2011年11月10日木曜日

宮澤賢治

先日、岩手大学の「宮澤賢治センター通信」に原稿をひとつ寄稿させて頂きました。

もうすぐ、その会報が発信されますが、一足先にブログにアップしたいと思います。
2006年、建て替え前の旧「文化学院」の教室ー筆者撮影

『強さと感謝について』 
上野火山 劇作家・演出家

宮澤賢治という詩人 の持つ繊細さは一般的によく指摘されるところかもしれません。ですが、その強さについて僕は思うところがあります。
賢治の強さは「ねばり」だと思うのです。その粘りは賢治自身よりも彼によって光を与えられた人々の中に見ることができる。例えば、女優の長岡輝子さん。彼女もそのお一人でした。

JR中央線に乗り「御茶ノ水駅」で降ります。明治大学側の出口を出ると交差点の角に交番が見える。交番を右手に見ながら坂を上がり、スターバックスの所で左に折れる。突き当たりまでまっすぐ進み右に曲がるとすぐに蔦の絡まる記念講堂が見えてくる。
そこが昭和の忘れ得ぬ人物「西村伊作」の創設した「文化学院」でした。
今は、数年前に建て替えられた近代的なビルになって、まったく別物の学校になってしまいましたが、僕はここで十一年間、演劇を講義しました。
長岡輝子さんとお会いしたのもこの文化学院の中でした。当時、すでに九十歳をとうに過ぎていらっしゃいましたが、月一回の「詩の朗読」という授業は退官なさるまで続けていらっしゃいました。
長岡さんが愛し、朗読の中心に据えていたのが宮沢賢治の詩でした。賢治の詩の柔らかさと激しさが彼女の口から光の欠片となってこぼれ出る様子を何度も見せて頂きました。
宮澤賢治という詩人は彼女にとってどんな存在だったのでしょう?生前、僕自身の書いた岩手の人々を描いた舞台作品をご覧になった折、長岡さんご自身がこんなことを仰いました。
「・・・あなたは岩手出身なの?」と彼女。
僕が「はい」と答えると「だったら安心ね。故郷の言葉はその故郷の人間が大事にしなくちゃ。あたしたちのすべてがそんな場所から来てるんだから、故郷からね・・・」
長岡さんは盛岡のご出身でした。僕は一関。町は違っても、同じ岩手です。僕たちは生きた時代も違います。彼女は戦前からの昭和を色濃く生き抜き、僕は戦後の昭和を青春時代として過ごしました。彼女は戦前、文化学院という時代に先駆けたリベラルな学校で学び、演劇と出会い、演劇に恋をして、やがて舞台の一線から遠のいたとき、賢治を人生の最後の仕事になさったようです。
イギリス海岸を歩く有名な賢治の写真を見るとき、僕は長岡輝子さんを思い出します。最後には車椅子の生活になられましたが、どこか風の中をコートを着て、歩いている感じがします。白髪の上品な彼女の柔らかな手を取って歩いたことがあります。いつも上を向いていらっしゃいましたが、僕には地面を見ている彼女の印象の方が強いのです。それはまるであの写真の中の賢治のように、決して空へ逃げないということでしょうか。賢治が空へ飛び出すよりも、実は空からの落下を描くとき胸を打つ描写が生まれたのも、どこか似た印象があります。お二人は、大地の人、でした。僕はそう思います。
ソーントーン・ワイルダーの「我が町(Our Town)」を長岡さんが演出なさったとき「原作はアメリカでも、演じる我々は日本人。だとすれば、舞台を日本に置き換えるべきです」と言って置き換えたのが一九七九年「わが町ー溝の口」という作品になりました。地に足をつけるという態度は、自らの体験的世界に固執して頑なになることを意味しません。むしろ、世界をよりリアルに伝える方法かもしれません。
風の中でコートの襟を立て、心なしかうつむき加減に、前へ進む姿。それこそ大地と共に生きようとし、空から地上へ降りて、自然と、そしてとりわけ人間と向き合おうとしたねばり強さの象徴的姿なのではないかと僕は思うのです。
大地の上で世界と向き合う。芸術を生きようとする人間にとって、これほど重要な決意はないと思われます。なぜなら、生み出される作品は芸術のための芸術というトートーロジーを超え、しかも芸術を行うというその行為自体を己の生活そのものにするからです。生活から全ての作品が生まれ出る。こんな当たり前のことが、見過ごされ、忘れ去られて行くのではないでしょうか。賢治も長岡さんもこの地上で自分自身の言葉と格闘したのだと思います。生きる実感の中から作品を生み出そうとしたのではないでしょうか。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・・」

生きるというのは、圧倒的な喜びである一方で、どうしようもなく残酷なことでもあります。生きることは、時には苦痛そのものかもしれません。それでも僕らは生き抜かなければならない。生き果てなければならない。死はいつもすぐそこにあって、終わりは必ずやってくるから。それまでどう生きるか。それだけが僕らに課せられたこの地上の仕事なのではないでしょうか。だからこそ、生には残酷さがつきまとう。賢治は苦しみの中で若くしてこの世を去り、長岡輝子という舞台人は百歳を超えて亡くなりました。お二人の人生は共に豊かで光に溢れながらも、どこか残酷な感じがあり、それ故に、汲めども尽きぬ深みがある。それは「粘り強さ」というあまりに東北的な精神的特質がこの二人の芸術家を引き寄せ、共感の中で、芸術的競演を可能にしていたからではないかと思います。

そして、もうひとつ、お二人に共通している重要な要素が「感謝」の感覚ではないでしょうか。
かつて、僕の舞台をご覧になった後、長岡さん、こんなことも仰っていました。
「・・・俳優を大切にしなさいよ。あなたの心を理解してくれる俳優を大切にしなさい。その人たちがあなたの宝なのよ」
まだ、今よりももう少し若かった僕は、自分の世界を体現してくれる俳優を大切にする、ということだと単純に理解していました。ですが、今は違います。感謝の気持ちを忘れるな、ということだと理解しています。
身の回りのあらゆるものに感謝する。勿論、人々に感謝する。僕らはすぐに増長し傲慢になり何者かになったかのように錯覚するので、「感謝」はそんな愚かさを少しだけ和らげてくれそうな気がします。
しかし、賢治を思うとき、感謝というものが、実際切実な感覚であることがわかるのです。
この世界では、ボンクラは役立たずで無駄で無意味で、なくてよいもの、目障りなもの、と見なされます。賢治が取り上げた様々な題材に見え隠れするもの、それはボンクラたちの存在ではないかと思うのです。社会的弱者という上から見た視線ではなく、この世界で欠くことのできない、貴重なボンクラの存在。思い上がった僕らの目を覚ましてくれるボンクラの存在。
映画監督のフェデリコ・フェリーニは「アマルコルド」という作品の中で、少年時代に出会ったイタリアの片田舎に暮らしていた様々なボンクラたちを描いています。長岡さんの視点もこの地上の普通の人々のボンクラな暮らしに向かっていたのではないかと思っています。
賢治は人々の嘲笑う、まさにボンクラたちを描き、自らのボンクラさに呆れ、ボンクラさに感謝していたのではないでしょうか。
良いものと悪いもの、意味のあるものと意味のないもの、価値のあるものと価値のないもの。豊かものと貧しいもの・・・・・。
この世界の二元論はあまりに徹底しているので、すっかり気がつくこともなくなってしまっていますが、僕らは良いものだけがあれば幸福という短絡に陥ってはいないでしょうか。感謝は良いものだけにするものではなさそうです。賢治も長岡さんも、感謝はありとあらゆるものにすることを教えてくれているような気がします。この地上で生きるというのは、そういうことではないですか。あまりにも無臭で脱臭されたデオドラントな世界になってしまいボンクラも魑魅魍魎も居場所がなくなってしまったようです。しかし、考えてみれば、我々はみなどこかボンクラだし、そこら中魑魅魍魎が跋扈してやしませんか。震災の後になって、ようやくそんな現実が見え始めたようです。
ですが、賢治は遙か昔の時代に生きていながら、人間の持つこの愚かさに気がつき、だからこそ、その愚かさを慈しみ愛したのだと思います。長岡さんは女優として、そして演出家として舞台上で人間の愛しい愚かさを見つめられました。その眼差しはまさに同郷の賢治から受け継がれた呆れるほど東北的な強さと感謝に溢れたものでした。

東北地方を襲った災害をお二人は知りません。しかし、もしお二人がこの世にいたら、と僕は時々考えます。
きっと殊更目立つことなく、お二人ともご自分のできる仕事をなさったのだと思います。
残酷なこの世界で、生き抜いた二人。この芸術的にも人間的にも大先輩たちから今学ぶことは、真に強くなるには感謝する心と態度が必要ということかもしれません。

南や北に、東や西に、走るとき。
それは施すために走るのではない。
ひたすら感謝するために走るのだ。
そこにいるのは、見知らぬ君ではない。
そこにいるのは、もうひとりの僕なのだ。

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