2009年6月30日火曜日

あの夏、いちばん静かな海。


あの夏、いちばん静かな海。1991

正直、北野映画が嫌いです。かなり嫌いです。
ですが、
「あの夏、いちばん静かな海。」だけは別。この映画は大好きです☆

画面の作りが多少ジム・ジャームッシュを意識していたとしても、それは気になりません。
むしろ、物語の重さと軽さのバランスが最高に上手くいっている作品ではないかと思っています。
聾唖の青年・茂のひと夏の生と死を描いています。
この映画の前に執拗に描いていた暴力性はここでは影を潜めていますが、それでも、人間の死への欲望(タナトス)をここでも取り憑かれたように描いてはいます。

監督の当時の観客を不必要に死へ誘うような作品作りに疑問を感じてはいましたが、それでもこの映画は生きる悦びと愛することの不思議を丁寧に描いている印象を受けます。
それは主人公の茂と恋人の貴子は聾唖で音声としての言葉を持たないから、二人のやり取りが言葉で処理するよりずっと思いのこもった重さと、何気なさと、静けさに溢れていたからだと思います。この普段はゴミ収集車で一生懸命働く主人公・茂の存在だけで、この映画は確実に成功していると思うのです。

ラスト、浜辺で波に洗われている茂のサーフボードは、茂という人間の死の暗示だけではなく、いずれ人間は誰もがみな自然に還ることを象徴しているのかもしれません。
それは監督得意のニヒリズムではなく、一種の諦観。
少なくともこの映画全体に漂う諦観は、今感じる必要のある諦観かもしれません。

なぜなら、ゴミの中から拾い出し修理して一緒に遊んだサーフボードに乗って海に消えた茂という青年の人生の価値を、今、この時代が忘れているから。
そして、そんな価値を嘲笑うから。

確かに、あの夏、あの海はいちばん静かだった。



映画の予告編

夏の風景


by SORAIRO TELEGRAPH

今日は、午後から曇ってしまいましたが、それでも確実に夏が近づいている感じがしますね。

毎年夏は、家族と一緒に関西方面に旅に出るのですが、今年もぜひ行きたいと思っています。

人には、人それぞれの夏の風景があると思います。

そして、誰もが自分だけの夏の風景と匂いを抱いて一生を過ごすのでしょう。

青空、海、向日葵、サイダー、かき氷、西瓜、花火、浴衣、緑、風、日陰・・・・、次から次と浮かんできます。
そう言えば、数年前フジテレビのお仕事で、お台場でミュージカルをやったとき、ひと夏続いた舞台でしたが、夏のはじめに植えた向日葵が、公演の終わる夏の終わりに、黄色く大きな花を咲かせていたのを覚えています。
青い空の下、劇場までの道を黄色い大きな向日葵が囲んでいたのを昨日のことのように思い出します。
あの夏、千秋楽の晩、テレビ局の計らいで夜空に大きな花火が上がったのでした。
キャストもスタッフも、空を見上げながら、妙に嬉しくなり、同時に公演の終焉を感じたものでした。

人にはそれぞれの夏の風景がある。
それこそ、ドラマだな。


吉祥寺ストリート


おれは六十で

君は、十六だが、

それでも、君は

おれのお母さん。


おお、おれの小さな耳掻きさん。

いとしいちりれんげ。


海辺の白砂の

しめつたはだを、

さざなみがよせ

さざなみが退く。


さざなみが退き

さざなみがよせ、

いつかは、君はゐない。

いつかはおれもゐない。


ありし日の君の

その頬は菫いろで

くちびるのいろは白


君のおへその蜘蛛の巣から

はるばるきこえてくる

それは

むかしの子守唄。


君のなげだした両ももの

おくに

なにがあっても

どうでもいい。


ー 金子光晴「こころのうた」より


吉祥寺は、西荻窪とならんで、僕のテリトリーです。この前の舞台では「ニシオギ」を描きましたが、いずれ吉祥寺も大切な場所として描くつもりでいます。
「さかえ書房」というサンロードにある古本屋は、東京に出てきたときからよく通った店で、詩人の金子光晴さん直筆の看板が目印。
吉祥寺には熱い心の詩人がいて、作家がいて、フォークシンガーがいて、ロック喫茶があって、公園があって、うまい焼鳥屋があって、インド料理もうまいし、コーヒーもうまい。
東京で暮らしはじめた僕らには吉祥寺は確かに輝いていた。
井の頭公園で友達と金子光晴の詩を声に出して読んだのは、もう三十年以上前になる。
そして、だいぶ景色は変わりましたが、それでも吉祥寺には今もなお吉祥寺ストリートがあって、若者たちが歩きすぎていく。

そんな路上で歌うのが「森恵さん」。

アコースティック・ギターに伸びやかな声がすばらしい!!
都内のいろんな路上に出没しているそうですが、そして今や路上以外のライブも、でも吉祥寺が勝手に似合うような気がしています。ぼくはね。
You Tubeにアップされた彼女の路上ライブをここに転載します。
吉祥寺ストリートはどんなライブスポットにも負けないステージです☆

明日も僕は吉祥寺を歩くから。
そして、いろんな思いをかきたてるぜ!!
吉祥寺ストリート。
そこで過去は現在と交わり、そこが、僕らの「位置」なんだと思う。

『位置』

『運命にさよなら』

KAORI KAWAMURA 回復祈願!

川村カオリ様

あなたの回復を心から祈っています☆

もうすぐ湿度の高い梅雨の季節もあけるでしょう。

そして、きっと暑い夏がやってくるでしょう。

あなたが、心からロック魂をもって歌うように。

僕も、心からロック魂をもって演劇をしようと思います。

なにしろ、ロック魂さ!

季節が巡るように、人生も巡ります。

音楽は人生。

人生は音楽ですね。

ロックする心よ、いつまでも☆






ラーメン☆二郎ォォォオオ!!!


三田本店:大豚ダブル・野菜ニンニク多め・麺硬め、の図

学生時代、大学のすぐそばで通い詰めた店といえばぁ、

ラーメン二郎だッ!!!

今や支店も増え、つけ麺まで出す店があるとかないとか。う~ん、信じられない。
あの頃は、「大豚ダブル、野菜ニンニク多め、麺硬め!」一本でした。
とにかく、これの一本槍!
なんでも、今は自動販売機でチケット買うんだそうですね。いやいや、かつてはカウンターに座るやいなや「大豚ダブル、野菜ニンニク多め、麺硬め!」って叫んだものです。

ニシオギの「登亭」といい、三田の「ラーメン二郎」といい、絶対に忘れられない味ですね。

二郎のラーメンは、ラーメンではなく、「二郎」という食べ物だという人がいるらしいですが、ほんとだね。三日でやられるラーメンです。
ていうか、三日で中毒?
ってのは、初日にゲッ!ってなって、2回目に「?」ってなって、3回目に「もうだめ!また来ます!」ってなるんだなぁ、これが。
あの当時、なんか入ってんじゃね?とまことしやかに噂されたもんです。
確かに、グルタミン酸ソーダがたっぷり入ってんですけど。
あれか?あれのせいなのか?
え?え?
三十年近く経っても、未だに無性に食いたくなるのはなぜ?なぜなんだろう?

スープのうま味とコク。最高です。
いつか機会があったら、食べて欲しい。青春のラーメン。
めちゃくちゃ食いたくなってきましたよ~☆

ラーメン二郎・三田本店の状況ルポ


そして、これも!!
二郎のラーメンを「鍋二郎」で再現!エライ!!!感動!!!
今度、やってみる!!!!

2009年6月29日月曜日

Tears in heaven


Eric Clapton/Tears in heaven

Would you know my name 
If I saw you in heaven 
Will it be the same 
If I saw you in heaven 
I must be strong, and carry on 
Cause I know I don't belong 
Here in heaven 

Would you hold my hand 
If I saw you in heaven 
Would you help me stand 
If I saw you in heaven 
I'll find my way, through night and day 
Cause I know I just can't stay 
Here in heaven 

Time can bring you down 
Time can bend your knee 
Time can break your heart 
Have you begging please 
Begging please 

(instrumental) 

Beyond the door 
There's peace I'm sure. 
And I know there'll be no more... 
Tears in heaven 

Would you know my name 
If I saw you in heaven 
Will it be the same 
If I saw you in heaven 
I must be strong, and carry on 
Cause I know I don't belong 
Here in heaven 

Cause I know I don't belong 
Here in heaven 


エリック・クラプトンが四歳の息子コナー失ったとき、この曲は生まれました。
喪失の悲しみがなければ、この曲が生み出されることがなかったのだと思うと、複雑な思いにとらわれます。
それは生み出すことの真実。
失い、傷つき、間違いを犯し、痛みを感じない限り、切実なものは生み出せないということ。
そして、生きているということは、喪失の連続だということ。

明るさも、前向きも、喪失をしっかり受けとめた後にやってくる一瞬の救いのことかもしれない。


こうして僕らはどんな立場でどんな暮らしをしていようとも、人として「普通」に暮らしている。
そこで、起こる事柄を、まずはしっかりと体験し受けとめ味わいたいものですね。
苦しみこそ、生きて喜びへ至る道。
恐らく、いろんなことに怖じ気づいて、その場限りの逃げをうって、誤魔化しちゃいけないんだろうな。

クラプトンの音楽は、調子の良いノリの良いロックを遥かに超えて、「切実」なロックになっている。

「切実さ」こそ、人にその意味を十全に伝えるものではないかという気がします。

切実に自分の与えられた人生を生きていきたい。
そう思う。

今日は、空も晴れているようです。


2009年6月28日日曜日

グランド・ショー@青山


Mr. Pinstripe 2009:青山劇場

本日は午前中に家を出て、ひと仕事終えてから、青山まで舞台を観に行きました。

久々に宮益坂をてくてく歩き、青山劇場が左手に見えてくる。

でも、雨が降ってきてね、湿度が高くてちょっとまいった。

さて、今日の舞台は「Mr. Pinstripe 2009」というグランド・ショー☆

ジャズのスタンダード・ナンバーから、どんどん進んでいく気持ちの良い展開!!!

ほんと、気持ちいいの。

なにしろ技術の高い人たちが寄ってたかって創り出した舞台です。

隙がないんだ。

で、僕のとっても大切な女優さんである「えまおさん」、つまり「ぶんちゃん」ね、とってもパワフル、プラス、とってもキュートに歌い踊ってくれました☆☆☆サイコー!!!

とにかく、次から次と歌と踊りを見せていくグランド・ショー・スタイルというのは、今やこの時代では消えかかっておりましたから、これは実に貴重な試みであり、大切な仕事だと思います。レビューではありません。あくまでもグランド・ショーにこだわってるんだな。
すべてにおいて徹底的なプロ意識を感じました。

エンターテインメントが「お笑い」限定になりつつある今、本物の技術で観客を釘付けにするというのは感動すら覚えます。
そうなんだ、僕らの楽しみや喜びの範囲って、結構広いんだよね。
だから、
今日は、普段は芝居とドラマで埋まっている頭がとってもリフレッシュ☆

ミュージカルでもレビューでもショーですらない、それはまさしく、グランド・ショーでした!!!

ぶんちゃん!ありがと!!!

2009年6月27日土曜日

帰ってきた役者馬鹿


Mickey Rourke: The wrestler

最初、スクリーンで観たときは素晴らしい俳優だなぁ、と本当に思いました。
映画「ランブルフィッシュ」の寡黙な兄貴の姿は今も目に焼き付いています。

そして、しばらくして、今度目にしたのは日本のボクシングのリングの上でした。
シースルーの情けないパンツをはいて、いわゆる「猫パンチ(?)」をくりだして情けないメインエベントをやっておりました。君は良い俳優だが、ボクサーではない。などと、思いながらブラウン管の中の彼を観て、もう駄目だな、と思っておりました。

案の定、やがて、僕の好きな作家のチャールズ・ブコウスキーを「バーフライ」という映画で演じ、自己満足的な演技にうんざりしたのを憶えています。

それから、詐欺師に騙され、全財産を失って、整形に失敗し、すべてが裏目に出、すべてを失い、彼は消えていきました。

そして、すっかり人々に忘れ去られた頃、美しかった容姿も醜く変わり、まったく別人として彼は現れました。

ミッキー・ローク。

復活は数年前の「シン・シティー」の怪演からはじまったと思います。
そして、「ドミノ」で実在した主人公の女性をサポートする力強いオヤジを演じエンジン全開。
更に、今「レスラー」という映画で彼の最高の演技を観ることができます。

人の生に、無駄なものはなにひとつない。
ミッキー・ロークを観て、そう思います。
落ちぶれた、ボロボロのレスラーを、彼はまさに自分の姿と重ねて生きました。
随所にそれが見えるんです。

娘に、「おまえにな、お前に、オレァただ、嫌ってほしいんだよ・・・俺のことを」と言いながら、涙が溢れてくる。

屈強な、我慢に我慢を重ねている男の涙は、最高です。
オッサーンのいじらしさに心が動かされます。
良い作品と出逢っていると思うよ、彼は今。

帰ってくるのを待ってたよ!
これだから、人生ってのは面白いなぁ☆


2009年6月26日金曜日

ベルリン


ベルリン 天使の詩 1987

天使が人に恋をして、人になろうとすると、死ななければならない。
天使は人として、地上を去らねばならない。
そんな、決まりがあるにもかかわらず、あえて人間になろうとした天使がいた。

サーカスの女性に惹かれ、地上に降りることを決意する天使。
彼は、仲間の天使に語る。


天使として永遠に生きることはすばらしい・・・
でも、時々そんな自分にうんざりすることがあるんだよ。

永遠に空中に浮いているよりも、
自分の重さを感じたい。

永遠の命をすてて、地上に自分を縛り付けてみたい。

子供を授かりたいとか、植物を植えてみたいとか、
そんなんじゃないんだ。

でもね、思うんだよ、
長い道を歩いてさ、家に戻ってくる、フィリップ・マーローみたいに、
で、猫に餌なんかあげてさ。

時には熱が出たり、
新聞のインクで指先を真っ黒にしたり、
人の精神にワクワクさせられるんじゃなくて、
ただ食べ物でワクワクしてみたいんだ、
首の曲線とか、耳の形とか・・・・


映画『ベルリン 天使の詩』の僕が最も好きな場面と科白です。

永遠の命を持つ天使が、人間の限りある命故に感じられる様々なリアルな断片に憧れる場面。
時として、あまりに当たり前で普通すぎることなので、特に省みられることのない日常の些末な部分。
彼の語るどれもが「普通」だけれど、有限な僕たちの生を彩る様々な部分の集合です。

この天使のように目を覚ましたい。
映画の中で描かれたように、モノクロ画像からカラー画像へ変えたい。
痛みすら喜びだと思いたい。
悲しみすら生きている実感だと思いたい。
こうして僕らは今日も生きているんだ。
僕らは天使じゃない。
僕らは彼らの憧れた、終わりのある「人間」なんだ。

天使のダミ声


木村充揮(木村ちゃん)
伝説のブルースバンド「憂歌団」のリードボーカリスト。天使のダミ声。
大阪在住。肩肘はらない、等身大で自然体の生き方そのものが、大阪ではカリスマを超えて、隣のすごいおっちゃん的存在に。<ネットの解説文>

憂歌団を初めて聴いたのは中学三年の時だった。
まだデビューして間もない彼らの演奏をテレビで観て、一発でやられてしまった想い出があります。
「ぱちんこにいこう」「おそうじおばさん」・・・・ナンセンスなそれでいてどこか愛おしい日常をブルースにのっけて歌っていました。

声がね、なにせ、声がものすげぇーんだよね。
一度聴いたら耳から離れません。

そんな彼の憂歌団が活動を停止し、でもソロの活動は継続中なんだな。

たぶん、その歌声と歌うソウル?魂?みたいなものがさ、どこか日常をしっかり背負ってて、決してブレていかない確固としたアバウトさに満ち満ちているんだ。はっきり言っていい加減な「良い」加減なわけさ。
決して驕らず、批判もか~るく受け流し、そんなのブルースじゃねぇって言われてもニコニコしながら歌い続ける適当さと強さ、彼、木村充揮にはそんなものがありました。

今のこの時代はどうも本音を話せば、ネガティブで意地悪で無関心という態度になるというパターンがそこら中に溢れていて、僕は違和感を感じます。「本音」というのは嫌な下らないことだらけなのか?本音を言えば人を傷つけることになってしまうのか?「本音」を語らないから人は人と上手くやっていけるのか?
なんでそんなに傷つきやすくなってしまったんだ?
傷つきやすい人間は、人に優しくなれないんだと思うよ、俺は。

ソロになった木村ちゃん(ゴメン)の歌う姿は、やっぱり本音だと思うよ。
そして、本音で歌っても、嫌らしいことにはならないってことがわかる。
人間てものを、少しは信じてもいいんじゃないかって気がしてくる。
傷つくことを恐れるよりも、自分の傷を、笑って受けとめる大らかさがあることに気がつく。
笑える奴は、優しくなれる。
臆病な人間ほど、人を傷つける。
自分に厳しい人間ほど、優しくなれる。
自分に甘い人間ほど、他人に対して厳しい注文を付けて苦しめる。

だから、
「普通」がいいなぁ。
「普通「の生活を満喫できたら、その「普通」から、かけがえのない瞬間が生まれてくるもんなぁ。
もっともっと「普通」を味わいたいものです。
作り事は、所詮作り事。
それは「生きる姿勢」のことかもしれないな。

「シカゴ・バウンド」



プライベートなビデオです。木村ちゃんの天使の笑顔とダミ声をありがとう!お店のマスターのバースデープレゼントに歌ってくれたそうです!素敵な画像に感謝!!
ここに「普通」と「幸福」があるんです☆

2009年6月25日木曜日

4400について


4400

前回ご紹介したタルコフスキーのストーカーという映画は、知る人ぞ知るという映画ではありましたが、その後の多くのSF系ドラマ作品にも少なからず影響を与えています。
最近の米ドラマの「Heroes」にしても「4400」にしても、意識的にしろ無意識的にしろ、確実に「ストーカー」の片鱗を観ることになります。

それにしても、最近のアメリカのTVドラマは映画に比べずいぶん魅力的な作品が多いような気がします。そして、放映シーズンを重ねています。
ただ気になることがあるのです。
それは、放送の突然の打ち切り。
もうほぼ常態化してきているような気がしますね。

かつて、ブロードウェイの舞台が批評家の評価次第で簡単に打ち切りが決まりました。今やアメリカの大きな舞台では新しい作品はほとんど上演されていません。映画もいつの間にか独立系以外のハリウッド作品はワンパターン化して輝きを失っています。
そして、少し可能性を感じさせたTVドラマが、次々と打ち切られていきます。様々な制作上の事情が複合的に絡まっているのでしょうが、多くは視聴率の低下を理由に突然打ち切られる。
この傾向は市場経済型の先進国では、常態化している傾向です。
採算が取れないと判断されたものをいつまでも続けている理由はないですから。

でもね、どこか、心ないなぁって思うんだ。
少なくとも、ストーリー上の謎や複線は説明してから終わらせるとか、いきなり丸く収めるような陳腐なラストで打ち切るなよ。制作者側の責任が感じられません。

例えば、4400。
4400というドラマは、過去六十年にわたって行方不明になった4400人もの人々がある日突然現れるというお話し。しかも彼らは一人一人とんでもない能力を抱えて帰ってくる。彼らの真の目的は?そして、彼らの失踪の謎は?
ドラマ中で一部分謎は明らかになるのですが、すべてすっきりしたわけじゃない。途中で打ち切りですので、奥歯に物が挟まったまま放置された感じ。
んで、これも昨今のアメリカン・ドラマらしいまことに残念な展開ではあります。
制作者は説明責任を果たしましょうよ。途中で投げ捨てるような作り方はやめようぜ!

オープニングのタイトルバックは何気ないですが、美しい。
失踪した人々がいなくなったその現場をコラージュしています。そして、時が経つ様子を短い時間で描いているんだな。やがて人々が還ってきます。

そして、パイロット版、つまり初回放映のテスト版ですが、この1回目と2回目ぐらいまでの画面作りの美しさはちょっと他に見あたらないと思う。薄暗い色と光を落としたマットな画面。
まるで、年を経た「絵画」そのものです。
初回がこんなに素晴らしいのに・・・う~ん、商業であることは百も承知ですが、あまりにも恥知らずな制作態度に末期的な症状を感じます。
どこかで、だれかが気づいてはいるんだろうな、きっと。

4400 Opening“A Place in time”



「発端」



「帰還」

2009年6月24日水曜日

ねがい


映画『ストーカー』:アンドレイ・タルコフスキー(1979)

今ではストーカーと言えば、「つきまとう人」という意味になってしまいますが、かつてタルコフスキーの映画が噂になっていた頃は、ストーカーとはゾーンの案内人のことでした。

映画『ストーカー』はソビエト時代の映画の傑作です。
難解すぎると言われることもあります。でも、画面と言葉に身を委ねると、物語に取り込まれ不思議なトリップ感覚を体験できるのも、この監督の作品のひとつの特徴です。
ソビエト時代の厳しい検閲を乗り越えて、完成した作品は、観念的なメッセージが逆にポエジーを生みだし、読み解こうとする人間に、深い物語体験を提供してくれるものでした。

ゾーンという隕石が落下して生まれた立ち入り禁止地域の案内人のストーカーは、「願いの叶う部屋」に人を案内するのが生業。
だが、そこに到達するまでには様々な危険が伴う。
ストーカーはやっとたどり着いた「部屋」で願いが叶うなんて嘘だと気がつくのだ。
そんな場所はどこにもない。そんなの人々の幻想に過ぎない。
絶望し、悪態をつきながら、やっとの思いで、家に帰り着いたストーカー。
彼は気がついていないのだ。
彼の大事な足の悪い娘が、「力」を授かったことを。
彼の願いは叶ったことを。

映画の一番ラストの場面は、あまりにも美しい歩くことのできない少女の「力」の発現を伝えています。




「ねがい」なんてものは、こんな風に本人の与り知らぬところで案外実現しているのかもしれません。
この映画、観念的すぎるかもしれませんが、その実、とても明確なテーマを持っているようです。人間の希望と絶望と願いの成就。
その意味では、タルコフスキーは作家としての説明責任は果たしているのです。

オープニング☆COLDWIND


木枯し紋次郎:1972年1月1日放送開始(フジテレビ系)

亡くなった市川崑監督は「緑」の魔術師だった。
ほとんど、どの作品を見ても、竹林、防風林、山の森、裏山の林・・・といった風になびく緑の風景が描写されていました。
僕は、どちらかというと、ドラマ性よりも、その映像の優美さに惹かれた監督だったんですね。

で、忘れられないのがテレビシリーズ『木枯らし紋次郎』。
リアリズム時代劇でしたから、斬り合いのシーンの格好悪いほど無様な姿や、雨の中や田んぼで泥だらけになりながらの殺陣など、魅力を言い出したらキリがないのですが、一番の目玉は何と言ってもオープニングの素晴らしさでしょう☆☆☆

遠景とアップ、動画と静止画像、そして緑の様々なバリエーションの組み合わせ。
小室等の名曲「誰かが風の中で」を背景に、紋次郎が動く。

このオープニングシーンを観るために、毎週テレビの前に座った想い出があります。
岩手の田舎で、緑なんか見飽きているはずなのに、何故かブラウン管に映し出された風景と紋次郎の旅する姿に、懐かしさと、孤独と、一人旅のヒッピーな感じに、憧れに似た思いを抱いたのでした。イージーライダーのバイク旅に通ずる「粋」があったんだな。
中村敦夫さん演ずる紋次郎の存在感と佇まいが、七十年代そのものでした。

最近、リメークされたそうですが、やっぱりオリジナルがいいな。
ファンとしては。


やはり。。。。

やはり、思った通り、世界の状況は動いているようです。
中国でも中東でも抗議の暴動が起こる。世界は民主化をめざして動いているように見えます。

でも、
本当にそうなのだろうか。

イランで少女が民兵によって射殺されたというニュース動画が世界を駆け巡っています。

射殺犯が本当に民兵なのか、大統領による選挙の不正が本当にあったのか、民衆によるとされている抗議行動の準備は如何に為されたのか、どうして選挙は不正だと騒ぐのがイスラエルとCNNとBBCなのか、そもそも殺された少女の正確な年齢も名前さえ不明なのは何故なのか・・・・実際何もはっきりしたことがわかっていないにもかかわらず、まさにアメリカとイスラエルに都合のよい状況が作り出され、展開されています。国際世論がイランに対する不信と米国を中心とした他国の介入を是認するのも時間の問題でしょう。いや、すでにその方向に動いています。

これまで、中南米や東アジア、そしてアフリカで繰り返されてきた同じ工作が行われていると僕は思う。これは明らかな人の死を利用した悪辣なプロパガンダです。
こうしたプロパガンダにのせられてはいけない。
こんな時こそ、背後の状況に眼をこらすべきだと思う。

ドラマを創る人間として見れば、現在のこの状況は、完全にシナリオ通りに動いているように見えます。このシナリオは、とても安っぽくシンプルです。この数十年何度も繰り返されてきたので、予想もつくのですが、だからこそ同時に強力で偏向した物語形成作用があるんです。
昨今のハリウッド製超大作映画のシナリオが単純な繰り返しになっているのと軌を一にしています。病的なほど繰り返しなんだ。
背後の利害関係に注目すれば、暴動を煽り、それを口実にし、真の攻撃を仕掛けることが可能になる国は限定されてしまうでしょう。実際はものすごく単純です。あまりにもあからさまなので人は逆に気がつかない。テロリストをやっつけろ!と叫ぶ人間自体がテロリストである、なんてことはなかなか気づきがたいことですもんね。

民主化の動きはとても重要なことだけれど、それを利用し世論を誘導する可能性についても常に気を配りたいものです。
現在は、今から十年前の状況とはまるで違う時代に入っています。
あからさまなほど、見え透いた、同じやり方を際限なく繰り返している連中がいる。

だから、
出来事の表面的な部分で、脊髄反応しない精神の静寂が必要とされている気がします。
条件反射的に、メディアの誘導にのらないこと。
昔もそうでしたが、今もなお、いや、今だからこそ、それが試されているんだと思うな。

イランで一人の少女が殺されました。しかし、その真相はわからないんです。
わからないのに、わかった感じがすること自体がプロパガンダの機能なんですね。
作られた誘導には、簡単にのるまい。

2009年6月23日火曜日

ロックの先輩!

ごめん。
このClipも外せません。

「グループ魂」のライブにやってきたキヨシロー先輩だッ☆

歌い出したら、空気が変わります。

キヨシロー先輩のすごさがスンゴク伝わってきます。

これは貴重な九分ちょっとだな。。。。。

そして、

With Chara☆

これもナイス!!!!静か〜な、きれ〜なロックだぜ。
キヨシロー先輩の奥さんのお父さんが亡くなったときに作られた曲。
チャラとデュエット。最高です。

二つまとめて聴いて欲しいんですが。。。
どすか?

聴けばわかる。



Remember you!!!

忘れねぇぜ。

そう誓っても、人は忘れちまうものさ。

でもね、一度忘れねぇって誓ったら、やっぱり忘れねぇぞぉ~!!

そうさ、俺たちは、そんな細い糸で繋がってる。

その糸は、確かに細いかもしんねぇけど、絶対に引っ張っても切れないガラス繊維。

そうだ☆

俺は、ぜって、忘れねぇぇえええ☆☆☆☆

って、お前はさっきから誰に向かって絶叫しておるのだ?

誰?って・・・・・・・そ、そ、そりゃあ、全人類さぁぁぁあああ!!!!

ちがうかぁぁぁあああああああ!!!!!

Remember you!!!!!!!!!!!!!!!!

大好きな二人です!!!!

忘れられない☆映画


變面(へんめん):The King of Masks

中国映画に『變面(へんめん)』という作品がある。
主人公の老人は旅芸人である。仮面を瞬時に変えるという特殊な芸を持つその老人は、北京の有力な劇団からの誘いも断って、一人旅を続けることを選んでいた。もうだいぶ歳をとってきたので、その芸を伝える子供が欲しいと思う。その芸は一子相伝であって、我が子しかも男の子以外には伝えてはならないしきたりになっていた。ある日、老人は捨て子をもらい受ける。利発で愛くるしいその子を老人は愛する。旅の途中、少年は老人から様々な技術を習っていく。だが少年には秘密があった。彼は、実は女の子だったのだ。もらわれたいがために嘘をついたのだ。夜、寝静まってから、船の舳先に座っておしっこをする幼い少女。
少年が女の子だと知った老人は、激怒し少女を追い出す。老人の船を少女は追うが、老人は少女を許すことはない。やがて、誘拐の嫌疑をかけれて獄中で死にかけた老人を少女は死を覚悟して救い出す。瀕死の少女を老人は抱きしめて、彼女の深い愛情を知って泣くのだ。老人はこの幼い少女よりはるかに自分が愚かだったことにやっと気づいたのである。
老人は決心する。男子にのみ伝える一子相伝のルールを破って、少女と共に生きることを。

必死であるということは生きることであり、生きるということは必死であることだ。汗と糞尿にまみれ、あくせくし、汚れていても、裏切ることはすまいと必死に生きる姿は愛おしい。失望し幻滅してもなお、それを乗り越えようとする姿が美しいのである。
夢中であるとき、人は意味のある人生を生きている。夢から覚め、一所に居座るとき、人生の意味は消え失せ、存在は無意味になる。


人には物語が必要だ。それは、自己や他者に幻想を抱かせるための装置としての神話化ではない。自分自身を含めた物語化である。ただし、その物語化は自己憐憫や自己韜晦とは無縁でなければならない。しかも、物語化は過去についてのみならず、むしろ現在進行形の物語化が必要なのだと思う。自己の負の側面は、同時に他者の負の側面でもある。夢とは現在進行形の物語を意識するということではないかと思う。夢中という言葉は、現在進行形の人の在り方を捉えた表現なのではないだろうか。
夢中であるとは、無意識であることではない。夢中であるとは、その瞬間に己のすべてを投げ入れる態度のことだ。
物語を読むことや観たことで心が騒ぐのは、その物語に自己を見出したときだろう。そして、そこに我と汝の間の関係性を見出したとき、物語に意味があったし、己自身の人生の意味も感じとることができるのである。
八十年代に事あるごとに物語は死んだと言われ、今は物語化の欺瞞が言われているが、それでも物語は在ったし、これからも在り続けるだろう。それは僕らを夢中にさせるから。

物語に入り込むというこの人間の想像力は、他の動物たちには見られない特性かもしれない。しかも、その物語を己自身の人生に見出せるのは、人間の最大の特権かもしれない。


※一子相伝の技を伝えるため、老人が身寄りのない男の子を買いに行く場面。この少年は、女の子なのです。
これが二人の出逢い。本当に美しい場面です。

最高のライブ☆☆☆


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2009年6月24日リリース
NGCA-1039 ¥2,000(税込)
nowgomix Records / SUZAK MUSIK

男女ボーカルオクターブユニゾン、8人編成、生演奏、日本語ボサノヴァのパイオニア、コルコバード。
河の流れに身を任せ、5年ぶりのニューアルバム登場!
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昨夜のコルコバードのライブは最高でした☆

全篇オリジナルのボサノバで、ゆったりとした時間と激しくグルーブするアップテンポの時間を楽しめました。
コルコバードのボーカル兼フルートの八反田リコちゃんは出逢った頃はまだ学生だったんだよな。
でも、今では妻であり母であり、つまりは大人だ。
つくづく大人になるのはいいもんだなぁ、とライブを観て、熟成された曲の数々を聴いて、思いました。

そう!僕らはきちんと大人にならなくちゃいけない。
中身はまるっきり子供のまんまだけどね。相変わらずだめだめだけどね。最近ちょっと太ってきちゃったけどね、関係ないね・・・でもね、大人になんなきゃだめなのよ。
バンド全体が「大人なバンド」でした。

音楽の力ってのはすごいもんで、不意に、まるで風のように、「何か」を気づかせてくれるんだな。

演劇にも力があるとすれば、それは気づきのチャンスを提供できるかどうか。

なにしろ、楽しくなくちゃ見世物はだめです。芸術なんて言ったって、作る側も観る側も楽しめるのが何よりも大切。そして、できるならその楽しみのハードルが低く、中身はどこまでも深いのが良い。ぼくはそう思います。音楽はその良い例ですね。ハードルの低さと中身の深さの関係はあらゆるショービジネスに普遍の在り方のような気がします。
だからこそ、僕がもっとも嫌いなものは、ハードルが高く、中身の薄いもの。芸術と名乗るとき、こうした間違いがよく起こるような気がするね。

見世物という低いハードルと、本気という濃くて深い在り方。
それを、昨夜、僕はりこちゃんたちのライブで感じました。

アンコールで聴かせてもらった『展望台』という曲は、長く逢わなかった友との再会を歌ったものだそうです。
すっげーよかった☆
だってそこには本当の気持ちがあったから。

2009年6月22日月曜日

For you a thousand times over!


The Kite Runner:邦題「君のために千回でも」

まず原作が素晴らしい作品です。
「The Kite Runner」、邦題は「君のために千回でも」。
原作で“For you a thousand times over ”と主人公アミールに告げる友達のハッサンの台詞が邦題になっています。
アミールは恐らく作家の分身、そしてその幼友達ハッサンは実は召使いなのです。
この二人の少年の友情と別れ、そして、アフガニスタンで成功した商人であったアミールの父が亡命先のアメリカでガソリンスタンドの店員からフリーマーケットへと職を転々とし、やがて亡くなっていく人生の変遷を丁寧に描いています。
アミールはアフガニスタンへ戻っていきますが、そこでなにを知るのか。。。

先日、映画のトレーラーをご紹介した作品ですが、音楽を聴いて頂きたい。
きっと、原作を読み映画を観たくなるに違いありません。

こんな人間同士のやり取りを、人間関係にぎこちなくなってしまった現代に生きる僕らは失ってしまっているのではないでしょうか。
時々、人とのやり取りに心底疲れることがあります。
KYであるとか、いちいち人の裏を読もうとする心理戦に人は疲れているような気がします。

やがて、この国だって戦争に巻き込まれないともかぎりませんが、どこか人の暮らしから遠いリアリズムがまかり通っている。
リアリズムになるとどうして、突然何も起きない、ただダラダラ過ごす人間を描くことになるんだろうか?
リアリズムになるとどうして、生きているのがつまらない、なにもやる気がしない、という人物たちがゴロゴロ現れてくるんだろうか?

もっと必死で生きようぜ!
もっと必死で生きようとするリアルを見つめようぜ!

アフガニスタンは明日の日本だと、俺は思うよ。
あの凧を飛ばした少年たちは、俺たちだと思うよ。




イマジンのこと


イランがどよめいていることは先日書きました。

BBCが暴動を煽るということで国外退去を言い渡され、なにが間違っていてなにが正しいのか、相変わらずちっともわからない状況になっています。

でもね、状況は実は単純な気がします。
ある国の内部で政情が不安定になればなるほど、喜ぶ国はこれまでひとつ。
勿論、国家というものは似たり寄ったりではありますが、少なくとも他国の内政が不安定になることをこれまでたえず工作し、煽り、方向付けてきたのは、そう、アメリカでしょう。
そして、そのアメリカの犬に成り下がっているのが、イギリスを中心とした「善」の国家群ということになるでしょう。日本もその一部に成り果てています。

気をつけたいのは、選挙もまともにできないイランという国に「民主主義」をもたらすためにアメリカが乗り込むという構図が今着実に形成されているということです。
イランという国がどういう国なのかまるで知らないのに、世界は今イランをテロリスト国家というイメージで見始めているでしょう?
マスメディアはイランという国が核武装する悪の国家という点でどれも同じ報道しかしない。
この反論のない状況こそ、これまで繰り返されてきたアメリカのやり口でしょう。
そのイメージで得するのは、アメリカを中心としたその周辺の国家しかいないじゃないですか。

こうして、攻撃の前提条件が作られ、今や当たり前になってしまった「先制攻撃」の口実になるわけです。
繰り返される「独裁国家」対「正義の民主国家」という決まった図式
今から六十年前、日本もこの図式に当てはめられ、戦争へと追い込まれていったことを忘れてはならない!
確かに、イランの現状は独裁的な色合いが強いのでしょう、ですが、呉々も、改革を口実にアメリカにつけ込まれないことを祈るばかりです。

だからこそ、「想像力」が必要なんだ。

ジョン・レノンのIMAGINEは確かに名曲です。
が、僕は清志郎のイマジンの方が好きなんです。
音楽になにができる?なんて言わないで聴いてみようぜ。

今は亡き清志郎の歌声に静かに耳を傾けるときではないですか?
落ち着いて、耳を澄ましましょう。
そして、イマジンしましょう。
ジョンも清志郎も歌う「天国なんかない・・・」という歌詞が、逆説なんだということを理解できるだけの想像力は持ちたいものです。

「天国なんかない」という言葉は、僕には「民主主義なんかない」に聞こえます。
少なくとも、歴史上「民主主義」が確立した国家など未だどこにもないということを忘れまい。
今全世界が確立しつつあるのは、残念ながら、みんなの理想とする「民主主義」ではありません。
一極集中のグローバル資本主義です。。。。。

想像しましょう。
イマジンのこと。

わすれないぜ☆ベイベー


コルコバード

今夜は久しぶりにライブへ行きます。

Corcovado:ホームページ『Corcovadoの囁き』

ボサノバなんてホ~~~ントに久しぶりなのでワクワクします☆

SuperGoooooood!!のメンバーでもあり、「ウォーターボーイズ」の振り付け等で知られる振り付け師にしてミュージシャンにして母にして妻である八反田リコちゃんのもうひとつのバンドでございます。
僕もかなりの方向を向いてとっちらかってますが、彼女、リコちゃんも相当なもんです。
以前SuperGoooooood!!についてはリーダーの高田エージ君について書きました。
まったく不思議なご縁を感じます。。。。。

って、なんかロックしてねぇぞぉ~!!!
落ちついてる場合か、俺ぇ!!

でもぉ、けっきょくあれだね、世間は限りなく狭く、絶望と希望はほとんど隣同士、昨日と明日は今日を挟んで隣同士ってわけだ。
ロックあり、ボサノバあり、ブルースあり、ポップスあり、演劇あり、お笑いあり、夢があって、希望がある☆

自分に今できることを最大限楽しむことだね。
それしかないもん。
俺たちにはボーナスはありませんが、定年もありません。
俺たちには安定はないけど、トキメキがあります。
俺たちには退屈はありませんが、憧れがあります。
俺たちには悲しみも怒りもあるけれど、喜びもあんだぞ。

静かなボサノバを聴くと、音楽ってのはあれだな、心の、なんてか、そう、オアシスなんじゃね?そう思います。
今から三十年ほど前に、アナウンサーをしていた女友達に、カセットテープをもらったのを思い出しました。
アストラット・ジルベルト。
そして、
スタン・ゲッツ。

2009年6月21日日曜日

日曜日よりの使者


今日は日曜日、ひと仕事を終え、今は自宅でもうひと仕事。
娘のいれてくれたコーヒーをすすりながら、音楽聴いてます。

ブルーハーツからクロマニヨンズの間に、ハイロウズというバンドがありました。

彼らの歌った曲で「日曜日よりの使者」というのがあんですね。

僕はこの曲が大好きで、大好きで、大好きなんですが、、、、この曲で歌われている人物がダウンタウンの(…)ちゃんだと聞いて、う~ん、困ったなぁ…………という気分、ダウンタウンはなぁ……、う〜ん、ゴメン、笑いは大好きですが、ダウンタウンは………まぁいいかぁ〜☆
ともかく、歌は、最高ぉさぁ☆☆☆

さぁ、もう一度やろうかぁ~っていう気になれる歌。
人生捨てたもんじゃないよ~っていうことが信じられる歌。
思い切り悩んだ末に出てくる単純さに溢れた歌。
だから、
生き直すための歌なんだ!

今日は日曜日。
だからってわけじゃないけど、聴いてます。。。。

ハイロウズ『日曜日よりの使者』


ハイロウズ『青春』

ロックは不滅だ☆


The Rolling Stones

Sheena & the Rocketsの鮎川誠さんが数年前に仰ってたけど、ストーンズというバンドは、野外のフリーコンサートでも決して力を抜かないそうです。
プロなら当たり前と言われそうですが、プロであればあるほど、金にならない仕事で全力投球するのは難しいでしょう。
でもストーンズは違う。
ここが大事。
大金が掛かっていようと、ノーギャラであろうと仕事は仕事。仕事は最大の遊びでもある。
その余力を残さない全力投球の仕事の在り方が尊いんだ。
そして、それがロックだ、と僕は思う。
還暦を超えてもなお、お金や名誉の前に喜びで動くこと。
それがロックすることなんだ!!

昨夜、UPS時代の先輩であり同僚の吉田敦さん主宰の「即興カニクラブ」の発表会に行ってきました。
ロックしてたぞ☆
プロもアマも関係なく、インプロを全員で楽しんでいました。
見ているこっちも大笑い。
久々に大人も子供も区別なくみんな笑顔!!!
世界の便秘を止めるため、やってきた正義の味方「東京モード学園マン」というはちゃめちゃなキャラクターが、大ウケでした☆☆☆
これはひとつのロックだと思うよ。
まず最初に拒絶せず、構えず、相手を受け入れる所からはじめる。それがインプロだ!!
Say, Yes!!!!!!
あっちゃんが二十年以上かけて育ててきたインプロの威力を僕は昨夜知りました。
新宿の地下で繰り広げられた熱い舞台を観ながら、僕の頭の中にはJumping Jack Flashがずっと流れていましたよ☆
ありがとう!!!

2009年6月20日土曜日

イランという国で

太陽は、ぼくの瞳The color of paradise

二十代の初頭、ある人の薦めでイランに通訳の仕事で渡航する話がありました。

残念ながら、突然の戦争の勃発と共にペルシャ湾が封鎖され、その話は流れてしまいました。

いわゆる1980年から八年続いた「イラン・イラク戦争」、第一次湾岸戦争の頃のお話しです。

イランとイラクの区別もつかない僕には、イランはまったく遠い最果ての国のような気さえします。日本の方がFar Eastですから、日本の方こそ最果てなのでしょうが。

90年代も終わりにさしかかる頃、僕はひとつの映画を観ました。
それが
マジッド・マシディ監督の「運動靴と赤い金魚」でした。

今も政情揺れる不安定な状態にあるイランですが、僕らは映画を観るべきだと思う。
なぜなら、そこには失われつつある「人間の暮らし」が描かれているから。
アメリカの超大作映画が失ってしまった「日常性」や「生活」という、人間の営みの最も愛しい部分がイランの映画にはあります。

「運動靴と赤い金魚」では妹の運動靴をなくしてしまったばかりに、ひとつのボロボロのスニーカーを妹と共有しあって、必死に走り、やがてマラソンの大会に出ることになる少年を描いています。少年の願いは単純で小さなことです。大会で二位になって賞品の運動靴をもらうこと。でも、残念ながら、少年は足が速く、必死だったので、一位になってしまうのです。賞品をもらえず家に帰ってきた少年を、悲しいはずの妹が優しく迎えます。そして、池の金魚たちも・・・。

『運動靴と赤い金魚』:Children of Heaven



ここにあるのは、貧しいけれど必死に生きる人々の明日へ向かう意志です。
そしてそれは、勝ち組みであることを望み、株主になろうとしたり、金融で一儲け企んだりして勝ち組みに安住しようとする世界では失われてしまった価値観なのです。
国も文化も違う僕らは、それでも共通の意志、愛する気持ちや、人や物を大切の思う気持ちや、損得勘定を越えた人間関係の可能性といったものを持ち合わせている。
それに対し「で、なに?」という問いかけは、市場経済型の価値観しか持ち得ないときに生じてくる一種の病です。
イラン人、
マジッド・マシディ監督の作品は、そんな病に対する処方箋で溢れているような気がします。
イランという国を僕らはどれほど知っているだろう?
ほとんど何も知らないでしょう?
それでも、彼の映画が胸に突き刺さるのです。
それが、真のドラマの持つ力だ。
そう思います。

もうひとつ、「太陽は、ぼくの瞳」という映画があります。同じマジッド・マシディ監督の作品です。盲学校に行っている少年が父と共に帰郷する物語。
父は目の見えない息子を恥じている。再婚しようとする父にとって息子の存在は恥そのもの、邪魔なのだ。息子のせいで、不吉な前兆と言われ破談するのを父は恐れる。だが、皮肉なことにそんな父を説得しようとした祖母の死によって、父の再婚話はなくなってしまう。盲学校の寮へ息子を連れ帰る途中、息子は川で溺れる。そして父は、一瞬迷うのだ。このままにしておいたほうがよい・・・厄介払いできる。しかし、物語のラスト、本当に素晴らしい奇跡が起こります。それを観て欲しい。


『太陽は、ぼくの瞳』:The color of paradise



今アメリカは核開発を口実に、こんな国を先制攻撃しようとしています。
僕たちは、一人一人、そろそろ目を覚ましませんか?
国や資本家の都合ではない、僕らの価値観を見出しませんか?
そんなときが来ているような気がします。

2009年6月19日金曜日

三島と東大全共闘



しかし、まぁ、1969年5月13日に東大の【焚】祭で行われた三島由紀夫と東大全共闘の間で行われた対話を見ると、いろんなことを感じるな。

まず三島由紀夫という作家の真面目さと学生の一部のフザケ方の違い。
やがて、この後、三島は責任をとって自死するのに対して、学生の一部は、サブカルチャーという名で八十年代以降の価値観を形作る中心的な存在になっていく。あくまでもサブカルチャーなんですが。

その代表はビデオに登場する人物「全共闘C」であろう。
この全共闘Cは「あらゆる既成の枠組みの破壊をめざす自由」を主張する。しかも、とんでもなく観念的な言い回しで、へらへら笑いながら、三島に絡んでいく。
まさにこの時代に全共闘Cはポストモダン的に脱構築をめざしているのである。
あらゆる意味も価値も認めない。ナンセンスだけが自由であり、自由である者だけが勝者なのだ。

後にCはこの時三島を論破したと主張しているが、論破などしてはいない。まったく議論にも会話にすらなっていないだけである。三島はこのナンセンスを大らかに許したのである。
しばらくして、このCはアングラ演劇の雄となり、演劇の破壊に努めている。
へらへら薄笑いを浮かべながら、偽善の60年代を通り過ぎ、過渡期の70年代をサブカルチャー、あるいはポップカルチャーの主人公として過ごし、薄ら寒いなんでもありの八十年代を満喫し、それから数十年過ぎた今も彼Cは観念的な皮肉を言いながら笑っているのだろうか。

生真面目だった全共闘Hは少し前に亡くなった。

69年に小学生だった僕は、二十代を過ごした八十年代の責任をとろうと思っている。

全共闘Cは、六十年代以降の責任をとる気はないのだろうか?
僕には、全共闘時代をとてもロマンチックに思い返すことができないのだ。
幼かったからではない。
あの虚しい八十年代の下準備が、六十年代に為されていたと思うからだ。

つくづく思うんだ。
この全共闘Cのような人間は決してMalcolm Xのような生き方は理解できないんだろうな。
いや、わかりすぎ、とか言いながらへらへら笑うんだろうな。

このビデオを見る度に、僕は時代の連鎖を感じる。
過去はまだ終わってないと思うぞ、C。

Xという名の男


"Wherein all the power used be centered in Europe, it's not centered in Europe anymore. It has divided itself up and is centered in different parts of this earth today. Much of it is in Asia, much of it is in Africa. It has shifted. And as the people in Africa and Asia get some power of their own, they get a mind of their own. They start seeing with their own eyes and listening with their own ears and speaking with their own mouth, and coming to definitions from their own brain. The European definition now isn't necessarily the definition. The European yardstick now isn't necessarily the yardstick. And what the European calls racialism isn't necessarily racialism. And what the European calls brotherhood isn't necessarily brotherhood."

By Malcolm X


マルコムXという男がいた。
かつて、奴隷だった頃、黒人たちは主人から姓を頂くか主人の姓をそのまま自分のものとするかどちらかだった。現代の黒人の姓も出自はそこにあるらしい。なので、マルコムXは自分自身を姓のない「X」と名乗った。

上の引用は彼自身の生前の言葉です。
「かつて権力はヨーロッパを中心に存在していたが、今はそれはアジアやアフリカに移りつつある・・・ヨーロッパ中心の価値観は必ずしも中心的なものではなくなってきている・・・」

オバマは「変化」を口にして大統領になったが、真の「変化」を口したのはマルコムXであった。真に変化を求めた結果が暗殺でありました。時代が変わっても、マルコムXは決して大統領なんかになれるはずがなかった。だからこそ、彼の言葉は今もなお予言的です。
ちょうど一ヶ月前、五月十九日が彼の誕生日でした。

確かに、アメリカでは彼の死後、公民権運動は成功し黒人たちの地位も向上したのかもしれません。でも、本当にアメリカは変わったのだろうか。そして日本は戦後そのアメリカとどんな関係を維持してきたのだろうか。
マルコムXという存在を、遠い異国の過激なテロリスト、黒人の権利だけを主張するブラック・パンサーの首謀者などという見方ではなく、我々の最も身近な人間、帝国主義的な社会構造に反発する隣人として、僕は見たいと思う。

若い頃、ギャングの手先になり刑務所にぶち込まれ、そこで書物と出逢い、徹底的な学習を行い自己変革を極めた男。それがマルコムXです。
学ぶということが、単に資格を得ることだけだったり、入学を許可されることだけだったりするようなものではなく、人生と向き合うためのものであればいいなぁ、と思います。マルコムXからわかることは、学ぶことが、実は恐ろしいまでの自己変革の契機であるという事実です。
その恐ろしさ、自分が変わってしまう恐ろしさを、肝に銘じながら学び続けたいものです。
その意味では、学校の成績が良いなんてのは、ぜんぜんどうでもいいことなんだよな。
むしろ、身に染みついた意味不明の下らない長年に渡る既成の価値観からの脱出こそ、学習の主目的だと思うな。

2009年6月17日水曜日

地球上で最高☆☆☆


トミー・エマニュエル (Tommy Emmanuel, 1955年5月31日 - ) は、オーストラリアニューサウスウェールズ州出身のギタリストグラミー賞に2回ノミネートされた『フィンガー・ピッキングの達人』として有名で、今までに、チェット・アトキンスエリック・クラプトンなど数々の有名なギタリストと共演を果たしている。兄のフィル・エマニュエルもオーストラリアで著名なギタリストであり、時折兄弟でセッションを行う事がある。チェット・アトキンスやマイケル・ヘッジスと並び、『アコギの神様』と呼ばれる事もある。晩年のチェット・アトキンスとは親交が深く、「間違いなく、この地球上で最高のギタリストの1人」と評された程で、チェット本人からCertified Guitar Player(通称C.G.P)の称号を授かった数少ないギタリストの一人。その為、Tommy Emmanuel CGPと称される場合もある。

この人も、友人にしてギタリストの川本君の紹介で知りました!
今「地球上で最高のギタリスト」と言われているらしいです。アコースティック・ギターにこだわってます。
まさに「アコギの神」だな。
プレイを見れば一目瞭然。
素晴らしすぐる~。。。。。。なにしろ楽しそう!こっちまでウキウキしてくるな。
えと、それから、ルックスは、どっかブライアン・セッツァーって感じもするね。
弾いてるのはメイトン”Maton”っていうオーストラリア製のギターなんだって。
楽器全体を使って弾きこなすので、傷だらけのMaton。

素敵です。
このギターもほすい~。。。
では、
ファンキーなやつと、メロディアスなやつ、両方見てみましょうね。
聴き惚れます。神様のテク。。。。。


バカうまアコギ tommy emmanuel Guitar Boogie


Tommy Emmanuel - Somewhere Over the Rainbow

WAKE UPPPPPPP!!

Rage Against the Machine

is an American rock band, from Los Angeles, California, formed in 1991. The band's lineup, unchanged since formation, consists of vocalist Zack de la Rocha, guitarist Tom Morello, bassist Tim Commerford, and drummer Brad Wilk. Rage Against the Machine is noted for its innovative blend of alternative rock, rap, heavy metal and funk as well as its revolutionary politics and lyrics. Rage Against the Machine drew inspiration from early heavy metal instrumentation, as well as rap acts such as Public Enemy, Urban Dance Squad, and Afrika Bambaataa.The group's music is distinguished primarily by their powerful stage energy, de la Rocha's rhyming styles and Morello's unorthodox guitar techniques.


「Rage, rage against the dying of the light ・・・」と歌ったのはディラン・トーマスでした。そして「Anger is a gift」と言ったのはマルコムX。
今、再結成し、時代が求めているのはRage against the Machineです☆
この人たちの音楽は、本気の怒りに貫かれている。
八十年代から、生暖かいユルイ時代が三十年近く続き、冷笑と小利口と小綺麗が世界にあふれ、やがて取り返しのつかないほど金意外に価値を見出せない時代に成り下がってしまった。かつてもっとよい時代があったなんて言うつもりは毛頭ないけれど、少なくとも時代は行き詰まり、転機を見出そうとしているように思えてなりません。
その転機とは何?そしてそれは何処にあるのか?

例えばGreen DayというバンドにはRage against the Machine と同じ「Know your enemy」という曲があります。Green dayもAmerican Idiotのような悪くない曲を沢山作り出してきましたが、不思議なことに、You Tubeにはまともな動画がひとつもアップされてません。それは当然コピーライトの問題があるからです。創作者にとってコピーライトは当然命ではあります。だけど、一般に伝えるべき内容と、商業的な内容は別ものかもしれない。少なくとも「Know your enemy」というタイトルから想像できるこの曲の本質は、商業利用の楽曲ではない意識的プロパガンダではなかったか。ですが、実質は商業主義から一歩も出ようとしない。つまり体制批判のスタイルをきどるニセモノの姿がそこにある。体制批判のスタイルで商売するニセモノなのだ。

Rage against the Machineの楽曲はそこら中で聴くことができます。確実にコピーライトが侵害されている。でも、彼らの真の目的が、小金を稼ぐことにないとしたら納得できるのです。彼は正しくプロパガンダを発している。本気で怒っている!
僕らはたとえロックというひとつのジャンルの音楽でさえ、耳を澄まし眼をこらさねばならないと思います。ホンモノとニセモノを区別しなければいけない。
Rage against the Machineは本物です。

Know Your Enemy:RATM



Wake Up:RATM



Testify:RATM

2009年6月16日火曜日

あれから42年・・・


Ernesto "Che" Guevara (June 14,1928 – October 9, 1967), 
commonly known as Che Guevara, El Che, or simply Che, was an Argentine Marxist revolutionary, politician, author, physician, military theorist, and guerrilla leader. Since death, his stylized image has become a ubiquitous global symbol of Counterculture.

革命家チェ・ゲバラが亡くなってから、もう42年が経つ。
新聞の一面に彼の亡骸を見たとき、僕は小学生だった。でも、はっきり憶えているんだ。ゲバラの亡骸がどこかキリストのようだったことを。
僕の育った家の便所には、イエスの画が掛かっていて、そのイエスの表情にそっくりだった。
僕にとってゲバラは「便所のイエス様」だ。
以来、彼の肖像は至る所で見かけるようになった。T-シャツの柄だったり、ポスターだったり、とにかくゲバラはいつの間にかポップカルチャーのイコンになっていた。
でも、彼のような生き方を再評価する時代が来ているように思う。
ちょっと前までは、パンクロッカーがシンボルにしていたぐらいだったのが、彼の生き方そのものが意味を帯びつつあるようだ。僕はとても嬉しい。というのも、団塊の世代のロマンティシズムに火を付けたゲバラではあったが、本当に革命が必要なのは「今」だからだ。「今」この時代こそ、真に革命の精神を開花させなくてはならない時代だと思う。
この三十年ぐらい続いている、拝金主義的な価値観にうつつを抜かす姿勢が、そろそろ終わりを告げようとしているのではないかと思うのだ。株や金融で、人は救われないんだよ。そんなものは、人生のオマケに過ぎない。本当に欲しいものを、僕らは求めてもいい時代に来たんじゃないか?
政治も、経済も、確かに絶望的ではあるけれど、「魂」はまだ腐っちゃいないだろう。
もっとも個人的なことは、もっとも普遍的なこと。
もっともローカルなことは、もっともユニバーサルなこと。
ここにあることはあそこにあり、ここにないことはあそこにもない。

先日ご紹介した「川村カオリさん」のブログからまた引きさせて頂きます。
タゴールの詩です。

「危険から守り給えと祈るのではなく、

危険と勇敢に立ち向かえますように。

痛みが鎮まることを乞うのではなく、
痛みに打ち克つ心を乞えますように。

人生という戦場で味方をさがすのではなく、
自分自身の力を見いだせますように。

不安と怖れの下で救済を切望するのではなく、
自由を勝ち取るために耐える心を願えますように。

成功のなかにのみあなたの恵みを感じるような

卑怯者ではなく、失意のときにこそ、
あなたの御手に握られていることに気づけますように。 」

(ラビンドラナート・タゴール『果物採集』より 石川拓治訳)

この祈りの言葉は、確かにタゴールの生み出したものですが、ゲバラの中にも見出すことができるし、たえず僕自身にも投げかけられる言葉でもあります。

あれから42年・・・世界は、もう一度動き出すことができるのだろうか。
僕は、信じている。





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