2011年6月9日木曜日

ハリウッドの自主映画

昨日は大学の授業で「大いなる隠謀」を観た。
世の中ではあまり知られてもいない、埋もれた感のあるこの映画に関しては、かつてもこのブログで書いたことがあるのですが、今一度感想をメモしておきたいと思います。
ネットの書き込み等を見ると、この映画はかなり反感を買っているようで、「無関心でどこが悪い」とか「説教臭くていやだ」といったコメントが散見している。評判は著しく悪い。それも何故か日本で。まずは台詞が多いからね。
でも、いつからこんなに「観る」ということや「読み取る」ということの「体力」が弱ってしまったんだろうね。
読み手や受け手の側の「分からせろ」という態度は実は「分かりたい」という態度と違って、物事を分かり難くしていると僕は思う。そして、「分からせろ」は完全な受け身なので、読解力は育たない。
さて、この映画に関して、僕は次のように思った。



虚構は虚構であるが故に自由で広がりのあるもの、そして自由であるが故に際限がなく、従って楽しむことはあっても真に受けるのは危険だ、というのが一般的なフィクションのイメージかもしれない。
作り事に対するこうした視点は、同時にニュースや新聞記事、あるいはドキュメンタリーに代表されるノンフィクションの素材を批判や批評することなしに「真に受ける」傾向を生み出しているような気がしてならない。

しかし、果たしてフィクションとノンフィクションの境界線はそれほどはっきりとしたものだろうか?
ニュースで語られる内容が事実で、小説やドラマで語られる内容が嘘っぱちである根拠は何だろうか?

現実は実はかなり転倒しているようだ。
すなわち、フィクション(虚構)とノンフィクション(事実)の持つ「意味の転倒」である。
なぜなら、ノンフィクションと名付けることで嘘はつきやすくなり、フィクションと名付けることで内容の信用度を落とすことができるから。更に、フィクション(虚構)という立場を利用して、受け手(読者・観客)を方向付ける価値観の誘導も可能になる。単なるエンターテインメントに過ぎないフィクションは事実ではなく、プロパガンダの手先になることだってあり得るということだ。

この時代の読者・観客は深く読み解こうとするリテラシーを必要としている。もちろん、社会的には「鵜呑み」し、「真に受ける」ことの方が多いわけだが、鵜呑みすることも真に受けることもできないことに気がつく人々も出てきているようだ。

ハリウッドという、もっとも拝金主義的な市場原理主義の巣窟で、「大いなる隠謀」という映画は作られたのだが、その実態は「自主映画」である。有名俳優が出演し、有名監督による演出だが、これは自主映画なのである。
ドラマは台詞で全て出来上がっているわけではない。むしろ台詞で説明しようとすればするほど、ドラマは死ぬのである。しかし、それをよく理解した上で、今欧米の一部、そして日本の一部であえて「議論する」ドラマが生まれつつあることに気がつきたい。英国の劇作家デービッド・ヘアはその一人であり、彼の作品は大量の議論で覆い尽くされている。しかしながら、だからこそ生まれる心理サスペンスとその言葉の余剰が生み出す全体的な余韻が、言葉少ない印象で物語るスタイルより遙かに「詩的」なのである。それは大量の言葉の中に不意に現れる「静けさ」というその静謐に現れている。
俳優ロバート・レッドフォードによって監督された「大いなる隠謀」もまた過剰な議論するドラマである。一時間半の間、大量でついて行くのが大変になるほどの情報量が「議論」されるこのドラマは、最後に完全なる「沈黙」で終わるのだ。徹底的な議論の果てにある沈黙と静謐。
とてつもなく政治的メッセージに溢れたこの映画は、実はとても詩的な映画でもある。このことに気がつきたい。
ノンフィクションであれフィクションであれ、登場人物の間でしっかりと議論する物語がもっと定着しても良いのではないだろうか。重要なことは事実か虚構かではなく、考え抜かれ、制作責任を果たしているかどうかである。
議論は結論を出すためにあるのではありません。
議論とはあらゆる可能性を検討すること。しかし、議論するにはそれぞれの結論も持っていなければならない。少なくとも、こう考える、というものがなくては議論は成立しないのである。
この映画の中では延々とやりとりされる議論には当人達の結論はありながら、開かれている。それは教授が学生を説得しても、結局は最終的に決定は学生の手にゆだねられているし、学生はあるときたった一人で結論を出すのだろう。教授は絶えず無力感に支配されている。
議論とはドラマそのものです。結論を急ぐのでなく結論を出して、検証しようとするから「開かれる」のだと思う。
分からないまま放置し結論を出そうとしない態度は、そもそも無責任なのだと僕は思うよ。
その意味で日本の是枝監督の「歩いても 歩いても」にしても、静かな物語だと思われている「誰も知らない」も、実は議論の映画だと思う。ある問題点に関し、人がしっかりとぶつかっているから。その議論は開かれている。

その意味では、なんとなく雰囲気で語られる「分からない」物語性を「芸術」と呼ぶならば、議論するドラマは芸術ではないかもしれない。だが、そもそも芸術とはなんでもありだったはずだ。語らずに「深そう」な分かり難い物語が芸術と見なされ、分かりやすく軽く笑える物語がエンターテインメントとされ、なぜかしっかりと議論する物語が観ていて疲れる時代になってしまっている。その疲労感の果てにあるものは、「嘘」と「誘導」と「盲目」、すなわち「思考停止状態」であると思うのだが。
肉体的で本能的な、ある種動物的な感覚的知覚と同時に、思考する態度は、同時に存在しなければならない。

ハリウッド製のこの自主映画から、あらためて簡単に「分かろう」としたりする短絡や、同時に「分からない」所に居座る怠惰に気がつくことができたと思う。

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