2009年7月12日日曜日

「ぐるりのこと。」について

ぐるりのこと。:2008

この映画については、去年の作品でもあり、さんざ語られてきたと思います。
ですが、映画自体と物語に共感する者として、やはり書いておきたいと思いました。
僕自身、嫁と暮らし始めたのが1991年。
この映画で語られる物語の時間の流れは、人ごとにはとても思えない。

1993年から2003年までの、夫婦の軌跡を追った物語。
妻の翔子は1993年に妊娠しており、その子を死産してしまったことから、精神を病んでいく。
ちゃらんぽらんな夫カナオは、靴屋でバイトなんかしなからナンパしているような奴だったが、ひょんなことからはじめた法廷画家という仕事にのめり込んでいく。
崩壊しそうな翔子を支え、自分の仕事に対するプライドを自覚するカナオ。そして翔子も、寺の天井画にのめり込み、自分を取り戻すのだった。


こんなストーリーが2時間20分かけて語られるのですが、ちっとも長く感じません。
それは、この作品が喜劇でも悲劇でもない、あえて言えば「生活劇」といったものを実現させているからでしょう。
ディーテールを丁寧に丁寧に積み上げています。そこが重要なんだ。細部をきちんと描くこと。
今の演劇界でもひとつの流れが生まれはじめているリアル芝居というものも、実は「生活劇」というものの構築なのではないか、と思われます。
「生活劇」と呼ぶとなんとも糠味噌臭い所帯臭い感じがしますが、ドラマに長い間失われていたのはまさにこの「生活」の実感です。ハリウッド映画がこの二十数年の中ですっかり失ってしまったのも「生活」です。トランスフォーマーのどこに生活がありますか?

生活は「笑い」であり、同時に「怒り」と「悲しみ」です。すべてが豊かに混じり合い化学変化を起こし、味わいがどこまでも深くなる。何度見ても見飽きることのない「普通」の「暮らし」。
「普通」であることを受け入れるということは、厳しいことです。
人はナニモノかになりたがるし、普通であるとなにも起こらないと思い込んでいるからです。個性偏重が未だに続くこの時代においては、「普通」で「平凡」であることはどこか恥ずべきことのようです。
でも、それは完全な間違いです。
「普通の生活」こそ、豊かな感情で溢れている。
もし、「普通の生活」を描いて、ニヒルに見えるとしたら、それは「普通」を描いていないのだと思う。「普通」をどこかつまらなく見ているからこそニヒルに陥るんでしょう?
「普通」で「平凡」であることが嫌でたまらないから、シラケるんでしょう?
実は「普通」で「平凡」こそ、僕らの愛しい人生なんだよ。それを斜めに見ることなく、大切に描きたい。
それがこの映画にはありました☆

というわけで、この映画『ぐるりのこと。』は生活映画の傑作です。
僕らはもっともっと様々な人間の「普通の生活」を描くべきなんだな。昨日の「竜二」も、カッコイイやくざものを描いたのではなく、「生活」を描こうとしたのでした。だから、未だに色褪せないんです。

「普通の生活」「普通の暮らし」、ここに大きなドラマの水脈が流れているように思います。生活のないドラマは、ファッションだと僕は思う。
ファッションもけっこう。でも、本物のドラマが欲しいんだ☆

予告編



主題歌:Akeboshi - Peruna

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