2007年9月26日水曜日

What the Night is for について


十一月の芝居について書いておこうと思います。

この芝居は不倫の男女を描いた物語です。
ああ、またかよ!と感じる人もいると思う。
それほど、不倫のお話というのは、ありきたりで手垢がべったりついた感じがします。
でも、と僕は言いたい。
このありきたりの中に、独自の世界観を見ることができたら、それは素敵なことなんじゃないかな、と。
僕らの生活は実際ありきたりです。口を開けば、学校でも社会でも、個性個性と繰り返される時代ですが、ありきたりであること、普通であること、平凡であることを、今はじっくり見据える必要があるんじゃないだろうか。そう思います。
これまで、非凡であることに憧れ、僕らはどれだけのことを失ってきたのでしょう。
自分の凡庸さに呆れ、自分の凡庸さを呪い、自分の凡庸さを認めたくないために、人は努力し、僻み、妬み、恨むのではないですか。
努力は大切ですが、それが凡庸さの隠蔽のためであるなら、恐らく虚しさだけが、やがてやってくるのだろうと思うのです。

人は誰もがあまりにも人間的で、あまりにも凡庸なので、言葉を失ってしまう。
だけど、もし、己の普通さ加減を受け入れることができれば、それこそが結果的にどうしょうもなく他とは違ったその人自身の人生を生きることになるのだと思います。

物語は、愛情を勘違いし、それ故かけがえのない愛情を失った男女が、普通の平凡な感情を取り戻すまで、精神の細部を抉り出すように描いていきます。
もしも、この物語の中でまったく覚えのないことが語られているとしたら、それはひょっとしたら、日々の暮らしの中で、すでに何かを失ってしまっているのかもしれません。
ひとつの演劇作品を構築していく中で、僕はたえず僕自身の人生を振り返らざるをえなかった。失ってしまったもの、或いは失いつつあるものを自覚せざるをえなかった。

これまでご覧頂いた、そして今後ご覧頂くことになる数々の僕自身の芝居も、どれほど遠い物語に思えても、実際は東京の郊外に家族と暮らす僕自身の不甲斐なくも情けないありふれたごく平凡な暮らしから生まれたものだということは確かです。

ごく普通という状況を、慈しみ味わいたいものです。
人生で学ぶべきことは、すべてそこにあるのですから。


2007年9月21日金曜日

幸福


"How simple and frugal a thing is happiness; a glass of wine, a roast chestnut, a wretched little brazier, the sound of the sea.....All that is required to feel that here and now is happiness is a simple, frugal heart."
                                By Nikos Kazantzakis "Zorba the Greek"

ゾルバはギリシャ人の漁師であった。ゾルバには学はなく、金もなく、地位もなく、ただ激しく静かに燃える生きる力だけがあった。作家カザンツァキスがゾルバから授かったのは、姑息な知識なんかではなく、熱い血のたぎる、魂の目覚めた言葉、知恵そのものだった。いつか何処かで読んで欲しい!「その男ゾルバ」これは間違いなく今世紀の傑作のひとつである。

「幸せってやつは案外素朴で質素なもんだ。一杯のワインや煎った栗、つまらないちっぽけな真鍮細工、それから、海の音・・・今ここで幸せを感じるのに必要なのは、単純で、物を欲しがらない心。それだけさ。」
                                ニコス・カザンツァキス「その男ゾルバ」

ゾルバには特に何もなかったが、幸福な男だった。それは、小さな幸福の瞬間を数多く持ち合わせることが出来たからだ。人は何かを得ると、もっともっとと求めるものだが、その欲求には際限がない。人は金や地位や名誉を求めることで、実際は「安楽」をもとめているのではあるまいか。だが、安楽は幸福と同義語ではないのである。不思議なことだが、安楽を求め始めると、果てしなく現在が不安になってくる。人が不安なしに生きるということは、元来あり得ないはなしだが、少なくとも幸福でありたいと願うなら、一刻も早く安楽の追求から抜け出るべきなのではないだろうか。
ゾルバはこんな事も言っている。

"Life is trouble," Zorba continued."Death, no. To live - do you know what that means? To undo your belt and look for trouble!"

「生きるってのは難しいやね」とゾルバは続けた。「死ぬからかって?いいや、そうじゃない。あんた、生きるって事がどういうことか判ってるんかね?生きるってのは、腰のベルトを締め直し、困難を探しに行くことだ!」

人が自分の人生を生きるということは、小さな幸せに心をふるわせる事の出来る繊細さと、困難だらけの日々に船出する勇気を持つことなのだ、と僕は思っている。ふと、眼を開けば、すぐそこに喜びと幸福が転がっているのである。そして、勿論その隣には困難が待ちかまえている。
これが僕らの人生だ!
だから、人生は最高に楽しいんだぜ!

2007年9月19日水曜日

虫の声、夜


夏の残り香がいつまで続くのかと思っていたら、
夜、虫たちが鳴き始めていることに気づいた。
季節は、不意に変わるのである。
そして、一旦変わってしまえば、前の季節を思い出すことが難しい。
思い出せない季節を思うとき、人は今この瞬間しか生きることができないのだと強く感じる。

虫の声はどれほど大きくても雑音ではないらしい。
蝉の声も、考えてみれば、あれほど喧しく聞こえていても、決して思考が中断されるということはなかった。
波の音がうるさくて、海辺で眠ることができない人がいると聞くが、幹線道路の車の騒音の方が子守唄になるのだろうか。
どうも本来は人間の作り出す人工の騒音と自然環境の作り出す騒音は、違う性質のものらしい。
自然環境は人間精神の邪魔をしない。
人工物は、人間精神を疲弊させる。
だからといって、人工物から遠く離れて暮らすことなどできるはずもない。

記憶が尊いと思えるのはそんな瞬間だ。

遠いあの日、田舎の家で夜眠っていると、虫や蛙の声がたえず周囲を覆っていたのだ。
その記憶が、雑踏を歩くときも、挫けることのない僕を産み出してくれていたのだと、つくづく思う。
それは懐かしいというのでもない。
それは美しいというのでもない。

それは世界なのだと感じさせてくれているのだ。
この球体の世界を。
僕の生きる世界を。

2007年9月17日月曜日

電車の中のエラい人々


勝ち組なんていう下卑た表現が一般的になって数年たつが、至る所に勝ち組はいるな。
電車の中で、出口に居座る奴。
電車の中で、出るとき突き飛ばす奴。
電車の中で、足を広げて座る奴、あるいは足を伸ばす奴、または足を組む奴。
電車の中で、荷物を脇へ置いてどけないやつ奴。
電車の中で、つめない奴。
電車の中で、人に寄りかかって眠る奴。
電車の中で、優先席に寝てる奴。
電車の中で、混んでるのにつり革二つ掴んで仁王立ちしてる奴。
電車の中で・・・・・・・・。
この人たちは、少なくとも電車の中で勝ち組である。
みなさん、エラすぎます。

今時の若い奴という言い方を耳にすることがある。
しかし、今時というのは何も若い人間に限ったことではないのではないだろうか。
今時とは、同時代を共有するすべての人間に当てはまるのであり、年齢は言うに及ばず、性差も、国籍も関係ないのだ。
この時代を共有するあらゆる人間の箍(たが)が緩んでいるのであって、電車の中にも勝ち組はゾロゾロいると思うぞ。とにかくエラい人々が。
なにゆえそんなにエラいのだ?

うまいことやって金儲けした奴だけが勝ち組なのではない。
普通の、平凡な暮らしの中で、人でなしの態度を平気でとれること。
それが、まさに勝ち組の態度なのだと思うよ。
老いも若きも、勝ち組になりたいんだろうな、どこかで。

俺は、その点では、完全に脱力系である。
俺はとても勝てない。

『亀は意外に速く泳ぐ』という脱力系の映画がある。
勝てない連中の脱力した姿が、ホノボノと描かれている。
どいつもこいつも全篇脱力しっぱなし。その中で、潜伏したスパイであるがゆえに、腕の良いラーメン屋なのに、15年間「そこそこのラーメン」を作り続けてきた男というエピソードがある。目立ってはいけないスパイの宿命である。
本来なら、きっと目立つこともあっただろうに、それを諦め、ぎりぎりのところで「そこそこラーメン」を作る、というところにそのキャラクターのプライドを感じるのである。
微妙だな。

プライドは超個人的なものだよ。
プライドがあるから、勝ち組などという所から、一抜けたするのだと思う。
肩肘張って、勝とうとすればするほど、実はプライドから遠のくのである。実はエラくはない。

俺の思う真のプライドは、流れに逆らわず、かといって情に流されず、それでいて我を通すことから一歩退くことかな。
まぁ、電車の中では譲り合いってことではないでしょうか。
ちがうか?


2007年9月16日日曜日

ケーニヒスベルクの男


ケーニヒスベルク。現在のカリーニングラードというかつてはプロイセンの支配下にあり、第2次大戦後はロシアの支配下に置かれた街。七百年もの間、ドイツ人を中心にした街だったので、今でも北東プロイセンと呼ばれることもある。

この街にかつて、生涯一度たりともこの土地から離れたことのない男がいた。
毎日、規則正しく、同じ時刻に家を出、同じ時刻に戻ってくる。そのあまりの正確さに、男の歩く姿で時間が分かったほどだ。雨の日も風の日も、毎日同じ時刻に家を出て、大学で講義し、同じ時刻に帰ってくる。
その男の名はイマニュエル・カントといった。

狭い、本当に狭い生活空間と体験の中で、人類に価値の転換を迫った男の生涯から、想像の力という実体験以外のもうひとつの力の存在を感じ取ることができる。

常識の中で暮らし、平凡な日常を過ごし、規則正しく生き、それを通し、だからこそ頑なな時代の認識、或いは価値観に「否」を突きつけることができたのだ。純粋理性というキリスト教的教義の不寛容に、ケーニヒスベルクという町の中で気づき、告発することができた。

時代はメインストリームで変化するのでない。
フロンティア、つまり辺境で変化の兆しが現れるのである。
ケーニヒスベルクのこの地味な男の生涯は、この事実を雄弁に物語り、教えてくれている。



ドゥーアップじいさん

我が家の前の道をよく通る老人がいる。

通称「ドゥーアップじいさん」。妻が名付けた名前である。本名は知らない。
ひょろりとした細身の身体を、ヘッドホンのリズムに合わせ、全身をゆすり歩きながらドゥーアップしている。なんなんだあれは?あのノリはなんだ?
あれはどう見ても、ロックでもジャズでもヒップホップでもない、ドゥーアップなのだ。

太陽の照りつける昼日中、ドゥーアップじいさんは今日もiPodの音楽に合わせ歩いていく。

シュビドゥビ、ドゥビドゥバッ!
ドゥビダバ、ドィビッバッバー!

近くの小学校で、町民運動会が開かれているので、参加するのかもしれない。パン食い競争か?
いや、彼はプロだ!今夜のステージのために身体をほぐしているのかもしれない。
あるいは、CM出演が決まってその振り付けを覚えているのかもしれない。新型iPodだったりして。
おっと、孫と行く今夜のコンサートが待ちきれず、身体が勝手に動き出したのかもしれない。

ドゥーアップじいさんは今日も行く。
窓の外に彼の姿を見ると、つい脳内妄想してしまう自分がいる。

やがて、遠ざかる後ろ姿を見ながら思う。
結局はドゥーアップしているもんが勝つ、と。
シュビドゥビ!


2007年9月15日土曜日

80’sを遠く離れて

八十年代を二十代で過ごしたが、今思えば時代に合わせることができず、僕にとっては苦しい時代だったような気がする。
バブル全盛期。ポストモダン花盛りで、意味が次々と解体されていった。
軽佻浮薄が尊ばれ、如何に無意味に生きるかが問われていた時代。
確かに、先立つ世代から顰蹙を買うことが重んじられた時代だったような気がしてならない。
芝居は常に笑い笑い笑い。如何に笑えるかがすべて。しかし、喜劇というのでもない。
如何に無意味でいられるか、如何に馬鹿馬鹿しい存在でいられるか、如何に吐いた言葉に言質を取られないようにするか、如何に言葉遊びを巧みにやるか。
必死であることや、真剣であることは馬鹿のすること。笑いの種にしかならない。
そんな時代。それが八十年代だった。

先日、親しくしている友人の田中和生さんの評論を読む機会があった。
文学界・十月号に載った彼のエッセーは『ポストモダンを超えて』と題されている。
高橋源一郎に対する反論という体裁で書かれてあったが、僕は若き文芸評論家として、彼の現代に対する矜持を感じた。
言葉が暴力であり嘘をつくというポストモダンの持つ前提は確かに正しい。
しかし、言葉は暴力以外の装置にもなりうる。時には人を慈しむものにもなりうるのである。
ポストモダンの存在意義は、二十年という歳月の中で常識に堕し、頑なな不寛容になり果てているのかもしれない。
その意味で今この時期に、彼がこうした小さいけれども強力な論を展開してくれたことに心から感謝しているのである。なぜなら、時代は今、静かに変わりはじめているからである。

八十年代を通過した者にとって、あの時代から二十数年がたち、今時代が大きくシフトしているのだと感じずにはいられない。
時代は確実にポストーポストモダンに入りつつある。
それは、複雑なものは複雑なままに、そして単純なものは単純に受けとめつつ、それらを味わい自らの糧にすることを良しとする時代だ。それは「完全に何も信じられない」現実から生じる感覚だろう。勿論それはこの世界のある一部での話ではあるのだけれど。だからこそ、徹底的に何もかもが信じられないからこそ、言葉の暴力性と同時に言葉の別の側面も想像し受けとめることのできる時代。

世界は明らかに拝金主義と利害関係の中でグズグズに腐り果てはじめているけれど、同時に個人の内部では、これまでなかったほどの静けさと落ち着きのある時代でもあるかもしれないのである。引き籠もりも、良い意味でこの表れかもしれない。この時代は一見表面的な繁栄に隠されてはいるが、戦時中に劣らぬほど不幸な時代でもある。外国との交戦こそないが、日常ではそこら中で心理戦が行われ、人々は疲弊しきっている。
だが、不幸な時代ほど、人は本質的になれるのも事実だろう。
それはパラドックスかもしれないが、この時代はまぎれもなくそのパラドックスを内包しているのだと思う。
心理戦から降り、愚か者として生きること。本質はそこにある。

だから、僕は諦めない。
知性は複雑なものを単純に、単純なものを複雑にしていく傾向がある。いや寧ろ、その傾向こそが知性と呼ばれるものの正体かもしれない。
だが、この時代の中で、複雑さは複雑そのものとして、単純さは単純そのものとして、まるであたかも八十年代であれば愚か者と呼ばれたであろう存在として、ますます生きていきたいと僕は願う。

80’sは確かにひとつの蜃気楼であった。

2007年9月2日日曜日

タイフーン、そして人生は遊びだ!


今日は夏が戻ってきたかのように外は晴。
蝉もこの数日間静かだったのに、息を吹き返したかのように窓の外で鳴いている。
空は真上に雲がひとつもなく、地平線に雲が突き出ている感じ。

でも、本当は太平洋上を巨大なタイフーンが東京めがけて突き進んでいるのだよ。
そんなことが信じられないくらい今日の天気はまさに帰ってきた夏だ!

前世の脳内イメージとかいうものを、友人に面白いからやってみな、と言われた。
さっそくやってみる。
すごい!僕の脳内はほとんど「遊び」でできている。
やっぱりね。予想はついたけど、ビジュアルにさらされるとグッときますね。
他の要素がほとんどないというのは、圧巻でしたぜ。

本日、仕事をひとつやめました。そして、やるべき仕事がまたひとつ増えました。

明日のことなど何ひとつわかりゃしない。
人生なんてやっぱり遊びだと思うよ。
どれだけ必死に真面目に遊びに取り組めるか。
遊びに対してふざけている連中はほっとこう!
こっちは人生賭けて遊んでんだから。
ホンモノの遊びは大人になってからするもんです。

で、台風はくるのか?
明日のことは、明日悩もう。

2007年8月31日金曜日

天国のような地獄、そして地獄のような天国


久々にブルーハーツのRinda Rindaを聞く。

ロックするとは何なのか?今さらのように思う。
政治も、経済も、制度だ。その人間が作り上げた制度に僕らは手足を縛られている。
それはリアルではなくて、寧ろ一種の形而上のものの筈なのに、まるでそれ無しでは生きられないかのようだ。

たとえば、アメリカ合衆国は軍産複合体という政治経済的構造ゆえに、まるで輸血するように、絶えず新鮮な血を注入するために戦争を止めることができないでいる。日本はそのアメリカに六十年もの間寄りかかってきたために、追随しなくては最早何もできなくなっている。
そして、個人の日常もまた、輸血と追随にあふれかえっている。
自分たちが作りだした形式にがんじがらめになっているのは、この地上の人間の基本的姿だろう。

ロックするとは、やむにやまれぬ緊縛状態からの絶叫だった。
反体制などという薄っぺらいものではない。常識という鎖の自覚。制度という魔術の認識。それを蹴り破りたい衝動。
ドブネズミみたいに美しくありたいという歌詞は、その新しい価値観への衝動に溢れていた。

そうだ。
美しい肉体を守るために輸血と追随を繰り返すことをやめよう!
僕らは一人一人が薄汚れたドブネズミであり、だからこそ輝けることを胸に秘めておこう!
この世界は、天国のような地獄であり、同時に地獄のような天国なのだから。

もうすぐ夏も終わりだぜ!

ご無沙汰しておりました!
また、このブログを再開することになりました。かなり過激に忙しくなりつつあるのですが、できるだけ頻繁に更新するつもりです。よろしく!

早速ですが、11月に銀座博品館にて芝居を上演いたします。
2002年にロンドンで公開された作品の本邦初演です。今回は翻訳脚本で関わっております。
この作品に関しても、今後少しずつ語っていきたいと思います。

タイトルは『ねぇ、夜は誰のためにあるの?』。原題は『What the night is for』です。
不倫の男女を描いた二人芝居ですが、これがなかなか深く味わい深い作品です。単なるメロドラマをはるかに超えた戯曲ではないかと思っています。作者はマイケル・ウェラーという映画『ヘアー』とか『カッコーの巣の上で』等の脚本を書いた方ですので、一筋縄ではいきません。上演時間二時間。その間、わずか二人の登場人物に観衆の目を釘付けにできたら成功かもしれません。更に、ご覧になった方々がそれぞれ自分たちの人生を振り返ることができたなら、そして、その人達の明日が変わったなら、創った人間にとってこの上ない悦びでしょう。

キャストは、元宝塚トップの「絵麻緒ゆうさん」と元東京キッドブラザースの「水谷あつしさん」。お二人とも非常によく戯曲を理解してくれているので、きっと素晴らしい演技が観られると思います。そして演出は「竹邑類さん」。スマートでスタイリッシュな美しい演出をしていただけると今からワクワクしております。プロデュースするショービズプランニングの「臼田典生さん」は、現在日本でも屈指の舞台監督であり、同時に優れたプロデューサーでもあります。彼は僕のクリエイティビティーを絶えず刺激し続けてくれる、僕の演劇における真の友であり盟友と呼びたい人物です。その皆さんにとにかく感謝しつつ、相変わらず自分自身の仕事をこつこつと進めていこうと思います。

今後、更にエンジン全開で、様々な企画と作品に取り組んでいきたいと思っていますので、僕のオリジナル作品もご期待下さいね!


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