2010年12月31日金曜日

もうすぐ☆

今年も残すところあと数時間。
大晦日が元旦になろうが昨日や今日と変わるはずがない。でも、区切りというのはいいものです。
昨年以来、コンパクトでシンプルな暮らし、というのが我が家のテーマでありました。

質素でしっかりとした日々の営みこそ何よりも大事。
その中から創作すべき問題意識や美意識や倫理観が生まれ、狂ったように一生懸命になれる。
夢中になるために、日常の秩序をしっかり保つ必要があるのです。

僕がロックすると言うとき、それはラップするでも、ポップするでもいいのですが、要は夢中になって生きることを言ってるわけです。
そのための下地が、コンパクトでシンプルな暮らし方ということなんです。
あの清志郎が「ストーンズのまねですか?」という嫌みな質問を受けたとき、「そうだよ。知らなかったの?」と答えたロック魂は、彼が人生の最後に愛したのが「自転車」だったという所に集約されているような気がします。
1978年、僕は渋谷の道玄坂でジョン・レノンとすれちがった。そのとき彼もまた自転車に乗っていたのは象徴的です。
つまりこの二人のロック者は、人生の最後に偶然のようにコンパクトでシンプルな日常を生きていたのです。
特に羽目を外した外道の人生ではなかった。ごく普通の日常を生きようとしていた。
それって、やっぱり基本なんじゃないだろうか。

また一年が終わり、あらたな一年が始まろうとしています。
やっぱり大事だよ。気持ちをあらたにすることは。毎日新た。でも更に一層新た。これが大事。

来年はまた素晴らしい一年になるでしょう!
みなさんにとっても素晴らしい一年でありますように!

舞台で会いましょうね☆

2010年12月24日金曜日

ルドルフは今夜も走ってるぜ☆

Merry Christmas ☆

今夜はクリスマスイブ!
とはいえ、例年通りひっそり楽しく家族で過ごします。
仕込んでいたピザ生地もいい感じ☆
焼き上がったらやっぱり例年通りご近所にピザを配りましょう!




でもね、意外にヘビメタ系クリスマスソングが我が家で大受けです。
Motörheadのレミーに素敵な曲を歌ってもらいます。

これが男のクリスマスソングさ!!
みなさんも素晴らしい明日をお迎え下さいね☆


RUN RUN RUDOLPH LEMMY KILMISTER studio 

2010年12月22日水曜日

山頭火のうしろ姿

種田山頭火
(1882年-1940年 松山市「一草庵」にて没)
書家のあいだみつおさんが「うしろ姿は自分じゃ見えぬ 見えぬ姿に人間がでる 」と言ったそうですが、うしろ姿は確かに大事だと思います。
そこで思い出すのが種田山頭火です。
山頭火は「うしろ姿」の人だと思う。

『山頭火句集』は僕の愛読する書のひとつだが、何度詠んでも飽きないし、いつ開いても新鮮な発見がある。

だらしない人だったのだと思う。
でも、そのだらしなさを人一倍知り抜いていたのも本人だったに違いない。

「いただいて足りて一人の箸をおく」

やっとありついた飯を大切に頂いて感謝する。それが、この人の生きる姿勢だったのだと思う。
飯はうまかったですか?
僕はそう彼に訊きたくなる。
味噌汁はうまかったですか?
きっと彼の涙の味がしただろう。

「こんなにうまい水があふれてゐる」

そして旅の途上で出会う水。
何も持たぬことの幸福がここにある。水に感激できる幸せがここにある。
冷笑することのない幸福がここにあるのだと思う。

「今日の道のたんぽぽ咲いた」

家族を捨てた男には、帰る場所はなかった。
路傍の小さな花さえも、彼の家族だったのだ。旅の道のすぐ脇に生と死があった。

「うしろすがたのしぐれてゆくか」

しぐれには雨に濡れること、そして涙することの意がある。人は全ての感情を他人に見せるはずがない。
本物の感情は最も個人的で、ひっそりと陰に隠れ、目には見えないのである。
だから、うしろ姿なのだなぁと僕は思う。
人のうしろ姿を見なければ、その人の本質は掴めない。
欧米流のeye contactという真っ正面からの対峙の仕方は、時に偽りを産み出す方法かもしれない。
僕ら日本人はうしろ姿を見る。

うしろ姿は、嘘をつけないから。


2010年12月20日月曜日

ギネス記録保持者のめずらしい話

一般的に雷は同じ地点には二度と落ちない、と言われているそうです。
しかしながら、アメリカのロイ・サリバンさんという人には生涯で7回雷が落ちたんだってさ。
バージニア州のシェナンドウ国立公園のパーク・レインジャーをしている時(1942年)を皮切りにそれは起こったそうです。

下の動画では彼の体験が時系列で紹介されています。
大変な経験ではありますが、なぜか笑ってしまうんですが・・・不謹慎ですか?
ではでは、その様子をご覧下さい。

世界でただ一人、雷に7回打たれた男。

They say lightning never strikes twice, but it stuck Roy Sullivan a whopping seven times.

Roy was a U.S. park ranger in Shenandoah National Park in Virginia and holds the Guinness World Record for the times lightning has struck one human being. Here’s a timeline of Roy’s strikes.

2010年12月19日日曜日

くつやのマルチン

からし種シアター『くつやのマルチン』
昨日、仕事の合間を縫うようにして国立で一本の舞台を見ました。

からし種シアターの『くつやのマルチン』です。
トルストイの高名な物語です。年老いた靴屋のマルチンはもうだいぶ前に愛する妻と二人の子供達を亡くした男でした。
ある晩、彼の前にイエスが現れるという声が聞こえたので、楽しみにしていた彼は翌日、窓から見る人々に声をかけていきます。
人はそれぞれ何か抱えて生きていますが、マルチンは優しく一人一人に接していきます。
なのに、イエスは現れなかった。
イエスはどこにいたのだろうか?
出会った一人一人がイエスそのものだった、というお話。

僕はこのわずか一時間の小さな小さな劇の所々で涙を抑えることができませんでした。
それは、まずマルチンという存在が、実在したドイツの靴屋にして予言者であった「ヤコブ・べーメ」を彷彿とさせるところ。
教育がなく、ひたすら靴職人として地道に生きていたヤコブ・ベーメがある日突然神の啓示を受けたという実話は、この主人公マルチンに確実に投影され、美しくも力強く生まれ変わっていたと思います。
そして、マルチンが死んだ息子を思い出すとき、幼かった息子がクリスマス・プレゼントを見て目を真ん丸にして喜んだというその出来事をごく自然に語るマルチンの姿に、僕は山田洋次さんの「息子」という映画のエンディングを思い出していました。東京から戻った三國連太郎さん演ずる年老いた父親が誰もいない暗い家の玄関を開けたとき、何十年も前の家族の姿を見たあの場面です。
息子達は大きな声で笑い、亡き妻は笑顔で熱々のご飯をよそっている、そんな風景をたった一人になった老人は幻想のように見るのです。最も心を熱くする素晴らしい場面でしたが、靴屋のマルチンを演じる中村元則さんの語る一言はそれに勝るとも劣らぬ胸に迫る追憶の場面でした。

人はパンのみに生きるのではないと誰もが言いますが、現在は稼ぐ人間が正しいのであって、稼がないもしくは稼げない人間は「駄目」なのだと厚顔無恥にも言い切ってしまう世の中です。何とも残念な世の中になったものです。稼ぎのいい商人ばかりでは世界は豊かであるはずがない。商人以外は全て消費者しかいなくなってしまうではないですか。

トルストイの残したこの物語は単に一人の敬虔なキリスト者を描いたのではなく、いつの世にもつい軽んじられ失われゆく「分け合う」というとても小さな、しかしながら決定的に生きることと結びついた人間の「存在の条件」の重要性を伝えているのだと思います。

政治でも経済でも、日常のあらゆる場面で「分け合う」ということが現代ほど失われてしまった時代はなかったのではないですか。
いつから僕らはこんなに意地が汚くなったのだろう。

僕がこの小さな芝居から感じたのは、人間の本当の「品格」についてでした。
国家でも政治でも経済でもない、人間の品格が壊れてきているのではないですか。
ひとりの靴屋のマルチンになりたいものです。マルチンという人物の持つ素朴さこそが人間の真の品格そのもののような気がします。
このひねくれた時代にこんな作品が上演されることの意味を僕は感じます。

からし種シアターのみなさん、お疲れ様でした☆
音楽も観客とのコミュニケーションもすべてがとてもいい舞台でしたよ!

賛美歌320番 <加賀屋玲 主よみもとに近づかん>

2010年12月15日水曜日

ビニールパックされた本

今日、本を買いに近所の本屋さんに行った。
目的の本を探しに奥へ行こうとしたとき、平台の上に山積みになった本日発売の新刊本を見て驚いた。
ビニールパックされていたからだ。その新刊本のみビニールパック。
ライトノベルなどでは結構あるらしいが、はじめて見たぜ、一般書のビニールコーティング。

とうとうここまで来たのか。立ち読み禁止なの?漫画がビニールパックされているのは知ってたが、新刊書もそうなんだね。
試しに読むにも、まずは絶対買わないといけないんだね。
これじゃ選べないでしょう。

まぁ、とにかくそういう本を私は見た。

なんかいやな感じですね。ニューヨークだってロンドンだって香港だって、どこでだって本は眺めて選ぶものです。
知らない本だって眺めて見て購入する気になるかもしれない。

まぁ、こんな本僕は買わないけどね。
ビニールパック!

2010年12月14日火曜日

ありがとう☆ロック

Motörhead

本日は、恥ずかしながら僕の誕生日でして、お祝いメールを数々頂き、送って頂いた皆様に感謝です☆
ますます熱く生きていく所存であります。

そんな私ですが、オヤジはオヤジらしくオヤジの本領発揮したロックってものを伝えたい。
本来は演劇を通じてロック魂って奴を伝導するのが筋って奴ですが、今夜はまずは動画で勘弁を。
世の中様々なオヤジなロックはありますが、やっぱり「Motörhead」は確実にオヤジロックです。

しっかし、いつ聴いても激しいぜ☆
僕のiPodのヘビーローテーションのひとつがMotörheadっす。

確かに、還暦をとっくに超えたストーンズもいますが、ここはひとつ、Motörheadでどすか?
リードボーカル、Lemmy Kilmisterも還暦を通り越したオヤジですが、このダミ声には言い知れぬ魅力があります。
謂わば、ヘビーメタルの浪花節、メタル界の広沢虎造ってとこでしょうか?
メリケンな感じがしますが英国人です。

クリスマスイブに生まれた彼には「Run Rudolf Run」というチャック・ベリーの曲のカバーがありますが、それも見事です。
それは12月24日に紹介しましょうね。

まずは今夜はMy Birthdayということで、Motörhead - Overkill (live) Full HD を聴きましょう!
ありがとう☆これがロックだ!!!この音、たった三人で出してんだぜ!!
まだまだ俺なんかヒヨッコだな〜〜〜〜☆うれしくなるぜぇ!!

2010年12月13日月曜日

メタリカが聴きたくなった☆

今日は寒い上に雨です。
書斎の窓の外は雨に煙っています。

こんな時は........ロックだな☆
めちゃめちゃハードな奴が聴きたくなる。

メタリカのマスター・オブ・パペットという曲は、もう随分前の曲になりますが、未だに色褪せない。
それは、この曲がアメリカという国の在り方を絶望的なほどはっきりと歌ってしまったからだと思われます。
歴代のアメリカ大統領は本当の権力者だっただろうか?
いや、そんなことはない。これまで一人として真に独裁的な権力者、もしくは真の決定権を持った大統領は存在しなかった。
民主主義国家なのだから当然だ、と思うとしたら、それは大きな間違いだろう。
世界に真の民主義国家はこれまでひとつも誕生してはいないのだ。
まさにその中心にいるアメリカ合衆国大統領は密かに「Puppet」(操り人形)と呼ばれている。
では日本は、と言えば推して知るべしである。
アメリカのアナグラム的な名前を持つヘビーメタルバンド「メタリカ」は「操り人形の主人」という歌を歌うわけだが、その主人とはいったい誰なのだろう?
ロックをなめんなよ☆
未だにただの騒音と見なしている向きがありますが、勘違いも甚だしい。
確かに、大衆を政治や経済に関心を持たせないようにする「3S政策」、Screen(スクリーン)、Sport(スポーツ)、Sex(セックス)で人々を撹乱し欺こうとする政策の一環がロックだったのかもしれない。
しかし、それでも覚醒しようとする連中は必ず存在する。
それは、実際あらゆるジャンルに存在するはずなのだ。
横や斜めにもっと手を結ぶ必要があるんだよ。それには目と耳を澄ますんだ☆

メタリカを聴け!
操り人形の主人に向かって、俺たちは吠えなくてはならぬ。

Metallica - Master Of Puppets

2010年12月12日日曜日

星めぐりの歌

おおぐま座:星座写真ギャラリー
今さっき、頼まれていた原稿を一気に書き上げ、ほっとしたところです。

岩手大学で教鞭をとる友人の佐藤竜一君の主宰する「宮沢賢治・通信」に一文寄せることになりました。

『星めぐりの歌』
作詞作曲・宮沢賢治 

あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の  つばさ
あをいめだめの 小いぬ
ひかりのへびの とぐろ
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす

アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち
大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ
小熊のひたいの うへは
そらのめぐりの めあて

イーハトーブがエスペラント語で「岩手」を意味すると知ったのは、岩手を離れ東京に出てきてからでした。
賢治の精神を辿ることもなく僕の青春は過ぎ去っていきました。
しかし、心ある友人のお陰で、僕はいつも生き直すことができている。今日も小さな原稿を書きながら、もう一度僕の原点に立ち返っていたような気がします。その意味で、友人達や家族や周りの人々に感謝、ひたすら感謝です。

賢治という人は、いろいろな苦労もしたけれど、感謝した人でしたね。
昔、物理学者のアインシュタインは「人は地上に立ち寄った旅人」だと言いました。すなわち、人生とはほんのわずかこの地上に立ち寄った期間に過ぎないということ。だからこそ、人生は愛しいものだと言いたかったに違いありません。そこにも、この地上に存在し得たことに対する感謝がありました。

まず、ありがとう!から始めれば、僕らの人生は突如輝き出すんじゃないかな。
人生の意外なほどの短さに気がつけば、今日一日はかけがえのない時間でした。そして、明日もあるとすれば、それは人生のたった一日。
この地上にあることを喜び感謝したいものです。

星めぐりの歌は、はかない人生と宇宙の永遠をひとつの歌の中に解け合わせた名作だと僕は思うな。

『星めぐりの歌』宮沢賢治

夜の駅

仕事帰りの夜のホーム☆

これから帰宅したら、更に原稿書き!まだまだ燃えるぜ!!

演劇の神様は確実にいるよな。います。
がっちりタッグ組んで行くぜよ!
まずは帰り着かねば!
これじゃツイッターだね。

ごめん。

☆上野火山☆

早朝の駅

誰もいないホームに朝陽が満ちていました。

無性に写真が撮りたくなって一枚。

朝の空気感てなんかいいんだよな。

六本木にも西麻布にも行きませんが、楽しく過ごす今日この頃、テレビや新聞の話題は遠く感じます☆

僕らのリアリティはそんなところにはありません。

このかけがえのない穏やかな日常が蹂躙され嘲笑われ、世界平和の名の下に崩されつつあるのです。

カナダではホロコーストの研究者が人種差別主義者の烙印を押され終身刑になりました。
静かにこの世界は以前とは別のものに変質しつつあるのです。静かに狂い初めている。思考し想像することをやめ、目先の快楽と利益ばかりが気になっている。人は単なる消費者であることを義務づけられている。

人気のない駅のホームに立って、見た目とは違う世界に思いをはせました。

ここから世界が。


☆上野火山☆

2010年12月11日土曜日

土曜の夜と日曜の朝

 子供の頃、土曜の夜は友達の家に泊まりに行ったり、なにか行事あったものでした。
泊まりに行くと、土曜の夜は「宇宙家族ロビンソン」なんかをテレビで観ながらワイワイやってたな。
とにかく土曜の夜は、大した意味もなく楽しい晩だったような気がします。
子供の頃はテレビっ子だったので、思い出すのは「プロスパイ」あるいは「スパイのライセンス」のアレックス・マンディー。「謎の円盤UFO」もあったな。それからドリフ。テレビばっかりだけど、特に海外ドラマが印象に残ってますね。

土曜は日曜日の前の最高に盛り上がった晩だった。

日曜はゆっくりと目覚め、午前中に友達と遊んで、午後はなんかゴロゴロしていたような気がします。
日曜の午後は、もう休みが終わる感じがして少し寂しかったんだろうな。
日曜の夜は、いつ頃かによるけれど、やっぱり海外ドラマだったんです。「FBI」のエフレイム・ジンバレストJr.、そして「サンセット77」…。

いつ頃からか、土曜と日曜の差もあまり感じなくなりました。
僕がいい大人になったからかもしれませんが、それだけでもないかもしれない。たかが海外ドラマでも心の中に深く刻みつけられるような僕の精神の歴史になったのは確か。いずれそんな海外連続ドラマに関しても何か書きましょうね。本当にわくわくしていた二日間だったな。
もちろんテレビばかりではなく、病気の弟は小学校時代はずっと家族から離れて療養所にいたけれど、それでも自転車でみんなで療養所に行ったり、家族がいつも一緒だったような気がするな。夏も冬もね。ばらばらのようで一緒だったよ。

土曜の夜と日曜の朝は、きっと家族の時間だったんだと思う。
そんな家族の時間を、今の僕は過ごしているだろうか。
忘れられない日々を過ごすことができたら、それこそ人生の奇跡だよね。

P.S.
明日12月12日(日曜)
13:35~14:45
NHKアーカイブス『長岡輝子さん』

文化学院の教員時代大変お世話になりました長岡輝子先生。今年、亡くなられましたが、頂いた言葉は忘れることはできません。
その長岡先生の番組が明日放送されます。もしお時間がありましたら、是非ご覧下さい。
知らせてくれた愛ちゃん!ありがとね☆

2010年12月10日金曜日

雲ひとつない空

今日は本当に気持ちの良い陽射しが溢れてましたね☆



ここのところ、ちょこちょこブログの背景が変わったりしてすみません。少しでも読みやすくかついい感じにならんもんかなと、いろいろ試行錯誤しておりました。ちょっと見やすくなったかな。
少しずつ改良していきましょう。

先ほどまでいろいろいじりまわして工事しておりましたので、びっくりした人、ほんとにごめんなさい。
もう落ち着きましたので、大丈夫です☆

2010年12月9日木曜日

昨日という日

昨日は日本の真珠湾攻撃の日であり、ジョン・レノンが射殺された日でもあります。

真珠湾攻撃という愚はどこからもたらされたのかは、現代に生きる僕らが真剣に考えなくてはならない重要なことです。
なぜなら、あの日の攻撃以来、日本という国は「Axis of evil (悪の枢軸)」の一派とされ、永遠に許されることのない立場に置かれました。
まさかと思う人もいないでしょうが、日本は危険な国という烙印を押されたからこそ、国際連合のミソッカスであり続けることをよぎなくされている。
海軍のトップであった山本五十六はアメリカと太いパイプを持っていましたが、米国との開戦を止めた様子はどこにもないのです。
疑り深い僕は彼はルーズベルトの意志もアメリカの意志も知っているからこそ、開戦へと向かったのでないかなと思ってしまいます。
いずれにせよ、真珠湾攻撃というのはこれまで常識的に語られてきたものとは、実態は異なるようです。
公文書を地道に読み解くことで得たことをまとめたロバート・スティネット氏の「真珠湾の真実」はいわゆるトンデモ本などではなく、とても重要な戦争資料だと思います。この本をきっかけに様々な読むべき書物が見つかると思いますよ。
この日本という国が戦争を始めたというよりは、戦争に引き込まれた日、それが12月8日なのかもしれません。

それから四十年近く経って、ジョン・レノンが同じ日に射殺されました。
彼の死も不可解です。
射殺犯マーク・チャップマンの催眠犯行説などが浮上し、未だにはっきりした動機も分からないのです。ただひとつはっきりしていることは、ジョンが反戦的であったこと、もしくは厭世的であったことがきっかけではないかともいわれています。
少なくとも、彼の死後、2001年以降「イマジン」という曲はアメリカでは放送禁止になったことは以前にもこのブログで書きました。そして現在も放送禁止は解かれていないようです。

12月8日、不思議な日です。
不可解な出来事が起きている日。
僕は常識的に流布している説明をそのまま鵜呑みにするつもりはありません。
なにしろ僕はドラマティストの端くれです。斜めに斜めに見てるんだぞ。だまされねぇーんだぞ☆

そんな斜めな僕が心から好きな曲。
それが「Stand By Me」です。
特に、ジョンのヴァージョンが一番いいんだな。
これを聴きながら、冥福を祈るよ。

Stand By Me / John Lennon

Tips☆

先日、なんで今時Bloggerなんかでブログ書いてんの?という質問を受けました。

まあ、だいぶ前からここなのでこのままってことなのですが、実は訳があるんです。
それは、僕の使っているブログを記述するソフトウェアの特性によるんですね。

僕の環境はMacなのですが、Macには昔からある定番ソフトに「MacJournal」というのがあります。
これはノートブックソフトではあるんですが、原稿を書いたらそのままダイレクトにBloggerサイトにブログをアップできるんです。
大勢の方が使っていらっしゃると思いますので、当たり前といえば当たり前なんですが、僕の欠かせない機能なんですよ。
もし同様の環境で未使用の方がいれば、是非ともチェック!!

昔は、ブログ用の専用ソフトなんかいろいろあったのですが、今も残っていて実用的なのはこのMacJournalくらいではないでしょうか?
スムーズに記事をアップさせながら、同時に手元に元の原稿が残り、更にいいのは、アップした原稿を再ダウンロードしバックアップできる所なんです。ブログサイトであるBlogger上で編集し直したとしても、同タイトルの別原稿としてダウンロードし更新記事をバックアップできるんだな。これは素晴らしい環境で、オフラインで書いたものをストレスなくボタンひとつでアップできる。ホントにボタン一個なんだ。

もし、Macを使っていて、Bloggerにブログを設置しようとする人がいるとすれば、僕は是非とも「MacJournal」をお勧めしたいと思います。BlogWriterとして最高のソフトウェアですよ。
それから、BloggerはGoogleに吸収されたので、Googleともシームレスな環境になってるんですね。

前々から、個人のブログも何故アメブロでやらないのか訊かれていたので、今日はちょっとお答えしたいと思いました。
アメブロも便利なんですが、Bloggerを使うのは実はこういう理由でした。
使いようによっては、地味ですけど、このBloggerの環境もいいものです。
興味のある人にはお勧めです。

MacJournalのホームページはここ☆

2010年12月8日水曜日

いかがわしさについて

このところ歌舞伎界のプリンスに関する報道が連日テレビ及び新聞を賑わせています。
様々な報道が飛び交い、これまでさんざん持ち上げてきた人間に対し、手のひらを返したような中傷のオンパレード。
あまりにあからさまなので呆れてテレビをつける気にもなりません。
ふと朝青龍の事件を思い出します。同じことの繰り返し。

でも、本当に気になるのはそんなことではありません。
このような実際大して社会的意味合いのない酔っぱらいの喧嘩ごとき事件の報道により、報道されない他の重要案件はないのだろうか?という疑問が湧いてきます。
例えば、小さい報道に過ぎませんが、ウィキリークスの創設者アサンジ氏が英国で逮捕され、無実を主張していることなどテレビではほとんど言及されることはありません。仮にあってもほんのわずかでしょう。
ウィキリークスという組織自体も実際のところ正体不明、出資者も誰か分からず、実に謎の多い組織です。国家安全保障上の危機を高めるという名の下に、創設者の暗殺指令まで出ているというのは、まんざら冗談でもないと思われます。
ですが、本当のウィキリークスのいかがわしさは、機密情報の漏洩自体にあるのではなくその目的だと思います。国家体制というものの徹底的な破壊が目的だとすれば、彼らの動きはOne Worldを標榜し「新世界秩序」を推進する連中のまさにうってつけの武器のひとつであり、手先そのものの可能性もあるのです。少なくとも、今現在のウィキリークスの動きに対して、僕は肯定的ではありますが、その組織の本質はまだ不明のままだということは、忘れてはならないと思います。

そんな中で、日本のマスコミはまったく上に書いたようなことすら報道しなくなり、現政権の批判と芸能界のスキャンダルの追っかけだけに終始しているというのは、まさに「いかがわしさ」そのものではないですか。
なぜ都内だけでも人身事故が一日に何度も起こっているのか?なぜタイトルを変えながら「人権擁護法案」が何度も浮上してくるのか?なぜ韓国でも否決された「外国人参政権」がこの国では決まりかけているのか?本当に子供達の教育をこの国は戦後六十数年の間考えたことがあったのか?戦後史に関して僕らはどれほどのことを学校で教わったのか?なぜ若者達の能力を高める環境も奪いながら仕事も奪うのか?なぜモノを産み出すことのない金融が一人勝ちなのか?なぜ公立学校の教師達がアイデアを出して何かをやろうとすると教育委員会や地方自治体が出てきてことごとく潰すのか?いつからNHKは公共放送なのに特定の商品の宣伝をニュース番組で流すようになったのか?なぜキー局は番組を自ら製作することなく中小の製作会社に任せながら、制作費はピンハネするのか、この国に蔓延する差別の実態とは本当は何なのか?あれほど騒いだ年金の話はいったいどこに行ったんだ?etc...........。

マスメディアは何も報道してはおりません。
その姿こそ「いかがわしさ」そのものです。

人間という存在そのものが、そもそもいかがわしいものかもしれません。絶対的真実などという固定化されたドグマはそれ自体権力ですから、人間のいかがわしさとは本来ドグマになり得ないという柔軟性の謂いなのだと僕は思います。いかがわしさには、いかがわしさでもって対抗する。それこそ個人が「否」を突きつける重要な姿勢でしょう。

ありとあらゆるモノのいかがわしさの中で、抜き差しならぬ状況に陥って、人はひょっとしたら初めて素直に正直に自己を吐露することができるのかもしれませんね。報道が腐りきってしまった今、芸術の本質が試されているのではないでしょうか。つまり、本物の想像力が試されているのだと思います。

2010年12月6日月曜日

グルーミーキャッツ☆

グルーミーキャッツ/LIVE
祝『ミュージック・バース』出演☆

以前当ブログでもご紹介したロックバンド「グルーミーキャッツ」が昨夜TBS放送に出演しましたよ。
これからGoldEggを目指して出演していくはずです!
がんばれよ☆勝ち抜くんだッ!

若い彼らの音楽は、しっかりとした先人の音楽に対するリスペクトから生まれています。
徒にオリジナルを標榜し蛸壺に入り込むのではなく、外に開かれていく音楽がそこにあるんだな。
一部の特定のファンだけにメッセージを送る狭さや、売れりゃいいという空虚さもない。
あるのは音楽が好き!という一点から始まっている初心を持ち続けているという事実だよ。
だからこそ、実はとてもオリジナリティー溢れるバンドになってると思うな。
アクの強さではなく、彼らの持ち味は「爽やかさ」。ちょっとないよ、この感じの良さは。
あのね、ロックってね、ぜんぶ感じワリぃーと思ってる人いたら、それ間違ってますから。
感じワリぃーくてすっごいバンドもあればさ、感じいいバンドもあるわけです。
グルーミーキャッツはめちゃ感じいいんだよ。

僕は音楽が好きだし、ロックが好き、音楽なしでは生きられない男です。
はっきり言うけど、いいよ、このバンド☆

また年を越えたあたりで時間を見つけてライブに行こうと思います。必ず行くからね!待っててな!!

彼らのサイト紹介するね。

Gloomy Cats:My Space
ここでは彼らの曲も一部聴けるんだよ☆

2010年12月3日金曜日

Secret Society Speech ☆

Wikileaks 経由でもたらされた動画です。都市伝説ではありません。

重要だと僕は思うよ。
まずは観て欲しい。

※全文はコチラ!
President John F Kennedy Secret Society Speech version 2


Speech(収録されている部分のみ)
I
The very word "secrecy" is repugnant in a free and open society; and we are as a people inherently and historically opposed to secret societies, to secret oaths and to secret proceedings. We decided long ago that the dangers of excessive and unwarranted concealment of pertinent facts far outweighed the dangers which are cited to justify it. Even today, there is little value in opposing the threat of a closed society by imitating its arbitrary restrictions. Even today, there is little value in insuring the survival of our nation if our traditions do not survive with it. And there is very grave danger that an announced need for increased security will be seized upon by those anxious to expand its meaning to the very limits of official censorship and concealment. That I do not intend to permit to the extent that it is in my control. And no official of my Administration, whether his rank is high or low, civilian or military, should interpret my words here tonight as an excuse to censor the news, to stifle dissent, to cover up our mistakes or to withhold from the press and the public the facts they deserve to know.

But I do ask every publisher, every editor, and every newsman in the nation to reexamine his own standards, and to recognize the nature of our country's peril. In time of war, the government and the press have customarily joined in an effort based largely on self-discipline, to prevent unauthorized disclosures to the enemy. In time of "clear and present danger," the courts have held that even the privileged rights of the First Amendment must yield to the public's need for national security.

Today no war has been declared--and however fierce the struggle may be, it may never be declared in the traditional fashion. Our way of life is under attack. Those who make themselves our enemy are advancing around the globe. The survival of our friends is in danger. And yet no war has been declared, no borders have been crossed by marching troops, no missiles have been fired.

If the press is awaiting a declaration of war before it imposes the self-discipline of combat conditions, then I can only say that no war ever posed a greater threat to our security. If you are awaiting a finding of "clear and present danger," then I can only say that the danger has never been more clear and its presence has never been more imminent.

It requires a change in outlook, a change in tactics, a change in missions--by the government, by the people, by every businessman or labor leader, and by every newspaper. For we are opposed around the world by a monolithic and ruthless conspiracy that relies primarily on covert means for expanding its sphere of influence--on infiltration instead of invasion, on subversion instead of elections, on intimidation instead of free choice, on guerrillas by night instead of armies by day. It is a system which has conscripted vast human and material resources into the building of a tightly knit, highly efficient machine that combines military, diplomatic, intelligence, economic, scientific and political operations.

Its preparations are concealed, not published. Its mistakes are buried, not headlined. Its dissenters are silenced, not praised. No expenditure is questioned, no rumor is printed, no secret is revealed. It conducts the Cold War, in short, with a war-time discipline no democracy would ever hope or wish to match.Nevertheless, every democracy recognizes the necessary restraints of national security--and the question remains whether those restraints need to be more strictly observed if we are to oppose this kind of attack as well as outright invasion.

For the facts of the matter are that this nation's foes have openly boasted of acquiring through our newspapers information they would otherwise hire agents to acquire through theft, bribery or espionage; that details of this nation's covert preparations to counter the enemy's covert operations have been available to every newspaper reader, friend and foe alike; that the size, the strength, the location and the nature of our forces and weapons, and our plans and strategy for their use, have all been pinpointed in the press and other news media to a degree sufficient to satisfy any foreign power; and that, in at least in one case, the publication of details concerning a secret mechanism whereby satellites were followed required its alteration at the expense of considerable time and money.

The newspapers which printed these stories were loyal, patriotic, responsible and well-meaning. Had we been engaged in open warfare, they undoubtedly would not have published such items. But in the absence of open warfare, they recognized only the tests of journalism and not the tests of national security. And my question tonight is whether additional tests should not now be adopted.

The question is for you alone to answer. No public official should answer it for you. No governmental plan should impose its restraints against your will. But I would be failing in my duty to the nation, in considering all of the responsibilities that we now bear and all of the means at hand to meet those responsibilities, if I did not commend this problem to your attention, and urge its thoughtful consideration.

On many earlier occasions, I have said--and your newspapers have constantly said--that these are times that appeal to every citizen's sense of sacrifice and self-discipline. They call out to every citizen to weigh his rights and comforts against his obligations to the common good. I cannot now believe that those citizens who serve in the newspaper business consider themselves exempt from that appeal.

I have no intention of establishing a new Office of War Information to govern the flow of news. I am not suggesting any new forms of censorship or any new types of security classifications. I have no easy answer to the dilemma that I have posed, and would not seek to impose it if I had one. But I am asking the members of the newspaper profession and the industry in this country to reexamine their own responsibilities, to consider the degree and the nature of the present danger, and to heed the duty of self-restraint which that danger imposes upon us all.

Every newspaper now asks itself, with respect to every story: "Is it news?" All I suggest is that you add the question: "Is it in the interest of the national security?" And I hope that every group in America--unions and businessmen and public officials at every level-- will ask the same question of their endeavors, and subject their actions to the same exacting tests.

And should the press of America consider and recommend the voluntary assumption of specific new steps or machinery, I can assure you that we will cooperate whole-heartedly with those recommendations.

Perhaps there will be no recommendations. Perhaps there is no answer to the dilemma faced by a free and open society in a cold and secret war. In times of peace, any discussion of this subject, and any action that results, are both painful and without precedent. But this is a time of peace and peril which knows no precedent in history.

II

It is the unprecedented nature of this challenge that also gives rise to your second obligation--an obligation which I share. And that is our obligation to inform and alert the American people--to make certain that they possess all the facts that they need, and understand them as well--the perils, the prospects, the purposes of our program and the choices that we face.

No President should fear public scrutiny of his program. For from that scrutiny comes understanding; and from that understanding comes support or opposition. And both are necessary. I am not asking your newspapers to support the Administration, but I am asking your help in the tremendous task of informing and alerting the American people. For I have complete confidence in the response and dedication of our citizens whenever they are fully informed.

I not only could not stifle controversy among your readers--I welcome it. This Administration intends to be candid about its errors; for as a wise man once said: "An error does not become a mistake until you refuse to correct it." We intend to accept full responsibility for our errors; and we expect you to point them out when we miss them.

Without debate, without criticism, no Administration and no country can succeed--and no republic can survive. That is why the Athenian lawmaker Solon decreed it a crime for any citizen to shrink from controversy. And that is why our press was protected by the First Amendment-- the only business in America specifically protected by the Constitution- -not primarily to amuse and entertain, not to emphasize the trivial and the sentimental, not to simply "give the public what it wants"--but to inform, to arouse, to reflect, to state our dangers and our opportunities, to indicate our crises and our choices, to lead, mold, educate and sometimes even anger public opinion.

This means greater coverage and analysis of international news--for it is no longer far away and foreign but close at hand and local. It means greater attention to improved understanding of the news as well as improved transmission. And it means, finally, that government at all levels, must meet its obligation to provide you with the fullest possible information outside the narrowest limits of national security--and we intend to do it.

III

It was early in the Seventeenth Century that Francis Bacon remarked on three recent inventions already transforming the world: the compass, gunpowder and the printing press. Now the links between the nations first forged by the compass have made us all citizens of the world, the hopes and threats of one becoming the hopes and threats of us all. In that one world's efforts to live together, the evolution of gunpowder to its ultimate limit has warned mankind of the terrible consequences of failure.

And so it is to the printing press--to the recorder of man's deeds, the keeper of his conscience, the courier of his news--that we look for strength and assistance, confident that with your help man will be what he was born to be: free and independent.

大雨のあとに

こんなに晴れてしまったよ☆

逆光の光もいいもんでしょ!!

ビルの谷間の向こう側

青い空が広がって

白い雲がぽっかりと

浮かんで流れて 消えていく

この一瞬は この一瞬だけ

二度と戻らない 僕たちの生きた時間

忘れないよって思いながら 味わいたいもんですなぁ。。。

大雨の後に

空は

光で溢れていた。

☆上野火山☆

2010年12月2日木曜日

人生はメリーゴーランド

時々ふと思うのですが、確かに人生は回るメリーゴーランドに似ていますね。

回りながら徐々に年を経ていく。
どこに行き着くか見当もつかないけれど、回り続けていることだけは確かだ。

回りながら僕たちは夢を見る。
未来をふとのぞき見て、過去を振り返る。
それでも、メリーゴーランドは回り続けるんだ。

周囲の音が消える瞬間がある。
自分が乗っている馬のことも忘れ、何もかもがどうでも良くなってしまう瞬間。
だが、それも束の間、すぐにまたあの喧噪がやってくる。

外で手を振る人たちに、手を振って返していた時期もあれば、やがて照れくさくてやめてしまうかもしれない。
そして、しばらくすると、誰でもいいから手を振りたくなってくる。
誰とはなしに手を振ると、一人、手を振り返してくれる人がいる。
何度か回っているうちに、その人と目が合うことに気がつく。
そうして、僕たちは大勢の中から、たった一人と出会うんじゃないかな。

そんな出会いもやがて手を挙げるのが辛くなり、少しづつ減ってくるだろう。
なのに、目に入る一人一人が愛おしくなってくる。
もうすぐ、このメリーゴーランドは回ることをやめるが、徐々に速度を落とす馬の背から、この世界の目に見える全てのものが愛おしくてたまらなくなってくる。

静かにメリーゴーランドが止まるとき、僕らは見たもの聞いたものを胸に、馬から下りることを決意する。

人生はメリーゴーランド。
どんな乗り方をしても、僕たちのメリーゴーランドは一回限りなんだよ。

僕はそんなメリーゴーランドを見つめていきたい。

2010年12月1日水曜日

謳わず 踊らず

昭和残侠伝 1965
さて、ひとつ前のブログの続編です。昨日、テレビでね、亡くなった俳優の池部良さんを特集していました。

高倉健さんが池部さんを「謳えない踊れないではなく、謳わない踊らない意志」を感じたと表したそうです。
俳優はともすれば、謳いたくなるものです。美しい台詞に酔うものです。
これは演出家や脚本家も同じ。
謳って欲しい、踊って欲しいと望むのは容易いが、表面の満足で終わるかもしれないという危険を絶えず感じていたいものです。

池部さんは決して器用な俳優ではなかったのでしょう。
しかし、言葉やたたずまいを「無為自然」にしようとする意志があったのだと思います。
それは、彼自身が自身のエッセーにも書いたとおり、帝国陸軍の青年将校として必死に戦争を戦ったというリアリティーがそうさせたのではないでしょうか。
「無為自然」とは「本気」という意味ではないかと思われます。
俳優池部良という人物から、端正な二枚目というイメージより、世界を俺はこう見るという意志の方を強く感じてしまうのも、彼自身の中の無意識の無為自然の存在故ではないかと思います。

たとえ演劇作品がミュージカルであれ、俳優の内的な部分では「謳わない、踊らない」は大切な姿勢だと僕は思う。
それはナルシスティックに己に酔うことを禁ずるからです。

人生は、ボードレールがかつて書いたように酔い続けなければならない。けれども、同時に自己陶酔を禁ずる厳しさも必要のだと思うのです。

僕の好きな映画「昭和残侠伝」は男の美学などと呼ばれていますが、実は「無為自然の美学」だったのではないでしょうか。
池部さんも高倉さんも、その木訥とした台詞回しは、決して謳うことはありません。こみ上げてくるものを全身から吐き出しているんだな。
だから名作なんです。

謳わず 踊らず、それは「無為自然」のもう一つの謂いでしょう。

『昭和残侠伝』予告編

無為自然



創作するとは、現実を再構成し場合によっては歪め捻り継ぎ接ぎすることかもしれない。
でも、それは現実をこれまでなかった別の視点で見るための冒険であり苦闘なのだと思う。

今話題の水木しげるさんの仕事部屋には「無為自然」という言葉が貼られているそうだ。

何かを取り立てて為すわけではなく、そこにあるがままに生きよ、というのがその言葉の意味だろうけれど、この言葉を身近に置かなければならないほど、創作とはあるがままではすまない行為もしくは営為なのだとおもう。

手を加え、直し、弄り倒すが故の「無為自然」なのだ。
道教の老子は「無為自然」といいながら、数多くの作為的な言葉を残している。

創作は作為の果ての無為自然なのだろうな。
あるいは、無為自然の姿勢で作為に没頭すると言った方がいいかな。
ビートルズの「Let it be」は音楽の無為自然。

いずれにせよ、無為自然であるというのはあらゆる目標へ向かう際の基本的姿勢なのだと思う。

☆上野火山☆