2008年10月27日月曜日

空よ


その少女は休み時間になると、いつも鉄棒にぶら下がっていた。
ぶらさがって、下から見上げる空は、どこまでも広く、思わず吸い込まれそうになる。
「おーいッ!空よ!」と少女は心の中で叫んでみる。
確かに誰かが遙か遠いところから「元気かい?」と答えてくれる。

空よ、お願いだ。この娘を見守り、慰めておくれ。
場所が変わっても、環境が変わっても、空を見上げることを決して忘れないこと。
地面に張り付いて生きるしかないが、心はいつでも空の上にある。
空の上からしか見えないものがある。

空よ。とその娘の父は思う。
少年の頃、あなたに慰められたことが何度もある。
やがて、時がたち、少年が父になり、娘に語る言葉を失うとき。
そんなとき、あなたを思い出すのです。
見上げれば、そこにある・・・あなたを。

小手先の技術は、空を見上げる孤独に確実に負ける。
技術によって夢が支えられているのではなく、孤独が夢を強化するのだ。

今日も空を見上げよう。
そう、今日の空は二度と戻ってこないのだから。

間違うということ

“ A life spent making mistakes is not only more honorable, but more useful than a life spent doing nothing. “
  George Bernard Shaw
Irish dramatist & socialist (1856 - 1950)


何もしないというのは、楽なようでいて、実際は疲れる。
そう思いません?
ゴロゴロ一日中やってると、頭痛がしてくるのは、僕が病の深い現代文明ジャンキー野郎だからでしょうか?社会の一歯車となって日夜コロコロコロコロ回っている奴隷だからでしょうか?

でもよぉ、はっきり言うけどよぉ、な~んにもしないのは疲れるよ、ホント。
何にもしないで、適当に生きるってのは、ほんとは大変なことだ。
原始の時代に生きていた人間でさえ、アルタミラやラスコーの洞窟に、必死になって絵を描いてすごしていたんだからな。
ゴロゴロするのは、失敗がないのでよい、と思うのは、愚かなことだ。
失敗がないのは、ホントによいことか?

俺なんかなぁ、はっきり言うけど、ここだけの話だけど、あんたにだけ言っとくが、失敗ばかりの人生だぞ。がはははは!ざまぁみろ!
だがな、劇作家のバーナード・ショーって人は案外いいこと言うなぁ。

「間違いばかりの人生は、何にもしない人生より、素晴らしいだけじゃなく、意味がある!」

どうよ?

何にもしないで、ゴロゴロして、人の批判ばっかしで、何も生み出さない人生ってのは、実はそれだけで十分「失敗」なんじゃねぇの?
どうせ、失敗するんなら、なんかやろうぜ!
かっこ悪くてもかまわない。惨めったらしくてもけっこう。金なんかほどほどでよい。モテようがモテまいが関係ない。立派と言われなくても上等だ。
なんだって、やったもんが勝つ!
世の中の勝ち組なんかどうでもいい。あれは人と比べてるだけだから。
とにかく、やったもんが勝つんだ!
正々堂々と失敗しようじゃねぇの!
ん?
どうよ?

2008年10月26日日曜日

不合理な存在

当たり前だが、人間はそもそも不合理な存在である。
だからこそ、できる限り合理的で論理的であろうとするのだろう。しかしながら、人間の試みる合理性や論理整合性には、必ず無理がある。
その無理を押し通そうとするところが、まさに、人間の不合理のもっとも典型的な顕在化である。

“It has been said that man is a rational animal. All my life I have been searching for evidence which could support this.”
     Bertrand Russell
English author, mathematician, & philosopher (1872 - 1970)

哲学者バートランド・ラッセルは言っている。
『人間は合理的な生き物だと言われきた。生涯を通じて、私はその証拠を探し求めてきたのだ』

ちょっと英語の先生をやってみると、この言葉の面白さがわかる。
has been said、というのは「~と言われてきた」という現在完了で表現されている。更に、I have been searching、というところも「~を探してきたし、今もなお探している」という現在完了・進行形になっている。
ということは、ラッセルは結局人間が合理的である証拠を見つけられなかったという否定的内容を、肯定表現で皮肉っているわけだ。

独りよがりであるとか、自分勝手とか、思いやりのなさ、とは別に、人はもっと己の感情と向き合って良いのだと思う。感情と向き合うことは、人生に責任をとるということなのだ。己の感情を無視し、何事もなかったふりをしながら生きる現代人は、己の不合理を受け止めようとせずに、わざわざ、そしてむざむざと、自分自身が自分自身を誰よりもまず最初に裏切るという悪徳を働いているのである。
自分を殺すことに慣れてはいけない!
他人を殺すのはもってのほかだが、無意識に己自身を殺すことのなんと無惨なことか!
僕らの中に、一人として合理的で、良くできた存在などいやしない。
悟ったような顔をしている坊さんににしろ、神父にしろ、教祖にしろ、教師にしろ、そのたぐいは全員嘘をついている!全員もれなく不合理の徒である。

だから、安心してもらいたい。
まず、自分の気持ちを大切に生きようじゃないか。
実は、それだけが真実だ。

2008年10月13日月曜日

デジャビュ


昨日は、武蔵小杉にある川崎市市民ミュージアムに行って『劇団 唐ゼミ』の芝居を観てきました。
タイトルは『ガラスの少尉』。
三十年ほど前、赤テントの状況劇場を観たのが、僕の芝居の始まりだったような気がします。
東京に出てきて、はじめて友達と観に行ったのが赤テント。池袋の開発前の空き地でした。すぐそばを山手線が走り、芝居の邪魔だろうなと思っていたのに、山手線の往来までも芝居の一部になっていたのを今でも覚えています。衝撃的な芝居との出逢いだった。
テントの入り口には縄が二列張られ、そこに生の鶏が何羽も吊されていました。一ヶ月の公演の間にそれは腐り、異臭を放つ液体をぽたぽたと滴らせている中を、芝居を観るには通り抜けなければなりません。あれは一種のイニシエーションだったんだな、と今思います。
そして、それはまさしく僕自身の芝居との関わりのイニシエーションになりました。
僕が今目指している芝居とは、形態もテイストも違うけれど、赤テントから僕は芝居の心意気と可能性を学びました。
今回は横浜国立大の元学生さんたちが唐さんから学んだその結果であると思いました。
制作し、演じているのは、今の若者たちなのに、それはまるで時間を三十年遡ってしまったかのような感覚がありました。彼には恐らく新鮮な発見であるものが、僕にはひたすら懐かしいものなのです。まさにデジャビュでした。
そして、芝居が終わったとき、僕ははっきりと思いました。
あの時代を経て来た僕は、やはり僕自身の道を行こうと。
それは間違ってはいないんだと。

君は君の道を行け。
僕は僕の道を行く。
そして、時代は巡る。

2008年10月6日月曜日

観念と具体

芝居は観念と具体の融合物である。
なんてことをよく考えている。
僕らはどうも、その二つのどちらか一方に偏りがちだと思う。しかし、両方必要なんだな。

観念と具体を言い換えれば、「思考と行動」になると思われる。
芝居はまさにこの二つの融合体ではないかなと思うのだ。

観念先行の舞台は、動きのない抽象化された美しさを持つかもしれないが、逆に作り手の責任が不在であっても許されてしまう甘さがある。
具体先行の舞台は、地に足をつけたリアルがあるかもしれないが、逆に結論が一般論や典型で終わる可能性がある。

勿論、観念的でも具体的でもない、明日に結びつかない内部完結した芝居は範疇外ではある。

僕は思考したあげく、具体へ至る道を選ぶ。
たぶん重要なのは、そこにあるバランスなのだと思うよ。

2008年10月4日土曜日

完璧な空


雲ひとつない晴天。本当に気分が晴れます。
すこし仕事で煮詰まっているので、こんな天気はほんとにありがたい。
ベランダから今日も一枚。
画面中央の木々の真ん中に黄色い物体が見えるでしょうか?
それは我が家の娘たちの愛する「電車図書館」です。いつかまたご紹介しますが、本物の電車の車両一両が図書館に改造されているんです。

しかし、子供の頃から写真が好きでした。ライカが好きで、風景もいいけどスナップが一番好きでした。この時代、スナップと盗撮の区別がつかなくなり、嫌な気分です。
ですが、いずれまた街の雑踏や人々の一瞬の表情も撮ってみたいですね。
僕とドラマの関係は、実は小学校の高学年から始めた写真から始まってるんです。
今でも、俳優たちにモーメント(一瞬)の大切さを話しますが、それは写真における「Decisive Moment」(決定的瞬間)から来ているのですよ。ドラマはその瞬間の積み重ね、決してセリフで説明するものではありません。

2008年10月3日金曜日

バクーニンを読む


今日も午前中の曇り空からうって変わって、もうすぐ正午になろうというこの時間には、空は秋晴れ、青空の中にポカンと雲が浮いています。仕事部屋の窓から柔らかい日差しが射し込んできます。しばらく続いたぐずついた天気もこのあたりでちょっといい感じだな。

この夏は仕事の合間にバクーニンを読んでおりました。
この右でも左でもないアナーキストの言葉に何度も励まされましたが、それ以上に、バクーニンという人が時代の中で、冷静にイデオロギーの推移を見つめていたことがよくわかりました。

ひとつだけ。
いずれエッセーに書こうと思いますが、1973年に白水社から刊行された『バクーニン著作集』の第六巻に現在にも深く関係している記述があります。
「マルクスとの個人的関係」と題されたこの小さな文章には、世間的にはほとんど話題にされることのない共産主義の先導者であるマルクスと銀行家であり資本家であるロスチャイルドの関係について分析的に書かれています。この左と右の頂点にある人物たちが、実は価値観や利害関係では完全に一致していたという記述です。僕にはこれはとても重要な分析であるように思えます。何故なら、真っ向から対立する図式、しかも長年にわたって存在した対立軸が、実は捏造されたものであるかもしれないからです。実際左も右もまったく対立してはいないのです。最終的に行き着く先は全体主義的な体制に他なりません。そして今は、冷戦後の新たな対立軸としてイスラム過激派とテロが出現しました。テロとの戦い。いったい我々は誰と戦っているんだろう?図式は時代が変わってもまったく同じであることに気がつきませんか?

興味があったら、古い本ですが一読をお勧めします。

2008年10月2日木曜日

おはよう!


久々に輝く朝陽を見ました。
このところぐずついた天気が続いていましたが、今朝は光に溢れていました。
今日も一日頑張るぜ!

昨日は娘たちと『二十世紀少年』を観てきました。
面白かったな。いいとこ突いてるんです。この時代の荒唐無稽に思える現実を。
自分とまったく同世代の物語のせいなのか、引き込まれました。
原作は長大な物語なので、細かく表現されていたものが表現しきれない面は確かにありますが、良く整理されていたので伝わってきます。ディーテールを知りたい人は原作をどうぞ。

何も考えない、何も見ようとしなければ、今という時代はテレビや新聞で報道されている通りなのかもしれません。しかし、よく目をこらして、耳を澄ませば、事態はどうもまったく違ったもののようです。911しかり、リーマン破綻しかり。
メデイアは今、確かになにひとつ真実を伝えてはいないと思います。その意味で、僕らはこれまでなかったほど極端に情報統制され、思考や価値観を操作された、危うい時代に生きていることを忘れまい。
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