2010年8月22日日曜日

昨日、新宿の夕陽

子どもたちは、近所の公園で夏祭りを満喫。


大人たちは、近況などを話しつつゆったりと時を過ごします。

年に何回か催す懐かしい友との、この家族の集まりは子どもたちの成長と共に、なんかとても心ある集まりになってるな、と僕は思います。
それぞれの人生が垣間見え、なんのてらいも、なんの権威もない、そんな会話が可能だということが嬉しい。


ふと、窓の外を見ると、美しい夕陽☆


いろんなことのある日常ですが、美しいものは実に何気なく存在していて、気づいてもらうのを待っているのでしょう。


大久保の駅でさよならをして、吉祥寺の駅でさようなら。
こうして僕らは日常に帰るんだ。


みんな、ありがとう!!


☆上野火山☆

2010年8月21日土曜日

蝉しぐれ

うるさいほどの蝉の声。

今年はそれでも例年に比べて数が少ない気がします。

意外なのは、アブラゼミよりもミンミンゼミの方が多いこと。
耳を済ませば、ミンミンゼミの鳴き声が響きます。

玄関先で鳴いていたミンミンゼミを撮りましたよ☆

もうすぐヒグラシの声がするでしょう。


今夜は、古い友人たちと夏の家族パーティー☆
二十代の頃は考えもしなかったこと。
かつて一緒に舞台で闘った連中が、再びそれぞれの家族を連れて集まるというのは、なかなかのもんです。


蝉しぐれの中、大久保で会おうね☆

☆上野火山☆

2010年8月18日水曜日

中央線よ、空を飛べ!

去年の今頃、フォークの友部正人さんの「一本道」という曲についてこのブログで紹介したことがありました。

『一本道』

作詞:友部正人 作曲:友部正人

ふと後をふり返ると

そこには夕焼けがありました

本当に何年ぶりのこと

そこには夕焼けがありました

あれからどの位たったのか

あれからどの位たったのか

ひとつ足を踏み出すごとに

影は後に伸びていきます

悲しい毒ははるかな海を染め

今日も一日が終ろうとしています

しんせい一箱分の一日を

指でひねってごみ箱の中

僕は今 阿佐ヶ谷の駅に立ち

電車を待っているところ

何もなかった事にしましょうと

今日も日が暮れました

あヽ中央線よ空を飛んで

あの娘の胸に突き刺され

どこへ行くのかこの一本道

西も東もわからない

行けども行けども見知らぬ街で

これが東京というものかしら

たずねてみても誰も答えちゃくれない

だから僕ももう聞かないよ

お銚子のすき間からのぞいてみると

そこには幸せがありました

幸せはホッペタを寄せあって

二人お酒をのんでました

その時月が話しかけます

もうすぐ夜が明けますよ

一年に一度、僕はこの曲を聴きます。

たぶん自分の座標軸を無意識に確認しているのだろうと思います。ともすると見失いがちの初心と若い憧れを、僕はこの曲を聴くことで新たにすることができる。

若さというのは素晴らしい。でも、それは一瞬のようにして過ぎ去っていく。もし若さに胡座をかく者がいるとするなら、愚かなことだと思う。なぜなら、若さとは通過地点であり、人生のほとんどが若さ以外の要素で出来上がっているようだ。

でも、僕は確認したいのだ。

何のためにここに来て、何のために今を生きているのか。

何をしようとして、何をしてきたのか。

どこから来て、どこへ行こうとしているのか。

愚かさから始まり、少しは利口になったのか。

今は僕の望んだ今なのか。

今も時々、阿佐ヶ谷の駅のホームに立つ。

世相も変わり、価値観も変わったかに見えたが、実は一回りして、元の場所に戻ってきたような気がするのだ。

もう僕は若くないけれど、あの頃に戻りたいとも思わない。

白髪頭を撫でながら、中央線よ、空を飛べとつぶやいてみる。

落ち着くには、早すぎる。

悟るには、幼すぎるのだ。

若くはないが、老成するほどでもない。

時々、こうして友部正人の音楽を聴いて、自己を調整し直し、精神のチューニングを合わせてみる。

世界は驚くほど輝いていることに気がつく。

若さに光があるのではない、光に気づくことが、世界を生み出すのだ。

恐れるな、若者よ!

君の若さはいずれ消え失せる。だが、光に気づく知恵が、君に道の在処を示してくれるのだ。

中央線よ!今日も、空を飛べ!


友部正人『一本道』1972

2010年8月16日月曜日

逆光


逆光は写真撮影で嫌われることが多い。

でも、実は、僕は「逆光」が好きなんだ。

背景の光で、周りの対象物が黒く塗りつぶされてしまうけれども、逆光は世界の「深さ」を教えてくれる。

世界は僕らが意識しているより遙かに深いようだ。当たり前だと思われるかもしれないが、この深さに案外気づかずに暮らしているような気がする。

この世界の彫りの深さ、意味の深さ、味の深さ、不安と恐怖の深さ、絶望の深さ、そして希望の深さ。

逆光を通して見ると、目の前に並んだ普通の車の列が、奇妙なほど意識を持って感じられるのだ。

僕は科学者ではないので説明も何にもできないけれど、逆光の中で人は気づかなかったもう一つのリアリティを感じられると思うんだ。

それは、あまりに強すぎる光のせいで目がくらんだお陰で、残りの四感で感じようとするからだろうか。
普段、あまりにも視覚に頼りすぎているので、逆光の目つぶしは、ちょうど良い残り四感の解放のチャンスかもしれないな。

いずれにせよ、逆光はなかなかに良いものだと、僕は思っている。


☆上野火山☆

2010年8月15日日曜日

やっと

東京に戻って来ました!

写真は岐阜で撮った窓からの風景。

どこか壁にかかった油絵のようです。
雨が一日中降り続き、その雨に幽かに煙る風情は、湿度が高く、暑いのに、どこか夏の終わりも垣間見せてくれました

数日間でしたが、良い旅でした☆


ありがとう!!

☆上野火山☆

関西の朝日

旅の最終日。


朝日の美しさに感激!


太陽の光が地上に反射しています。


空の太陽と地上の太陽の間に、僕らの世界がある。この暗い時代にあって、光の在処は意識していたいものです。それは決して政治的な権謀術数の中にはありません。


他人を踏み台にして勝利する事が人間の最高の価値ならば、そんな価値観から遠く離れて生きていこうと再び決意する。


アホらしい競争から遠く遠く離れて生きよう☆


光の間にて。

☆上野火山☆

2010年8月14日土曜日

今日は神戸

震災の時、炎と煙に包まれた街、長田に行って来ました。

復興後、下町が今や近代都市に変貌しておりました。


そして、鉄人です☆
実物大・鉄人28号!


想像を超えた迫力でした!!ジェットエンジンの真下で、僕は正太郎になりました。
昔、仙台放送のザラザラした画面の中で闘ったあいつ。


僕は嬉しかった☆

☆上野火山☆

2010年8月11日水曜日

もうすぐ名古屋

ほんと青い空と白い雲は見飽きませんね〜!!

走る車窓から!


☆上野火山☆

出発☆

まずは名古屋へゴー!!

それから岐阜方面へ向かいます!!


☆上野火山☆

新幹線に乗る前に


品川の空に、夏らしい雲です☆

これから新幹線ですが、その前にアイス珈琲で一息!


☆上野火山☆

2010年8月9日月曜日

午前中の仕事部屋

昨日はこんなにいい天気だったのに!


今日は台風が近づいているそうで!


真夏からいきなり秋なのかな?


明後日から数日、旅をします。今夜はその準備。

また旅の空の下から数日間ブログしますよ☆

さぁ、どこへ行くんだろう。

☆上野火山☆

2010年8月7日土曜日

季節はずれの紫陽花

今朝は久しぶりにWalking & Runningを再開する。

ここのところ溜まっていた仕事を片付けるのに追われ、朝からデスクに向かう日が続いていたので、WalkingやRunningどころではありませんでした。
今日も暑くなりそうだな、などと思いながら、重い腰を上げ久々の朝の道。
いやぁ〜気持ちいい!!
心なしか冷房にやられていた足のむくみがとれた感じ。

で、帰り道。
どこからともなく、懐かしい水っぽい匂いがして、立ち止まり左の方を見ると紫陽花がポツンと咲いていた。

不思議なことに僕はこの匂いで、三十年以上も前に東京に一人で出てきた頃のアパートを思い出したのでした。
窓の外はゴミ捨て場だったのですが、その向こうに何故か綺麗に紫陽花が咲いていたんだな。
不思議なのは紫陽花には特徴的な匂いがないこと。
なのに、僕には水のような匂いがしたんだ。その匂いで季節はずれの紫陽花に気がつき、三十年前の風景にタイムスリップした。

僕たちはかなり詳細に記憶してるようです。
今朝は思いがけず、空気に漂う匂いと季節はずれの花から、記憶の旅をしました。

そうだった。
ゴミ捨て場の向こうに、紫陽花が、咲いていたんだよ。。。。


☆上野火山☆

2010年8月6日金曜日

最近気になること

『メディア・セックス』ウィルソン・ブライアン・キィ:著、植島啓司:訳


最近様々なところで「サブリミナル広告」なんてものはない、という話をよく耳にします。

昔、有名なコカコーラのCMの話がありました。映画の中に目には見えない形で挿入されたコカコーラの映像に刺激され、休憩時間に客が売店に殺到したとか。

でも、この話は全くでたらめだったということが、この実験を行った本人の口から明らかになったらしい。

というわけで、今やお亡くなりになったウィルソン・ブライアン・キィ氏の名著『メディア・セックス』もお笑いぐさのトンデモ本というわけです。

彼の主張するように、広告写真にいかがわしい文字や映像を一見見えない形で挿入することで、いったいどんなコントロールが働くんだ?という話があります。その通りだと思う。写真に書き込まれたSEX等という文字で、人は何か行動を具体的に起こすだろうか?

しかしながら、90年代、僕はたまたま米国の雑誌TIMEを定期購読していて、かなりの期間、定期的に雑誌を精査することができました。その頃アメリカの敵であったフセイン元イラク大統領の画面に無数に書き込まれたSEXの文字に愕然としたのを覚えています。

で?だから?と言われそうですが、毎週そのような無数の否定的な文字に晒されれば、いつの間にかその人物に対する評価もサブリミナルな影響で変わってくるとは言えないでしょうか。それこそが一種のメディアによるコントロールではないですか。

「トンデモ」という表現で、様々ないかがわしいものの権威を剥ぎ取ることは大事なことでしょう。

ですが、トンデモにも気をつけなければならない。利口そうなしたり顔で「トンデモ」などと言う連中の言葉も疑う必要がありそうです。

サブリミナル広告がなくなったわけでは決してありません。

科学的根拠がないと嘲笑うことで、その存在を煙に巻いているのです。

確かに、フロイトやユングすら、未だに科学とは見なされてはいません。彼らの著書もトンデモ本ということになるだろうな。

僕らは自分の目でしっかりと見据えなければならない時期にきています。

思い切り評価の下がっている本であっても、しっかりと判断しなければいけない。

その意味では、ネットはテレビや新聞と違って正しい情報があると信じている向きは注意が必要でしょう。

ネットはそもそもゴミ溜めです。

ネット上で「トンデモ」扱いされているもので見直さねばならないものがたくさんあります。この本もそのひとつですが。

リテラシーがこれほど試される時代もこれまでなかったのでしょうね。

簡単な否定は、簡単な同調と同じほど愚かなことです。


最近、サブリミナルな広告はますます猛威をふるっているように思います。

だって、ウィルソン・ブライアン・キィの死後、サブリミナル広告なんてものは、そもそもなかったということになっているのですから。

1988年のアメリカ映画にジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』があります。サブリミナルに大衆がコントロールされ、消費者へと堕落させられている世界を描いたSFですが、まさに今日の世界を彷彿とさせる作品です。

現在、残念ながらこの種の作品は作られず、むしろニヤニヤ笑いながら「トンデモ」などとレッテル貼ることで『ゼイリブ』の世界が実現してしまっているのではないかという既視感に捕らわれます。

やはり、目をつむってはいけないと、僕は思うよ。


Subliminal messages


1988 John Carpenter “They live”

2010年8月5日木曜日

縄文の共鳴

キリロラ☆ライブ

昨日はワークショップの後、高円寺の新しい劇場「座・高円寺」に行ってきた。
縁あって知り合いのキリロラさんのライブに顔を出す。

いやぁ〜よかったな!!

音楽が呼吸であることを感じさせてくれる唄と演奏と舞でした。
縄文をテーマに古代日本の魂を掘り起こそうとする試み。その試みは劇場という閉塞された空間にもかかわらず、空気の流通を起こし、風を吹かせたのだった。
静かな始まりと土笛や笙といった土俗的な民族楽器のせいで、奥ゆかしさと静謐さを感じさせますが、やがて火の音楽に転じたあたりで、チェリストの激しいエレクトリック・チェロの音とグラインダーでチェロをこすって火花を散らすあたりで、単なる大人しい民族音楽の域を軽々と超えていく。
個性のまるで違うミュージシャン達が、共通の音を求めて共鳴しあうそれこそが縄文的だと気がついた。
「共鳴」
本来楽器ではないはずのグラインダーの轟音でさえ、キリロラの限りなく透明に近い歌声と共鳴するのだ。
この共鳴の中で、人はどこまでもリラックスする。不思議だ。本当のリラックスはカオスのような音の共鳴の中にあったのだ。
古代の日本語が想像の森の中で木霊する。
音楽は芸術の一ジャンルではなく、むしろ生そのものだということがわかる。
言葉は息とともにあり、呼吸の伴わない言葉は言葉ではないことがわかる。
言葉を使う者も、音楽の呼吸に敬意を払わねばならないと思う。
というのも、なにものかに書き込まれた文字も、その文字を書いた人間の息吹の発露なのだから。

静寂と激しさを行き交いながら「共鳴」する魂の在処に気づいたのでした。

そうだ。
「共鳴」は「共感」のもう一つの謂いであり、僕ら人間精神の本質なのだ。
実は数日前まで大学の教室で共感について講じていたのだが、キリロラを観て聴くことで、「共鳴」という、より人間精神の原質にふさわしい語彙を手に入れたような気がする。

遙か縄文の時代に置き忘れてしまった人間精神とは、己の外側の自然や人間と「共鳴」できるというリアリティーだったのかもしれない。
劇場を後にしながら、僕はそんなことを考えていた。

☆上野火山☆

kirilo'la' いろはうた~アワの唄

2010年8月4日水曜日

田無から

今日はワークショップの日☆

暑いね〜…!!

ほんとに綺麗な空

がんばろね!


☆上野火山☆

雲と風

空を見上げれば、いつの間にか怪しい飛行機雲が空を覆っているなんてことも多い今日この頃、

風に吹かれて移動する雲の風景は何とも気持ちのいいものですね☆

そんな動画を見つけました!

アップされた方に感謝☆

ちょっと涼んでみましょうか。。。。。数日前の空だって


「雲の通り道」

踊る兵士たち

今から一ヶ月ほど前ですが、ネット上の動画サイトで評判になったのが、「Israeli soldiers dancing 」という映像です。

真偽のほどはわかりませんが、恐らく作られたものなのでしょう。

でも、情報によればこの映像に参加したイスラエルの兵士たちは全員処分されたとか。

そしてもう一本。

「Israel soldier shoot Palestinian boy」という作品。

投石したパレスチナ人の少年を射殺したというイスラエル兵の話を、こんな風にアレンジするんだな。

どちらを観ても、思うことはひとつ。

あらゆる国家が、己の国の国民を食い物にし、苦しめるという事実。

イスラエル人は、何よりもまずイスラエルという国に苦しめられているのだと思う。

アメリカ人はアメリカに苦しめられ、日本もまた同じだ。

先日、ハローワークに次のような求人広告が出たそうだ。

「工学系修士必須 TOEICー900点以上 経験者のみ(6年以上の経験)30歳まで 時給~750円(応相談)」

あるいは、

「次のような方を希望します。『熱意を持っている方』雇用形態:契約社員 (09年4月~7月、延長なし)」

この他にも信じられない求人広告が多数出されているようです。

こんな滅茶苦茶な求人広告が当たり前のように掲載されるというのは、いったいどんな国なんだろう。

いや、まさにこの国、日本なのだ。

インターンシップという心地よいネーミングで、「研修」「職場体験学習」という隠れ蓑で、学生にただ働きを強いる企業があるのも日本だし、それを支援するのもこの国の大人たちである。

ひょっとすると国家などという枠組みはとっくの昔に破綻しているのかもしれない。

しかしながら、その中に暮らす市民は決して破綻してはいない。

踊るイスラエルの兵士たちも、国家の思惑ではなく、音楽に踊りたいのである。

パレスチナの少年に照準を合わせるイスラエルの兵士は、少年ではなく石に照準を合わせたのかもしれない。

こんなにも穏やかそうな表面のすぐ下で、日本も暗い策謀のすえ、いずれ足下から瓦解してくのかもしれない。

大事なことは、権力に踊らされるのではなく、己の判断で踊ることだ。

もしかしたら、選挙などではなく、個人の「踊り出す」行動こそが今必要とされているではないかと思う。

人がそれぞれの場所で、うまくだまして切り抜けようとするのではなく、踊り出そうとすることこそが必要なんだと思う。

踊るというのは、自分ができる最大限の喜びの表現ということだ。

喜ぼうとする人間の足を、他人は引っ張ることができない。

踊るが勝ちだと、僕は思うな。



Israeli soldiers dancing


Israel soldier shoot Palestinian boy

2010年8月2日月曜日

やっと☆

7月までの喧噪が止み、少しばかり静かに集中できるようになりました。

教える仕事以外の時間は、作品造りに集中しています。

こんなに熱いのに、なぜか蝉の声がちょっと少ない気もします。今日は薄曇りだからだろうか?

You Tubeに懐かしい映画の予告編がアップされていました。

1975年のATG映画『祭りの準備』です。

この作品に関してはかつて何度か書いたことがあるので、このブログを読んでくれている皆さんはもうすでにご覧になっているかもしれません。

中島丈博さんのシナリオが強く胸に迫る青春物語ですよ。

ひょっとして文学が映画よりジャンルとしては上にある、などと思っている人がいたら、それは間違いです。

下らぬ文学より、優れたドラマは映画であれテレビであれ舞台であれ、文学を遙かに超えます。

この映画は映像小説といってもいいかもね。

ワンカットワンカットが濃く出来上がっています。

今風の薄っぺらな薄笑いを浮かべたシニカルなポストモダン派には、到底作れるはずもない良い意味の「濁り」があるんだな。

八十年代以降、この「濁り」のようなものを排除して美味しい生活をかさね、格差を基礎にした奴隷社会が今立ち現れているんじゃないですか?

濁り。

この濁りを見つめることで、泥臭く小綺麗ではないが、しっかりと踏みしめるべき大地の在処がわかる。

この三十年間の中で、よって立つべき足下と濁りのような得体の知れない「希望」を失ってしまったのだと思う。

青春という言葉は、メディアに植え付けられたイメージよりずっとどす黒く情けなく濁っているんだよ。

でも、だからこそ忘れられないのさ。

昔が良かった、というのでは決してありません。

置き忘れてきたもののひとつだろう、と僕には思えるだけなんです。

ブザービートの青春もいいけれど、濁ってみっともない「祭りの準備」の青春を僕は置き去りにしたくないだけなんだ。

あの映画の中に、恥ずかしながら、僕はいましたよ。

たぶん、あれは、僕です。

それは、確かだ。



1975年 ATG映画『祭りの準備』予告編

2010年8月1日日曜日

夏の日に

夏の日に、外の蝉の声を聴きながら観たい映画。

是枝監督の『歩いても 歩いても』はそんな映画だ。

少年を助けようとして命を落とした兄の十五回目の命日、実家に戻った弟の一家と年老いた父と母、そして姉の一家。

物語は淡々と過ぎてある一夏の風景が描き出される。

しかし、ありふれた風景の中に、静かだが激しく行き交う情と情。心と心。

当たり前の普通の風景が、たまらなく胸に迫る。

日常はこんなにもドラマに満ちている、と改めて思わせてくれる。そんな映画。

大宣伝映画にうんざりする向きには、心の糧となり、魂の清涼剤になる映画だと思うな。

ただし油断は禁物。

口に優しい、人情喜劇ではありません。毒のたっぷりこもった物語ですよ。

日常生活にちりばめられた毒の数々。

それに気づき、知るほどに胸が締め付けられるのです。

この映画はもっと知られて良いと思うんだけどね。


映画『歩いても 歩いても』予告編