you start again.”
「そこで人生をはじめるんじゃない。そこで、人生をやり直すんだ」

これが映画「ダウン・バイ・ロー」の英語圏でのキャッチコピーでした。
先日このブログで「ストレンジャー・ザン・パラダイス」に触れ、インタビューもご紹介したジム・ジャームッシュのもう一本です。

テーマ曲は、主演のトム・ウェイツによるJockey Full of Bourbon。冒頭からジム・ジャームッシュの世界観をこの音楽が生み出している、そんな感じです。
僕はモノクロームを愛する人間ですが、この映画もモノクロが生きています。笑いとペーソスの割合と配合が絶妙なんだな。
しがないDJをしていたザック(トム・ウェイツ)は酔っぱらってはめられてニューオリンズの刑務所にぶち込まれる。ヒモでうまいことやっていたジャック(ジョン・ルーリー)はやっぱりはめられて投獄された。大した罪もなく囚われの身となった二人は反発し合いながら、もう一人の刑務所の住人ロベルト(ロベルト・ベニーニ)と出会う。
下手くそな英語でフロストの詩が大好きだと言うロベルトはキョトンとした顔でどこから見ても犯罪者には見えない。だが、この変なイタリア人ロベルトこそ(本格的な?)殺人犯だった。
そんなある日、刑務所からの脱走ルートをロベルトが見つけ、三人は湿地帯を彷徨うことになる。。。。

刑務所で出会った三人の男たちの三者三様の人生模様。
おかしくもどこかはかない感じすらするんだな。女と暮らす決意をするロベルト、そして二叉の道で別れるザックとジャック。
「おまえが選べ。俺は反対を行く」とジャック。
上着を交換しただけで、別々の道を歩き出す二人の姿は、まさに友情の一つの形を物語っているような気がします。そして、人生をやり直すんだ。

タイトルのDown By Lawというのは、八十年代ぐらいまでアメリカの刑務所のスラング。
意味は「人はみんな、誰かの親友だ」という意味だそうです。
“DOWN BY LAW・・・originally prison slang, by the mid-80s, it came to mean you were close friends with someone”

三人のトボケたやりとりに、とにかくやられます。延々続いても飽きないと思うな。そんな掛け合いの中に不意に孤独と寂しさが入り込む。笑いは、息づかいになる。人生は可笑しくも切ないものになる。みっともなさが、愛しくなる。
そんな映画です。

ジム・ジャームッシュは「音楽」を愛するが故に、だから一層「言葉」を信じているんだなぁ。


Down By Law:映画予告編


I Scream, You Scream, We All Scream for Ice Cream!
好きなシーンのひとつ。

2009年9月15日火曜日

驚くべき画像!!

BBCのある番組で「ノルマンディー上陸作戦」を特集したのですが、その番組で使われたカラー映像は、なんと出演者たったの三人、しかも製作日数わずか四日というしろもんです!

あの「史上最大の作戦」や「プライベート・ライアン」でもお馴染みの海岸を埋め尽くす米軍兵士の群れ。それを迎え撃つ独軍の塹壕。爆弾が破裂し、弾丸が雨あられと降るように浴びせられ倒れていく兵士達。。。。

まぁとにかくとんでもない人数のシーンに、本来ならなるはずなのですが、それをたった三人の合成でやってしまおうというわけです。

これが素晴らしいんだ☆

最後にでき上がったものを観たら、とても三人とは思えません。いわゆるコンピューター上のエキストラという考え方と方法なんだろうけど、これはこれで大したものです。
スンゴイりある。
おもしろい!

作成風景!
The music used Is “ Two Tribes ” by Frankie goes to Hollywood!


そしてこっちが正式な番組の一部です。

尻尾が犬を振る?

“ Wag the dog “ 1997
If the tail were smarter, the tail would wag the dog. 
『もし尻尾の方が賢けりゃ、尻尾が犬を振るだろう』

最近、9/11に関する映画が何本か放映されていました。
観てないものもあったので、一応見てみましたが、どれも「肝心」のところがうやむやのままで、亡くなられた方々やなんとか助かった方々をひたすら切なく悲しく描くのみでした。
でも、本当に知りたいのは「なぜこんなことが起きたのか?」でしょう?なのに、それに答えようとする作品は一つもないのが現状です。
その意味では、出来事の本質は、今もなお誰も触れることが出来ないのかもしれません。

少なくともオリバー・ストーンなどという監督ははなから信用してませんが、彼だけではなく、ハーベイ・カイテルは鋭い意識を持った俳優で定評があるのに、実在しWTCで亡くなった元FBIのオニールさんを演じながら精彩を欠いていました。人物の表面をなぞっただけのような気がします。

例えば、9/11を描いた「フライト93」はDocu-Dramaなどと言って、出演者の一部も現実の管制官などでかため、事実を強調した作りになっていましたが、墜落した飛行機の内部で実際何が起こっていたのかは、誰にもわからない。にもかかわらず、一部ドキュメンタリーと称してフィクションを作り上げることを、どうして誰も「捏造」と呼ばないのか不思議な気がします。

これまで9/11について作られてきたアメリカの映画も戯曲(例えばThe Guys)も、自国に対する自己憐憫から一歩も出ていません。
それに対し、ロバート・デ・ニーロの創り出す映画は鋭い。それは確かです。
いちばん最近は、2006年の“ The Good Shepherd “(グッド・シェパード)で、CIAの誕生とそれを支えた人間をリアルに描いています。スパイとして生きることがどういうことなのか深く探求している映画です。

そして、もうひとつ。
1997年の“ Wag the dog “(ワグザドッグ)は、ふざけたコメディーとして当時は受けとめられ、今もあまり語られることがない作品ですが、実は予言的な映画だったのです。
簡単に内容を言えば、大統領のセックス・スキャンダルもみ消しのために、「もみ消しのプロ」デ・ニーロがハリウッドからダスティン・ホフマン演じる映画プロデューサーを呼んで、戦争をでっち上げるというお話し。
90年代初頭の湾岸戦争を念頭おいて作られたようですが、実際はその後のクリントン政権やブッシュ政権での様々な出来事が彷彿とされる作りになっています。

当時のこの映画のキャッチ・コピーは「やっちゃった。バレちゃった。 大統領はセクハラ隠しのため、ヤラセの戦争をおこした!」でした。
レッドフォードの「大いなる陰謀」はこのキャッチコピーの内容をシリアスなドラマに仕立てました。それに対し、デ・ニーロはコメディーにしたのです。「大いなる陰謀」ではスキャンダル隠しではなく、大統領出馬の布石という目的でしたが。

映画は良くも悪くも「プロパガンダ」です。しかも、僕らの価値観に直接的に影響を与える力があります。だとしたら、どんな映画も油断してみるわけにはいきません。娯楽だからそんなのどうでもいいというのは、油断のしすぎかも。僕らはそうやっていつの間にか、ある方向へ導かれているのかもしれません。
例えば、フランスがナチに対して行ったゲリラ戦は「レジスタンス(抵抗する者)」と呼ばれ、様々な映画で英雄として描かれるのに、今、アメリカ以外のゲリラはすべてテロリストと呼ばれています。ついでに今や、アメリカに対抗しようとする国はことごとく「テロリスト国家」と呼ばれるんですね。日本は真珠湾をテロ攻撃した初期のテロ国家ということになっています。民間人に対し人類ではじめて核攻撃を行い、世界で最も多くの核兵器を保有する国アメリカが、他国に核を持つことを許さないというのは、どこか変じゃありませんか?
反戦というのは、六十年以上戦争していない日本ではなく、むしろアメリカに対して言うべきことではありませんか?
アメリカはオバマになろうが、常に唯一「正しく」、常に「裁き」を与える国なんですね。そうやって見えない敵・テロとの戦争は永遠に終わりそうもない。

そんなことを、本当に信用していますか?
あまりにもあからさまなでっち上げは、人は「まさか?」と思い信用してしまう。イラクにしてもアフガンにしてもソマリアにしても、本当の目的はいったい何だろう?

不思議なことをひとつ。
こんなテーマでブログを書くと、必ず一度ブログサイトに繋がらなくなるのは偶然ですか?
単語レベルでチェックされている、なんてのは気のせいなんでしょうね。

今観るべきは、こっちの映画、「ワグザドッグ」なのでは?

2009年9月13日日曜日

薔薇になる

久しぶりに「ローズ」を聴いた。
映画はジャニス・ジョプリンをモデルに、激しくロックに生きて死んでいったロックシンガーを描いていました。
あらためて、この曲の歌詞を見てみると、主人公が舞台で倒れるところでアカペラで流れる曲にもかかわらず、希望を歌っていることがわかります。

今日は、手慰みでローズを訳してみました。
地面に「埋もれた一粒の種」も、やがて冬が終われば「薔薇になる」と歌っています。

人生のこの日々は、傲り高ぶる必要もないし、自己を卑下する必要もない。
僕らそれぞれの薔薇の種が、冬の雪のずっと下の方にあって、でもいつかその花を咲かせる日を信じたい。

冷笑、嘲笑、嗤笑。そのどれもが薔薇の種に相応しくない。
「ただの種だ」って言ってしまう利口さは、悲しいほど愚かだと思う。そして、ほっときゃそんな愚かしさの中で僕らは生き続けることになるだろう。

そんな利口さよりも、「愛は花だ」と言える馬鹿でいたい。
希望はそんなところにあるのかもしれない。



The Rose
(訳:上野火山)
Some say love it is a river
that drowns the tender reed
Some say love it is a razor
that leaves your soul to bleed

愛、それは川だという人がいる
柔らかな葦の叢を押し流していく川
愛、それは剃刀のようだという人もいる
あなたの魂を切り裂いて血を流す


Some say love it is a hunger
an endless aching need
I say love it is a flower
and you it's only seed

愛、それは飢えだという人がいる
果てしなく痛む飢え
私は、愛は花だと思う
あなたは、愛はただの種だっていうけど

It's the heart afraid of breaking
that never learns to dance
It's the dream afraid of waking
that never takes the chance
It's the one who won't be taken
who cannot seem to give
and the soul afraid of dying
that never learns to live

失うことを恐れる人は
喜びを知ることはない
夢から覚めることを恐れる人は
決して幸せをつかむことはない
人に受け入れられようとしない人は
人に手を差し伸べることもできない
そして、死ぬことを恐れる人は
生きるということがなんなのか、決して知ることはない


When the night has been too lonely
and the road has been too long
and you think that love is only
for the lucky and the strong
Just remember in the winter
far beneath the bitter snows
lies the seed
that with the sun's love
in the spring
becomes the rose

夜があまりに寂しくて
道があまりにも険しくて
そして、愛は幸運で強い者にしか来ないと
あなたが思うとき
思い出してほしい、真冬の
冷たい雪の下の方に
種があることを
それは、春になれば
暖かい太陽の愛で
薔薇になる・・・。



手嶌葵さんの『The Rose』
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