2011年4月28日木曜日

Imagine , all the people☆

レノンの原曲のはずなのに、レノンが世界に発したメッセージだったのに、僕には清ちゃんのイマジンの方が何倍も好きなんだ☆
やっぱり、この世界はおかしいよ。全てが逆転してる。シェークスピアの言った通り「綺麗は汚い 汚いは綺麗」なんだ。
テレビも新聞も、いつまでも冗談はやめようぜ!
天国はない。ただ空があるだけ。国境もない。ただ地球があるだけ。だけど、土足で入る奴は許さない。
公務員の給料がカットになり平均6%カットのところ、被災地で必死に働く自衛官は今後10%のカットになるんだそうです。
原発で震災以来実際に復旧作業に従事している方は、東電の社員ではないという事実。皆さん下請け会社の方々でした。
おかしくないか?おかしいだろ?
偉い人は偉いまま、貧しい人は貧しいまま。
これが経済学者ハイエクからミルトン・フリードマンを経由して我が国に入ってきた21世紀の価値観です。これを市場原理主義と呼び、グローバリゼーションと呼び、格差社会と呼び、小泉は「自己責任」と呼びました。そしてこれを現代のアメリカは「自由主義経済」と呼んでいるのです。簡単ことなのに。こんな価値観が紛い物であることに気づくなんてまったく簡単なことなのに、なぜか人は気づかない。
かつては財テクなどともてはやされたが、モノを創ることなしに、金(かね)や株の操作だけで儲けを出す「金融工学(financial engineering)」は所詮幻想であり悪夢に他ならない。だから、想像してみよう!無数の人間を踏み台にしながら、一人勝ちを望むその虚しい現代人の傾向を。そして、人は本当にそんなことを望んでいたのかと!
僕たちは、未だに「エデンの東」にいるのだと思う。


『イマジン』
訳詞/忌野清志郎


天国は無い ただ空があるだけ
国境も無い ただ地球があるだけ
みんながそう思えば 簡単なことさ

社会主義も 資本主義も
偉い人も 貧しい人も
みんなが同じならば 簡単なことさ

夢かもしれない でも その夢を見ているのは
一人だけじゃない 世界中にいるのさ

誰かを憎んでも 派閥を作っても
頭の上には ただ空があるだけ
みんながそう思うさ 簡単なこと言う

夢かもしれない でも その夢を見ているのは
きみ一人じゃない 仲間がいるのさ

夢かもしれない でも その夢を見ているのは
きみ一人じゃない
夢かもしれない でも一人じゃない
(僕らは薄着で笑っちゃう)
夢かもしれない (ああ笑っちゃう)
かもしれない
(僕らは薄着で笑っちゃう)
(ああ笑っちゃう)
(僕らは薄着で笑っちゃう)

2011年4月25日月曜日

西荻窪☆FLAT


昨日は「西荻窪FLAT」にて、久しぶりのグルーミーキャッツのライブ!
土日が特に忙しすぎて、なかなかライブにも足を運べない今日この頃。あ!エリコ!この前のライブ行けなくてごめんね!また連絡待ってます!
んで、昨日は珍しく時間の調整がうまくいってグルーミーキャッツでした!

失礼ですけど言わせてもらってもいいかな?
またものすげぇうまくなってます!!!!!テレビ出演時より更に熱く微笑ましくもテクニック向上中!!!!!!
若いっていいな。俺もまだまだだけどね。心は三歳だけどね。
俺も仮の名前「50s」(?)っていうバンドやってるんだけどぉ、へへ、グルーミーキャッツはいい意味ライバル?そんな感じっす。

昨夜は、百円でグルーミーキャッツの缶バッジも手に入れたしぃ、それとぉ、CDも貰っちゃってぇ〜なんかぁ、ウキウキっすよ。
「夜間飛行」いいよね。どこかストーンズのニュアンスがあるのが好き。
たぶん、いいメロディラインの他にこのバンドの魅力は、リズムの刻みにあるんだろうなぁ。
あとぉ、最後にトランペット吹いてくれて、なんともいい感じ。遙か昔、チェイスっていうブラスロックのぉ、いかすバンドがいたんだけどぉ、そういう感じじゃなくてぇ、むしろちょっぴり愉快な感じ?ゆとりな感じ?それがいいんだなぁ。
曲の間に繰り広げられる生温かい感じのトークもナイス!
松屋のギネスの話ってじっくり膝つき合わせて聞いてみたいと思ったよ。俺、どっちかっていうと、吉野屋派ですけど。
とにかく、成長著しい☆
ますます将来期待☆☆☆☆☆星五つ!

みんなもグルーミーキャッツを応援してね☆

2011年4月21日木曜日

情熱大陸

我が弟にして、動物行動学者の上野吉一君が数年前に出演した「情熱大陸」の映像がuploadされていました。
とてもいい番組だったので、ここにアップします。
現在、名古屋の情勢も変わり、大変な苦労を強いられていますが、彼のやろうとしていることは日本では初めての試み。
それを真に理解する人もまた少ないのです。
何でもはじめてにはリスクがつきまといます。しかし、そのリスクなしに何事も生まれないし、前へは進まないのも当然のことだろう。
僕は逃げる人間より、賭ける人間が好きだよ。
うまく立ち回る人間より、無骨でも素直で真剣な人間の方が遙かに好きだ。
こんなフロンティア精神溢れる仕事は、お役所感覚では決してできない。
減税を訴えて民意を勝ち取った気さくな人気者の河村市長が、この計画に理解を示していないのは、まさしくその人間を表しているのだと思う。河村市長の改革案である「酒の自動販売機を置くこと」は、動物園の改革じゃないよ。まったく関係のない話だ!
動画を観れば一目瞭然だが、これはこれまで日本に存在することのなかったまったく新しい概念を導入した動物園の形式なのだ。
もういい加減足の引っ張り合いはやめようじゃないか!
弟よ、僕は君を支持する☆


解説:
東山動植物園企画官 上野吉一(うえのよしかず)48歳
名古屋市東山動植物園では、400億円の予算を投じての再生計画が2016年の完成を目指して始まっている。
その再生プランを推進する企画官に任命されたのが上野だ。
京大霊長類研究所の准教授として、展示・実験動物の福祉の研究を進めてきた男の就任は、日本初の研究者からの転身として注目を集めている。
そんな上野の存在は動物園の現場にとっては「異星人」。しかしながら彼についていくと、今まで知らなかった動物のいろんなことが見えてくる。
何故、動物園は必要なのか?上野、そして東山が目指す動物園とは何か?再生プロジェクトの第1弾としてチンパンジーの展示施設が完成するまでを追う。

「情熱大陸」本編

2011年4月19日火曜日

I believe People Have The Power

“ People Have The Power ”
by Patti Smith


I was dreaming in my dreaming
of an aspect bright and fair
and my sleeping it was broken
but my dream it lingered near
in the form of shining valleys
where the pure air recognized
and my senses newly opened
I awakened to the cry
that the people / have the power
to redeem / the work of fools
upon the meek / the graces shower
it's decreed / the people rule

The people have the power
The people have the power
The people have the power
The people have the power

Vengeful aspects became suspect
and bending low as if to hear
and the armies ceased advancing
because the people had their ear
and the shepherds and the soldiers
lay beneath the stars
exchanging visions
and laying arms
to waste / in the dust
in the form of / shining valleys
where the pure air / recognized
and my senses / newly opened
I awakened / to the cry

Refrain

Where there were deserts
I saw fountains
like cream the waters rise
and we strolled there together
with none to laugh or criticize
and the leopard
and the lamb
lay together truly bound
I was hoping in my hoping
to recall what I had found
I was dreaming in my dreaming
god knows / a purer view
as I surrender to my sleeping
I commit my dream to you

Refrain

The power to dream / to rule
to wrestle the world from fools
it's decreed the people rule
it's decreed the people rule
LISTEN
I believe everything we dream
can come to pass through our union
we can turn the world around
we can turn the earth's revolution
we have the power
People have the power ...

2011年4月16日土曜日

ショック・ドクトリンと災害について

「1973年のピノチェト将軍によるチリのクーデター、天安門事件、ソ連崩壊、米国同時多発テロ事件、イラク戦争、アジアの津波被害、ハリケーン・カトリーナ。暴力的な衝撃で世の中を変えたこれらの事件に一すじの糸を通し、従来にない視点から過去35年の歴史を語りなおすのが、カナダ人ジャーナリストのナオミ・クラインの話題の新著The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism(『ショック・ドクトリン:惨事活用型資本主義の勃興』)です。ケインズ主義に反対して徹底した自由市場主義を主張したシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンは、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」と述べました。この主張をクラインは「ショック・ドクトリン」と呼び、現代の最も危険な思想とみなします。近年の悪名高い人権侵害は、とかく反民主主義的な体制によるサディスト的な残虐行為と見られがちですが、実は民衆を震え上がらせて抵抗力を奪うために綿密に計画されたものであり、急進的な市場主義改革を強行するために利用されてきたのだ、とクラインは主張します。…」(Democracy Nowより引用)

ナオミ・クラインの「The Shock Doctrine」は刺激的な書物である。
近年これだけ明瞭に市場経済至上主義の病巣を喝破した論考はないかもしれない。というのも、現実に今日本はこの「ショック・ドクトリン」の実験場、いや舞台になっていると思われるからである。

311の巨大地震は地震と津波のみならず、その後の恐怖を煽るような原発の事故のニュースが連日放送され、朝七時の NHKニュースは海外のニュースなど一切放送しなくなってしまった。ひたすら恐怖を煽る放送を続けている。そしてつい先日には原発の警戒レベルを国はレベル7と発表するに至った。福島、茨城、そして千葉産の野菜も自粛が求められ、自粛というのは任意のはずなのにもはや義務になり、実質的には規制されているわけである。テレビでも千葉の出荷農家が報道番組と地方自治体から断罪される様子が放送されている。原発から十キロ圏内に横たわる遺体は被爆し放射線量が多いという理由で一ヶ月以上も放置され続けた。そうした遺体が回収されて被爆した様子もないことがわかったのはほんの数日前である。
少なくともアメリカ以外の国では、今となってはレベル7の警戒レベルは「過剰」だと報道されてはじめている。ロシアの専門家の発表によればレベル4がいいところで、もし福島原発がレベル7であるならば、今後警戒レベルに8や9を想定しなければなくなるだろうとまで発言している。原発から八十キロ圏内から避難指示を出したあのアメリカでさえ、レベル7という最悪の事態であるにもかかわらず、母国に避難した在日米国人に日本に戻るように促し始めている。いったいレベル7とは何だったのだろうか?

ひたすら「恐怖」が演出されているわけである。近隣諸国に対しても日本は今や災害にあった被災国ではなく「加害国」に成り果てている。
これは「恐怖の演出」ではないのか?
問題は事態がまったく「ショック・ドクトリン」そのものだということである。「恐怖の煽り」だ。
ハリケーン・カトリーナやアジアの津波、あるいはまた911のような出来事と同じように、株の取引が盛んに行われ、例えば今や東電の株は外資に持って行かれ、災害復興をダシに震災前後ゼネコンで不審な株取引が多く行われているのである。恐怖が金を生むのだ。それは今後も続いていくだろう。東電は今後更に原発を14基増やす計画だという。それもまた恐怖の煽りであろう。

復興は何にもまして大切なことだ。そして原発はいらない。これも当たり前のことだ。だからといってデモをする必要はない。それもまた「ショック・ドクトリン」の一部なのだ。不安定で混乱した国内状況がそれだ。
だからこそ、復興しなければならないし、原発もなくさなければならない、が、それらと同時に、同じぐらいしっかりと「ショック・ドクトリン」が実践されているというその事実から目をそらしてはいけないような気がする。ナオミ・クラインの暗に示していることは戦争も災害も偶然に起こっているのではないということだ。
日本において森内閣以降小泉・竹中路線から続いている「新自由主義」的な政治体制は民主党になっても実は変わらないのである。更に一般的には新自由主義などもう古いなどという言説もちらほら出ているけれど、姿を変えた市場経済至上主義は相変わらずなのだ。
ミルトン・フリードマンの「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という言葉は傾聴に値する。「真の変革という金儲けは、危機的状況を創り出して、はじめて可能になる」と彼ははっきり言っているではないか。
今の日本の危機は創造された危機なのだと僕は思う。戦争も地震も原発事故もすべて創り出されたものだ。この世界の一部の金融寡頭勢力によって、全ては人為的・人工的に引き起こされたものと、僕は今や確信している。

ショック・ドクトリンから退避する方法は、難しいがひとつだけだ。
それは、現状をショック・ドクトリンの実践と自覚することだけ。
後は煽りを真に受けないことだ。全て恐怖心を糧に生まれているのだから。目をそらすまい。全て偶然だなどと水に流すまい。単純な平和運動も復興運動もショック・ドクトリンの実践を念頭に置かない限り、その場限りのものになってしまうのだ。
同時に、そう、同時に覚醒していきたいものだ、と僕は思う。

「ショック・ドクトリン」ーナオミ・クライン
http://youtu.be/Q8p-4ZRNIyE

2011年4月6日水曜日

ベルファストからの手紙

青山学院大学教授でアイルランド詩を講ずる高校時代の友人・佐藤亨君からメールを頂いた。
遠くアイルランドはベルファストの地から送られてきたこのメールは、この困難な時代にあって僕を励ますに余りあるものでした。
前の記事で僕は集団ではなく個人で戦う、と書いた。
それは個人の記憶ほど力強いものはないと思うからだ。一人より二人、二人より三人と誰もが思う。まさに数の力が何にも勝ると僕らは教え込まれてきたように思う。
だが、僕はその論理を拒絶する。
僕はどうしょうもない「孤」若しくは「個」から始めようと思う。
それはきっとあらゆる人に共通の小さなかけがえのない出来事と「共鳴」し合うはずだと確信するからである。
スクラムを組むのではない。共鳴し合うのだよ。
君も僕も、実は「同時代人」なんだよ。それを忘れてはならない。

佐藤亨君の許可を得て、ここにメールをアップさせて頂きます。ありがとう☆


ベルファストより

メールをありがとう。

4月1日にベルファストに入りました。
受け入れ先の先生と会ったり、友人を訪ねたり、
そして今日はアパート探し。
いよいよ、ベルファスト暮らしが始まりました。

といっても、東京とか一関とか、そういう「場」を引き連れての生活です。
この期に及んで、単純な「海外生活」などできやしません。
そういうことに興味もありません。

さて、宮沢賢治センター通信のエッセイ拝読しました。
たぶん、佐藤旅館の「トッチ」のお兄さんのことに触れた文章だと思います。

読みながら、涙が出てきました。
「コイッツァン」(小岩魚屋の外回り専門の従業員です)とか、
トッチのお兄さんとか、まるで、フェリーニの『アマルコルド』に出てくるような人たちこそ、
われわれを育ててくれました。
トッチのお兄さんはいつも見守ってくれていました。

上手く言えませんが、僕がベルファストで探しているものも、
そういうエキスなのかもしれません。

尚一君よ、今度の大震災で岩手の半分は失われました。
海岸地方のことです。右側の肺をえぐられたような気持ちです。
犠牲者のなかには菅野利夫やその奥さんもいるし・・・。
まさかこんなことが自分の生きているときに起こるとは思いませんでした。
「ヤマ汽車」もだいぶ被害を受けたらしい。

悲しいです。
合掌しつつ、ベルファストで新しい生活を送るつもりです。

こういう悲しい気持ちは、たぶん、文章を通して表すしかないのでしょう。
微力ながら、やろうとおもいます。

劇、見に行けなくて残念ですが、
がんばってください。

佐藤 亨

注※「菅野君」は僕らの高校の仲間でした。一緒に浪人し彼は早稲田大学へ行きました。
ご冥福をお祈りいたします。
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佐藤亨 著
『北アイルランドとミューラル』水声社



 この本はアイルランドの町中に出現するミューラル(壁絵)から人々の個人的な暮らしの中の歴史を読み取ろうとする試みだ。
ぜひ読んで欲しい☆

見えない戦争

この一月の間に起こった出来事は、予想もしていなかった途方もないことだった。

でも、正直言ってまったく予想していなかったかと言えば嘘になる。何かが起きる予感はあった。確かに心のどこかにあった。
次は大きな災害か戦争か…いずれにせよ、途方もないことが起きる予感が、ずっとがあった。

僕にはとても単なる天災だなどとは思えないのだ。
あまりにも腑に落ちないことだらけ、どう考えてもこれは現代日本に向けられた攻撃だろうと思う。
何故原発から漏れる穴が見つからないのに海の放射線は高いのだろう?
何故地震は三度も連続して起こったのだろう?
何故TPP参加を求められているこの時期に、日本の第一次産業は大打撃を被るのだろう?
何故日銀の102兆円という膨大な緊急資金援助金が民間のメガバンクに渡り、その後の行き先が不明なのだろう?
何故どこかの国のデフォルトが近づいた今、復興資金としてその国の国債を我が国は売ることがないのだろうか?

疑問だらけである。
偶然がこれほど見事に無数に重なるはずがないのである。
テレビが死に、新聞雑誌が死に、メディアは今瀕死の状態だ。全て市場経済至上主義の結果であろう。株主と購買層に媚を売るだけが仕事になり果てた結果であろう。
この一ヶ月何一つまともな報道はなかった!!馬鹿野郎!!

見えない戦争の時代を僕たちは生きていることを忘れまい。
何かに対する反対運動も、デモも、暴動も、まったく意味をなさない。集団で騒ぐな。
この見えない戦争の時代は、様々な事実を「個人的」につなぎ合わせ、全体を見わたす努力が必要なのだ。そして、理解すること。

幸い東京は静かだ。
政府とマスコミの煽りに踊らされることもなく、静かな日常を取り戻しつつある。被災地は想像を絶する環境だろう。それを意識するからこそ、ここで静けさと落ち着きと冷静さを取り戻すことはとても重要なことだと思われる。

僕は僕の仕事をする。誰もが皆、自分自身の仕事を淡々とこなす。見えない戦争は、その挑発に踊らされることのない人間には効果がないのだ。これまでも、この国の長い歴史の中で、日本人はそうして生きてきたようだ。生きているその自分の存在する時代に、そんな歴史を肌身に感じるとは、それこそ想像だにしなかったことだ。しかし、これは事実なのだ。

昨夜、僕の高校時代の友人の死を知った。
僕は、この見えない戦争を、僕なりに戦おうと決意している。そして、それは生き直すことでもある。
目を覚まそう。これは天災ではない。
戦争だ。仕掛けられた戦争なのだ。

2011年4月5日火曜日

故郷よ

岩手大学で宮澤賢治を講ずる友人の佐藤竜一君。
僕は彼の依頼で、大学付属の「宮澤賢治センター」発行『宮澤賢治センター通信』に一文寄稿しました。


『虔十公園林』と天使の愚かさ』

遠い日の記憶である。
少年の頃、いつも市営のテニスコートの金網の所にぼんやり佇んでいる人がいたのを覚えている。彼が知恵遅れだというのは周囲の暗黙の了解だったようだ。誰一人彼を怖がる者もなく、特に馬鹿にするでもなく、ごく普通に一緒に暮らしていた。
春、桜並木を通って学校に行くときも、夏、テニスコートの向こうにあるプールに行くときも、秋、堤防で野球をするときも、冬、雪に埋もれたテニスコートで雪合戦をするときも、彼はいつもそこにいた。ちょっと優しげでちょっと哀しげな彼の眼差しを僕は忘れることができない。彼は、僕にとって一人の虔十だった。

『虔十公園林』という作品に出会ったのは、そんな小学生の頃の教科書だったと思う。不思議なことに、今発行されている検定済みのどの教科書にも虔十公園林が載っていない。それはいったい何故なのだろうか。
小学生の僕の胸をあんなに締め付けた虔十公園林という小さな作品。その中で主人公の虔十は、まぎれもない知恵遅れの少年であった。知恵遅れというこの表現すら今は差別用語になってしまう、そんな時代を僕らは生きていることに愕然とする。人はいったいいつから愚かさから学ばなくなったのだろう。人はいつからあの天使の眼差しを忘れてしまったのだろう。
賢治の描く虔十の愚かさは軽蔑すべき哀れなものでは決してない。寧ろ「天使の愚かさ」そのものなのだ。それは気高く美しい。そしてなによりも、この物語はまともなふりをした意地の悪い利口さに対する、その愚かさの勝利を描いているのだ。

五十年代のアメリカ映画「エデンの東」の中にジェームズ・ディーン演じるキャルがまるで虔十そっくりに畑に列をなした木の苗を踊りながら眺める場面がある。その場面を見ながら、僕はディーンに虔十の姿を重ねて見ていた。誰憚ることのない喜びを僕は見ていた。
天使はこの地上で生きていることが嬉しくてならないのだ。踊り謳いハーハー言うのだ。虔十のハーハー笑う姿を馬鹿にする人間が出てくるが、殴られても蹴られても虔十はひたすらハーハー笑っている。哀しくても嬉しくても虔十はハーハーなのだ。
やがて一緒に遊んだ子供が大人になって、虔十公園林を見てあの日のことを思い出す。天使のように愚かだった虔十の瞳の中の優しさと悲しみを、人は大人になって思い出す。そして、無名の人、虔十によって植えられた杉林は誰に恥じることもない大きく立派な公園林に育っていった。
こんなに哀しく美しい物語を僕は他に知らない。賢治の紡ぎ出す愚かさを主題とする物語に僕は特に心惹かれるのだ。
それは愚かなる人間は社会の「お荷物」と考える常識に対し、愚かさと共に生きることを選んだ賢治のアンチテーゼが垣間見えるからかもしれない。いや寧ろ人間の本質が愚かさそのものだと看破した賢治に惹かれるからかもしれない。

僕は「やまなし」のクラムボンはボンクラのアナグラムだと考えている。愚かであること、ボンクラであることはこの世では生きづらい。けれど、僕らの精神の歪みを映し出す鏡こそ、このボンクラの自己認識であり、天使の愚かさなのだと思う。
教科書に載らなくなったのは、現在という時代がもはや「天使の愚かさ」を重要な価値のひとつと認めることができなくなり、利益と利口さばかりに価値がおかれてしまっているからかもしれない。

愚かさは、この世界を生きる限り常に僕らと共にある。愚かさとは無用で無視したほうがいい唾棄すべきものでは決してない。
僕たちは今、少々利口になりすぎてはいないだろうか。
その利口さ故に記憶喪失に陥っている。幼い日に見た様々な愚かさの風景を、何事もなかったかのように水に流している。
今、賢治を読むことは、自己の記憶喪失に対する贖罪の意味もあるのだと僕は思う。
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