2014年9月19日金曜日

曇りの合間に

 

 

曇り合間に蒼空がちらりと見える。

遠くスコットランドでは英国からの独立の投票が行われている。結局は保守派の流れに押され実現しないのかもしれないが、そういう要求が強くあることが認識されることは重要だ。

 

日本では、実質的な経済の状況を鑑みて、消費税10%に引き上げるか検討すると言っていたにもかかわらず、結局は政治的判断のもと消費税増税は変更の余地はないそうだ。要するに初めから増税ありきなのである。言葉遊びも大概にしろ!と言いたいところだが、言葉遊びの詭弁家たちにとっては前言撤回も、恥も外聞もない。それどころか開き直ってさえいる。それはこの国に限ったことではないけれど。

 

粛々とこの国の破壊に勤しんでいる者たちがいて、その者たちにはスコットランド人の独立の気運など到底理解できないに違いない。

この国はいずれ真に独立しなくてはならない時が来る。今現在の我が国が独立国家など言ったら、それは嘘だろう。この国は永きに渡り属国であり傀儡であった。この二十年、僕は少しづつこの国の正体を見極め、薄い皮膜をめくるように解きほぐしてきた。

我が国は、スコットランド同様、いつの日か独立しなくてはならない。そう思う。

 

今年最後の蝉の声が聞こえる。そろそろ季節が大きく変わりそうだ。

 

2014年9月10日水曜日

ムーンライト•セレナーデ

 

MoonLight☆
MoonLight☆

今夜は、台風接近につき大雨洪水注意報が都内に発令中だそうです。

 

なので、ひとつお仕事がキャンセルになりましたので、コンピュータを離れ、居間でiPad Airします。

 

テクノロジーの奴隷にはなりたくはないけれど、いやぁ〜iPadはイイね!今までコンピュータを持たずにできなかった仕事が、タブレット一枚でできるようになるってのは、確かに画期的ではあります。今まで、だから何?という態度をiPadに対してとってきたこと、ごめんなさい。考え改めます。

そんなわけで、今は居間でタブレット端末の画面を叩いております。bluetoothの外付けキーボードが必要なのかな?と最初は思ったけど、要らないね!画面のキーボードで充分にタイピングできます。これも嬉しい誤算でした。

 

ひとつ前の記事で、ロックしようぜ!って書いたけど、同時に最近少々JAZZな雰囲気も楽しみ始めてるんだな。僕らのロックバンドは、基本ロックンロールから始まってるんだけど、four beatも年齢のせいなのか、飽きっぽいのか、よくわからないけど、好きでたまりません。

昨夜は、スーパームーンだとかで、月も本当に大きく出ていたけれど、僕が見た時には、残念ながら雲の向こうに霞んでおりました。

でも、ムーンライトを撮ってはみたんだ。

どすか?かすみ過ぎっすか?

ともあれ、昨夜も昨夜で、夜の風情を楽しみました☆

心の中にはグレン•ミラーがいたよ!

 

Moonlight Serenade

 

 

ひぐらしが鳴いている

夕暮れ時のホーム
東京郊外の駅で

先日、久し振りに仲間たちと会い、楽しく過ごしました。

今週の末には、久しぶりのバンド練習もあるし、あの八月の目まぐるしさからは徐々に解放されつつあります。

 

新たな作品に取り組むべく、パソコンに向かっていると、つい音楽が欲しくなり、YouTubeを見てしまった。

 

 

 

 

チャックベリーとストーンズのキースが何やら揉めている映像を発見し、ガン見する。

 

二人の巨匠がスタジオで高校生のように揉めているのは、すごくいい!

音楽でも芝居でも、はっきり言って揉めます。単なる自己顕示欲を超えてより良くなろうとして揉めるんです。だから逃げるのは絶対ダメ!

いい歳した親父が何処かムキニナルのがいいんだ。適当に流して、空気を読みながら、周りの顔色伺いながら、責任転嫁して、自己保身と逃げ足ばかりの大人はごめんだな。

最近、50代以上のロックな魂が希薄になってきているいうような気がしてならない。どうしちまったんだ!俺たちの昨日は、どこ行っちまったんだ!俺たちの明日は、まだ来ねぇぜ!

若者がどうとか言う前に、カビが生えたロックな魂を、綺麗に洗い流し、ピカピカに磨き上げたら、ちゃんとぶつかろうぜ!

 

遠くでさっきからひぐらしが鳴いているんだ。

もうすぐ台風の季節も過ぎるだろう。もうすぐ秋が来て、冬がやって来る。ひぐらしの声を聞きながら、ロックについて、俺は考えている。

またな!

 

 

 

2014年8月4日月曜日

朗読劇の告知です☆


入道雲と夏の空だッ!!
やっと告知できます!!


様々な立て込んでいたことが、スッキリ!!してきて、やっと集中度が高まってきました!!!
ぜひ、みなさんにご覧頂きたい小さな小さな舞台です。こんな舞台を大切にすることが一歩なんだよ。
元々は二時間半の大きな芝居ですが、今回は45分ほどの朗読劇に書き直しました。
戦争で捨てられた同胞を、もう一度思い出したいと思います。
お時間がございましたら、ぜひ足をお運び頂けますようお願い申し上げます。
劇場でお会い致しましょう!!



■第10回 平和を祈る演劇祭■

朗読劇『空にはきらきら金の星 ~落雀の候~』
    作・演出 上野火山
【日程】
08/22(金) 17:00~17:45
08/23(土) 15:15~16:00

【入場料】
大人:1,000円
子供:500円

【会場】
保谷こもれびホール(小ホール)
東京都西東京市中町1-5-1 保谷駅より徒歩15分
▲詳しくは《保谷こもれびホールオフィシャルサイト》をご覧下さい


【チケット予約】
下記のメールアドレスまで、《氏名、チケット枚数、電話番号》をお書きの上、メールでお申し込み下さい。
当日、受付にて、氏名をお伝え頂きチケットをお受け取り下さい。お支払いは受付でお願い致します。


※チケットは二日間有効で、チケットをお持ち頂ければ入退場自由です。
どの劇も一枚のチケットで観ることが出来ます。



《演劇祭全体のタイムテーブル》

08/22(金)
●この子たちの夏    15:30~16:50
●空にはきらきら金の星 17:00~17:45 
●マイス        17:55~19:05
●らっきょう      19:45~20:00

08/23(土)
●らっきょう      13:00~13:45
●マイス        13:55~15:05
●空にはきらきら金の星 15:15~16:00 
●この子たちの夏    16:10~17:30


本気の夏!!

市ヶ谷駅から☆
法政大学で行っている「比較演劇学」の夏期集中講義が先週の土曜日に終わりました!
ボアソナード・タワー☆現在キャンパス工事中!!!

 
まずは、今年の夏のひとつめのイベントが終了!!半年分の講義を一週間で、というのは本当に大変。
受講する学生の諸君も大変。夏の暑い中、市ヶ谷の線路沿いの道を大学まで通うと、聞こえてくるのは激しい蝉の声。
熱いんだけど、蝉の声に心洗われる瞬間でもあります。
あとは、頼まれ仕事が幾つか終焉したので、朗読劇に集中すること。



「本気」というのは、絶えず自分に問いかける重要な問だと思っている。
なんとなく、とか、取りあえず、とか、そういう姿勢は何にも生み出さない。今日も昼間、本気について語ってしまったが、伝わらなかっただろうなぁ。
伝わらないんだよ、本気、というのは。なかなかね。
本気は傷つくことも含む態度のことだと思う。責任から逃れ、傷つかないように生きる限り、決して「本気」を理解することは出来ないだろう。



先週の講義の中で、自分は「本気」で語ることが出来ただろうか?
自分の傷口を躊躇なく開くことが出来ただろうか?
吐く言葉は、すなわち自分自身に向かって返ってくることを自覚できただろうか?
何よりも自分自身の愚かさに直面できただろうか?
たかがひと夏の講義に過ぎないが、本気で語りたいと心から願っている。
この夏の熱気の中で、暑さと、時々心の中をよぎる悲しみが、僕に前を向かせる。

本物を創り出す作業は、これからが佳境です。
「本気」出して行くぜ!!


2014年7月17日木曜日

朗読劇稽古開始☆



今年の夏は本当に忙しい。

急遽頼まれたシナリオが一本、そしてその演出。
更に英語の指導も多く、今月末からは大学の集中講義も始まります。
そして、来月に迫った朗読劇☆





昨日から本格的に読み合わせがはじまりました。
大変悲惨な物語ではありますが、終戦と共に国家によって捨てられた人々を熱く描くことが出来たら嬉しいです。
集まってくれた若い俳優たちは、皆素晴らしい若者たちです。
脚本をよく読もうとしてくれるので、質問も出る。その質問に答えることで、演出するこちら側も考えが深まる。
いいな。こんなサイクルが作品を深く追求するムードを生むのだと思う。
来週の稽古で全出演者がそろうことになりますが、今から楽しみでなりません。


非常に知的な集団で共同作業できることは、「探求」にとって欠かせない要素です。
感覚や感性のみならず、知的に探求する姿勢は、全ての創作活動の「核」だと思います。そうした核が育っていく雰囲気が今回の稽古にはあります。
これは本当にかけがえのない演劇的環境と言えると思います。


妥協せず、追求し、自分の知らない時代の知らない体験を具現化し、追体験すること。これこそ演劇の醍醐味であり、演劇にのみ与えられた特権かもしれません。
今年の夏は、本当に忙しいけれど、本当に燃える夏になりそうです。
このワクワク感がたまらない!頑張るぜ!



近々、この「平和を祈る演劇祭」のチケットの予約、受け付け開始します。
少々お待ち下さいませ。


2014年7月2日水曜日

お知らせ☆

演劇祭・最新情報更新しました。

メニューの『最新公演情報』をご覧下さい!

2014年6月24日火曜日

天使の愚かさ(再掲)

以前、岩手大学宮澤賢治センターの通信誌に寄稿した文章です。

数年前に掲載した文章ですが、再掲させて頂きます。

賢治の「虔十公園林」という作品は、先日15日にお亡くなりになった作家のダニエル・キイスさんの「アルジャノンに花束を」に通じる部分があるような気がしてなりません。ご冥福をお祈り致します。

『虔十公園林』と天使の愚かさ(岩大通信)

       上野火山

遠い日の記憶である。

少年の頃、いつも市営のテニスコートの金網の所にぼんやり佇んでいる人がいたのを覚えている。彼が知恵遅れだというのは周囲の暗黙の了解だったようだ。誰一人彼を怖がる者もなく、特に馬鹿にするでもなく、ごく普通に一緒に暮らしていた。

春、桜並木を通って学校に行くときも、夏、テニスコートの向こうにあるプールに行くときも、秋、堤防で野球をするときも、冬、雪に埋もれたテニスコートで雪合戦をするときも、彼はいつもそこにいた。ちょっと優しげでちょっと哀しげな彼の眼差しを僕は忘れることができない。彼は、僕にとって一人の虔十だった。

『虔十公園林』という作品に出会ったのは、そんな小学生の頃の教科書だったと思う。不思議なことに、今発行されている検定済みのどの教科書にも虔十公園林が載っていない。それはいったい何故なのだろうか。

小学生の僕の胸をあんなに締め付けた虔十公園林という小さな作品。その中で主人公の虔十は、まぎれもない知恵遅れの少年であった。知恵遅れというこの表現すら今は差別用語になってしまう、そんな時代を僕らは生きていることに愕然とする。人はいったいいつから愚かさから学ばなくなったのだろう。人はいつからあの天使の眼差しを忘れてしまったのだろう。

賢治の描く虔十の愚かさは軽蔑すべき哀れなものでは決してない。寧ろ「天使の愚かさ」そのものなのだ。それは気高く美しい。そしてなによりも、この物語はまともなふりをした意地の悪い利口さに対する、その愚かさの勝利を描いているのだ。

五十年代のアメリカ映画「エデンの東」の中にジェームズ・ディーン演じるキャルがまるで虔十そっくりに畑に列をなした木の苗を踊りながら眺める場面がある。その場面を見ながら、僕はディーンに虔十の姿を重ねて見ていた。誰憚ることのない喜びを僕は見ていた。

天使はこの地上で生きていることが嬉しくてならないのだ。踊り謳いハーハー言うのだ。虔十のハーハー笑う姿を馬鹿にする人間が出てくるが、殴られても蹴られても虔十はひたすらハーハー笑っている。哀しくても嬉しくても虔十はハーハーなのだ。

やがて一緒に遊んだ子供が大人になって、虔十公園林を見てあの日のことを思い出す。天使のように愚かだった虔十の瞳の中の優しさと悲しみを、人は大人になって思い出す。そして、無名の人、虔十によって植えられた杉林は誰に恥じることもない大きく立派な公園林に育っていった。

こんなに哀しく美しい物語を僕は他に知らない。賢治の紡ぎ出す愚かさを主題とする物語に僕は特に心惹かれるのだ。

それは愚かなる人間は社会の「お荷物」と考える常識に対し、愚かさと共に生きることを選んだ賢治のアンチテーゼが垣間見えるからかもしれない。いや寧ろ人間の本質が愚かさそのものだと看破した賢治に惹かれるからかもしれない。

僕は「やまなし」のクラムボンはボンクラのアナグラムだと考えている。愚かであること、ボンクラであることはこの世では生きづらい。けれど、僕らの精神の歪みを映し出す鏡こそ、このボンクラの自己認識であり、天使の愚かさなのだと思う。

教科書に載らなくなったのは、現在という時代がもはや「天使の愚かさ」を重要な価値のひとつと認めることができなくなり、利益と利口さばかりに価値がおかれてしまっているからかもしれない。

愚かさは、この世界を生きる限り常に僕らと共にある。愚かさとは無用で無視したほうがいい唾棄すべきものでは決してない。

僕たちは今、少々利口になりすぎてはいないだろうか。

その利口さ故に記憶喪失に陥っている。幼い日に見た様々な愚かさの風景を、何事もなかったかのように水に流している。

今、賢治を読むことは、自己の記憶喪失に対する贖罪の意味もあるのだと僕は思う。

2014年6月20日金曜日

風を撮る!




雨が降る雨が降る…と警戒ばかりしていてもしょうがない。
雨が降ったら濡れていこうじゃないの!


そんな折、さっき、書斎で作業中、ふと外を見ると風が吹いていた。しかも、気持ちの良い緑を揺らすそよ風だ。
僕は、手元にあったスマホで19秒ばかり動画を撮ってみた。
たった19秒の動画に風が映ればいいな!そんなことを不意に思って撮ってみたんだ。

昔は、すべて記憶していたもんだけど、今は19秒を撮っておくことができる。保存する気になれば保存も出来る。でも、一瞬の想い出は自分だけのもの。その時間、その場所で体験した者のみが味わうことが出来るもの。


当 たり前の風景が、19秒に切り撮ってみると、二度と戻らぬ万華鏡の世界に僕らは暮らしていることがよく分かるんだな。世界は万華鏡だよ。二度と同じ事を繰 り返すことのない万華鏡だ。その意味で、今こうして同時代を同空間で共有し合っている僕らは、皆同じこの世界の住人に過ぎない。上も下もない。イデオロ ギーもない。偉いも偉くないもない。悲しいほど皆同じ運命を持っているのだ。それは、後100年、もしくは150年したら、今のこの世界に生きる者は誰一 人いないという現実。


生とは、その短い時間の中で、できる限り努力して味わうこと以外に、何があるだろう?
風を19秒間だけ、撮ってみて、僕は世界がいつまでも同じであり続けるという幻想から抜け出せた気がする。

経済学者がなんと言おうと、金融で世界ができているわけじゃない!銀行が世界を創り出しているわけじゃない。政府が世界を保障しているわけじゃない。
世界は、僕らが創り出しているんだ。
刻々と変わるこの世界を、僕らは毎秒毎秒創り出しているんだ。


風をもっと撮りたくなってきた!!




2014年6月15日日曜日

飛行機雲の空には…




梅雨の合間の青空の一日。

日曜日ではありますが、午前中から午後にかけて、仕事をし、帰宅後は原稿に向かっておりました。

ふと、窓の外を見ると、そこには遠く飛行機雲がたなびいている。
実に欲深い人間なので、時間は限られているにもかかわらず、あれもこれもやれることは何でもやっておきたいと思うのです。
なので、てんてこ舞いでへとへとです。

ですが、そんな日々の中で、見上げた空に真っ直ぐな線は、何か心洗われる感じがします。今、かつて書いた戯曲をコンパクトな読み芝居に改訂する作業に追われています。時の経過を経てなお残ったものこそ、本質なのでしょう。自分に問いかける意味でも、大切な作業だと思っています。新作だけではなく、旧作の理解のし直しは意味があると思う今日この頃です。

夕方、子どもたちの新しい大きな本棚の搬入があり、大事な本が次々と収まっていく風景は、なかなか楽しいものでした。

さて、日曜日の今日は、僕の特製マカロニ・サラダを作る約束をしておりました。これから、ひと休みして台所に行こうと思います。

明日は、また若い映画人と語り合う約束をしてるので、これも楽しみ☆

では、今日はこの辺で!
徐々にツイッター化しているブログだね!
これもまた楽しい!



2014年6月12日木曜日

自意識の話


西荻の渦巻く空だよ!

今回のブログ的呟きは「自意識について」。


自意識とは「自分を他者がどのように思っているかという意識」です。自己意識とも自我意識とも違います。それらは「自分自身が自分自身を認識する意識」のことであり、他者の目は意識してはいない。
ここで重要なのは「他者の目」です。


近年人工的意図的に広まった「自己責任」という言葉と、もうひとつ「空気を読め」という言葉がありました。
この「空気を読め」という言い回しこそ自意識を搔き立てる精神的トリッガーになっていると思われます。というのも、他者を絶えず意識し、周囲(特定の集団内の周囲に限定)に気を配り、合わせ、はずさないようにする。自意識をこれまで以上に搔き立て、刺激し、屈折させ、悦びを挫折させる。自意識がなければ、バランスの悪い生き方になるでしょう。しかし、何よりもバランスが大事というわけでもありません。僕らは皆一様に偏っていてバランスがそもそも悪いのです。だから面白いのですが。個性など敢えて言わなくても皆個性的なのです。更に言えば、周囲の目に合わせることでとられるバランスなど、本当にバランスがとれているなどと言えるものでしょうか。それは周囲の偏りに迎合し服従しているだけではないですか。
現代の価値観の押しつけや社会的傾向が、一層過度の自意識を生み出しているような気がしてなりません。


自意識はとても大切な認識形態のひとつにもかかわらず、それ以上に生きにくさを生み出す可能性もあるものです。
恐らく、過度が良くないのでしょうが、そもそもどの程度が過度なのかは分かりませんし、case-by-caseで判断の難しいところではあると思います。


ただし、この自意識の渦というか、自意識の混乱のようなものが、確実に今の時代を覆っているのは確かでしょう。自意識は今病に近づいているような気がします。
おそらく、他人の目を気にするな、という単純な言い方では改善されない、何かがある。この場合の「他人」や「他者」は身近な人物限定であることが多いし、全く見知らぬ他者であれば自意識より「無関心」の方が普通になっているようです。すなわち、知り合いや仲間内の強烈な自意識が立ち上り「比較」し合い「カテゴライズ」し合い、分け、グループ化し、再編する、を繰り返しているのかな、と思います。クラス内の一グループといった上下関係や社内のハラスメント等もこんな自意識のせめぎ合いの中で起こっているというのも、一部にはあるのではないかと思います。現在検証中。


今、僕らは己自身の「自意識」に意識的なってもいいのかもしれません。
気にする必要のないことを気にしている自分も、必要以上に傷ついている自分も、他者に厳しい自分も、すぐ比較して考えてしまう自分も、過度の「自意識」から生まれているのでは?と立ち止まって考えてみる必要もあるように思います。


最後に一言:
「他人は自分が思っているほど、自分を見てやしないよ」
これホント。



昨日の続きだよ


雨粒と葉っぱ
昨日の続き☆


遠回りしよう!無駄足を踏もう!それが生きるということでしょう。
実際この世界に無駄は一切ないんです。
無駄でいいんです。

無駄、無駄足、無駄使い、無駄骨、こんなの全部ウソっぱちだ!
すべてに意味があって、すべてが有用なのです。それを無意味にするのは、僕らの中にある損だけはしたくないというセコさかもしれないな。
だってそうでしょ?無駄が発見や発明や理解や愛情を生み出すんでしょ?
だから、回り道して行きましょう!
遠回りして、無駄骨をおって、大いに日々の暮らしのすべてを楽しみましょう!
この世界の豊かさは、お金では図れない。むしろ、どれだけ無駄を楽しんだかにある。


まぁ、同じようなことを言い訳に、従業員に給料払わず過労死させた上、更に国会議員なった社長さんもいらっしゃいますが、そんなバカは放っておいて、本質を掴みましょう。


遠回りして行こう☆
無駄を沢山やろう☆
楽しもう☆
自分を成長させる負荷は必要☆

これは詭弁ではなく、本質。


2014年6月11日水曜日

遠回りしよう☆


《雨と紫陽花》


近道より、寄り道の方が好きだな。
近道には何か利巧な経済効果の匂いがする。寄り道の方は余剰の香りがするんだ。

この余剰こそが人間を人間たらしめているのではないかと思うことがある。
余剰とは、余計な事や余ったものだが、余計な事は本当に余計な事なのか?余ったものは捨てれば良いのか?

ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』によれば、人間の真の経済学的喜びは、ただひたすら財を溜め込む蓄積にあらず、むしろ「蕩尽」すなわち使い果たすことにあるという。現在の世界経済の動向の歪みは、一部の企業等による寡頭支配によって、利益が一極集中し、利益を貯め込むシステムだからではないのか。利益を世界に吐き出すシステム(出口:すなわち社会的還元)を無くし続けながら、ひたすら財を溜め込んでいる。蕩尽が行われていないのである。
つまり、経済的に「利益を得るのか」、もしくは「損失を出してしまうのか」という「合理性すなわち過剰な蓄積」に捉われている限り、人に本質的な充実感や喜び等をもたらす「蕩尽の享楽・至高の聖性』(本当の人間的悦び)を体験することはできないということになるのですよ。

溜め込む行為は「近道」を辿る。ですが、蕩尽し使い果たすまで余計な事を沢山することは余剰を味わうことであり「寄り道」です。

人生は選択の連続ですから、近道も必要でしょうが、いつも経済的で利益を溜め込むばかりじゃ面白くない。むしろ、寄り道の余剰、もしくはバタイユの使い果たす蕩尽の意味をこの辺で噛みしめてみたいと思うわけです。
現在、シカゴ学派的経済学(いわゆる新自由主義経済学)では、貧困か極端な富裕層しか選択肢がないような、極端な二者択一の幻想を世界中に撒き散らしていますが、バタイユを読めと言いたいですね。
どなたが言ったが忘れましたが「貧困の自由」ですか?
アホですか?アホとしか言いようがないでしょ?いや、アホそのものでしょう?

僕は願い、夢見る。
近道なんかロクなもんじゃない!遠回りや寄り道をしながら、この世界を味わいたい。溜め込む人生より、使い果たしつつ吐き出す人生。真の利益とは溜め込んだ部分の総体ではなく、味わった総体を指す。有益な物事のために使わなければ、それは利益とは言わないのだ。

だから、何だって良い。ケチらずに吐き出そうと思ってます。

溜め込むバカになるよりも、吐き出すバカにワタクシはなりたい!!!


バタイユさんにサンクス☆

2014年5月27日火曜日

お知らせ


Facebookの方ではお知らせしたのですが、改めてこちらのブログでもお伝えします。


『東海大学出版部から「賢治学」が出版されます☆岩手大学宮澤賢治センター編です。僕も一文書いております。
岩手大学から宮澤賢治に関する知を発信、ということで、今の拝金主義的傾向の真逆の精神が語られています。新自由主義からの離脱は賢治を考えることから始まるかもしれません。
ぜひご一読を!』

お知らせでした☆

ご購入はこちらで:
『賢治学』アマゾン 

ならず者たち


哲学も芸術も、リアルな政治的状況の前では無力ではないか、そんなことを思っていた。思想とは単純に硬化したドグマの謂ではないのか。そんなことを思っていたのだ。
というのも八十年代以降、脱構築とポストモダンの安売り状態で、人間の思考も行動も表層的になり、全てが商業的な深みのない浅薄なエンターテインメントに成り果てた印象を持っていた。事実、八十年代以降「軽佻浮薄」の合い言葉の下、テレビを中心に思考を停止し経済活動こそが唯一の真理であるかのようにこの世界は進んできたように思う。バブル時代だろうが、バブルがはじけただろうが、そんなことにお構いなく、この時代と世界の価値観として「利益」、「得」、「儲け」が人の究極の目的であるかのように僕らは老いも若きも「教育」されてきたように思う。そうして、なし崩し的に意味の解体がはびこりはじめ、いつのまにか金銭的な価値に還元できなければ全て無意味といった、ハイエク以来のミルトン・フリードマン的な価値観が一般化した時、硬化した既成の価値観から一旦抜け出ようというジャック・デリダの「脱構築」論は魅力的でありながら、同時に僕個人は、どこか宿敵のような感覚を憶えていた。すなわち、八十年代以降のこの抜き差しならぬ価値状況を創り出した原因は、デリダにも少なからずあったのではないかと思っていたわけだ。

そんな僕が、今、彼の「ならず者たち」(みすず書房)を読む。
実に面白い。何が面白いのかというと、その哲学的視点からの現在の思想もしくは価値観を叩き切っているその率直さかもしれない。

深い言葉の洪水の中で、彼は端的にこう言う。
「…ならず者国家に対し戦争ができる立場にある諸国家は、先験的に、このうえなく正統なその主権において、その権力を濫用するならず者国家だということを現しめるだろう。主権があるやいなや、権力の濫用およびならず者国家がある。濫用は使用の法である。それが法そのものであり、それが分割なき全統一性においてしか支配できない主権というものの<論理>である。」
すなわち、ある国家を「ならず者国家」と呼ぶ時、その呼んでいる国家自体がすでにひとつの「ならず者国家」なのである。

彼の問である「来るべき民主主義」とは少なくとも、現在ある資本主義やグローバリゼーションやシカゴ学派による新自由主義経済・純粋資本主義であるはずがない。民主主義とはプロセスであって、すでに成し遂げられた完全な政治体制ではない。日本はこれまで民主主義国家ではなかったし、良くも悪くも社会主義的な国家であった。だからこそ、社会保障も充実していたし、社会福祉は他の国家では例を見ないほど完成されたものだった。

しかし、今、この国はより完全な民主主義国家に向かっていると首相は言うが果たしてそうなのか?今向かっているのは企業による純粋な資本主義体制であって、より厳密な意味での民主主義に向かっているのではない。むしろ、民主主義的要素が日ごとに失われているのである。社会主義と民主主義は同時に存在できるが、資本主義と共産主義は同時に存在できない。
ならず者と呼ばれた国々が、独裁者による暗黒の国家のように喧伝されていたが、例えばカダフィ大佐のリビヤなど先進的な「無償社会保障制度」など他国では考えられない社会保障制度を持っていたにもかかわらず、ならず者国家の烙印を押され、大佐亡き後、すべてそうした社会保障制度は一掃されてしまい、更に石油利権も欧米に収奪されたのである。

デリダを読むことで、現在の世界と価値観の状況を、しっかりと見据えることができたように思う。彼は911以降の世界の異様な動きに正確な観察眼で哲学的営為をすすめているが、この著作は一種の羅針盤のように、日々のニュースや報道で狂わされた方向感覚をもう一度是正してくれる力があるような気がしますね。

今、デリダが面白いな。

独立国家なのだろうか☆

気がつけば、311以後怒濤のように新法案が可決され、毎日のように個人の自由が規制されながら、多国籍企業もしくは海外金融資本に対する規制はどんどん緩められていきます。規制緩和や自由主義とは個人に対してではなく、明らかに既得権益を持つ海外株主にとっての自由であり、個々の国民の自由は範疇外というのが正直なところではないでしょうか。国家は自存すべきと言うならば、それは極右になり、社会保障はなくてはならないと言えば、それは極左になる。ところが、これは何度も言ってきたことですが、まったくデタラメであり、それらは本来共存するものなのです。自由と平和、そして平等は時には対立概念になりえます。が、海外勢力からの文化的地域的独立と社会保障の整備にはなんの矛盾もない。
僕らは、右だ左だと、これまでの表層的な言説に惑わされ、本質を見失っているようです。


日本人が日本語を失って良いはずがないのと同様に、この国の文化を売り渡してはならない。日本は戦後、一度たりとも独立国家であったためしがないのです。この国は植民地でした。だからこそ、気がつき考えなくてはならない。日本を護ることは戦争に駆り出して日本国民を殺すことではない。今、この国が傾いているのは外国の代理戦争への道でしょう。知らない間に、「航空自衛隊経ケ岬分屯基地(京丹後市丹後町)への米軍早期警戒レーダー(Xバンドレーダー)配備計画で、市は26日、関連工事の着工が27日に決まったと発表した」(産経新聞)そうです。そう、知らない間に、この国は最前線に立たされているようです。本来必要のない衝突を起こし「愛国」という美名の元で、日本人のためではなく、海外金融資本のため、彼らの手先になろうとしているわけです。
民主党から現在の自民党に代わり、なにが代わったのか?なにも代わっていない。ただひたすら、国民の状況は過酷になっているのではないですか。
本質を見極めたいと思います。


また、少しずつ、このブログで語っていきたいと思います。よろしくおねがいします☆


2014年1月8日水曜日

2014年も八日も過ぎて


しばらくブログというものに嫌気がさしていて、遠ざかっていました。ごめんなさい。
そのうちに、年も明け、2014年すなわち平成26年になったのでした。
また、いろいろアップしていきますので、今年もよろしくお願い致します。



去年は友人が二人あちらへ旅立ちました。

 一人は俳優で監督の塩屋俊さん。そして、もう一方は振付師・演出家の竹邑類さん。
塩屋さんは大学の先輩でもありましたし、僕が演劇を志す最初のきっかけを作って頂いた方でもありました。彼の抱いていたその志は決して忘れません。


そして、竹邑さんは僕の翻訳劇を演出していただいたご縁でおつき合い頂きました。「まずは続けないさい」と、演劇を続けることの真の重要性を教えてもらいました。作家・三島由紀夫さんが短編小説『月』の中で、夜になると70歳になる17歳の少年として描いた竹邑さん。その三島作品の登場人物でもあった竹邑さんが、17歳の少年時代からアートに関わりながら、やがて物語とほぼ同じ71歳で此の世を旅立たれるというのは、なんとも不思議な感じがします。現実も一つの物語のような気がしてなりません。ホワイト・レビューという竹邑さんの珠玉の舞台を僕は忘れません。





仕事に追われながら、年末から新年にかけて、映像作品を色々と観ることができました。
その中で、是枝裕和・監督:NONFIX『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(1991年)というドキュメンタリーは、強く強く心に残りました。この映像を観せてくれた、僕の大学のクラスの学生であり、是枝監督にも指導を受けている「橘田さん」に心から感謝します。ありがとう!


「しかし… 福祉切り捨ての時代に(1991年)」はフジテレビのNONFIXで放映されたドキュメンタリーであります。しかし、この小さな作品の扱う問題は、放送から二十年以上経った今なお解決されてはいないどころか、問題は深く広く、まるで小さかった傷口が広がり周囲が壊死していくようなそんな印象さえ受けます。事態は確実に悪化している。監督した是枝裕和さんはこの作品を本としても出版しておられます。

1990年(平成2年)12月5日。環境庁次期事務次官候補が自ら命を絶った。山内豊徳さん。53歳。水俣病裁判の国側の責任者として和解拒否の弁明を続けていた企画調整局の局長でありました。さらにもう一人の登場人物、銀座での売れっ子ホステスから一転、当時荒川区で難病に一人苦しみながらなんとか日々を生き抜こうとしていた原島のぶ子さん。二人にはまったく接点はないけれど、福祉政策の歪みと福祉の受給という、「福祉」のその一点で人生が交差しているのです。

近年でもメディアが、お笑い芸人等の生活保護不正受給を大問題化することによって、巷ではあたかも生活保護を申請すること自体が良くないという印象操作が行われていました。この流れから、社会保障自体をいずれ廃止すべきではないか、といった極論が今やまるで当然のことのように大手を振って歩き出しています。勿論これは、昨日今日始まった民主党や自民党といった政権の持つ問題ではなく、むしろ今世界に蔓延している新自由主義的価値感の生み出す問題なのです。がしかし、この生活保護をはじめとした福祉の切り捨てという問題は、何十年も前から国民に気づかれないほど小さな小さな形で、止むことなく続けられてきたこの国の決定的な政策、政府の決定事項なのだと思われます。そしてそれが、今現在、更に悪化しているというわけです。山内豊徳さんは水俣の患者と国側の間に挟まれ、自死に追い込まれました。官僚として死に逃げるよりも根回しの技術を持てば良かった、等と後付けの評価はこの種の出来事では無意味です。なぜなら、この問題はこの国が欧米と共に「個人の幸福」もしくは「個人の福祉」よりも、「国家の一部の層の幸福」を取る方に確実に舵を切ったからこそ起こっている出来事だからです。問答無用のこの状況では、根回しなど何の役にもたたない。だからこそ、心ある山内さんのような官僚には頑張って欲しかった。しかし、彼の陥ったその抜き差しならぬ状況は想像するに余りあります。

原島さんという女性の人生も、まったく動こうとしない福祉関係の役人の心ない対応の中で、年末に命を絶つというなんともやりきれない最後であり、無縁仏として荼毘に付されるという哀れさは、観る者に他人事ではない切実さで迫ってくるものでした。
決して忘れてはならないドキュメンタリー作品ですね。そして是枝監督の原点にあるものとも言えるのではないでしょうか。何度も観て心に刻みつけたい作品です。



年の初めに、暗い話題と思われたかもしれません。
しかし、世の中では、やれアベノミクスだの、その効果で金融関係の給料が上がるだの、やれ東京オリンピック開催だの、一見明るいニュースが沢山あるようですが、その実、矛盾ばかりが露呈しています。
例えば、東京オリンピックの主要開場になるであろう新国立競技場は、ザハ・ハディッドという英国の女性建築家による設計で建設費は約1800億円、年間維持費は約41億円にものぼる見通しであり、更にそのあまりにも巨大な構築物のせいで、国立競技場周辺の景観は全て変わってしまうということだ。これなども、本当にそんな巨大施設を建設する必要があるのだろうか。そんな中で今、真剣に言われているのは、オリンピック直後に日本を戦後最大の不況が襲うのでは?という懸念。これなどは明らかに国力を上げるよりも、寧ろ日本という国の国力を減退させる方に向かってはいないか?という疑問も出てくるように思う。

 
今年もまた、世界と巷と時代と歴史をあれこれ考えつつ、しっかりと歩みを進めていこうと思います。
見えにくい問題をしっかりと見つめたい。世界はまだまだ捨てたものじゃないのだから。
今年も、よろしく!