M.マクルーハン著『メディア論』 |
しかしながら、そんなメディアが果たして存在するでしょうか?
メディア論といえば、かつてはマーシャル・マクルーハンでした。その彼の言葉が「メディアはメッセージである」です。
マクルーハンがその著書「メディア論」の序文で述べていることですが、いかなる技術も徐々に完全に新しい人間環境を産み出すものであり、環境は受動的な包装ではなくで、能動的な過程である、ということ。
これまでの新聞、雑誌、ラジオ、テレビというメディアに代わってインターネットが普及し、一般的にも情報の収集の仕方が劇的に変わってしまったけれど、寧ろ、情報は過多の状態になり、もはや個人では把握できない量になり、だからこそ思考停止が進み、旧式のメディアを盲信せざるを得ないという状況も生まれてきていると思われます。
メディアそれ自体がメッセージであるとすれば、現代のメディアの与えているメッセージとは何だろう?
メディアは媒介物です。この媒介物のやっかいな点は、絶えず市場原理と結びついてしまうという点でしょう。広告によって市場を形成する現在、メディアの実際の機能はニュース・ソースではなく寧ろ広告媒体が基本。例えば個人のブログなどでも巧妙にアフィリエートや他の様々な付加物によって実際は広告媒体として機能しているものも無数にあります。広告媒体が悪いということではなく、最終的には広告になってしまうそのメディアの性質に気付く必要があるのだと思うのです。
すなわちメディアとは姿の見えない何者かに絶えず奉仕するものでしょう。
従って、メディアの発するメッセージは表面的であろうと潜在的であろうと、メディアの奉仕する何者かの発するメッセージであると言えると思います。CMという形で広告であることが明確な場合は、まだ判断しやすいけれど、テレビのニュースや新聞の報道などは、それ自体が広告主のメッセージであるとはなかなか気づき難いものがあります。
同じマクルーハンのメディア論の中に、詩人エズラ・パウンドの例が出てきます。
パウンドは芸術家を「種族のアンテナ」と呼び、レーダーとしての芸術はいわば「早期警報装置」だと言った。芸術的営為が単なる自己表現であるとする一般認識とは逆であるとも語っています。市場原理主義に寄りかかった広告芸術もあればそうでないものもあります。あるいは広告宣伝に見せかけて巧妙に現状批判を伝えるものだってあります。故に、創造行為としての芸術の持つ早期警戒システムの要素は、今も薄れてはいないと思われるのです。受け止める側の準備、すなわち読み解くリテラシー(理解能力)が向上すれば、メディアによるコントロールよりも寧ろ、メディアに警戒しながらも、同時に本質を映し出す「早期警戒システム」に気がつき、点として存在する有益な情報を線で繋ぐことができるかもしれません。ちなみにエズラ・パウンドは文学者として生きたにもかかわらず、その背後でFRB(米国連邦準備銀行)と所得税(Income Tax)の制度の歪みをいち早く検証し、その連銀の悪行を白日の下に晒そうとして第二次大戦中、当局によって収容所にぶち込まれた人物です。
文学であれ、音楽であれ、美術であれ、演劇であれ、芸術は市場原理主義以外のメッセージを持ちうる、担いうる媒体です。
メディアとは、これまでテレビ、新聞、雑誌、インターネットに限られていましたが、気付くべきなのは、ありとあらゆる芸術行為そのものがメディアの創出であるという点です。
僕らのメディアは目の前にある。僕らはもう受け身でいる必要はない。僕らがメッセージそのものなんだ。
旧メディアの特定のメッセージはもうたくさんだ。「買う」「売る」「高い」「安い」「うまい」「まずい」「気持ちがいい」「気持ちが悪い」「儲かる」「儲からない」「得」「損」「勝ち」「負け」…、こんな紋切り型のメッセージが今の時代の価値観を潜在的に造り上げてきたのだと思います。
メディアとは組織ですらないのかもしれません。メディアとは伝えたいと願う個人の姿勢に過ぎないと思うのです。
まさに芸術とは技術革新があるとしても、時代が変わったとしても、実際は変わらぬ何かを提供するものだと思う。芸術というメディアの目標は決して変わることがないのです。それは「損」でも「得」でもない、この世界をどう味わうか。この世界の幸福を願うこと。君と僕は違っていて同じだということ。絶望はあるが、同時に希望もあるということ。メディアが伝えるべきことはこんなことだと思うのです。
そして、それは僕らが伝えることなんだ。テレビでも新聞でもなく。
メディアとは僕らのことだと思います。
今やもう昔の感のあるマーシャル・マクルーハンの「メディア論」を久しぶりに目を通しながら、こんなことを考えました。
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