2012年12月21日金曜日

きぬかわのたい焼き

「きぬかわ」のたい焼き☆尻尾まで餡こたっぷり!


岩手県一ノ関市の真ん中を流れる磐井川。
その磐井川にかかる上の橋を渡ってすぐの交差点。その交差点の角にある小さなお店。
そこが「きぬかわ商店」だ。


僕は子供の頃から、そのお店で春は団子、夏は氷と心太(ところてん)、秋と冬はたい焼きを食べた。高校生までずっと、当たり前のように、友達と学校帰りに寄ったりして、食べていた。
朝、母に納豆が足りないからといってお使いに行かされたり、油揚げを買いに行かされたり、弟と二人でお使いに行って、油揚げを途中で半分以上食べてしまったこともあった。
その「きぬかわ」のたい焼きを送って頂いて、家族で食べました。

昔ながらの、持ち重りのする、餡このたっぷり詰まった、少し堅めのたい焼きは、我が家の人々もどこか懐かしさと共に味わったようでした。
子供頃当たり前のように食べていた「たい焼き」を、東京の我が家の居間で、何十年ぶりに味わうとは想像もしていなかったことでした。
過去の感情は味や匂いと共に存在しているようです。

それは、これまでもこのブログでも度々語ってきたことですが、食べるという行為はただ生きるための消化にあらず、食べることは生きること全体を表しているように、僕には思えるからです。
小学校の頃、お父さんが病気で貧しかった友達の「チッカ」と冬、二高の校庭の端っこできぬかわのたい焼きを分け合って食べたことがあった。チッカは元気にしてるだろうか?
高校の時、台湾から来た「陽くん」と学校帰りに、自転車を家の前に置いて、きぬかわのたい焼きを食べに行ったこともあった。

その度に、きぬかわの親父さんが丁寧にたい焼きの鉄の型を裏返しながら焼いてくれたのを僕らは見ていたんだ。
今は息子の「てっちゃん」が後を継いでいるらしい。


てっちゃん☆
ありがとうございました!
てっちゃんの送ってくれたたい焼きを僕はいろいろな思い出と共に食べましたよ。
たかが、たい焼きかもしれない。ですが、そこに僕の暮らしたあの「日々」が、確かにありました。

ありがとう。

2012年12月20日木曜日

素晴らしきドラマーその絶望と力:「ゴーイングマイホーム」に寄せて


一昨日、フジテレビで今期放送されたドラマ『ゴーイングマイホーム』が終わりました。

「視聴率!」「視聴率!」という大合唱の昨今、このドラマは途中打ち切りの噂まであったそれこそ視聴率が最悪だった番組だそうですが、僕としては、正直言って、このドラマは二十一世紀に入ってから放送された、恐らく最高の作品であったように思います。

終わってしまったので、機会があったらDVDで見て頂けたらと思いますが、これまで、もしくは近年、すっかり失われてしまったドラマの様々な要素が、そこにはありました。
この作品に対する批判は低視聴率ばかりではなく、劇中に登場する妖精のクーナに対してもあるようです。登場人物たちがいい歳をして妖精探しが聞いて呆れる、という批判です。
はじめから、ファンタジーを狙った作品ではなく、むしろそれとは真逆の「生活の現実感」というリアリズムで描かれる以上、クーナという妖精そのものが劇の主体でないことは明らかでした。むしろ、クーナという神秘的な存在を契機に、それぞれの家族が失ったものを再確認し、もう一度生き直すドラマだったはずです。「喪失」と「再生」。もし、僕らの人生に力があるとすれば正しく「絶望する」ことだと僕は思っています。正しく絶望し、正しく後悔すること。
しっかりと傷つくことをなくしてしまった現代を生きる僕らが取り戻さなければならないのは、希望や夢ではなく、寧ろ自分自身の絶望と後悔のリアリティーではないのか、とこのドラマは僕らに問いかけているのではないでしょうか。

登場人物一人一人、それは主人公から数回だけ登場する食品会社の社長さんに至るまで、見事なほど全員「絶望」と「後悔」を味わっています。それは登場人物たちの心の中の小さな棘になっている。いずれその棘と向き合わなければならないのですが、そのタイミングは人それぞれ。ですが、この心の中に小さな棘という「絶望」と「後悔」を抱える状態こそ、真に人生と言えるのではないでしょうか。

主人公の小学校になる娘は、借りた本を返す前に亡くなったクラスメートを一人で後悔と共にどう弔ったらいいのか悩んでいます。主人公はは病気で倒れた年老いた父とどう向き合ったら良いのか分からずにいます。そこにも本人も気がつかない「後悔」があるのです。彼の妻は、フードコーディネーターという職を選んだのも、母親が彼女に決してお弁当を作ってくれたことがなかったという「絶望」からでした。やがて亡くなる祖父にも、祖母にも、兄弟たちにも、仕事上の部下たちにも、長野で知り合った様々な人々の中に、「絶望」と「後悔」がありました。
このドラマの恐るべき部分は、こうした登場人物の心象風景を日常の佇まいの中で、的確に描いているところです。これは監督・脚本・編集された是枝監督の過去の作品、たとえば「歩いても 歩いても」や「誰も知らない」に通ずる静かな「力」そのものです。画角の広い映画そのものの表現方法がこれほどテレビドラマを豊かにするんだと確信しました。カットの多さや手ぶれやリズムばかりが偏重される昨今、フィックスの広い画角は新鮮で、見事な空気感を伝えていました。
俳優たちの仕事も、演出同様細かく丁寧で、隙がひとつもない、本物の人間がそこにいましたよ。

速度が緩く、意味が分からない、という意見もあるようですが、もしこの作品の「意味」が掴めないとしたら、それは自分自身の理解力の問題を疑った方が良いのではないか、とさえ思います。もっと物語の起伏があった方がドラマらしいという意見もあるようです。ですが、その起伏を必要以上に求めてしまうところに、すでに既成のドラマに対する固定観念があるのではないでしょうか。スピード感があって起伏のあるドラマも面白い。けれど、この「ゴーイングマイホーム」のような静かに魂を震えさせるドラマもまた、僕らには必要なのだよ。僕はそう言いたい。


ありがとう!素晴らしきドラマに、感謝!!!


2012年12月17日月曜日

Eagle's Eye



鷹か鷲か分かりませんが、カメラを乗せて飛ばした映像があります☆
空から鳥の目を通して大地を見るとこんな感じなのだろうな。

昨日の選挙という茶番にうんざりし、また今日から生き直そうと誓い、朝から仕事をごそごそとはじめました。頼まれた仕事も、自分で選んだ仕事も、お金になる仕事も、お金にならない仕事も、全部僕の仕事だ。世界がこれからどこまで邪悪な悪化の道を辿るのか、見てみようじゃないかと腹を括る。TPPも開始され国民皆保険も年金制度は破壊されるでしょう、原発は再稼働され、消費税は増税され、日本経済は確実に冷え込むでしょう。復興資金のため、福祉のためといいながら集めた金はどこへ消えるのか?そして、この国が戦争へ加わっていくのも時間の問題でしょう。昨日の選挙は、その分岐点でした。

様々な不思議があります。
あれほど混雑し、行列の出来た投票所などこれまで見たこともありません。しかし、メディアは昼間からずっと、投票率の低下を叫び通し、まるで投票所が人気がないような報道でした。現実は逆でしょ。
なぜ、投票所が何カ所も「節電」を理由に四時間も前に投票所を閉鎖するんだろう?これまでこんなことありましたか?
なぜ、出口調査といえど、午後八時になった途端に「当確」が判明するのだろう?
疑問は枚挙にいとまがない。

空からこの世界を見る。
詩人のシェリーはその作品のほとんどを、空を飛ぶ手段のない時代に、俯瞰の視点で書き上げた。
金と利権の亡者どもには、空は飛行機で移動する空間ぐらいのイメージかもしれないが、空は本当は世界を見わたすために、人間の想像力に与えられた最期の視点なんだと僕は思っている。
あの鷹のように、空から眺めてみれば、地面に這いつくばって生きる人間どもの権力闘争など、取るに足らないものに思える。地面の上で這いつくばりながら、勝つことだけ、儲けることだけ、他人を蹴落とすことだけ、嘲笑うことだけにかまけている連中には、自分達が置かれているその「愚かさの座標」は決して見えないのだろう。

僕はそんな風に思います。
だから、鳥の視点はとても大事。
まったく権力闘争からほど遠い、いわばドロップアウトした僕ですが、想像力と創造力を武器にこの時代を生き抜こうと思っています。
自分を含めた人間どもの「愚かさの座標」を見つめながら、今日も生きよう!

そして、明日の子供たちの生きるこの世界を、愚か者たちのために破壊させてはならない。

2012年12月5日水曜日

近所の小川にて、世界を考える。

へーい!川の流れよ!この俺に、道を示してくれぃ!!!
今朝、ウォーキングの途中で近所の川によりました。

ちょっとした小川ではありますが、大雨の後などは溢れそうなぐらい怒濤の流れを見せてくれます。
が、今朝はとても穏やかで良い感じの川の水が流れていました。
数年前までは大分汚れていましたが、最近水がきれいになっているような気がするな。
こんな小さな川のように生きていきたいものです。


先日読んだある新聞の記事を少々引用:
竹中平蔵(たけなか・へいぞう)東洋経済新聞より

「成功者の足を引っ張るな 
これからのリーダーは、しがらみのない、若い人から出てくるはずだ。「英雄は若者から学ばなければならない」という言葉があるが、それは正しいと思う。
今、慶応大学で、「イノベーション&リーダーシップ」という寄付講座をやっている。そのスポンサーになってくれているのは、着メロなどを手掛けるフェイスの平澤創社長。彼は、いろいろなところから講演を依頼されるが、大人相手にやってもムダだから、講演しないと決めているそうだ。彼は、「自分が起業できたのは、若くてリスクを感じなかったから。失うものがないというのは、すばらしいこと。だから、若い人の前では講演をする」と言っていた。
私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。
以前、BS朝日のテレビ番組に出演して、堺屋太一さんや鳥越俊太郎さんと一緒に、「もっと若い人たちにリスクを取ってほしい」という話をしたら、若者から文句が出てきたので、そのときにも「君たちには貧しくなる自由がある」という話をした」



「みなさんには貧しくなる自由がある」だと。。。。
本当に、本当に、僕は心底呆れているんだよ。開いた口が塞がらない。この厚顔無恥ぶりに。この愚かさに。
若者が苦労することは良いことに決まっている。しかし、この男の述べている苦労や貧しさは、そのような苦労は買ってでもしろという文脈にはない。レトリックにごまかれてはならない。
「最低賃金法の改正」だとか「解雇規制の緩和」だとか、次から次から信じられない法案がこの人の口から出てくる出てくる。

とにもかくにも、この時代の変わり目は実に興味深いと僕は思う。
高学歴の愚か者どもを再発見しておくことは、決して悪いことではあるまい。こいつらの尻馬に乗らなければ良いのだから。
小川の流れゆく透き通った水の流れを見ながら、こんなことを思ったんだな、俺は。

先日は☆

たった二枚の葉っぱ
 今期2回目のワークショップでしたが、非常に面白いワークショップが出来ました!
充実した三時間でしたよ!

なかなか難しいと思われた「感覚の記憶」と「感情の記憶」に関するエクササイズをしっかりと認識して、素直にそして熱い気持ちで取り組んでもらえました。

これは僕自身の気持ちに過ぎませんが、たかが「演技」であっても、たかがなどではないと思うのです。演技には人間が垣間見えます。その演技する人物の実相が見えるんです。僕らはどのような嘘つきであってもその本質はやがては外側へ染み出てくるのを妨げることが出来ないように、他人を演じても、実際は自己の経験と感情とその想像力で実体化するので、必ず「自分自身」が投影されてしまう。演技とはとてつもなく自己暴露的です。そもそも本当の自分なんてものがあやふやな概念なのだから、自分を形作るものは、目の前に起こる事象に対する「反応の形式」こそその人らしさと呼べるものではないかと考えます。

どんなに隠しても、固有の反応形式を僕らは生きている。
その反応の仕方を社会学者であったピエール・プルデューは「ハビトゥス」すなわち「習慣」と呼んだのではないでしょうか。僕らは「習慣」から離れることは出来ない。その典型こそ言語活動ですが。
いずれにせよ、モノを作るという行為そのものがいやでも自己暴露的なのでしょう。
その点も、参加してくれた俳優達の態度を通し、僕自身が自覚したのです。
モノを作るという行為は、自分自身という狭い殻から、宇宙へ飛び出そうとする営為でしょう。しかし、同時に絶えず自己に回帰する営為でもあるように思います。


今朝はウォーキングの途中で何枚か写真を撮りました。
二枚だけ枝に残った、木の葉たちです。

時代はしきりにざわついて、思考の邪魔をするけれど、こういう時こそテレビや新聞の嘘を真に受けず、しっかり自己の思考を整えたいものですね。
政治と経済に群がる亡者どもは、いつしか戦前の「大政翼賛政権」を作り上げるようですが、じっくりとそいつらのツラを見てやりましょう。自己の利益と保身に走り、日本や日本国民、さらには人類を売り渡そうとする連中のツラを見つめてやりましょう。
どんなにきれい事を言っても、どんなに偉そうにしても、本質は自己暴露的です。
すべては、その人間の行為の中に現れているから。
すべては、その人間の習慣の中に表現されているから。