2011年12月19日月曜日
ライブやるぜ!!
みんなで盛り上がろうぜい!!
FREECRUZ X'mas party live
日時 12月22日(木)19:00開演(開場は30分前)
会場 ライブスペース奇聞屋
杉並区西荻南 3-8-8-B1 (西荻窪南口から徒歩1分)
03-3332-7724
http://www.kibunya.jp/
料金 1500円+1ドリンク
出演 BOBI、ICHI、TOCCHY、SOTARO、HIRO 他
ゲスト 吉田敦、上野火山
2011年11月26日土曜日
ロックバンド☆
なんと2ヶ月以上ぶりΣ(゚口゚;
すっかり勘も衰えてしまったかな?と思っていたら、イエイエ、最高のセッションができました!!!
音楽はいいな☆
今日やった曲のほとんどが今日の即興で、瞬間を楽しんだ感じ。
スタジオ中に、幸福なエネルギーが充満していました☆
これまではストーンズやRC の曲などやってましたが、インプロビゼーションで何曲も生まれたのは奇跡だと思う。でもオリジナル曲を持つのはいいね!
ますますバンドも面白くなってきました☆
写真は今日のサンプラザ!!
2011年11月18日金曜日
津田塾大学訪問の巻
『通訳・翻訳への招待』と題された友人の言語学者・河原清志先生の授業にお邪魔してワイワイやりました。
先生とも久しぶりって感じの再会でしたが、楽しかったです(^_-)
翻訳に関してお話するはずが、かなり芝居自体に寄ってしまい、ちょっと反省してます☆
聴講してくれた学生の皆さんが、非常に好意的に集中して聞いてくれるので、楽しくお話しできました!!
いつも講義している法政大学と変わらぬテンションで話せたのも、先生と学生の皆さんのお陰です。
舞台も同じだね。
観客が半分以上作ってるんだよな。
良い観客とは、良く求める観客のことだと思う
今日は本当にリラックスして楽しめました!!皆さん、ありがとう!!
またね(^_^)ノ
写真は今朝の津田塾大学キャンパス!
2011年11月15日火曜日
マイティ☆ウクレレ
シンプルで柔らかな、暖かい音色。やっぱり息苦しい金融工学ばかりが取りざたされる今、この音色が見直されるのは価値あることです。
先日の近藤えりさんたちのライブでは、ニューウェイブな演歌から、マイケルのビリージーンまで、完全なウクレレの世界☆
最高でした!
愚劣化が留まることのない現在のこの世界の中で、もっとウクレレの音色に耳を傾けてもいいんじゃないかな、と思う。
僕ももう少しギターをやって、それからウクレレにも手を伸ばしてみたいと思うな。
ところで、この記事、新しいスマホのソフトウェアからのアップなのですが、うまくいくかな?
新しいツールは利用できて初めてツールになるんだもんね!!楽しもうと思います。何事も…♪
『マイティ・ウクレレ』予告編
2011年11月13日日曜日
2011年11月12日土曜日
実は…
窓の外
昨日とうって変わって爽やかな秋の空気の中を中央線が走る。
本当はね、三鷹で総武線に乗り換えたので、総武線の車窓☆
国のろくでもない為政者たちよ!そして、その尻馬に乗るもの達よ! いいかげんにしろよ。
いいかげん、本質を見てもいいんじゃないか? 私利私欲と保身ですっかり空っぽな人間どもには、何も見えないんだろうな。
この美しい国は、いったい今どこへ 行こうとしているのだろう? 1%の為に99%が奉仕する世界が確実に全世界を覆い尽くしつつあります。 かつてSFの主題に過ぎないと思っていたことが現実になりつつある。
ホッブスのリバイアサンがほんの冗談に思える今日この頃。
空はどこまでも青い。
2011年11月10日木曜日
宮澤賢治
もうすぐ、その会報が発信されますが、一足先にブログにアップしたいと思います。
2006年、建て替え前の旧「文化学院」の教室ー筆者撮影 |
『強さと感謝について』
上野火山 劇作家・演出家
宮澤賢治という詩人 の持つ繊細さは一般的によく指摘されるところかもしれません。ですが、その強さについて僕は思うところがあります。
賢治の強さは「ねばり」だと思うのです。その粘りは賢治自身よりも彼によって光を与えられた人々の中に見ることができる。例えば、女優の長岡輝子さん。彼女もそのお一人でした。
JR中央線に乗り「御茶ノ水駅」で降ります。明治大学側の出口を出ると交差点の角に交番が見える。交番を右手に見ながら坂を上がり、スターバックスの所で左に折れる。突き当たりまでまっすぐ進み右に曲がるとすぐに蔦の絡まる記念講堂が見えてくる。
そこが昭和の忘れ得ぬ人物「西村伊作」の創設した「文化学院」でした。
今は、数年前に建て替えられた近代的なビルになって、まったく別物の学校になってしまいましたが、僕はここで十一年間、演劇を講義しました。
長岡輝子さんとお会いしたのもこの文化学院の中でした。当時、すでに九十歳をとうに過ぎていらっしゃいましたが、月一回の「詩の朗読」という授業は退官なさるまで続けていらっしゃいました。
長岡さんが愛し、朗読の中心に据えていたのが宮沢賢治の詩でした。賢治の詩の柔らかさと激しさが彼女の口から光の欠片となってこぼれ出る様子を何度も見せて頂きました。
宮澤賢治という詩人は彼女にとってどんな存在だったのでしょう?生前、僕自身の書いた岩手の人々を描いた舞台作品をご覧になった折、長岡さんご自身がこんなことを仰いました。
「・・・あなたは岩手出身なの?」と彼女。
僕が「はい」と答えると「だったら安心ね。故郷の言葉はその故郷の人間が大事にしなくちゃ。あたしたちのすべてがそんな場所から来てるんだから、故郷からね・・・」
長岡さんは盛岡のご出身でした。僕は一関。町は違っても、同じ岩手です。僕たちは生きた時代も違います。彼女は戦前からの昭和を色濃く生き抜き、僕は戦後の昭和を青春時代として過ごしました。彼女は戦前、文化学院という時代に先駆けたリベラルな学校で学び、演劇と出会い、演劇に恋をして、やがて舞台の一線から遠のいたとき、賢治を人生の最後の仕事になさったようです。
イギリス海岸を歩く有名な賢治の写真を見るとき、僕は長岡輝子さんを思い出します。最後には車椅子の生活になられましたが、どこか風の中をコートを着て、歩いている感じがします。白髪の上品な彼女の柔らかな手を取って歩いたことがあります。いつも上を向いていらっしゃいましたが、僕には地面を見ている彼女の印象の方が強いのです。それはまるであの写真の中の賢治のように、決して空へ逃げないということでしょうか。賢治が空へ飛び出すよりも、実は空からの落下を描くとき胸を打つ描写が生まれたのも、どこか似た印象があります。お二人は、大地の人、でした。僕はそう思います。
ソーントーン・ワイルダーの「我が町(Our Town)」を長岡さんが演出なさったとき「原作はアメリカでも、演じる我々は日本人。だとすれば、舞台を日本に置き換えるべきです」と言って置き換えたのが一九七九年「わが町ー溝の口」という作品になりました。地に足をつけるという態度は、自らの体験的世界に固執して頑なになることを意味しません。むしろ、世界をよりリアルに伝える方法かもしれません。
風の中でコートの襟を立て、心なしかうつむき加減に、前へ進む姿。それこそ大地と共に生きようとし、空から地上へ降りて、自然と、そしてとりわけ人間と向き合おうとしたねばり強さの象徴的姿なのではないかと僕は思うのです。
大地の上で世界と向き合う。芸術を生きようとする人間にとって、これほど重要な決意はないと思われます。なぜなら、生み出される作品は芸術のための芸術というトートーロジーを超え、しかも芸術を行うというその行為自体を己の生活そのものにするからです。生活から全ての作品が生まれ出る。こんな当たり前のことが、見過ごされ、忘れ去られて行くのではないでしょうか。賢治も長岡さんもこの地上で自分自身の言葉と格闘したのだと思います。生きる実感の中から作品を生み出そうとしたのではないでしょうか。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・・」
生きるというのは、圧倒的な喜びである一方で、どうしようもなく残酷なことでもあります。生きることは、時には苦痛そのものかもしれません。それでも僕らは生き抜かなければならない。生き果てなければならない。死はいつもすぐそこにあって、終わりは必ずやってくるから。それまでどう生きるか。それだけが僕らに課せられたこの地上の仕事なのではないでしょうか。だからこそ、生には残酷さがつきまとう。賢治は苦しみの中で若くしてこの世を去り、長岡輝子という舞台人は百歳を超えて亡くなりました。お二人の人生は共に豊かで光に溢れながらも、どこか残酷な感じがあり、それ故に、汲めども尽きぬ深みがある。それは「粘り強さ」というあまりに東北的な精神的特質がこの二人の芸術家を引き寄せ、共感の中で、芸術的競演を可能にしていたからではないかと思います。
そして、もうひとつ、お二人に共通している重要な要素が「感謝」の感覚ではないでしょうか。
かつて、僕の舞台をご覧になった後、長岡さん、こんなことも仰っていました。
「・・・俳優を大切にしなさいよ。あなたの心を理解してくれる俳優を大切にしなさい。その人たちがあなたの宝なのよ」
まだ、今よりももう少し若かった僕は、自分の世界を体現してくれる俳優を大切にする、ということだと単純に理解していました。ですが、今は違います。感謝の気持ちを忘れるな、ということだと理解しています。
身の回りのあらゆるものに感謝する。勿論、人々に感謝する。僕らはすぐに増長し傲慢になり何者かになったかのように錯覚するので、「感謝」はそんな愚かさを少しだけ和らげてくれそうな気がします。
しかし、賢治を思うとき、感謝というものが、実際切実な感覚であることがわかるのです。
この世界では、ボンクラは役立たずで無駄で無意味で、なくてよいもの、目障りなもの、と見なされます。賢治が取り上げた様々な題材に見え隠れするもの、それはボンクラたちの存在ではないかと思うのです。社会的弱者という上から見た視線ではなく、この世界で欠くことのできない、貴重なボンクラの存在。思い上がった僕らの目を覚ましてくれるボンクラの存在。
映画監督のフェデリコ・フェリーニは「アマルコルド」という作品の中で、少年時代に出会ったイタリアの片田舎に暮らしていた様々なボンクラたちを描いています。長岡さんの視点もこの地上の普通の人々のボンクラな暮らしに向かっていたのではないかと思っています。
賢治は人々の嘲笑う、まさにボンクラたちを描き、自らのボンクラさに呆れ、ボンクラさに感謝していたのではないでしょうか。
良いものと悪いもの、意味のあるものと意味のないもの、価値のあるものと価値のないもの。豊かものと貧しいもの・・・・・。
この世界の二元論はあまりに徹底しているので、すっかり気がつくこともなくなってしまっていますが、僕らは良いものだけがあれば幸福という短絡に陥ってはいないでしょうか。感謝は良いものだけにするものではなさそうです。賢治も長岡さんも、感謝はありとあらゆるものにすることを教えてくれているような気がします。この地上で生きるというのは、そういうことではないですか。あまりにも無臭で脱臭されたデオドラントな世界になってしまいボンクラも魑魅魍魎も居場所がなくなってしまったようです。しかし、考えてみれば、我々はみなどこかボンクラだし、そこら中魑魅魍魎が跋扈してやしませんか。震災の後になって、ようやくそんな現実が見え始めたようです。
ですが、賢治は遙か昔の時代に生きていながら、人間の持つこの愚かさに気がつき、だからこそ、その愚かさを慈しみ愛したのだと思います。長岡さんは女優として、そして演出家として舞台上で人間の愛しい愚かさを見つめられました。その眼差しはまさに同郷の賢治から受け継がれた呆れるほど東北的な強さと感謝に溢れたものでした。
東北地方を襲った災害をお二人は知りません。しかし、もしお二人がこの世にいたら、と僕は時々考えます。
きっと殊更目立つことなく、お二人ともご自分のできる仕事をなさったのだと思います。
残酷なこの世界で、生き抜いた二人。この芸術的にも人間的にも大先輩たちから今学ぶことは、真に強くなるには感謝する心と態度が必要ということかもしれません。
南や北に、東や西に、走るとき。
それは施すために走るのではない。
ひたすら感謝するために走るのだ。
そこにいるのは、見知らぬ君ではない。
そこにいるのは、もうひとりの僕なのだ。
2011年11月7日月曜日
写真展@新宿
先日の舞台で大変お世話になりました『林典子』さんの写真展でした。
パキスタンの女性達。彼女達の中で近年増えている男性によって理不尽な理由で硫酸等を顔面にかけられた被害者達。 そんな女性達に寄りそうように、被害者の日常に迫った写真の数々でした。
女性の持つ繊細さと男性的な大胆さで、被写体に迫る林さんの姿勢は、これからの写真界を若いながら牽引していく才能なのだな、とあらためて感じさせてくれました。
混迷するこの時代の中で、若い才能は確実に生まれ、育っている。だとすれば、中年世代も壮年世代も、油断することなく生きたいものです。ますますアグレッシヴにね!!
青い空に白い雲。 気持ちのいい空気の向こうに東京を見ました☆
高層ビルの窓の遥か彼方に、スカイツリーが見えた。
東京の空の下。
こんな風景もいいものです☆ |
2011年11月2日水曜日
秋がきた
すっかり遅くなってしまった原稿をやっと書き終え、ベランダで深呼吸ついでに下を見ると上品な紅葉。
あまりの品のよさと、その見事な色合いに暫し眺める。ここぞばかりこの所すっかり身体の一部と化したスマホをポケットから取り出しスナップ!!
澄んだ空気の中、木々の葉は確実に糖分を溜め込み、冬支度を始めている。春に花を咲かせて楽しませてくれた桜が、今紅葉で楽しませてくれる。
世界の狂った騒音を、忘れることのできるひと時…。
金融恐慌だとかTPPだとか…心を静かにしてみれば、すべてがマヤカシ、すべてがデタラメだというのは、明らか。
秋の木の葉を眺めながら、心を静かにしよう。テレビはますますいらなくなった。新聞もいらない。
真実は朝の空気の中に、すでに在るのだと思うよ。耳を澄ませば。
2011年10月28日金曜日
国分寺を歩く
子供達がワーワー言う中を、英語の音読に集中するのは、それはたいへんなことだ☆
それでも母は強かった!! 一時間半の授業をびっちりやるんだな☆
素晴らしい!! 絵本をきっちり読めるようになったら、子供に読んであごたい、というのは本当に強い動機なんですね(^_-) やはり動機の強さは人に力を与えるね☆
教えることは、学ぶこと。 いつも生徒に教えられる僕なのさ(^_^)ノ
P.S. 写真は国分寺の坂と青い空だよ!!
そしてそれを撮る自分の影さ☆
2011年10月26日水曜日
秋の空を見る
青い空をバックにいい感じの雲。午後の柔らかい光が眩しいなぁ〜!!
騙し合いと隠し合いの人の世の喧騒から遠く離れて空を見上げる時間がなければ、いずれは無関心無感動のアパシーの状態に陥るか、鬱になってしまうな、と思う。
それ程末期的な時代を生きていることは確かだと思う。それでも空はある。
時々、地上を離れる時間を持ちたい。空から見おろす時、僕らは自分の本当の位置がわかるのかもしれない。空から見おろすから、ちっぽけな自分に気がつくのさ!!
何者かのように思い込んでいる自分を諦める瞬間、きっと人は空の青さを思い出すだろう。
秋の空。いいな。
上野火山
劇作家・翻訳家・演出家
volcano.kazan@gmail.com
2011年10月24日月曜日
バースデーケーキ
出演者のバースデーを祝ってケーキをみんなで食べたんですが、その日のブログに上げるはずが、今日になってしまいました☆
こうやって時期はずれもなかなかいいかも。
少し前をゆっくり反芻するのも悪くない♪
煮詰まった稽古場に一瞬柔らかな空気が流れたのを覚えています。
たぶん夢中になりたいんだよな。夢中になって時を過ごしたい、夢中になって今を生きたいんだよな☆
それが時には煮詰まったり、時には緩んだり、怒ったり、大笑いしたり、切なくなったり、僕らは世界を思いっきり味わう!
芝居をやる意味を時々芝居から離れた時に思い知らされる事がある。
みんなでケーキを分け合って一本の芝居が生まれることもあるんだな。
こんなあたりまえのことが大事なのさ!
2011年10月23日日曜日
デスクトップ☆
決して静かな環境というわけではありませんが、集中します。
面白い写真ソフトウェアを発見(^_-)
撮った写真がまるで絵のようになるんだな!スッゴクいい雰囲気♪
仕事の合間にちょっと写真撮影です。
アッ!キクチ君☆
ここでご返事!またの機会においでよ!!待ってます(^_^)ノ
ではでは!
2011年10月12日水曜日
無事公演終了!
本当にありがとうございました!
『イマジン 20㌔圏内』の上演が無事終了致しました。
短い間ではありましたが、連日、客席は熱い熱気で満たされていました。
台風の影響もなく、晴れわたった三日間にも感謝です!
現在、福島第一原発二十キロ圏内がどのような状況になっているのかというご質問を受けました。
写真家の林典子さんがその現場の報告をブログでなさっています。
その一部を引用させて頂きます。
http://myhp.ne.jp/norikoperu/
『・・・・首を固定されたまま餓死した牛の死骸がありました。。。
警戒区域内は家畜だけではなく、多くのペットたちがまだ残されています。国は動物を保護しているとか、対策を取っているとか色々報道されていますが、状況は全然良くなっていません。今にも餓死しそうな犬や猫がウロウロしていましたし、ある商店街の道路では死んだ犬の死体がそのままの状態になっていました。7月16日、17日に国と獣医師たちによる警戒区域内の動物たちの捕獲が行われました。私もその場にいましたが、本気でやろうとしているのか、単なるプロモーションのためだったのか。。。丸々2日あったのに、2日目は午前中で切り上げて終わってしまいました。。
今、民間のボランティアが警戒区域に入るのは禁止されていますが、それでも元の飼い主から連絡を受けたボランティアたちが何とか動物たちを助けようと自費で現場へ向かっています。。。
結局、圏内でパトロールに見つかれば、そのまま捕まります。それは写真家やジャーナリストたちも同じことです。
中に入るなと言われ、「はいはい」とそれに従うだけでは結局それで情報が規制されてしまいます。1年前までは確かに多くの住人が生活していた警戒区域になった町や村が、今どういう状態になっているのかということは絶対に伝えたり、記録する必要があるべきだと思います。そして中に入るかどうかは、もちろん放射能が高い場所がありますし、長時間圏内で動き回るのは安全ではありませんが、それは自己責任で取材すればいいだけであって、本来取材や撮影をすることに対して、こういった規制をする事自体どうなのかと思っています。
私はこの数ヶ月ずっと海外の媒体での取材でアメリカやドイツの記者たちと一緒に仕事をしてきましたが、どこの記者の方たちも「規制があるということは、伝わるべき情報が隠されてしまっている可能性があるし、だからこそその規制を破ってでも中に入らないといけない。今までの歴史を見てきてもそうだった」と話していました。そして、実際に行動に移していました。
福島の撮影はこれからも続けていくので、またアップデートするつもりです。』(林典子さんのブログより引用)
彼女のこの報告でも分かるように、問題は何一つ解決してはおらず、むしろ隠蔽が進んでおります。
林さんのような気骨あるフォトグラファーによる現状報告がない限り、僕らには知り得ない現実が多くあり、それが隠され続けているです。
目を開き、耳を澄まして、今この国に起きていること、そして世界で同時多発的に起きている事柄に注目したいと思います。
僕らは目をそらされてはならない。
演劇の公演が終わったとしても、現実は今もなお続いているのですから。
2011年10月8日土曜日
舞台上二日目☆
今劇場へ向かう道すがら、家の近所の川のほとりに咲いていました♪
舞台は、今日二日目です。
これからスタッフサイドの調整を行い、まずはマチネの準備に入ります。
毎日が再出発で再起動!それが舞台です。
いつでもそうですが、たった独りで、机の上から始まった想像が、やがてキャストによって実在する『人』となり、スタッフが 加わり『世界』が生まれる。想像が創造になる。奇跡だと思う。
僕はつくづく幸せ者だと思います。
人に恵まれ、場所に恵まれ、継続する力を絶えず与えられる幸運に恵まれています。
ありがたいね☆
僕は本当に思うんですよ。参加する人々が皆、何らかの形で幸福になれる舞台がいいな、と。
扱うテーマが悲劇であろうと喜劇であろうと、そう思う。
その『幸福感』こそ舞台を真実に導く力なのだと思うんだな。
今日もまた生き直そう!明日もね♪
劇場で待ってます!
☆上野火山☆
2011年10月7日金曜日
劇場前の空
上がイタリアン?なせいか、ちょっとヨーロッパの風情があるんです!
階段を降りると劇場入り口。なんともアットホームな暖かみのある劇場、それが『てあとるらぽう』☆
以前放送された『下北サンデーズ』という上戸彩ちゃんが主演したドラマのロケ地でもあります。
さぁ!今日の準備をはじめよう☆
☆上野火山☆
ついに初日☆
外は青空!夕方からぜひ劇場に足を運んでくださいね♪
小さいけれどパワフルな芝居を観てほしい!
チケットお申し込みお待ちしております!
写真は昨日の場当たり稽古の直前の様子!
俳優は静かに己の生きる場所を確認し、空気感じ、そしてつかんでいきます。
何もない空間こそ演劇の生まれる場所。昔、人はそれをヒエロファニー、すなわち神降りる場所と呼んだという。
僕らは今日、僕らの場所に立つ。
☆上野火山☆
2011年10月5日水曜日
明日から公演本番☆
本日の最終稽古を終えたら、明日から劇場入りです☆
キャストの熱気も充実しています。スタッフの緻密な仕事もありがたい。すべてがそろい、今本番がはじまろうとしています!
ぜひ、劇場に足を運んで頂き、一人でも多くの方にこの新作をご覧頂きたいと思います。
季節は夏から秋へすっかり変わってしまいました。真夏からつづく稽古も完了です。
皆様、ぜひ、劇場でお会い致しましょう!!
『イマジン 20km圏内』
【キャスト】
中村元則・眞鍋昌照・岡野愛・村田理美・宮原麻実(山下幼稚宴)・近藤エリ
【スタッフ】
プロデュース:上野火山
舞台監督:土居三郎
照明デザイン : 久保良明(エヂソン ライトハウス)
照明操作 : 三嶋聖子(S.E.W.)
音響:許斐 祐
演出助手:岡野愛
制作:岡崎秀美・空中スケッチ
写真:林 典子
チラシデザイン:岡野愛
映像制作:前田大介
制作協力:オーガニック・シアター/からし種シアター/Edison Lighthouse, Inc./山下幼稚宴
■公演日時
<開演時間>
10/7(金)19:00
10/8(土)13:00 17:00
10/9(日)13:00 17:00
(※ 開場は開演時間の30分前です)
■チケット代(全席自由)
前売券/3.500円 当日券/3.800円(開演30分前から)
(※ 各公演ごとに、高校生以下:2.500円の割引チケットを五枚ずつご用意いたします。先着順ですので早めにご連絡下さい!)
■チケットご予約・申し込み先
<空中スケッチ事務局:メール・アドレス>
kuchu.sketch@gmail.com
■インフォメーション
○空中スケッチ URL
http://web.mac.com/volcano2
○上野火山・公式ブログ
http://volcano-kazan.blogspot.com/
○空中スケッチ・公式ブログ
http://ameblo.jp/kuuchu-sketch/
■劇場 「てあとるらぽう」
西武池袋線「東長崎」駅北口下車 徒歩1分以内
http://www.t-rapport.com
2011年9月21日水曜日
あの鳥はどこまで飛ぶの?
今年は、災害や天候不順で講義が少なくなり、学生たちに申し訳ないような気がします。ごめんな。来週はいい講義するぜ☆
そんな今日という日は、家の中に閉じ込められ、買い物行くのもなんなので夕食は僕がオニオン・スープを作りました。
メインディッシュは鳥のハーブ漬け。
あと一時間もしたら夕食にしようね、などと言っていたら、下の娘が最新作の詩を持ってきて朗読してくれました。
サッシの窓が強風でがたがたいう中で、彼女の読んでくれた詩は、台風一過の青空を感じさせてくれるものでした。
『あの鳥はどこまで飛ぶの?』
by Sion
あの鳥はどこまで飛ぶの?
大きな弧をえがいて
小さいころ よく行っていた公園 今はどうなっているのかな?
大きな桜の木 細いケヤキの木
いつのものように
そこに立っている
あの鳥はどこまで飛ぶの?
大きな弧をえがいて
風にゆられながら 飛んでいる あの鳥
風の色 空気の音 空の声
耳を澄ませば 聞こえるもの
立ち止まると 見えるもの
さがしてごらん
2011年8月30日火曜日
夏の終わりなのかな
夏の午前の光の中で、いい感じに線路が続いているな☆
今日は稽古がオフ!
だけど一日中たまった仕事を集中して消化。そして、僕の明日がやってくるんだぜ!!
久しぶりにネットを再開した途端、昔の知り合いやかつての教え子と再会の連続。
24時間は限られているので、なかなかネットのコミュニケーションの時間はとれませんが、夏の終わりに、なんかまた面白くなってきたようです!
まだまだ暑いだろうから、お身体大切に♪
☆上野火山☆
2011年8月29日月曜日
青空の下
見上げれば、ぽっかりとジブリ雲。
今日は俳優たちがくる前にバミります!
バミる、っていうのは、テープでステージの実寸を出すこと。
今日は実寸で大道具を使った稽古!
青空の下で、本日から更に本番に近づきます☆
稽古が本当に楽しい今日この頃です!!
☆上野火山☆
2011年8月28日日曜日
十月公演の詳細
空中スケッチ・ホームページ
http://web.me.com/volcano2/Kazan-official/page23/page24/page24.html
チケット販売も開始いたしました☆
以下の劇団事務局にメールでご予約お申し込み下さい!
■チケットご予約・申し込み先
<空中スケッチ事務局:メール・アドレス>
kuchu.sketch@gmail.com
■インフォメーション
○空中スケッチ URL
http://web.mac.com/volcano2
○上野火山・公式ブログ
http://volcano-kazan.blogspot.com/
○空中スケッチ・公式ブログ
http://ameblo.jp/kuuchu-sketch/
灰になるまで
稽古と仕事に追われ、ネットからぐぐっと遠ざかっておりました。しかし、これから戻って毎日更新していきます!よろしく!
実は、今月初め、僕の初期の舞台「水伝説」の出演者であり、現在はNHKで美術を担当していたヒロミちゃんの告別式がありました。
いつも笑顔の絶えない女性でした。二人の男の子の母にして優秀な美術家でした。
この世界では優しい人が先に逝ってしまいます。
昔やっていたバンドにもコーラスで参加してくれました。ある大学の学園祭でロックしたとき、彼女も素敵なコーラスを聴かしてくれました。
二十代、共に思い切り楽しんだ友でした。
告別式で、ご主人の最後の言葉が今も胸に響いています。
「…今日は、彼女を灰になるまで見送るつもりです。」
暑い夏の日の午前の光の中、彼女は見送られていきました。
「灰になるまで…」
そう、僕らは灰になるまで愛し合うんだ。そして、死がそこにあることを意識しながら、夢中で生きていきたいものです。
灰になるまで、夢中で。
ヒロミちゃんが教えてくれた。
2011年6月24日金曜日
今日も元気だ!
人間の本質を、こんなに端的にスッキリ表しているものはそう多くはない。恐らく太宰や安吾やミラーやブコウスキーぐらいかな。
自分自身を嘲笑うことができるところに本物の詩を感じることができる。あっ中原中也もそうだな。結構いるね。いや、クズばっかりだな!!
種田山頭火の句に「どうしようもないわたしが歩いてゐる 」というのがあるけれど、この「どうしようもない」という自己認識を案外持つことがし難いのだと思う。大抵プライドが邪魔するし、ヘタをすればただのみっともない開き直りになってしまうから。
しかし、ロックはこのどうしょうもなさからはじまっている。まぁ、ジャンルについては人それぞれですが。ただ僕はロックの魂は「クズの自覚」だろうと思う。これは下品な開き直りじゃないよ。
もし、上に上げた作家達がこの世に生きていれば、全員人間のクズで、全員崇高な人々だった。
人間のクズという感覚は最も人間の人格の上で「品」のある自覚だと思う。
上品になりたかったらクズになれ、いやクズの自分を自覚しろ!
俺は、クズだッ!!!!
本当に我々はもっと自分の「クズ性」に自覚的でなければいけないとすら思う今日この頃である。
保安委員の不倫などどうでもいいのである。消えてなくなれ!!
人間のクズ/忌野清志郎 Little Screaming Revue
2011年6月18日土曜日
国家を解体するもの
アラブ諸国の国民が最も警戒しているのは、国民の要求に応えようとする政府を警戒し、その政府に攻撃を加える現在のアメリカの戦略だ。米国が他国に介入し内乱を引き起こし、解体に追い込む様はイラクやアフガニスタン以外にも枚挙のいとまがないほどだ。こうした戦略の一部を日本も担っているのは事実。そして多国籍企業となった日本の企業の多くもグローバリゼーションというアメリカ発の国家戦略に乗って動いている。今この時代は情報戦争と経済戦争と内戦と他国の介入という形で世界が破壊されつつあるのである。
興味のある方は読んで頂きたい。
アメリカとその同盟国(勿論日本も含む)は「本物」の民主主義を妨げるためだったらなんだってする、というスピーチ:常識という妄想から目覚めたいと思う。
NOAM CHOMSKY: The U.S. and its allies will do anything they can to prevent authentic democracy in the Arab world. The reason is very simple. Across the region, an overwhelming majority of the population regards the United States as the main threat to their interests. In fact, opposition to U.S. policy is so high that a considerable majority think the region would be more secure if Iran had nuclear weapons. In Egypt, the most important country, that’s 80 percent. Similar figures elsewhere. There are some in the region who regard Iran as a threat—about 10 percent. Well, plainly, the U.S. and its allies are not going to want governments which are responsive to the will of the people. If that happens, not only will the U.S. not control the region, but it will be thrown out. So that’s obviously an intolerable result.
In the case of WikiLeaks, there was an interesting aside on this. The revelations from WikiLeaks that got the most publicity—headlines, euphoric commentary and so on—were that the Arabs support U.S. policy on Iran. They were quoting comments of Arab dictators. Yes, they claim to support U.S. policy on Iran. There was no mention of the Arab—of the Arab population, because it doesn’t matter. If the dictators support us, and the population is under control, then what’s the problem? This is like imperialism. What’s the problem if it works? As long as they can control their populations, fine. They can have campaigns of hatred; our friendly dictators will keep them under control. That’s the reaction not just of the diplomatic service in the State Department or of the media who reported this, but also of the general intellectual community. There is no comment on this. In fact, coverage of these polls is precisely zero in the United States, literally. There’s a few comments in England, but very little. It just doesn’t matter what the population thinks, as long as they’re under control.
Well, from these observations, you can conclude pretty quickly, pretty easily, what policies are going to be. You can almost spell them out. So in the case of an oil-rich country with a reliable, obedient dictator, they’re given free rein. Saudi Arabia is the most important. There were—it’s the most repressive, extremist, strongest center of Islamic fundamentalism, missionaries who spread ultra-radical Islamism from jihadis and so on. But they’re obedient, they’re reliable, so they can do what they like. There was a planned protest in Saudi Arabia. The police presence was so overwhelming and intimidating that literally nobody even was willing to show up in the streets of Riyadh. But that was fine. The same in Kuwait. There was a small demonstration, very quickly crushed, no comment.
Actually, the most interesting case in many respects is Bahrain. Bahrain is quite important for two reasons. One reason, which has been reported, is that it’s the home port of the U.S. Fifth Fleet, major military force in the region. Another more fundamental reason is that Bahrain is about 70 percent Shiite, and it’s right across the causeway from eastern Saudi Arabia, which also is majority Shiite and happens to be where most of Saudi oil is. Saudi Arabia, of course, is the main energy resource, has been since the '40s. By curious accident of history and geography, the world's major energy resources are located pretty much in Shiite regions. They’re a minority in the Middle East, but they happen to be where the oil is, right around the northern part of the Gulf. That’s eastern Saudi Arabia, southern Iraq and southwestern Iran. And there’s been a concern among planners for a long time that there might be a move towards some sort of tacit alliance in these Shiite regions moving towards independence and controlling the bulk of the world’s oil. That’s obviously intolerable.
So, going back to Bahrain, there was an uprising, tent city in the central square, like Tahrir Square. The Saudi-led military forces invaded Bahrain, giving the security forces there the opportunity to crush it violently, destroyed the tent city, even destroyed the Pearl, which is the symbol of Bahrain; invaded the major hospital complex, threw out the patients and the doctors; been regularly, every day, arresting human rights activists, torturing them, occasionally a sort of a pat on the wrist, but nothing much. That’s very much the Carothers principle. If actions correspond to our strategic and economic objectives, that’s OK. We can have elegant rhetoric, but what matters is facts.
Well, that’s the oil-rich obedient dictators. What about Egypt, most important country, but not a center of—major center of oil production? Well, in Egypt and Tunisia and other countries of that category, there is a game plan, which is employed routinely, so commonly it takes virtual genius not to perceive it. But when you have a favored dictator—for those of you who might think of going into the diplomatic service, you might as well learn it—when there’s a favored dictator and he’s getting into trouble, support him as long as possible, full support as long as possible. When it becomes impossible to support him—like, say, maybe the army turns against him, business class turns against him—then send him off somewhere, issue ringing declarations about your love of democracy, and then try to restore the old regime, maybe with new names. And that’s done over and over again. It doesn’t always work, but it’s always tried—Somoza, Nicaragua; Shah in Iran; Marcos in the Philippines; Duvalier in Haiti; Chun in South Korea; Mobutu in the Congo; Ceausescu is one of Western favorites in Romania; Suharto in Indonesia. It’s completely routine. And that’s exactly what’s going on in Egypt and Tunisia. OK, we support them right to the end—Mubarak in Egypt, right to the end, keep supporting him. Doesn’t work any longer, send him off to Sharm el-Sheikh, pull out the rhetoric, try to restore the old regime. That’s, in fact, what the conflict is about right now. As Amy said, we don’t know where it’s going to turn now, but that’s what’s going on.
Well, there’s another category. The other category is an oil-rich dictator who’s not reliable, who’s a loose cannon. That’s Libya. And there, there’s a different policy: try to get a more reliable dictator. And that’s exactly what’s happening. Of course, describe it as a humanitarian intervention. That’s another near historical universal. You check history, virtually every resort to force, by whoever it is, is accompanied by the most noble rhetoric. It’s all completely humanitarian. That includes Hitler taking over Czechoslovakia, the Japanese fascists rampaging in northeast China. In fact, it’s Mussolini in Ethiopia. There’s hardly any exceptions. So you produce that, and the media and commentators present—pretend they don’t notice that it has no—carries no information, because it’s reflexive.
And then—but in this case, they could also add something else, which has been repeated over and over again, namely, the U.S. and its allies were intervening in response to a request by the Arab League. And, of course, we have to recognize the importance of that. Incidentally, the response from the Arab League was tepid and was pretty soon rescinded, because they didn’t like what we were doing. But put that aside. At the very same time, the Arab League produced—issued another request. Here’s a headline from a newspaper: "Arab League Calls for Gaza No-Fly Zone." Actually, I’m quoting from the London Financial Times. That wasn’t reported in the United States. Well, to be precise, it was reported in the Washington Times, but basically blocked in the U.S., like the polls, like the polls of Arab public opinion, not the right kind of news. So, "Arab League Calls for Gaza No-Fly Zone," that’s inconsistent with U.S. policy, so that, we don’t have to honor and observe, and that disappeared.
Now, there are some polls that are reported. So here’s one from the New York Times a couple days ago. I’ll quote it. It said, "The poll found that a majority of Egyptians want to annul the 1979 peace treaty with Israel that has been a cornerstone of Egyptian foreign policy and the region’s stability." Actually, that’s not quite accurate. It’s been a cornerstone of the region’s instability, and that’s exactly why the Egyptian population wants to abandon it. The agreement essentially eliminated Egypt from the Israel-Arab conflict. That means eliminated the only deterrent to Israeli military action. And it freed up Israel to expand its operations—illegal operations—in the Occupied Territories and to attack its northern neighbor, to attack Lebanon. Shortly after, Israel attacked Lebanon, killed 20,000 people, destroyed southern Lebanon, tried to impose a client regime, didn’t quite make it. And that was understood. So the immediate reaction to the peace treaty in Israel was that there are things about it we don’t like—we’re going to have to abandon our settlements in the Sinai, in the Egyptian Sinai. But it has a good side, too, because now the only deterrent is gone; we can use force and violence to achieve our other goals. And that’s exactly what happened. And that’s exactly why the Egyptian population is opposed to it. They understand that, as does everyone in the region.
On the other hand, the Times wasn’t lying when they said that it led to the region’s stability. And the reason is because of the meaning of the word "stability" as a technical meaning. Stability is—it’s kind of like democracy. Stability means conformity to our interests. So, for example, when Iran tries to expand its influence in Afghanistan and Iraq, neighboring countries, that’s called "destabilizing." It’s part of the threat of Iran. It’s destabilizing the region. On the other hand, when the U.S. invades those countries, occupies them, half destroys them, that’s to achieve stability. And that is very common, even to the point where it’s possible to write—former editor of Foreign Affairs—that when the U.S. overthrew the democratic government in Chile and instituted a vicious dictatorship, that was because the U.S. had to destabilize Chile to achieve stability. That’s in one sentence, and nobody noticed it, because that’s correct, if you understand the meaning of the word "stability." Yeah, you overthrow a parliamentary government, you install a dictatorship, you invade a country and kill 20,000 people, you invade Iraq and kill hundreds of thousands of people—that’s all bringing about stability. Instability is when anyone gets in the way.
2011年6月17日金曜日
I’ve Got Dreams To Remember
オーティス・レディングの『I've Got Dreams To Remember』
男女の愛の歌だけれど、そこにあるのものを「国」だとか「文化」だとか「家族」だとか、そして君や僕に置き換えることは出来ないだろうか。
僕は思い出すべき夢とは、何も昔別れた恋人だけではなく、「愛」そのものだと思えるのだ。
I've Got Dreams To Remember
[ by Otis Redding ]
I've got dreams, dreams to remember
I've got dreams, dreams to remember
Honey I saw you there last night
Another man's arms holding you tight
Nobody knows what I feel inside
All I know, I walked away and cried
I've got dreams, dreams to remember
I've got dreams, dreams to remember
I know you said he was just a friend
But I saw him kiss you again and again and again
These eyes of mine, they don't fool me
Why did he hold you so tenderly?
I've got dreams, dreams to remember
I've got dreams, dreams to remember
I still want you to stay
I still love you anyway
I don't want you to ever leave
Girl, you just satisfy me
I know you said he was just a friend
But I saw you kiss him again and again
These eyes of mine, they don't fool me
Why did he hold you so tenderly?
I've got dreams, dreams to remember
Yeah, I've got dreams, dreams to remember
Oh, I've got dreams, dreams to remember
Oh, I got my dreams, yeah, I got my dreams to remember
<Otis Redding - I've Got Dreams To Remember (歌詞 @ LoveCMSの洋楽歌詞)>
“I've Got Dreams To Remember | Playing For Change”
2011年6月16日木曜日
最高だぜ!!
仕事をしながら聴きたいので、ブログにもアップ!至る所にアップ!あっちにもこっちにもアップ!
そうすりゃ、どこでも聴けるもんね♪
なんだろうね?このグル~ブ感といいますか、ノリ!
おお!こんなギター弾きてぇ~…ってホンっとに思うよ。
だから、今日もスケールの練習するんだぞ。実はギターはまだウブなんす。
やるぜ!!!!!!
待ってろ、いや待っててねエリックぅ~、そしてジョ~☆
Joe Bonamassa - Further on up the Road (Featuring Eric Clapton) - Live at the Royal Albert Hall
ラファエルくん
Raphael Saadiqくん☆
ナイスR&Bですね!
昨日は学生達と楽しく語らうことができ、上機嫌でご帰宅しました。一人も躊躇することなく、自分の考えをどんどん話してくれたのはよかったな。自分の結論、自分の疑問、自分の派生した話し、すべては自分の態度から生じるんだね。
まず語り出さないと、まず書き出さないと、次には進めないんだね。
そんなことがよく分かりました。一生懸命話す君たちはそれだけでこの世界をすでに一部自分のものにしてるんだな。
その時間を共に共有できたことが幸せでした。
来週もまた語ろうね☆
さて、我が家にたどり着き、聴いたのがRaphael Saadiqくんの音楽だったんだな。
ラファエルくんの曲のタイトルもイカシてるんだ。
最初の曲は『Stone Rollin』だよ。石が転がってんだ。しかもストーンズを彷彿とさせてくれるね。
そして、こっちの曲は『Heart Attack』!!!心筋梗塞????しかも、客席と一緒に絶叫してますね!いいねぇ!!!
洗練された中に、レトロ感溢れるR&Bのセンスが光り、とってもいいですね!大好きです☆
2011年6月15日水曜日
メディア・ノート
M.マクルーハン著『メディア論』 |
しかしながら、そんなメディアが果たして存在するでしょうか?
メディア論といえば、かつてはマーシャル・マクルーハンでした。その彼の言葉が「メディアはメッセージである」です。
マクルーハンがその著書「メディア論」の序文で述べていることですが、いかなる技術も徐々に完全に新しい人間環境を産み出すものであり、環境は受動的な包装ではなくで、能動的な過程である、ということ。
これまでの新聞、雑誌、ラジオ、テレビというメディアに代わってインターネットが普及し、一般的にも情報の収集の仕方が劇的に変わってしまったけれど、寧ろ、情報は過多の状態になり、もはや個人では把握できない量になり、だからこそ思考停止が進み、旧式のメディアを盲信せざるを得ないという状況も生まれてきていると思われます。
メディアそれ自体がメッセージであるとすれば、現代のメディアの与えているメッセージとは何だろう?
メディアは媒介物です。この媒介物のやっかいな点は、絶えず市場原理と結びついてしまうという点でしょう。広告によって市場を形成する現在、メディアの実際の機能はニュース・ソースではなく寧ろ広告媒体が基本。例えば個人のブログなどでも巧妙にアフィリエートや他の様々な付加物によって実際は広告媒体として機能しているものも無数にあります。広告媒体が悪いということではなく、最終的には広告になってしまうそのメディアの性質に気付く必要があるのだと思うのです。
すなわちメディアとは姿の見えない何者かに絶えず奉仕するものでしょう。
従って、メディアの発するメッセージは表面的であろうと潜在的であろうと、メディアの奉仕する何者かの発するメッセージであると言えると思います。CMという形で広告であることが明確な場合は、まだ判断しやすいけれど、テレビのニュースや新聞の報道などは、それ自体が広告主のメッセージであるとはなかなか気づき難いものがあります。
同じマクルーハンのメディア論の中に、詩人エズラ・パウンドの例が出てきます。
パウンドは芸術家を「種族のアンテナ」と呼び、レーダーとしての芸術はいわば「早期警報装置」だと言った。芸術的営為が単なる自己表現であるとする一般認識とは逆であるとも語っています。市場原理主義に寄りかかった広告芸術もあればそうでないものもあります。あるいは広告宣伝に見せかけて巧妙に現状批判を伝えるものだってあります。故に、創造行為としての芸術の持つ早期警戒システムの要素は、今も薄れてはいないと思われるのです。受け止める側の準備、すなわち読み解くリテラシー(理解能力)が向上すれば、メディアによるコントロールよりも寧ろ、メディアに警戒しながらも、同時に本質を映し出す「早期警戒システム」に気がつき、点として存在する有益な情報を線で繋ぐことができるかもしれません。ちなみにエズラ・パウンドは文学者として生きたにもかかわらず、その背後でFRB(米国連邦準備銀行)と所得税(Income Tax)の制度の歪みをいち早く検証し、その連銀の悪行を白日の下に晒そうとして第二次大戦中、当局によって収容所にぶち込まれた人物です。
文学であれ、音楽であれ、美術であれ、演劇であれ、芸術は市場原理主義以外のメッセージを持ちうる、担いうる媒体です。
メディアとは、これまでテレビ、新聞、雑誌、インターネットに限られていましたが、気付くべきなのは、ありとあらゆる芸術行為そのものがメディアの創出であるという点です。
僕らのメディアは目の前にある。僕らはもう受け身でいる必要はない。僕らがメッセージそのものなんだ。
旧メディアの特定のメッセージはもうたくさんだ。「買う」「売る」「高い」「安い」「うまい」「まずい」「気持ちがいい」「気持ちが悪い」「儲かる」「儲からない」「得」「損」「勝ち」「負け」…、こんな紋切り型のメッセージが今の時代の価値観を潜在的に造り上げてきたのだと思います。
メディアとは組織ですらないのかもしれません。メディアとは伝えたいと願う個人の姿勢に過ぎないと思うのです。
まさに芸術とは技術革新があるとしても、時代が変わったとしても、実際は変わらぬ何かを提供するものだと思う。芸術というメディアの目標は決して変わることがないのです。それは「損」でも「得」でもない、この世界をどう味わうか。この世界の幸福を願うこと。君と僕は違っていて同じだということ。絶望はあるが、同時に希望もあるということ。メディアが伝えるべきことはこんなことだと思うのです。
そして、それは僕らが伝えることなんだ。テレビでも新聞でもなく。
メディアとは僕らのことだと思います。
今やもう昔の感のあるマーシャル・マクルーハンの「メディア論」を久しぶりに目を通しながら、こんなことを考えました。
2011年6月10日金曜日
アインシュタインはかく語りき
“ Strange is our situation here upon earth. Each of us comes for a short visit, not knowing why, yet sometimes seeming to a divine purpose. From the standpoint of daily life, however, there is one thing we do know: That we are here for the sake of others...for the countless unknown souls with whose fate we are connected by a bond of sympathy. Many times a day, I realize how much my outer and inner life is built upon the labors of people, both living and dead, and how earnestly I must exert myself in order to give in return as much as I have received. ”
- Albert Einstein
「奇妙だな、この地上にいる私たちの状況はね。私たちは一人一人ほんのわずかな短期滞在のためにここに立ち寄ってるんだよ。理由も知らずに、でも時にはなんだかとても崇高な目的に思われる場合もある。しかしながら、日常生活という視点から見れば、我々はひとつだけしっかりと知ってることがあると思うんだ。それはすなわち、私たちがここにいるのは他者のためであるということ。その人の運命と共感という絆で結ばれた数え切れない見知らぬ人々のために・・・私たちはここにいる。一日のうちに何度も、私自身の外側の社会的生活も内側の内面的精神的生活も人々の働きによって如何に築かれてきているか気がつくのです。その人達が仮に生きていようと亡くなっていようと・・・・そして、自分が受け取ったものに負けないだけのものを返すために、どれほど全力を尽くさなければならないのか、気がつくのです」
ー アルバート・アインシュタイン(訳:上野火山)
使い古された「共感」という言葉を取り戻すために僕は芝居作りをしています。
物理学者のアインシュタインは舞台とはまったく無関係ではありますが、その残した言葉の数々は力強くこちらに迫ってきますね。
先日、たまたまFacebookのお友達に教えて頂いた彼のこの言葉ですが、とても気に入っているので、勝手に和訳しましたよ☆
共感というのは、勇気のいる態度のことだと改めて思います。
なにしろ共感するには、相手に伝えなければ、単なる受け身で終わってしまうから。アインシュタインのように受け取った分をお返しするには更にパワーがいるはずです。だから大変。多くは僕も含めて、時々諦めてしまうこともあるかもしれません。
しかし、人生は死ぬまで「過程」に過ぎません。結論なんて出やしない。
だから苦闘します。苦闘の連続です。無口は駄目です。有言でなければ。黙っていてわかれというのは傲慢です。今の時代は被害者の時代ともいわれます。それは被害者であれば責任を取らずに済み、傷つく事柄から免れていられるからです。でもそれは駄目だ。好きこのんで痛みを求める必要はないけれど、痛みを避ける無表情を装うことは、共感から遠のくから。
アインシュタインのこの言葉は、人生という短い旅の中で人が生きる中で受け取る希望と同時に背負う責任という重荷の話なのだと思う。
自ら行わなければ、どんな批判も意味はありません。
客観的というの幻想です。客観よりも熱い共感の次元をめざしたいと僕は思うね。
アインシュタインのもう一つの痛烈お言葉は次のものです。
「私の学習を妨げた唯一のものは、私の受けた教育である。」by アインシュタイン
実に痛いお言葉です。
2011年6月9日木曜日
ハリウッドの自主映画
世の中ではあまり知られてもいない、埋もれた感のあるこの映画に関しては、かつてもこのブログで書いたことがあるのですが、今一度感想をメモしておきたいと思います。
ネットの書き込み等を見ると、この映画はかなり反感を買っているようで、「無関心でどこが悪い」とか「説教臭くていやだ」といったコメントが散見している。評判は著しく悪い。それも何故か日本で。まずは台詞が多いからね。
でも、いつからこんなに「観る」ということや「読み取る」ということの「体力」が弱ってしまったんだろうね。
読み手や受け手の側の「分からせろ」という態度は実は「分かりたい」という態度と違って、物事を分かり難くしていると僕は思う。そして、「分からせろ」は完全な受け身なので、読解力は育たない。
さて、この映画に関して、僕は次のように思った。
虚構は虚構であるが故に自由で広がりのあるもの、そして自由であるが故に際限がなく、従って楽しむことはあっても真に受けるのは危険だ、というのが一般的なフィクションのイメージかもしれない。
作り事に対するこうした視点は、同時にニュースや新聞記事、あるいはドキュメンタリーに代表されるノンフィクションの素材を批判や批評することなしに「真に受ける」傾向を生み出しているような気がしてならない。
しかし、果たしてフィクションとノンフィクションの境界線はそれほどはっきりとしたものだろうか?
ニュースで語られる内容が事実で、小説やドラマで語られる内容が嘘っぱちである根拠は何だろうか?
現実は実はかなり転倒しているようだ。
すなわち、フィクション(虚構)とノンフィクション(事実)の持つ「意味の転倒」である。
なぜなら、ノンフィクションと名付けることで嘘はつきやすくなり、フィクションと名付けることで内容の信用度を落とすことができるから。更に、フィクション(虚構)という立場を利用して、受け手(読者・観客)を方向付ける価値観の誘導も可能になる。単なるエンターテインメントに過ぎないフィクションは事実ではなく、プロパガンダの手先になることだってあり得るということだ。
この時代の読者・観客は深く読み解こうとするリテラシーを必要としている。もちろん、社会的には「鵜呑み」し、「真に受ける」ことの方が多いわけだが、鵜呑みすることも真に受けることもできないことに気がつく人々も出てきているようだ。
ハリウッドという、もっとも拝金主義的な市場原理主義の巣窟で、「大いなる隠謀」という映画は作られたのだが、その実態は「自主映画」である。有名俳優が出演し、有名監督による演出だが、これは自主映画なのである。
ドラマは台詞で全て出来上がっているわけではない。むしろ台詞で説明しようとすればするほど、ドラマは死ぬのである。しかし、それをよく理解した上で、今欧米の一部、そして日本の一部であえて「議論する」ドラマが生まれつつあることに気がつきたい。英国の劇作家デービッド・ヘアはその一人であり、彼の作品は大量の議論で覆い尽くされている。しかしながら、だからこそ生まれる心理サスペンスとその言葉の余剰が生み出す全体的な余韻が、言葉少ない印象で物語るスタイルより遙かに「詩的」なのである。それは大量の言葉の中に不意に現れる「静けさ」というその静謐に現れている。
俳優ロバート・レッドフォードによって監督された「大いなる隠謀」もまた過剰な議論するドラマである。一時間半の間、大量でついて行くのが大変になるほどの情報量が「議論」されるこのドラマは、最後に完全なる「沈黙」で終わるのだ。徹底的な議論の果てにある沈黙と静謐。
とてつもなく政治的メッセージに溢れたこの映画は、実はとても詩的な映画でもある。このことに気がつきたい。
ノンフィクションであれフィクションであれ、登場人物の間でしっかりと議論する物語がもっと定着しても良いのではないだろうか。重要なことは事実か虚構かではなく、考え抜かれ、制作責任を果たしているかどうかである。
議論は結論を出すためにあるのではありません。
議論とはあらゆる可能性を検討すること。しかし、議論するにはそれぞれの結論も持っていなければならない。少なくとも、こう考える、というものがなくては議論は成立しないのである。
この映画の中では延々とやりとりされる議論には当人達の結論はありながら、開かれている。それは教授が学生を説得しても、結局は最終的に決定は学生の手にゆだねられているし、学生はあるときたった一人で結論を出すのだろう。教授は絶えず無力感に支配されている。
議論とはドラマそのものです。結論を急ぐのでなく結論を出して、検証しようとするから「開かれる」のだと思う。
分からないまま放置し結論を出そうとしない態度は、そもそも無責任なのだと僕は思うよ。
その意味で日本の是枝監督の「歩いても 歩いても」にしても、静かな物語だと思われている「誰も知らない」も、実は議論の映画だと思う。ある問題点に関し、人がしっかりとぶつかっているから。その議論は開かれている。
その意味では、なんとなく雰囲気で語られる「分からない」物語性を「芸術」と呼ぶならば、議論するドラマは芸術ではないかもしれない。だが、そもそも芸術とはなんでもありだったはずだ。語らずに「深そう」な分かり難い物語が芸術と見なされ、分かりやすく軽く笑える物語がエンターテインメントとされ、なぜかしっかりと議論する物語が観ていて疲れる時代になってしまっている。その疲労感の果てにあるものは、「嘘」と「誘導」と「盲目」、すなわち「思考停止状態」であると思うのだが。
肉体的で本能的な、ある種動物的な感覚的知覚と同時に、思考する態度は、同時に存在しなければならない。
ハリウッド製のこの自主映画から、あらためて簡単に「分かろう」としたりする短絡や、同時に「分からない」所に居座る怠惰に気がつくことができたと思う。
2011年5月28日土曜日
ずっとウソだったんだぜ
“ To believe in a child is to believe in the future. Through their aspirations they will save the world. With their combined knowledge the turbulent seas of hate and injustice will be calmed. They will champion the causes of life's underdogs, forging a society without class discrimination. They will supply humanity with music and beauty as it has never known. They will endure.”
Henry James (1843-1916)
「子供を信じることは未来を信じることだ。子供たちの強い願いが世界を救うのだ。子供たちが学ぶことで嫌悪と不正の猛り狂った海が静まるのだ。子供たちが人生に敗北した者を守り、階級のない社会を生み出すのだ。子供たちがこれまで誰も知らなかった音楽と美で人の愛を伝えてくれる。彼らは耐える者たちだ」(上野火山・訳)
ヘンリー・ジェイムズのこの言葉は胸に突き刺さる。
未来は子供たちのためにある。当たり前のことだ。この当たり前のことを忘れた大人たちが今世界を蹂躙している。
無責任な原子力保安委員会、無責任な政府、無責任な企業、無責任な官僚と政治家、どれもこれも無責任な大人たちである。そして、僕自身その一人だと思っている。
自己責任を口にする人間ほど自己に無責任である。
アドルフ・ヒトラーはその死の直前言ったそうである。
映画「ヒトラー最後の12日間」より:「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」という進言を退けたヒトラーは、平然と「国民の自業自得(自己責任)」だとうそぶく。「(ドイツ)国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを(選挙で合法的に)選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」 (はなゆー)
ナチスを台頭させたドイツの責任はヒトラー一人に帰せられるべきではない。民主主義という幻想の中で国民が彼を選び未来を託したのである。
ヒトラーの言説は「子供たちの未来」という視点をまったく欠いているのである。
僕らは今まさにこのような状況の下にいる。
かつての子供であった僕たちも、今の子供たちも、ずっとウソを信じ込まされてきたのである。そして、自己責任を突きつけられている。
今果たすべき責任は、これまでのウソをウソとして認識することだ。
かつて今は亡き石井紘基が述べたように、日本はそもそも民主義国家ではない。むしろ完全な統制国家。全体主義に近い。
戦後六十六年の間、日本は植民地国家であった。
従って、日本にはそもそも国家主権というものは存在しなかった。
戦中戦後を通して、日本は棄民政策を行ってきた。「カネ」と交換に地方に原発を押しつける紛れもない棄民政策である。
東北は大戦中最も強い部隊を排出したと言われている。それは東北がかねてより棄民の対象となっていたからこそ、わずかの米で東北の部隊は強い戦闘部隊となり得たのだ。日本の中枢は関東より西南にあるというのは日本人の暗黙の了解ではなかったか。そんなことがなかったかのようなふりをしているだけで、東北は長い間棄民の対象だったのではなかったのか。この震災でその実態が少しばかり見えてきたような気がする。
僕はかつて暮らした東北を決して忘れない。今またあらたに棄民政策を行うのか。
あまりにもウソが多すぎる。
原発がクリーン・エネルギーのはずがないじゃないか。世界中の災害で利益を得ている連中は確実に存在しているじゃないか。地震で原発の問題が取りざたされる中、CMがほとんど流れなくなった頃、盛んに流されたのがACとガンワクチンとガン保険のCMだった。ウソだろう?なんでこんなに都合のいいCMのみが流されるんだ?
未来は子供たちが創る。
だが、その未来を用意するのは大人の役割だ。
だから、まず気がつこう!
ずっとウソだったんだぜ!
斉藤和義 ずっとウソだった
2011年5月27日金曜日
卒業して失業だと?
もちろん日本の状況もだが。
こんな記事がある。(一部抜粋)
“Moving Home: When College Grads Face Uncertain Futures” (クリックするとソースへ)
She's hardly alone. Malik is part of a generation of 20-somethings that's experiencing what it's like to graduate from college, move back in with your parents, and then get stuck there. Though estimates vary, a recent study by Twentysomething Inc., a consulting firm specializing in marketing to young adults, predicted that of the 2 million graduates in the class of 2011, 85 percent will return home because they can't secure jobs that might give them more choices and more control over their lives.
Added to the lack of jobs is an increased amount of debt. Student loan debt recently outpaced credit card debt in terms of total amounts owed by borrowers. By year's end, it is on track to surpass a trillion dollars, according to Mark Kantrowitz, an expert on student financial aid who runs the websites FinAid.org and Fastweb.com.
According to the Institute for College Access and Success, an independent, nonprofit organization that works to make higher education more affordable, the average graduate finishes school with $24,000 of debt -- though many struggle to repay far more.
Like Malik, many 20-somethings are experiencing early adulthood as one long pause in their lives, affecting not only conventional coming-of-age milestones such as becoming financially independent, but more deeply personal things as well -- like their hopes and their dreams.
この記事が伝えているのは、アメリカの大学卒業生の85%が職に就けず実家へ舞い戻っているという事実だ。
更に、卒業時には平均的な学生は二万四千ドルの負債を抱えている。その借金を背負いながら仕事に就けないことになる。
この事実を見ても、反米だとかアメリカは悪いなどといった単純な問題ではないことがわかる。
すなわち、米国は今米国の政府、企業、金融機関が一丸となって国家解体を進めている。85%が大学を出て即失業者でしかも二百数十万円の負債を抱えているというのは、どう考えても異常だろう。
日本の原発問題も自然災害も実際こうした政治経済の問題とリンクしているのだ。
未だかつてこれほど広範囲にわたって信じがたい問題が次から次と毎日出ている時代などなかったのではないだろうか。
The Lost Generation:
嘲笑う者たち
四十年間助手という立場を続けながら原発廃止を考えてきた小出裕章氏を、東大教授の大橋弘忠氏が嘲笑う場面を見て、様々な思いが心の中をよぎった。
嘲笑う者たちの顔を見よ!
嘘八百を並べながら、今もなお嘘を突き通す。専門家という上から目線で議論を煙に巻きながらあざ笑い続ける。
この様子は世界のあらゆる場面で目撃できる典型的な権力による議論の操作である。
嘲笑う者たちを信用してはならない。どんな場面であっても、多数で嘲笑うとき、人は嘘をついている。
孤独の人の言葉に耳を傾けよう。
それは今も変わらないのだ。
今も大多数ではない言葉に耳を傾けることができるか?原発は当然廃止だろう。だがそれ以外の問題に耳を傾けることができるか?
今のこの状況の根本問題、すなわち経済的及び政治的問題の本質に耳を傾けることができるか?
日本は事実上、六十年以上植民地で原発という爆弾を背負い込まされ、脅迫され続けてきたことまで耳を傾けることができるか?
それが、問われてもいるのだと思う。
小出裕章氏は危険でなければ都会に原発を作るはず。危険だから地方に背負わせたのだ、と考えている。これは最も基本だな。
大橋弘忠氏は原発は安全だと言う。ならば、東京に作るべきだろう。そうしない彼は全て知っていたのだ。
「プルトニウムは飲んでも安心」という驚くべき動画
報道されない出来事
この民主化運動はチュニジアにとどまらず、エジプトなど他のアラブ諸国へも広がり、各国で長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき、数々の政変や政治改革を引き起こした。
一連の暴動では情報共有のため、Facebookなどを通じたインターネットによる情報交換が力を発揮したほか、YoutubeやTwitter、WikiLeaksといったネットメディアも重要な役割を果たしたという意見がある。<wikipedia より>
今、スペイン全土で激しいデモが行われている。各地で数千人規模から数万人、総計では膨大な人数になるだろう。
中東を中心に起こった民主化を求めたいわゆる「ジャスミン革命」は独裁国家を打ち倒し民主化したと言われてはいるが、実際は反米イスラム国家を産み出している。というのも、エジプトのムバラクを見ても明確だが、チリのピノチェトにしても独裁者と呼ばれる者たちの多くは、よくよく見てみれば実は親米である。そうした国の政体が変わるということは、表面に見える以外の別の意味がありそうだ。今中東アラブ諸国はイスラムかが進んでいるのだ。イスラエルを囲むようにして。
そこでスペインだが、スペインの事情は少し違っているようだ。
すでに民主国家であるスペインは民主化する必要などないが、国内の経済状況がかなり荒廃してきているのだ。実に国民の20%が失業している。五人に一人が仕事を失っているのだ。更に追い打ちをかけるように住宅ローンをはじめとするローンに追われ、企業トップと銀行との金融一人勝ち状態になっている。政府は一向に打開策を打ち出さない。寧ろそうした状況を放置している。
こうした政治家や官僚、そして資本家たちによる人でなしな政治体制に対し国家全土で巨大なデモが起こっているというわけだ。
スペインのこうした動きはジャスミン革命の一種ではないという人もいるが、僕はジャスミン革命の変化形と捉えている。
権力を持たない国民にとってデモは社会変革に対する最大のツールだが、非常に危険なツールでもある。なぜなら常に暴動化、若しくは暴徒化する要因を内側に持ち、制御不可能なパワーを持つのが巨大でもである。
エジプトの場合でもTwitterやfacebookが使われて巨大デモが起こったと言われている。先導したのがfacebookを使うgoogleのエジプト支社の人物であったのは偶然だろうか。彼は何者だ?
思い出すのはルーマニアの革命の際、先導した人物たちは実際何者だったのか、未だに謎だということ。独裁者チャウシェスクを人民裁判で裁いた数分後に射殺し、政体ががらりと変わり、ルーマニアはEUに加盟することになる。少なくともEU成立の障害とされたルーマニアは独裁者の死と共にヨーロッパにとって都合の良い政治体制に作り替えられたわけである。民衆は当時、自国がEUに組み込まれるなどと想像もしていなかったのだ。巨大デモの先導者たちは、目的達成の後に姿を消した。信じられないことだが、今、チャウシェスク独裁時代の方が良かったと回想するルーマニア国民も存在するのである。
さて、こうして巨大デモというものは、表面上の目的とは違った目的で動かされる可能性を多分に含んだ危険性の高いものだというのは念頭に置いておくべきだと思う。
日本人は怠惰で消極的でぼんやりしているので、まったくデモがデモにならないという話しも耳にする。
果たしてそうだろうか?
全共闘時代のデモが何かを生んだのだろうか?あの頃の日本人が熱くてまともだったのだろうか?今そうならないことは情けないことなのだろうか?
デモはその大きさ故に方向を必ず見失う。更に目の前の問題のみに囚われれば、本質的な問題から注意がそれてしまう。毎日テレビや新聞で垂れ流されるデタラメな原発のニュースはもはや報道の体をなしてはいないし、情報ではない。もはや残念ながら必要な情報はまったくどこからもやってこないことがわかった。
スペインの様子をテレビも新聞もまったく報道しない。日本は江藤淳さんが生前仰っていたように、完全に言論が封殺された統制国家だったのだと思う。メディアはその意味で一枚岩である。完全な自粛という名の検閲がまかり通っている。
かの国スペインで起こっている社会不安は、この日本にも完全に当てはまることだ。世界中で同じように金融不安と失業、人件費カットの嵐が吹き荒れている。災害もまったく同じように世界各地で起こっている。数日前のアメリカのミズーリで起こった竜巻をある議員はまるで核爆弾が破裂したようだ、と喩えた。
世界で同時多発で同様の事象が今起こっていることに注目したい。
一日中飛行機とヘリコプターの音が鳴り止まない東京で、世界に目を向けている必要があると僕は思う。そして、この国ではまた別の行動をすべきなのだと思う。同じことは同じ結果しか生まないのだ。
東電の前でプラカードを振る前に知っておこう。三月の末の段階ですでに東電の筆頭株主はアライアンス・バーンスタインという外資系ファンドであることを。エネルギー業種を外資に奪われてしまったことは、すでに次にステップがはじまっているということなのだ。
恐らくデモ以外の行動とは、点を線でつなぐ個人的努力とこの時代の価値観にはっきりと「否」を突きつける生き方だと思う。
決してレミングのような「盲目の行進」をしない生き方をしたいと思う。
「改革」や「革命」、そして「変化」という表現は次の危険な一歩への甘い誘惑である。
ミルトン・フリードマンは言った、「変化は極端な災害だけがもたらしてくれる。その時人は思考停止状態だから」と。
Spanish Revolution 2011 Mainstream Media Ignoring the Story
*これを見るとスペインの現状が日本とほとんど同じであることがわかる。
2011年5月24日火曜日
神の仕業
Heaven's Hammer: A monster tornado unleashes its wrath across Alvo, Nebraska, travelling at over 70mph |
この世には奇妙な一致が数え切れないほどあるが、これもそのひとつかもしれない。
「福島原発事故は「神の仕業」=東電の責任否定-与謝野経財相
与謝野馨経済財政担当相は20日の閣議後会見で、東京電力福島第1原発事故は「神様の仕業としか説明できない」と述べた。同原発の津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と語り、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを重ねて強調した。」
ーーー引用終わり
米国のハリケーン・カトリーナがニューオーリンズ地区を壊滅させたとき、同地区出身で共和党のリチャード・ベイカー議員が述べた言葉が次のものだ。
「We finally cleaned up public housing in New Orleans. We couldn’t do it, but God did. 」
(訳)「我々はついにニューオーリンズの公共住宅を一掃した。我々にが不可能だったが、神の仕業だ」
ーーー引用終わり
神の仕業、便利な言葉である。
日本においては企業にもその企業の大株主である外資にもまったく責任追及の必要性がないという理由が「神の仕業」であり、一方米国においては貧困地区の公共住宅を壊滅させた天災に「神の仕業」といって感謝している政治家がいるのである。
昨日もミズーリ州で起きた巨大竜巻で九十人近くの方が亡くなったという小さな記事があった。英国では暴風、トルコでも地震、そしてリビヤではマグニチュード8.5の大地震があったようだが、たちまちその情報がネット上から消されてしまった。しかしガセではないようですよ。
NHKの朝のニュースが典型的だが、海外のニュースをこの数ヶ月すっかり流さなくなってしまった。
いずれにせよ、神の仕業がそこら中で起こっているわけである。
先日の竜巻で亡くなった人々の多くが貧困地区の黒人達であったと言われています。なぜに慎ましく暮らす人々を執拗に神の仕業が襲うのだろうか。自然災害だから?しょうがない?
ただひとつだけ、僕はこう思う。
神の仕業というセリフを吐く人間は、恐ろしく共感を欠いた人間だと。
新自由主義やグローバリゼーションが世界を覆い、新世界秩序をめざす今、恐ろしく「共感」する能力を人間は失いつつあるのだと思う。
その者たちに共通する表情は、土気色の輝きのない顔色と濁った光を失った目である。
神の仕業ではない。
すべて、人間の仕業なのだ。
自然災害を理由に、誰が苦しみ、誰が利益を得ているのか。それを見極めれば、人間が問題であることはすぐにわかる。
日本政府は、今日から「社会保障の効率化」を 目指すそうである。すなわち、国民健康保険等の医療費の見直し、年金の支給年齢の引き上げが決定されていくわけである。
この災害の時に、様々な法案が可決され、次々と改革が行われていく。これこそ、ミルトン・フリードマンの提唱してきた「災害民主主義」の実現なのだと思う。
もう一度言う。
これは神の仕業ではない。人間の仕業なのだ。
2011年5月23日月曜日
戒めの時
~小出裕章氏(京都大学・原子力)からの戒めの言葉~
1.原則なき政治 2.道徳なき商業 3.労働なき富 4.人格なき教育 5.人間性なき科学 6.良心なき快楽 7.犠牲なき宗教
今、この世界はこれらガンジーの示した七つの戒めの言葉をことごとく踏みにじった世界である。
同じ時代を生き共有する者として、これら七つのうちいくつかは自分自身の人生と関わるものだろう。
完全に方向を見失っている政治状況の中、商業は道徳とは無縁の利益追求のみ、金融一人勝ちという労働なき富の偏向、内申点で生徒を縛り付け質と量をはき違える理念なき教育環境、人間の暮らす世界に関心を持たない科学的視点、良心など嘲笑う快楽主義者、現世利益を煽る宗教。これらは自分にはなにひとつ当てはまらないものだろうか?寧ろ事態は逆で、全てとは言わないけれど、複数が自分と関わりを持つというのがもっとも一般的なありかたではないかな。
この七つのカテゴリーの中に僕らは確実に存在している。
人生の最後に「右翼」というレッテルを貼られ、自らの死を選んだ作家「三島由紀夫」は生前、安田講堂で東大の全共闘の学生達と議論したことがある。彼はその中で、右翼も左翼もないよ!と強く言い放ったのだ。彼がひたすら憂えたのはまさにガンジーの示した七つの大罪を実現させる愚劣な世の中が始まろうとしていることへの警鐘でありました。昭和四十年代初頭に、高度経済成長のまっただ中で三島は堕落した日本の未来を垣間見ていたようだ。
僕は昨日一人の生徒を叱った。
これまでもいろいろな生徒を叱ってきたけれど、昨日の出来事はもう一度生徒と向き合うということを考えさせられるものだった。
「わからない」「かったるい」「ねむい」を口癖にする彼に僕は「馬鹿野郎!!」と言うしかなかった。
なぜなら、「わからない」「かったるい」「ねむい」が言い訳になり、本当の自分をごまかし、己自身と向き合わないように、傷つかないように習慣づけてしまっている人間に説明は「かったるい」だけだからだ。
人間は一人一人見事に違っている。だから面白い。成績がいいなんていうのは結果に過ぎないだろう。
寧ろ重要なのは「逃げない自分」になることだ。
「言い訳しない自分」になることだ。
「馬鹿野郎な自分」と向き合うことだ。
だから、俺は「馬鹿野郎!!目ぇ覚ませ!!」ってどなるんだぜ!!
言葉は具現化し実体化する。
わからない、と言えば、わからなくなるのだ。かったるい、と言えば、かったるくなる。ねむい、と言えば、途端にねむくなるのだ。
すべてこの世界は僕らが無意識に創り出した総体だろう。
言葉を慎む必要も時にはありそうだ。
わからないではなく「わかりたい」って言おうぜ。かったるいなんてもうやめようぜ。ねむい人生は死と変わらんぜ。目を覚まそう!
切実に生きようぜ!!!
これはただ一人生徒の問題ではありません。僕らすべてこの地上に暮らすものの問題だと思う。坂口安吾のかつて示したあの堕落と今世界を覆う暗い堕落とは質が決定的に異なる。安吾の堕落は「覚醒」であった。僕らは目を覚まさなくてはならないのだ。
様々な問題が日々あふれ出てくる昨今、戒めの時なのだと、僕は思う。
2011年5月14日土曜日
自粛する精神
YouTubeのコメントより(引用)ーーーーーーーーーーーー
「何か上手く言えないが、何か違っている気がする。
作品の意図は何?また、そもそも作品化することが今必要なのか?
悲惨な状況はもう知っている。しかし、悲惨な状況をずっと続けていくことはできない。
前向きに一つひとつ前進することが大切なのに、何か前進が止まっているような風景を見せられて、あきらめの境地にしか思えない。
今は、写真家の作品展に、つきあわされている暇は無いと思う。
他の人が書いている通り、いつか見る時が来ると思うが、今ではないと思う。」
ryuichi4532 14 時間前 in playlist 1105123/11 Tsunami Photo Project 2
「なんというか・・・・
アートのモチーフとしてしか捉えていないような写真が多い
記録を残すことは大切だと思うけど、
功名心とか表現に対する欲求とか
そういう野心的な部分が見えすぎる。
正直あまりいい気分はしないなぁ。」
jimigui1979 15 時間前 27
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上
東日本大震災の写真がYouTubeにアップされていますが、その動画に対するコメントの一部です。コメントなのだから引用お許し下さいね。
引用した責任として、僕もまたこの方達と同様、己の考え方を語らねばならないと思います。
僕はこの方達の感想は当然出てくるだろうと思っていた、まさに思った通りのものだったので、色々と考えてしまったのです。
まず、上の方の「今は、写真家の作品展に、つきあわされている暇は無いと思う。」という考え方は写真を生業にしている人間を完全に誤解していると思われます。この言い方だと戦場でその悲惨な現実を伝える戦場カメラマンの仕事も同様に最低の仕事だと言えますね。写真家は作品展を開いて、被災地で必死に生きる人々をネタに悠長に暮らしているわけではありません。写真を通して現実を伝えるのが彼らの仕事だ。
「何か上手く言えないが、何か違っている気がする。
作品の意図は何?また、そもそも作品化することが今必要なのか?
悲惨な状況はもう知っている。しかし、悲惨な状況をずっと続けていくことはできない。」
しかし「悲惨な状況はもう知っている」というのは当事者であっても、世界はまだこの事実を理解しかねているのです。僕らが六十五年前の戦争の事実を未だに理解できていないのと同様です。更に写真を公表し見ることと、その悲惨な状況をずっと続けていくことは別物です。僕らはなんとしても記憶にとどめなくてはならない。辛い現実から目をそらすことはできない。
「他の人が書いている通り、いつか見る時が来ると思うが、今ではないと思う。」というのは確かに被災地の人々です。ですが、世界の名も知れぬ大勢の人々はこの現実を知らなければならないのです。目をそらさないでください。写真家の仕事をそんなに簡単に否定しないで下さい。そのような否定が「自粛」を生むのだと僕は思う。写真家は写真家の仕事をすればよいのです。教師は教師の仕事をすればよい。歌手は歌手の仕事をすればよい。農家は農業をすればよい。演劇家は演劇をやるのです。
決して他人の仕事を否定しないで下さい。「今はそんな時じゃない」という言葉ほど残酷な言葉はないと思う。この国はかつて大きな戦争をした時も「今はそんな時じゃない」と言ったのです。そして、芸術はすべて否定され、戦争へと向かったのじゃないですか。いつも、いつでも、人は自分に与えられた仕事をすべきなのです。「作品の意図は何?また、そもそも作品化することが今必要なのか?」これは大きな間違い。今必要なのですよ。そして意図は写真という媒体で切り取った一瞬を永遠にしようとする試みでしょう。それは「記憶喪失」や「無責任」に対する戒めでしょう。明らかじゃないか。
下の方。「記録を残すことは大切だと思うけど、功名心とか表現に対する欲求とか、そういう野心的な部分が見えすぎる。正直あまりいい気分はしないなぁ。」
写真家に功名心も表現に対する欲求は当然あるでしょう。野心的だと駄目ですか?いい気分がしないというのは、悲惨な現状を写真に捉えたからですか?見る者の心が掻き乱される作品は常に気分のいいものとは限りません。それこそテレビ的な「ぬるま湯」毒されている兆候のような気がします。ネガティブにも様々な質の違いがあります。生きる気力を萎えさせるもの。立ち上がるべききつい現実や原点を伝えるもの。写真に写るすべての人々が必死に生きようとしているその瞬間だというのは、確実にこちらに伝わってくる。この写真はすべて必要なネガティブです。僕らは決してネガティブな要素を遠ざけてはならないと思います。逆に言えば、誰だってネガティブな現状から立ち上がるしかない、それが人生だったんじゃないのだろうか?
僕は思う。金融工学で大儲けする態度と、被災地に赴き出会った人々の写真を撮る態度と、どちらが意味があるかと言えば「意味」を産み出し、出来事を伝える写真家の態度の方こそ敬意を表すべきものがあると思う。あのウォール街という金融の城がこれまで何かを産み出し何かを伝えたことがあったのか?
心からお願いがある。今のような厳しい時代は芸術家は何か下らない必死さのない無意味なことをしているとこの国ではよく思われるようです。ですが、創造する仕事を軽蔑しないで頂きたい。自粛を強要しないで頂きたい。
自粛する精神が、この国を蝕んでいると僕は思う。写真も音楽も映画も演劇も、、、すべて大事です。
その仕事に対して「今はそんな時ではない」というのは、まさに「今」のこのような状況の中で、もっとも有害な心ない態度だと僕は思う。
自粛なんかすんな!!!!
んで、同時にこんな意見もあるのですよ。
YouTubeのコメントより(引用)ーーーーーーーーーーーー
「世界へ向けた素晴らしいプロジェクトだと思います。 TVや新聞・ニュースでさんざんの映像や写真を見ることがあり、 あまりの多さにPTSDも心配されています。 もう、見あきた。もうさんざんだ。という方も多いと思います。 しかしながら、これらの写真は決して過去の出来事ではありません。 先日災害記録ボランティアで9日間にわたって被災地を歩きまわり、 いろいろな方に話を伺い、そして撮影してきました。 そこで感じた被災地の現実・・・ まだまだ復興への一歩を歩み始めたとは言い難い状況です。 出来ることならすべての人に被災地に立ち感じ・考えてほしい。 これから先、復興への道のりが相当長いであろうと痛切に感じます。 そんな中、これらの写真は単なる記録にとどまらず様々なことを伝 えてくれます。 被災という現実、自然の恐怖、人間の無力さ・・・ 撮影者が感じた想い、メッセージ、 被災者の方の悲しみ、苦脳、努力、優しさ、そして希望・・・ 世界中の人たちがこの映像を見ることで被災者の心に寄り添い、 さまざまな思いを感じ、同苦し考えることが必要だと思います。」
Ichigoichie151e 14 時間前 3
「「前を向いて」、「ポジティブに!」と我々は早く笑っていられるようになれたらいいですね。でも、「復興が進んでいます!」って言ったって、それは取り返しがつかない2万人の犠牲者の上にでしょ。 。
そんな風に人生を楽しめるようにならないといけないし、応援しなくちゃいけないけど…。
この苦しみにフタをして前に進む事なんて出来るのかな…。今は苦しみながら笑う事を学ぶしかないんじゃないかって思います。
僕は明日を生きる為に、現実と向き合いたいと思います。」
Tadpole2316 14 時間前 5
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上
うれしいね。
時の翼に乗って悲しみは飛び去る。【ラ・フォンテーヌ】
3/11 Tsunami Photo Project
2011年5月10日火曜日
Project Cannikin について
Amchitka Underground Test Site |
「・・・つか、人間がさ、今まで自分たちで地震なんか起こしたことあるわけねぇし」
「あるかもよ」
「んなのねぇし、お前さ、地震起こすのドンだけエネルギー必要だか知ってんの?俺、理系っすよ」
「むり?」
「むり」
この子達に教えてあげたいな。「プロジェクト・カニキン」のこと。
<Project Cannikin >
1971年11月6日アメリカのアラスカ州アムチトカ島(孤島)で核兵器スパルタンミサイルW71核弾頭(核出力5Mt)を使い地下実験した。
ちなみに広島で落とされた核兵器はリトルボーイ(15kt)。
5Mtは15ktの単純計算で330倍の破壊力がある。
「地下1860メートルで核爆発」させたにも関わらず、地表面にあるもの全てをバウンドさせてた。「マグニチュード7.0」を記録。
これは、深海に場所を移しても、「地球探査船」と「ボーリング」で10000メートルも可能だと思われる。
Amchitka was selected by the United States Atomic Energy Commission to be the site for underground detonations of nuclear weapons. Three such tests were carried out: Long Shot, an 80-kilotonne (330 TJ) blast in 1965; Milrow, a 1-megaton (4.2 PJ) blast in 1969; and Cannikin in 1971 – at 5 Mt (21 PJ), the largest underground test ever conducted by the United States. The tests were highly controversial, with environmental groups fearing that the Cannikin explosion, in particular, would cause(発生させる) severe earthquakes (地震)and tsunamis(津波).
とまぁ、こんな解説がされている七十年代の実験です。ここでわかることは、地震も津波も人間の意志で産み出すことは可能だということです。
世の中で「トンデモ」扱いされる人工地震ですが、その存在は知っておいた方がいい。なぜならこれは公然の事実であり、あり得ないのではなく、あり得ることだからです。
どなたかが仰った「これまで人類が地震を発生させたことはない」という言説は明らかにミスリードです。
ビンラディンの件でも、報道されたニュースをもはやまともに受け取る人間は数少ないことでしょう。原発の件でも、政府の発表もマスメディアの報告も話半分に聞くほかなくなってきています。自らの頭で点と点を結び、あらゆる可能性に対して自らを開いていくしか、現実に起こっていることに気付く契機はないのかもしれない。
たとえば、福島第一原発の三号機の爆発の映像はテレビでは音がありませんでしたが、外国メディアの映像では音が入っています。しかも、三回爆発音が入っていますよ。建屋内に溜まった水素だけの水素爆発で三回連続爆発するはずがありません。
たとえば、911にしてもハリケーン・カトリーナにしても、311にしても、その後で何が起こったか。
たとえば、日本の第一次産業は今破壊され尽くされようとしているのではないですか。東北の太平洋岸の米所が地震と津波でやられ、新潟の米生産者が例年より多く米を生産しようとしていたところ、国からまったがかかり「減反」を余儀なくされたそうです。米の生産が減った上で更に減反を要求するこの国は誰のためにあるんだろうか。野菜の生産は放射線による風評と自粛により壊滅状態、食肉は近年の口蹄疫等の問題ですでに打撃を受けている上にO111の生肉事件が起こっています。
TPP参加にこれほど一気に条件がそろうとは思ってもみませんでした。もちろん、TPPだけではありません、こうした一連の出来事で実際大儲けする連中がいる。常に同一の連中が。
清志郎が「二十一世紀に入ったら戦争がなくなると思っていたけど、ぜんぜんなくならねぇじゃん!」と言ったけど、むしろ事態は世界が急激に巨大な戦争に向かっているような気がしてなりません。
三月十一日を境に日本はこれまでと違う現実に入ったのだと思います。
津波で何万という人々が一瞬にして亡くなり、原発二十キロ圏内の立ち入り禁止地区「ゾーン」なんてものは、SFの世界でしか想像することのできなかったものです。ですが、これは現実だ。まぎれもない事実だ。二十キロ圏内のゾーンには今もなお留まっている人々がいます。忘れまい。
世界が急激にどこへ向かっているのか。アメリカは国債デフォルト(債務不履行)を八月まで延ばしました。この国家的経営破綻の結果何が起こるのだろうか。更なる民営化を推し進める日本は、アメリカ同様「国民皆保険制度」「年金制度」を近い将来断ち切ってしまうのだろうか。
いずれにせよ、大切なことは「今日の放射線量」に一喜一憂するのではなく、東電や現政権の悪口を垂れ流すのではなく、渋谷辺りで面白おかしく大騒ぎのデモを起こして警察を動かす愚を晒すのではなく、小さな点と点を積極的に結び、あらゆる可能性をシュミレーションすること。
そして、二十キロ圏内にいる人々を忘れないこと。嘲笑ったり、怯えたりしないこと。吹き込まれた常識に固執しないこと。
だから、いつでも人間が起こしうる人工地震の事実は知っておいた方がよい。罰当たりですか?
僕は必要なことだと思うよ。こうして僕たちは有益な情報を共有し合うことができるはずです。
Hydrogen Bomb Underground Test Detonation - Project Cannikin
Amchitka : Cannikin
2011年4月28日木曜日
Imagine , all the people☆
やっぱり、この世界はおかしいよ。全てが逆転してる。シェークスピアの言った通り「綺麗は汚い 汚いは綺麗」なんだ。
テレビも新聞も、いつまでも冗談はやめようぜ!
天国はない。ただ空があるだけ。国境もない。ただ地球があるだけ。だけど、土足で入る奴は許さない。
公務員の給料がカットになり平均6%カットのところ、被災地で必死に働く自衛官は今後10%のカットになるんだそうです。
原発で震災以来実際に復旧作業に従事している方は、東電の社員ではないという事実。皆さん下請け会社の方々でした。
おかしくないか?おかしいだろ?
偉い人は偉いまま、貧しい人は貧しいまま。
これが経済学者ハイエクからミルトン・フリードマンを経由して我が国に入ってきた21世紀の価値観です。これを市場原理主義と呼び、グローバリゼーションと呼び、格差社会と呼び、小泉は「自己責任」と呼びました。そしてこれを現代のアメリカは「自由主義経済」と呼んでいるのです。簡単ことなのに。こんな価値観が紛い物であることに気づくなんてまったく簡単なことなのに、なぜか人は気づかない。
かつては財テクなどともてはやされたが、モノを創ることなしに、金(かね)や株の操作だけで儲けを出す「金融工学(financial engineering)」は所詮幻想であり悪夢に他ならない。だから、想像してみよう!無数の人間を踏み台にしながら、一人勝ちを望むその虚しい現代人の傾向を。そして、人は本当にそんなことを望んでいたのかと!
僕たちは、未だに「エデンの東」にいるのだと思う。
2011年4月25日月曜日
西荻窪☆FLAT
昨日は「西荻窪FLAT」にて、久しぶりのグルーミーキャッツのライブ!
土日が特に忙しすぎて、なかなかライブにも足を運べない今日この頃。あ!エリコ!この前のライブ行けなくてごめんね!また連絡待ってます!
んで、昨日は珍しく時間の調整がうまくいってグルーミーキャッツでした!
失礼ですけど言わせてもらってもいいかな?
またものすげぇうまくなってます!!!!!テレビ出演時より更に熱く微笑ましくもテクニック向上中!!!!!!
若いっていいな。俺もまだまだだけどね。心は三歳だけどね。
俺も仮の名前「50s」(?)っていうバンドやってるんだけどぉ、へへ、グルーミーキャッツはいい意味ライバル?そんな感じっす。
昨夜は、百円でグルーミーキャッツの缶バッジも手に入れたしぃ、それとぉ、CDも貰っちゃってぇ〜なんかぁ、ウキウキっすよ。
「夜間飛行」いいよね。どこかストーンズのニュアンスがあるのが好き。
たぶん、いいメロディラインの他にこのバンドの魅力は、リズムの刻みにあるんだろうなぁ。
あとぉ、最後にトランペット吹いてくれて、なんともいい感じ。遙か昔、チェイスっていうブラスロックのぉ、いかすバンドがいたんだけどぉ、そういう感じじゃなくてぇ、むしろちょっぴり愉快な感じ?ゆとりな感じ?それがいいんだなぁ。
曲の間に繰り広げられる生温かい感じのトークもナイス!
松屋のギネスの話ってじっくり膝つき合わせて聞いてみたいと思ったよ。俺、どっちかっていうと、吉野屋派ですけど。
とにかく、成長著しい☆
ますます将来期待☆☆☆☆☆星五つ!
みんなもグルーミーキャッツを応援してね☆
2011年4月21日木曜日
情熱大陸
とてもいい番組だったので、ここにアップします。
現在、名古屋の情勢も変わり、大変な苦労を強いられていますが、彼のやろうとしていることは日本では初めての試み。
それを真に理解する人もまた少ないのです。
何でもはじめてにはリスクがつきまといます。しかし、そのリスクなしに何事も生まれないし、前へは進まないのも当然のことだろう。
僕は逃げる人間より、賭ける人間が好きだよ。
うまく立ち回る人間より、無骨でも素直で真剣な人間の方が遙かに好きだ。
こんなフロンティア精神溢れる仕事は、お役所感覚では決してできない。
減税を訴えて民意を勝ち取った気さくな人気者の河村市長が、この計画に理解を示していないのは、まさしくその人間を表しているのだと思う。河村市長の改革案である「酒の自動販売機を置くこと」は、動物園の改革じゃないよ。まったく関係のない話だ!
動画を観れば一目瞭然だが、これはこれまで日本に存在することのなかったまったく新しい概念を導入した動物園の形式なのだ。
もういい加減足の引っ張り合いはやめようじゃないか!
弟よ、僕は君を支持する☆
解説:
東山動植物園企画官 上野吉一(うえのよしかず)48歳
名古屋市東山動植物園では、400億円の予算を投じての再生計画が2016年の完成を目指して始まっている。
その再生プランを推進する企画官に任命されたのが上野だ。
京大霊長類研究所の准教授として、展示・実験動物の福祉の研究を進めてきた男の就任は、日本初の研究者からの転身として注目を集めている。
そんな上野の存在は動物園の現場にとっては「異星人」。しかしながら彼についていくと、今まで知らなかった動物のいろんなことが見えてくる。
何故、動物園は必要なのか?上野、そして東山が目指す動物園とは何か?再生プロジェクトの第1弾としてチンパンジーの展示施設が完成するまでを追う。
「情熱大陸」本編
2011年4月19日火曜日
I believe People Have The Power
2011年4月16日土曜日
ショック・ドクトリンと災害について
ナオミ・クラインの「The Shock Doctrine」は刺激的な書物である。
近年これだけ明瞭に市場経済至上主義の病巣を喝破した論考はないかもしれない。というのも、現実に今日本はこの「ショック・ドクトリン」の実験場、いや舞台になっていると思われるからである。
311の巨大地震は地震と津波のみならず、その後の恐怖を煽るような原発の事故のニュースが連日放送され、朝七時の NHKニュースは海外のニュースなど一切放送しなくなってしまった。ひたすら恐怖を煽る放送を続けている。そしてつい先日には原発の警戒レベルを国はレベル7と発表するに至った。福島、茨城、そして千葉産の野菜も自粛が求められ、自粛というのは任意のはずなのにもはや義務になり、実質的には規制されているわけである。テレビでも千葉の出荷農家が報道番組と地方自治体から断罪される様子が放送されている。原発から十キロ圏内に横たわる遺体は被爆し放射線量が多いという理由で一ヶ月以上も放置され続けた。そうした遺体が回収されて被爆した様子もないことがわかったのはほんの数日前である。
少なくともアメリカ以外の国では、今となってはレベル7の警戒レベルは「過剰」だと報道されてはじめている。ロシアの専門家の発表によればレベル4がいいところで、もし福島原発がレベル7であるならば、今後警戒レベルに8や9を想定しなければなくなるだろうとまで発言している。原発から八十キロ圏内から避難指示を出したあのアメリカでさえ、レベル7という最悪の事態であるにもかかわらず、母国に避難した在日米国人に日本に戻るように促し始めている。いったいレベル7とは何だったのだろうか?
ひたすら「恐怖」が演出されているわけである。近隣諸国に対しても日本は今や災害にあった被災国ではなく「加害国」に成り果てている。
これは「恐怖の演出」ではないのか?
問題は事態がまったく「ショック・ドクトリン」そのものだということである。「恐怖の煽り」だ。
ハリケーン・カトリーナやアジアの津波、あるいはまた911のような出来事と同じように、株の取引が盛んに行われ、例えば今や東電の株は外資に持って行かれ、災害復興をダシに震災前後ゼネコンで不審な株取引が多く行われているのである。恐怖が金を生むのだ。それは今後も続いていくだろう。東電は今後更に原発を14基増やす計画だという。それもまた恐怖の煽りであろう。
復興は何にもまして大切なことだ。そして原発はいらない。これも当たり前のことだ。だからといってデモをする必要はない。それもまた「ショック・ドクトリン」の一部なのだ。不安定で混乱した国内状況がそれだ。
だからこそ、復興しなければならないし、原発もなくさなければならない、が、それらと同時に、同じぐらいしっかりと「ショック・ドクトリン」が実践されているというその事実から目をそらしてはいけないような気がする。ナオミ・クラインの暗に示していることは戦争も災害も偶然に起こっているのではないということだ。
日本において森内閣以降小泉・竹中路線から続いている「新自由主義」的な政治体制は民主党になっても実は変わらないのである。更に一般的には新自由主義などもう古いなどという言説もちらほら出ているけれど、姿を変えた市場経済至上主義は相変わらずなのだ。
ミルトン・フリードマンの「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という言葉は傾聴に値する。「真の変革という金儲けは、危機的状況を創り出して、はじめて可能になる」と彼ははっきり言っているではないか。
今の日本の危機は創造された危機なのだと僕は思う。戦争も地震も原発事故もすべて創り出されたものだ。この世界の一部の金融寡頭勢力によって、全ては人為的・人工的に引き起こされたものと、僕は今や確信している。
ショック・ドクトリンから退避する方法は、難しいがひとつだけだ。
それは、現状をショック・ドクトリンの実践と自覚することだけ。
後は煽りを真に受けないことだ。全て恐怖心を糧に生まれているのだから。目をそらすまい。全て偶然だなどと水に流すまい。単純な平和運動も復興運動もショック・ドクトリンの実践を念頭に置かない限り、その場限りのものになってしまうのだ。
同時に、そう、同時に覚醒していきたいものだ、と僕は思う。
「ショック・ドクトリン」ーナオミ・クライン
http://youtu.be/Q8p-4ZRNIyE
2011年4月6日水曜日
ベルファストからの手紙
遠くアイルランドはベルファストの地から送られてきたこのメールは、この困難な時代にあって僕を励ますに余りあるものでした。
前の記事で僕は集団ではなく個人で戦う、と書いた。
それは個人の記憶ほど力強いものはないと思うからだ。一人より二人、二人より三人と誰もが思う。まさに数の力が何にも勝ると僕らは教え込まれてきたように思う。
だが、僕はその論理を拒絶する。
僕はどうしょうもない「孤」若しくは「個」から始めようと思う。
それはきっとあらゆる人に共通の小さなかけがえのない出来事と「共鳴」し合うはずだと確信するからである。
スクラムを組むのではない。共鳴し合うのだよ。
君も僕も、実は「同時代人」なんだよ。それを忘れてはならない。
佐藤亨君の許可を得て、ここにメールをアップさせて頂きます。ありがとう☆
『ベルファストより』
メールをありがとう。
4月1日にベルファストに入りました。
受け入れ先の先生と会ったり、友人を訪ねたり、
そして今日はアパート探し。
いよいよ、ベルファスト暮らしが始まりました。
といっても、東京とか一関とか、そういう「場」を引き連れての生活です。
この期に及んで、単純な「海外生活」などできやしません。
そういうことに興味もありません。
さて、宮沢賢治センター通信のエッセイ拝読しました。
たぶん、佐藤旅館の「トッチ」のお兄さんのことに触れた文章だと思います。
読みながら、涙が出てきました。
「コイッツァン」(小岩魚屋の外回り専門の従業員です)とか、
トッチのお兄さんとか、まるで、フェリーニの『アマルコルド』に出てくるような人たちこそ、
われわれを育ててくれました。
トッチのお兄さんはいつも見守ってくれていました。
上手く言えませんが、僕がベルファストで探しているものも、
そういうエキスなのかもしれません。
尚一君よ、今度の大震災で岩手の半分は失われました。
海岸地方のことです。右側の肺をえぐられたような気持ちです。
犠牲者のなかには菅野利夫やその奥さんもいるし・・・。
まさかこんなことが自分の生きているときに起こるとは思いませんでした。
「ヤマ汽車」もだいぶ被害を受けたらしい。
悲しいです。
合掌しつつ、ベルファストで新しい生活を送るつもりです。
こういう悲しい気持ちは、たぶん、文章を通して表すしかないのでしょう。
微力ながら、やろうとおもいます。
劇、見に行けなくて残念ですが、
がんばってください。
佐藤 亨
注※「菅野君」は僕らの高校の仲間でした。一緒に浪人し彼は早稲田大学へ行きました。
ご冥福をお祈りいたします。
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佐藤亨 著
『北アイルランドとミューラル』水声社
この本はアイルランドの町中に出現するミューラル(壁絵)から人々の個人的な暮らしの中の歴史を読み取ろうとする試みだ。
ぜひ読んで欲しい☆
見えない戦争
でも、正直言ってまったく予想していなかったかと言えば嘘になる。何かが起きる予感はあった。確かに心のどこかにあった。
次は大きな災害か戦争か…いずれにせよ、途方もないことが起きる予感が、ずっとがあった。
僕にはとても単なる天災だなどとは思えないのだ。
あまりにも腑に落ちないことだらけ、どう考えてもこれは現代日本に向けられた攻撃だろうと思う。
何故原発から漏れる穴が見つからないのに海の放射線は高いのだろう?
何故地震は三度も連続して起こったのだろう?
何故TPP参加を求められているこの時期に、日本の第一次産業は大打撃を被るのだろう?
何故日銀の102兆円という膨大な緊急資金援助金が民間のメガバンクに渡り、その後の行き先が不明なのだろう?
何故どこかの国のデフォルトが近づいた今、復興資金としてその国の国債を我が国は売ることがないのだろうか?
疑問だらけである。
偶然がこれほど見事に無数に重なるはずがないのである。
テレビが死に、新聞雑誌が死に、メディアは今瀕死の状態だ。全て市場経済至上主義の結果であろう。株主と購買層に媚を売るだけが仕事になり果てた結果であろう。
この一ヶ月何一つまともな報道はなかった!!馬鹿野郎!!
見えない戦争の時代を僕たちは生きていることを忘れまい。
何かに対する反対運動も、デモも、暴動も、まったく意味をなさない。集団で騒ぐな。
この見えない戦争の時代は、様々な事実を「個人的」につなぎ合わせ、全体を見わたす努力が必要なのだ。そして、理解すること。
幸い東京は静かだ。
政府とマスコミの煽りに踊らされることもなく、静かな日常を取り戻しつつある。被災地は想像を絶する環境だろう。それを意識するからこそ、ここで静けさと落ち着きと冷静さを取り戻すことはとても重要なことだと思われる。
僕は僕の仕事をする。誰もが皆、自分自身の仕事を淡々とこなす。見えない戦争は、その挑発に踊らされることのない人間には効果がないのだ。これまでも、この国の長い歴史の中で、日本人はそうして生きてきたようだ。生きているその自分の存在する時代に、そんな歴史を肌身に感じるとは、それこそ想像だにしなかったことだ。しかし、これは事実なのだ。
昨夜、僕の高校時代の友人の死を知った。
僕は、この見えない戦争を、僕なりに戦おうと決意している。そして、それは生き直すことでもある。
目を覚まそう。これは天災ではない。
戦争だ。仕掛けられた戦争なのだ。
2011年4月5日火曜日
故郷よ
僕は彼の依頼で、大学付属の「宮澤賢治センター」発行『宮澤賢治センター通信』に一文寄稿しました。
『虔十公園林』と天使の愚かさ』
遠い日の記憶である。
少年の頃、いつも市営のテニスコートの金網の所にぼんやり佇んでいる人がいたのを覚えている。彼が知恵遅れだというのは周囲の暗黙の了解だったようだ。誰一人彼を怖がる者もなく、特に馬鹿にするでもなく、ごく普通に一緒に暮らしていた。
春、桜並木を通って学校に行くときも、夏、テニスコートの向こうにあるプールに行くときも、秋、堤防で野球をするときも、冬、雪に埋もれたテニスコートで雪合戦をするときも、彼はいつもそこにいた。ちょっと優しげでちょっと哀しげな彼の眼差しを僕は忘れることができない。彼は、僕にとって一人の虔十だった。
『虔十公園林』という作品に出会ったのは、そんな小学生の頃の教科書だったと思う。不思議なことに、今発行されている検定済みのどの教科書にも虔十公園林が載っていない。それはいったい何故なのだろうか。
小学生の僕の胸をあんなに締め付けた虔十公園林という小さな作品。その中で主人公の虔十は、まぎれもない知恵遅れの少年であった。知恵遅れというこの表現すら今は差別用語になってしまう、そんな時代を僕らは生きていることに愕然とする。人はいったいいつから愚かさから学ばなくなったのだろう。人はいつからあの天使の眼差しを忘れてしまったのだろう。
賢治の描く虔十の愚かさは軽蔑すべき哀れなものでは決してない。寧ろ「天使の愚かさ」そのものなのだ。それは気高く美しい。そしてなによりも、この物語はまともなふりをした意地の悪い利口さに対する、その愚かさの勝利を描いているのだ。
五十年代のアメリカ映画「エデンの東」の中にジェームズ・ディーン演じるキャルがまるで虔十そっくりに畑に列をなした木の苗を踊りながら眺める場面がある。その場面を見ながら、僕はディーンに虔十の姿を重ねて見ていた。誰憚ることのない喜びを僕は見ていた。
天使はこの地上で生きていることが嬉しくてならないのだ。踊り謳いハーハー言うのだ。虔十のハーハー笑う姿を馬鹿にする人間が出てくるが、殴られても蹴られても虔十はひたすらハーハー笑っている。哀しくても嬉しくても虔十はハーハーなのだ。
やがて一緒に遊んだ子供が大人になって、虔十公園林を見てあの日のことを思い出す。天使のように愚かだった虔十の瞳の中の優しさと悲しみを、人は大人になって思い出す。そして、無名の人、虔十によって植えられた杉林は誰に恥じることもない大きく立派な公園林に育っていった。
こんなに哀しく美しい物語を僕は他に知らない。賢治の紡ぎ出す愚かさを主題とする物語に僕は特に心惹かれるのだ。
それは愚かなる人間は社会の「お荷物」と考える常識に対し、愚かさと共に生きることを選んだ賢治のアンチテーゼが垣間見えるからかもしれない。いや寧ろ人間の本質が愚かさそのものだと看破した賢治に惹かれるからかもしれない。
僕は「やまなし」のクラムボンはボンクラのアナグラムだと考えている。愚かであること、ボンクラであることはこの世では生きづらい。けれど、僕らの精神の歪みを映し出す鏡こそ、このボンクラの自己認識であり、天使の愚かさなのだと思う。
教科書に載らなくなったのは、現在という時代がもはや「天使の愚かさ」を重要な価値のひとつと認めることができなくなり、利益と利口さばかりに価値がおかれてしまっているからかもしれない。
愚かさは、この世界を生きる限り常に僕らと共にある。愚かさとは無用で無視したほうがいい唾棄すべきものでは決してない。
僕たちは今、少々利口になりすぎてはいないだろうか。
その利口さ故に記憶喪失に陥っている。幼い日に見た様々な愚かさの風景を、何事もなかったかのように水に流している。
今、賢治を読むことは、自己の記憶喪失に対する贖罪の意味もあるのだと僕は思う。
2011年3月16日水曜日
計画停電の夜に
計画停電(現在)の街の様子です☆
230キロ向こうで僕と同世代の男たちが、原発と闘っています。文字通り命懸け。その五十数名の無名の人々とその努力に感謝いたします。そして胸が熱くなります。
本当にありがとうございます。
☆上野火山☆
2011年2月23日水曜日
未来の詩
2011年2月22日火曜日
穏やかに、そして冷静に…
ネット上ではリビアを中心にしたアラブ諸国の内乱の動画が溢れていますが、これはそれらとはちょっと違うものです。まぁ、連続する内乱に関しては偶然やネットのツールのお陰というのは幻想で、意図的な演出を感じているのは僕だけではないでしょう。
ともあれ、この動画は、ある軽飛行機の飛行中のエンジントラブルから始まります。
パイロットが機体がふらつく中、地上と交信しながら適切な着陸場所を空から探します。
やがて、見えてきた平地らしき場所にゆっくりと着陸していくのですが、実際は心臓も止まりそうなほど緊張していたであろうことは想像に難くありません。
にもかかわらず、このパイロットは声☆トーンも変えず最後まで冷静沈着に行動している様子が伝わってきます。
静かながら、臨場感のある素晴らしい動画じゃないかな。
よかったら、ご覧下さい。
Pilot Stays Calm During Engine Failure -On Board Camera
2011年2月20日日曜日
静かな朝です
朝の穏やかな空気が澄んでとても気持ちよかったので、一枚パチリ☆
世界を下らないものにするのも、良き場所にするのも自分次第。
だからこそ自己責任という言葉で無責任を隠す輩とは、一線を引きたいと思う。
世界は損得勘定以上のものだ。利益率と効率のみで価値が決まるこの時代の狂気に目を覚ましていたいと思う。
ちょろっとうまいことやって、ぺろっと舌を出すような生き方は絶対ロックじゃない!
朝の空気の中でそんなことを思いました。
心の中で静かなロックが目を覚ましたぜ!!
☆上野火山☆
2011年2月19日土曜日
東京の空の下で
空のモチーフは、僕の生活の中では決して消えることがない。
大海原を飛行機で飛ぶとプロペラ機の時代は、飛んでいるうちに空と海の区別がつかなくなり、いつの間にやら飛行機が上下逆さになり、気づくのが遅れると気絶してしまうパイロットがいたとか。
実際、空と海の青は似ていると思う。
その海のような青い空の下で、窓の外に西荻窪のとある教会の十字架が見える。
随分と立派な大きな教会なので屋根の上の十字架がまるで巨大な避雷針に見える。
かつて暮らした岩手の家は茅葺き屋根の農家の母屋を借りていたので、教会とは名ばかりの十字架などどこにもない、唯一便所の中でイエスが微笑んでいたのだ。だから、あんな立派な教会を見るとその違いに驚かされるのと同時に、父が説教し母がオルガンを弾く僕の育った茅葺き屋根の教会とあの日々が遠く遠く思い出されてくる。
窓の外のその避雷針のような十字架を見つめながら、あれこれ考えてみる。
まだ見ぬ未来を思い煩う事なかれ、というどこかで聞いた言葉が脳裏をかすめる。
東京の空の下で今日もいつもと同じ一日が過ぎて行くけれど、それでも昨日とは違う今日のような気がするし、明日という日がもしあるならば、その明日も今日とはまた別の一日であるはずだ。
ありとあらゆる欲望と憎しみと嫉妬や恨みが混じり合いながら絡み合っているのがこの地上だが、それでもなお、そんなものには決して屈することのない強い魂が生まれるのもこの地上なのだと思う。
冷笑などくそ食らえ!青い空の下では、誰もが本当は強くなろうとしているんだ。人生はその過程なんだ。
たまたま撮った青空の写真。
その青空の下に僕らの暮らしがあって、そこに喜びや哀しみや怒りがある。
結論など当分出せそうにありませんが、そんな結論のでない思考が、今日も踊りを踊っているようです。
2011年2月17日木曜日
冬の樹
地面に5センチほど積もった雪もあっという間に溶けてしまいましたが、樹木の風情が冬です。
すっかり葉を落とした樹の枝が鋭く天に突き刺さるように上を向いている。その枝の細さと芯の強さが冬の清冽な水のごとき透明な空気の中で屹立するのだ。
冬の樹木は口数が少ないけれど、生命と希望に溢れている。
もしかしたら、夏とは違うその口数の少なさこそ、冬の樹のメッセージなのかもしれない。
言葉以外のもの。それが時にはメッセージになる。
絵や音楽のように。
芝居も言葉を使うけれど、音楽に近いな。
冬の日に、言葉少なく、しかし希望の中で生きること。
この時代を冬の樹のように生きてみたいと思った。
☆上野火山☆