2019年5月18日土曜日

『美しいということ』

『美しいということ』

タイトル『紅』   作:米島虎太朗




先日、上野の東京都美術館にて絵画と写真の展覧会を見る。


久しぶりの上野の森。
日差しは結構暑かったけど、木陰に吹く風が涼しくて気持ちがいい。
駅から美術館まで、ゆっくり散策。いつもは近所の公園や川沿いを歩くんですが、木漏れ日の中を歩くのは最高にいい気分☆


沢山の人が歩いている。老いも若きも家族連れもカップルも或いはひとりで。そんな人々のすれ違う中、本来ならウンザリするはずが、なかなかそれも楽しい。その後、あえて人々の群れを余所目に、森を通り抜ける。
ヒンヤリした風を感じ、木々の緑の枝先の向こうに蒼空が見えた。瞳の中に太陽光線が創り出す光の輪が見えた。


ふと歩きながら、地元の駅のホームから見上げた時、薄い雲の間に逆さになった虹の弧を見たのを思い出す。上空には冷たい氷の粒があったのかもしれない。虹は普段とは逆向きに薄く七色の光を発しながら、ホームの上空に佇んでいた。その逆さの虹を見た後、今度は上野の森で、光の輪を見たわけだ。


美しさとは一瞬の奇跡なんだな。そのモーメントを逃すと決して同じ体験はできない。保存することも、見返すことも本来はできない。演劇や音楽に関わっていると、つくづくそう思う。同じことは二度繰り返せない。


しかしながら、写真や絵画というジャンルは一瞬を凍結させる芸術であります。勿論、演劇も映画も音楽も瞬間の凍結の側面もありますが、それでも「静」という要素は写真や絵画にこそ相応しい気がします。

木漏れ日の中を通り抜け、美術館の中に入り、一階の展示室の一番奥に、その作品は静かに掲げられていました。



**『紅』**



和傘の紅色が太陽光に照らされ輝く風情が、一瞬の揺らぎの中で切り取られていました。

学校という圧倒的な制約と圧力の中、懸命に戦っている君の見た景色は確かに「美」そのものでしたよ。


美は制度を超える。


とても大切なことを学んだ気がするんですよ。美しい瞬間に素直になれる、というのは一種の特権だということ。
そして、どんなに大人たちが、政治的に忖度しても、制度を盾に圧迫を加えても、美を見出した人間を止めることはできないのだ、ということを。



大人たちの尺度に合わない若者が次の時代を創り出すんだよ。
その意味で、この作品が新人賞を取れたことは、大人もまだまだ捨てたもんじゃないな、という証かもしれないね。


美しいということは、決して万人ウケすることではなくて、静かに対象と瞬間を共有し合う交流から生じる「結晶」のようなものなんだろうな。



上野の森で、僕はとてもリラックスして、美を楽しんだよ。



ありがとう😊y

2019年5月11日土曜日

懐疑的であることはたいせつだよ

"The Power of the sun"   by Kazan UENO
『懐疑的であることはたいせつだよ』



信じるという言葉があります。

僕らが日常的に使うこの「信じる」という言葉は、実に多様な意味がありますね。神や真実の存在を信じたり、あなたの言うことを信じたり、新聞の記事を信じたり、ネットの噂を信じたり、SNSの投稿を信じたり、、、、、どれもが同じようですが、ちょっと違う。

信じる行為を可能にさせるのは、信仰や信頼や愛情や友情や尊敬や、様々な要素によって質のことなるものだからです。
とはいえ、僕らは常に何かを信じたいし信じるからこそ何らかの確信を持って前へ進んで行けるし、信じるからこそ様々な問題への対処が楽になる。

ですが、本当に信じることで救われてますか?信じることで大概は救われるのでしょう。信じるからこそ、何かに囚われ、がんじがらめになり、疑うことが罪悪に思え、身動きがとれなくなる、なんてことありませんか

昔読んだ本の中で、クリシュナ・ムルティという方が「私は何も信じない」と言っておりました。確か彼の著作のタイトルにもなっていましたね。
自分の教団を持ちながら、信者たちを捨て、教団を畳んだ彼は、自ら何も信じないと言うことで、彼の後を追う信者たちに「自らの力で考えよ」と言ったのだと思う。

同じようなことがかつてドイツでもありました。
実存哲学の巨星、マルチン・ハイデガーは戦後ナチスに協力したということで、評価を著しく下げてしまった晩年が哀しい哲学者でしたが、戦争中、弟子であり愛人でもあったハンナ・アーレントをドイツからアメリカに送り出す時、こう言いました。

「思考せよ」

単純に何かを信じるのではなく、考え続けることこそ価値のあることだと伝えたわけです。

信じるという行為は、本当に難しいことですね。例えば夫婦だって信じることがなければ一緒に暮らすことなんてできやしない。信じることは、それほど僕らの日常に深く根ざした根本理念とも言えるかもしれません。
それでもなお、信じることの「怪しさ」、場合によっては「いかがわしさ」に注目せずにはいられません。


日々流されているニュースにしても、特にあからさまなフェイク・ニュースというわけではないにしても、すべて信じ込むような人はいませんよね。何か事件が起こると似たような事件が立て続けに報道されますが、それは報道する側が取捨選択もしくは忖度しているわけです。僕たちがニュースを選べるわけもなく、すでにメディアによって取捨選択と忖度が行われて、その結果として見せられているに過ぎないのです。
だとすると、一概に一連の報道を基に傾向を探ることは、報道を流す側の忖度に乗っかってしまうことになりはしませんか?
テレビは駄目だけど新聞は信じるというメディアの種類の問題ではなく、受け取る側のこちらの姿勢の問題なのです。鵜呑みにするのは受け取る側が「信じ」込む準備ができているからです。準備は教育かもしれないし、目上の人間から受け継いだ信念かもしれないし、社会的立場で培った常識かもしれません。いずれにせよ、自らを疑うことがない場合は、容易に「信じる」という行為が生まれやすいのではないかな。

それとは対称的なのが「懐疑的である」ということです。
一般に懐疑的であるというのは、どこか斜めに見た嫌らしい態度のように見られがちです。懐疑的=疑り深い、というのかな。

とはいえ、懐疑的であるというのは思考するということであり、疑うことのない思考は思考ですらないかもしれない。人間の頭の中は絶えず様々な事象が入れ替わり立ち替わり現れ、疑問(疑念)と検証(確認)を繰り返しています。
疑うことがなければ確認もないので、疑うことがなければ放置されるわけです。安易な信じるという行為の究極の危険性はここにあると言えます、
すなわち、思考をやめ、事象を「放置する」ということ。


クリシュナ・ムルティの「何も信じない」も、ハイデガーの「思考せよ」も共に、放置せず、人任せにせず、自らの精神をフルに使って、頭脳を働かせ「疑え!考えろ!」と言っているのではないかな。僕にはそう思えてならないのです。


懐疑的であるというのは、実に良いことです。
懐疑的であるからこそ、思考するのですから。
懐疑的であることにあまり良い印象を持たない日本という国の常識的なものの見方こそ、見直すべきものだろうとしばしば思うのです。






「懐疑的であること」にあたる英語の"Skepticism"は決してネガティブな意味はないと思うけどね。
何事も簡単にあるいは安易に信じすぎず、疑いましょう。






2019年5月6日月曜日

言語化する意味


【頂いたルチャのマスクを被って著者近影】


『言語化する意味』


言葉の持つ力を信じたい。
生真面目な言葉も、ふざけた言葉も、かたくなな言葉も、優しい言葉も、すべて必要だ。僕らは言葉によって生かされている。


言葉とは一種の祝祭だ。この世を生きて味わう祝祭の結晶。それが言葉だろう。



「なんとなく」というのはたまには良いけど、やっぱりやだな。なんとか言語化しようと試行錯誤を繰り返し、苦悶し苦闘するのがいい。
同じく「人それぞれ」というのも、好きになれない表現のひとつ。なんであれ、どんな状況でも、人それぞれは常に何にでも当てはまる当たり前のこと。故に「人それぞれ」は決して結論にはなり得ないのだ。ただ丸く収まるだけ。そこに批評や批判といった思考が入り込む余地はない。言語化に対する拒絶。それが「なんとなく」と「人それぞれ」ではないかな。



先日も、大学で質問されたのが「批評」と「批判」についてである。
どうも誤解があるようなのだが、批評と批判は「否定」ではありません。むしろ事象や対象を分析することこそ批評や批判の存在価値でしょう。なのになぜかこの国では音が似ているせいか批評と批判が否定と同一視されている。しかしながら批評にも批判にも否定の意味はどこにもないのです。



言語化するとは、世界の表面から隠されている意味を掘り返し、そこに批評や批判を加えることでしょう。見ようとしない限り決して見えてはこない世界の「意味」は批評や批判という鋤や鍬でほっくり返さない限り、人目に晒されることはないのです。



日本の従来の文化の中には、阿吽の呼吸であるとか、みなまで言うなとか、言わずともわかるとか、言語化することを一段低く見る、もしくは言語化することが必ずしも意味があるとは見ない傾向があるようです。



でもね、言語化は必要です。あえて言葉にすることで、具体化し見え始めることも多いから。言葉にしなければ、ないのも同じ。そこにはほんのちょっとの勇気が必要なのかもしれません。
言語化するという行為を通じて批評し批判すると、周囲の反感を買って、自分に対する評価が下がるかもしれません。これもよくこの国で起きること。無難な、批判も批評もない空虚な言説ほど評価は高くなるでしょ。そういうことです。でも、ここはあえて言語化する勇気を持ちたいものです。それは何も反感をあおることでも、ネガティブに他者を攻撃することでもありません。対象と正直に直に向き合う決意こそが、言語化するということのひとつの矜持に他なりません。


言葉を使う祝祭は、ほんの小さな勇気と共にあるのだと思う。



インターネットでも、日常生活でも、学校や会社でも、クラブでも通りを歩いていても、そこら中で息苦しいほど言葉が敵視され、それ故に言葉が貧困に陥っていると思いませんか。言語化することもなく分かった感じになって、その日を過ごすことが多くなっていませんか。SNSではしょっちゅう書き込むのに、曖昧なまま言葉がネット上を漂っていませんか。テレビや広告宣伝の文句に、なんとなく従って日々を過ごしてはいませんか。自分で考えることがどんどん億劫になっていませんか。僕らはこうして言語の力を少しずつ奪われてくんだな。
こんな曖昧でよく分からない力のうごめく時代だからこそ、言語化することは意味のある行為なのだと思います。



寺山修司は生前「書を捨てよう、町へ出よう」と言いましたが、今は「無自覚な合意を捨てよう、言葉にしよう」と言いたいね。



どんな立場にあっても、言語化する努力は、未来を創り出すきっかけになるんだ。
昔料理を教えてくれた斉藤さんという料理長が「言葉で説明するのもいいもんだぜ」と言っていたのを思い出します。本来言葉を必要としないかに見える料理も、実は言語が必要なのですね。



言語化するということ。それはこの世界を生きるべき意味あるものとして認識する大切な方法なのだと思うな。
言葉はそれがたとえ放送禁止用語であっても、美しいものなんだ。
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