2009年4月30日木曜日

楽屋で

腰を故障中の僕は、戦力外で。。。。。

楽屋で場当たり稽古の手順をプランニング☆


皆さん申し訳ない。
許してね、と思いながら、一枚撮ってみました。


笑ってる場合じゃないんだけどね(泣)


実はほんッとに腰イテェ〜。(泣)


ガンバりまッす♪

☆上野火山☆

2009年4月29日水曜日

嬉しい誤算☆



今回の公演『見わたすかぎりの青』初日チケットが完売しました!

完売というのはあまり想像していなかったものですから、本当に驚きました。

これからチケット購入をお考えの皆さん!
現在、5月2日・3日の公演の残券がございます。
ぜひ、2日(13:00と17:00)、3日(13:00と17:00) の公演をご覧下さい!!

劇場でお待ちしております☆

いよいよ盛り上がってきましたよ☆

2009年4月28日火曜日

駅前のベンチ

駅前のベンチは、今日もぽかぽか☆

向かいのベンチでおばあさんが日向ぼっこ。

少し早めに出てよかったな。

春の柔らかな日差しが、心の中まで暖めてくれます♪

少しだけ頬にあたる風が、今日1日を応援してくれているようだな☆

キャストのみんな、あと少しです。
楽しもうぜ♪


☆上野火山☆

2009年4月26日日曜日

リアル

どう見ても普通のアパートの風景にしか見えませんが、舞台のワンシーンです☆

作り事とリアルの違いってなんだ?

絶えずつきまとう問題です。
所詮舞台は作り事に過ぎないけれど、そこに暮らす人物達には、すべてがリアルなはずだ。

リアルとは、普通の人が普通に暮らす充足した空間、あるいは普通の人が普通に暮らす不満だらけの空間。
どちらにしても、その場から逃げ出せないことを人はなによりも自覚している。まさにリアルとはそんな所に在るんじゃないかな?


今、目の前に展開するやむにやまれぬ人々のリアルを見ながら、そんなことを思いました。

☆上野火山☆

出発

昨日とはうって変わって青い空と白い雲☆


さぁ出発だ!とホームに立ったら、いつもの景色が違って見えた♪


そう!同じ日なんかあるはずがない。毎日、僕らは違う日を生きていて、昨日とは違った今日と明日を生きる。


だから今この瞬間が愛しいんだよな。写真家ブレッソンの言った『決定的瞬間』とはこのことだと思うな。


すっかり電車の中で書くのが定着したブロガーでした。


さて、乗り換えです♪


☆上野火山☆

2009年4月24日金曜日

グラディエーション☆

稽古で通う田無で見かけたツツジと葉っぱのピンクのグラディエーション☆

あんまり綺麗なので、一枚♪

自然のグラディエーションは何ともいえないおだやかな空気に満たされていました。

少し和んでリラックスできました。

☆上野火山☆

Wim Wendersとライカ


Wim Wenders

映画監督のヴィム・ヴェンダースが語るライカ。
いいなぁ、たとえデジタルになっても、ズミクロンやズミルックス、或いはノクチルックスといったライカレンズが使えるのが最大の魅力。

それにしても、子供の頃に出逢った父親のライカに対するヴェンダースのドキドキ感がよく伝わってくる動画です。モノクロの、それこそライカで撮った写真のようです。フェティッシュな愛情っていうのは確かにある。こんなモノに対する愛情も、実は仕事に反映する人格的特徴なのかもしれません。
僕は、ヴェンダースの思い入れに共感するなぁ。

日本の町並みや電信柱が何気なく出てきますが、世界中でロケしたと思われる贅沢な1分数十秒です。


2009年4月23日木曜日

花さき山


斉藤隆介「花咲き山」

馬場精子さんのブログで馬場さん自身が朗読なさっている斉藤隆介さんの「花咲き山」を聴きませんか?
馬場精子さんの朗読『花さき山』クリックしてください!

“ The Giving Tree ”と並んで僕が好きな絵本です。
かつては、授業で実際に僕自身が朗読したこともありました。
詩もそうですが、絵本も朗読が良いですね☆

この物語は恐ろしい山姥(やまんば)が語る心優しい花の咲く由来の話です。なぜ人知れず花さき山に花が咲くのか。

貧しいけれど、優しい気持ちが、ひとつ、またひとつと、人里離れた山の中に綺麗な花を咲かせる。
あやという名の少女は、もう二度と山姥に会うことも、花さき山に行くこともないけれど、今日も妹を背に背負い、山に咲く花を夢見る。

ここでも、与えることが幸福なのだ、と語られていますが、これは普遍的なひとつの幸福にたいする洞察なのではないかと思います。
そんな幸福感からあまりにも遠く離れてしまった現代において、Yes, we can!よりももっと必要とされるのが、このような幸福へのひとつの道筋なのでないだろうか?
何もないというのが不幸なのではなく、もっともっとと求め続け、奪い続けることこそが不幸の連鎖を生んでいるということにそろそろ気がつくべき時が来ているように思う。

僕らに必要なのは、Yes, that’s what we are!だと思う。
「共感」こそが「与える」ことを可能にする。そして、この与えるというのは、余裕のある者が貧しい者に与えるという意味ではありません。互いに与えあうのがすべての前提なのでは?という意味なのです。
そして、この意味が伝わりにくくなっているのが、まさにこの時代なのではないでしょうか。

心静かに聴いて欲しい、そんな物語。

全篇秋田訛りで語られています。

2009年4月22日水曜日

The Giving Tree

Shel Silverstein

American cartoonist and author 

in full Shelby Silverstein

born September 25, 1932, Chicago, Illinois, U.S.

died May 10, 1999, Key West, Florida



“ The Giving Tree ”という絵本があります。

リンゴの木とその木と共に成長していく少年の物語です。

翻訳では「木」は木のままですが、原文では「木」はShe です。すなわち、女性。まるで母のような存在。

「母」とは子にとって基本的には何でも与える存在でした。「でした」というのは、最近ではフェミニズム的な視点からこのような母親像はことごとく幻想のレッテルを貼られ、与える存在の母が否定され尽くしているようにも見えます。これも未だポストモダン的傾向のような気もしますが。
男性にはない女性の与える性の、その豊饒と潔さは、かつては敬われ、今は軽蔑される。まったく不思議な感じがします。ここにも失われつつある価値観の存在を、僕は意識せざるを得ない。

さて、“ The Giving Tree ”では、少年が成長するにつれて、リンゴの実も枝も幹も、すべて与え、最後に残ったのは切り株だけでした。
歳をとった少年がやってきて、木が「坊や、あたしには、もうあげるものはなにもないよ・・・」と言ったとき、少年は「何もいらない。ただ休ませて・・・」と答えます。
すると、切り株だけの木は、思い切り背筋を伸ばして、「さぁ、お座り」と言うのです。
少年は、年老いて疲れた身体を切り株にのせ、休みます。

この物語の大事な部分は、木が「与えること」で「幸福を感じる」ところだと思うんです。
人はもらうことより、もしかしたら与えることの方が嬉しい存在なのじゃないか、それか作者・シェル・シルバースタインの洞察だと思います。

少年がひたすら我が儘な嫌な物語だという人もいるようですが、いやいや、そんな話じゃありませんよ。一方的でも与えることのできる者は幸せなんだ、とこの物語は語っているんだと思うな。
今は奪う者が勝ち組みであるという、最低の価値観で世界は動いています。
この本の意義は、柔らかく、その価値観にNo!を突きつけているところにあるんだよな。

作者本人の朗読で聴いてみましょうか☆これがいいんだ!



ナイスッ☆

稽古場の近くで発見!


『豚に真珠』。。。。


説教のタイトルなんですが、ムフッてくるのは僕だけですか?


一緒に目撃した目ざとい舞台監督さんも、ムフッです♪


色々な意味を考えてしまいます。久々に見たナイスな教会の説教タイトルでした☆


☆上野火山☆

2009年4月21日火曜日

欠けているもの

Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15 日 - 1900年8月25日

“ Character is determined more by the lack of certain experiences than by those one has had. “
「人の性格はどんな経験をしてきたかよりもむしろ、なんらかの経験不足によって決定される」
ニーチェ


意外に、僕らはバックグラウンドの経験によって人間性が様々生まれてくるように、常識的には思っています。
ですが、何を経験していないかで人格が決まるというこのニーチェの洞察は鋭いと思う。

確かに、己自身の経験を金科玉条のごとく語りながら、そこに何かが抜け落ちている、あるいは足りないと感じることは多々あります。
たぶん重要なのは、目に見える部分だけではないのだろうな。

欠けている部分、不足している部分、見せない部分、見たくない部分、駄目な部分、言い換えれば密かなコンプレックスこそ人格を作り上げている。

欠けている部分、不足している部分、見せない部分、見たくない部分、駄目な部分を見つめていきたいですね。

ドラマも本質はそこにあるような気がします。

灰皿について

Anton Pavlovich Chekhov、1860年1月29日 - 1904年7月15日)

ブログというのは不思議なもので、個人的な日記のふりをしながら、外に向かって発信しています。ですが、語られている内容はブログによって種々様々。

最近ブログの機能について考えました。

昔、劇作家のチェーホフは新聞に短編小説を連載していて、勿論人気作家だったのですが、彼が何でも書く、と言ったのを思い出します。

何でも書く。

それは、たとえば、目の前に灰皿があったとする。ならば、すぐに灰皿について短編を書くということです。考えずに躊躇せずに書く。灰皿について書く。

ブログっていうのも、なにかそんな類のものかもしれません。

構えることなく、目の前のモノや出来事を、まずは書いてみる。勿論他人のプライベートを公表するようなマネはしてはなりませんが、まず書き出すというのはとても良いことだと思っています。

外に向かって思考を公表しつつ、内に向かって思考を掘り下げる。
やがて、そうしたブログのメモの集積の中から、新たな作品が生まれ出てくるような気もします。

チェーホフが言ったのは、書きたいという本能に従え、ということだったのかもしれませんね。
そして、その衝動を抑えず、とるに足らない「灰皿について」まず書き出すこと。

チェーホフの戯曲も、ブログを書く感覚の延長上にあったのでは?と考えるのは、考えすぎでしょうか?

チェーホフの短編集を読むと、十九世紀から二十世紀にかけて書かれたブログのような気がしてなりません。

2009年4月20日月曜日

春の花咲く庭の隅

ツツジです。
春といえば桜になってしまいますが、春は桜ばかりではありません。

たとえば、このツツジ。

先日はすっと背を伸ばしたタンポポも見ましたが、このツツジの赤色は虫たちだけじゃなく人も引き寄せますね。

サルビアと並んで、花の根本に甘い蜜があり、小学生の頃はよくツツジの花をむしっては蜜を吸っていました。
これが甘いんだ☆

そんな甘い匂いに誘われて、小虫も飛んでおりました。
木々も少し緑が濃くなってきましたね。
季節はめぐり、日々もめぐり、人生もめぐります。
その意味で、僕らは植物や動物の区別なく、みな「時の旅人」なんでしょうね。
日常の旅をしている感覚が、発見を可能にしてくれる。
ツツジの花の赤い色に気づかせてくれる。
その甘い蜜の味を思い出させてくれる。
すべては、人生が旅故なのですね。



今日は舞台監督さんと劇場下見。その後、夜まで稽古です!




☆上野火山☆

2009年4月19日日曜日

川のほとり

今日は一仕事終わってから、久しぶりにHaircutしました。
行きつけのお店で、短くツンツンの頭にしてもらい、すっきりしたなぁ〜と思いながら自転車こいで近所の川を通りかかったとき、ちょうど太陽が向こうに沈みはじめました。

あまりにもしっとりした良い空気だったので、見とれてしまいました。

僕は幼い頃、川の畔で育ちました。

5時になると、望楼が「ゆうやけこやけ」を鳴らし、堤防で遊んでいる僕らはそろそろ家に帰る頃かな、などと思ったものでした。
すると、堤防の土手の上に、母が現れて、「おーい!帰っておいで!ごはんだよー!」と声をかけてくれた。
今の僕よりずっと若かった、あの頃の母のエプロン姿を今でも憶えています。

川の畔で僕は育った。

今も何故か川の畔に暮らしています。

そして、時々、遠い昔の夕暮れを思い出します。

二度と帰ることのない、あの夕暮れを。


☆上野火山☆

Rage, rage against the dying of the light


DO NOT GO GENTLE INTO THAT GOOD NIGHT



Do not go gentle into that good night,
Old age should burn and rave at close of day;
Rage, rage against the dying of the light.
Though wise men at their end know dark is right, 
Because their words had forked no lightning they 
Do not go gentle into that good night.
Good men, the last wave by, crying how bright 
Their frail deeds might have danced in a green bay, 
Rage, rage against the dying of the light.
Wild men who caught and sang the sun in flight, 
And learn, too late, they grieved it on its way, 
Do not go gentle into that good night.
Grave men, near death, who see with blinding sight 
Blind eyes could blaze like meteors and be gay, 
Rage, rage against the dying of the light.
And you, my father, there on the sad height, 
Curse, bless me now with your fierce tears, I pray. 
Do not go gentle into that good night. 
Rage, rage against the dying of the light.

ディラン・トーマスを聴いてみませんか?
詩は読むものではなく聴くものだと前に書きましたが、まさしくこれがそのひとつ例だと思います。
詩の朗読は限りなく芝居に近く、芝居は限りなく詩に近づく。それは音の世界がそうさせるのでは?
青春時代を共に過ごした友人と最近連絡を取り合うことができ、あの頃読んだこの詩を思い出しました。彼はアイルランド文学の視点から故郷を考え、僕は芝居という装置で故郷を追体験する。
それぞれの方法もアプローチする方向も違うけれど、それでも、生きるということの意味を再発見し、味わいなおしているという点では、一致していると思う。恐らく、共に八十年代以降のポストモダン的価値観に違和感を持ち続けていたのだろうと今では勝手に思っています。
そうだよね?
だから、ダサくても構いません。ディラン・トーマスを聴こう☆

2009年4月18日土曜日

西荻の空の下

今日は、曇ってます。

でも、この重苦しさも時にはいいもんだな♪

気圧も低いようですが、なんのなんの、英語のクラスを一本ぶちかましたら、田無で稽古!

行くぞ☆


☆上野火山☆

2009年4月17日金曜日

お堀端の午後



昨日撮った写真をもう一枚アップします。


市ヶ谷から飯田橋の間にある散歩道から撮ったお堀端。

下に総武線と中央線の線路も見えます。


一時期よりお堀の水も綺麗な気がします。気のせいですか?詳しい事情はよくわからないですが、昔はもっと濁っていたような気がします。


それにしても、この辺りの風景は、上京してきて間もない頃、東京だなぁ、と意識させてくれた風景なんです。もう三十年以上も経つと当たり前に見える東京の風景も、新鮮に当たり前じゃなく感じることができたらいいのになぁ、などと時々考えます。


たぶん新鮮な感じってのは、発見の感覚なんだろうな。

たえずどこかで発見しなければ、すぐに僕らの感覚は日常に埋没し新鮮さを感じなくなる。

精神的倦怠期ってやつですか?


ならば、見つけてやろうじゃないですか。

日常の再発見をしてやろうじゃないですか。


今は携帯なんていう便利なものがあって、スナップ写真はこれで充分すぎるぐらいイケてます。


こうして何気なく撮ったお堀の写真が、新鮮な感覚を僕に呼び起こしてくれました。

こういう時は、携帯の写メって、けっこうありがてぇな☆


☆上野火山☆

2009年4月16日木曜日

キャンパス☆ライフ

春なんだなぁ〜!!

大学キャンパス☆では、クラブの勧誘で人の波!

いつ見ても、これが春の姿なんだよな!で、やがて人の数が微妙に減っていくんだよね。
それがキャンパス☆だな。
あ。急ご!

今年から教室がボアソナードに変わります!頑張ろう☆

学生はいんのか?

☆上野火山☆

講義ノート

本日の教義ノートです!

まぁ、あれだな、こんな地味な努力が絶対必要なんだと思いますよ。

公演の他に、講義する。様々な思考の断片を一週間に一度吐き出すことで、こちらの思考も鋭くなり、同時に若い学生たちと考えることで、それまで気づきもしなかった事柄に気づく。
教えるというより、一緒に考え議論している感じかな。
いずれにしろ、学生たちも真剣なので、こちらもふざけてはいられません。

こうして、小さなことかもしれないけれど、着実に批評眼を持った質の高い観客を育てていきたいと思います。なぜなら、僕らは観客によって生かされも殺されもするのですから。観客を育てることがなければ、演劇を育てることなど、到底できない。演劇は観客と共に育っていくものだからです。

見せること以外に大切な講義。

今日ももうすぐはじまります。


☆上野火山☆

風貌

土門拳 「風貌」

写真家・土門拳の風貌に出逢ったのは、もう三十年以上前になる。
東京で一人暮らしをはじめた頃、僕は書店で、小さいけれどズシッとくるこの本を見つけたのだ。
タイトルは「風貌」

著名人たちのポートレート集。モノクロのポートレートがこれでもかと続いている。

そのどれをとっても、魅力的なんだ。

被写体の個性が強烈だから、とも言えるけれど、それだけじゃない、土門拳という写真家の何か人間の精神をえぐるような視点が、時に優しく、時に残酷に被写体を彫りだす。
歯が抜けてたり、眼鏡をセロテープで補強していたり、全部包み隠さず見せてくれます。

この黄色い表紙の文庫本は、何度眺めても飽きることがなかった。

風貌には一人のイケメンも美女も出てはこないけど、その時代を本当に生きた人々の顔を見ることができます。
イケメンも美女も素晴らしいですが、渋い顔も見ておくべきだな。そして、その渋さと生きた証の顔をぶら下げて僕らも生きていくんだから。そして、時間としちゃあそっちの方がはるかに長いんだから。

興味のある方は一読を☆
昨今のグラビア・ブームとは一線を画す、渋~い顔のオンパーレードです!!
いいなぁ、この本!!

2009年4月15日水曜日

こちらにも☆

現在、白熱した稽古が展開中!

劇団のブログには、稽古風景を載せてきましたが、このブログにもアップします♪

日々進化し続けてます!!

そして、全体がひとつにまとまり、エネルギーが溢れ出てきたなぁ〜!

ですが、まだまだこれは序の口。
ここから更に進化します☆

お楽しみに♪

☆上野火山☆

2009年4月14日火曜日

カントリーロード

ジブリのアニメを健全すぎると嫌う人がいる。
特にサブカルチャー好きに多いのは気のせいか?

でも、ジブリのアニメが他と大きく異なっている点は、健全であるとかないとかではなく、もっと別の所にある。それは、他のアニメには観られないリアリズムの視点で、日本人の生活と日常をドラマを描こうとする点だ。
本来それらは実写のドラマが担っていた部分だが、アニメの持つ光と影の特性を生かし、実写では当たり前の風景を新鮮な角度で描き出している。更にアニメ故にリアルと荒唐無稽を行き来できる。ジブリの作品の持つ価値と強みはまさにこの点にあるのではないかと、僕は思っている。

その点からすると「耳をすませば」は、傑作であると思う。

誰一人として悪役は登場しないし、中学生の少女が小説を書き上げるまでを静かに描いた作品に過ぎない。なのに、いや、だからこそ、胸に迫るものがこの作品にはある。
それは、あの夏の日の道路に映る影であり、塀の上に眠る猫であり、ドキッとするような小さな恋であり、かつての都営住宅の狭い室内と重い扉、二段ベッドと本、夏の校庭のはしっこであり、蝉の声と坂道、二人乗りの自転車、図書館の静けさであり、遠い新宿副都心を照らす朝焼けの空である。
この全てのディテールこそが、ドラマ性を何処までも高めていくのである。
だって、この映画を観る誰もが、必ず何か思い当たる部分を発見するはずだから。ここにあるリアルこそ、僕らが取り戻すべき生活の魅力であり、失われた価値なのだと思う。

細部に宿るリアリティーこそ、僕らの生活を再認識させてくれるんだな。

それから、ジブリの作品の音楽の魅力について。
YouTubeなどでは、何故日本を舞台にしたアニメに「カントリーロード」なんだ?という批判が書き込まれていたりするが、それは間違いである。アメリカの歌がアメリカだけに対応するというその感覚の狭さは致命的だな。むしろ重要なのは、一見無関係に見えるものの中に、共通項を見出す視点である。アメリカを歌ったジョン・デンバーのこの曲は、今京王線沿線に相応しいことを僕らは知るのである。そしてその感覚こそが、つまらぬ文化的領土意識を越え、普遍へ向かうのだと思う。

ジブリは日本のドラマの可能性を広げてきたのだと僕は思うな。

2009年4月13日月曜日

Pocket knife

Uploaded on August 12, 2005 

by kwerkey



前にも書きましたが、ナイフはあらゆる人間の道具の原点だと思っています。
この写真ようなシンプルな多目的ナイフこそ、本来は一本ポケットに忍ばせておくと便利なんだよなぁ。

いろいろな事件が起こる度にナイフが問題視されますが、ナイフが問題なんじゃなく、ナイフを使う人と使い方が問題なんじゃないかな。ナイフは人間の開発した最も初期の道具です。単純に危険だから排除すべきというようなものではありません。むしろ、正しいナイフの使用に慣れていない人々の増加こそ、本質的に憂慮すべき問題なのではないだろうか。

勿論、街中で戦闘ナイフを持つ必要はありません。
ですが、たとえば、ビクトリノックスの小型アーミーナイフ(つまり写真のような小さな多目的ナイフ)を持っていて逮捕される現状は少し行きすぎではないかと、僕は思う。

手を使う道具を僕たちはどこかで取り戻したいものです。

あなたは、ナイフを怖がる前に、鉛筆をナイフで削れるかを、自分に問うてみて欲しい。

そんな小さな些細な技術が、僕たちの人間力のひとつであることを、僕は忘れたくないのです。

世の中の正しいとみなされることも、時には大きく間違っているかもしれない。

目を覚まして、生きていきたいですね。

ソネット


村下孝蔵さん、リクエストが多かったので、YouTubeから「ソネット」アップします。
いいんだ、これも。

 

初恋

今は亡き村下孝蔵さんの歌声は決して消えることがありません。
たぶん、本当に、声と歌に力があったからだと思います。
命を削るようにして、彼は歌い、この世を去った。

時々、無性に彼の歌が聴きたくなることがある。
最近Going Under Groundがcoverした「初恋」は、村下孝蔵さんがいて初めて成立する世界だと思います。
そして、永遠の名曲「踊り子」。

ライブではもう二度と聴くことのできない、詩と音楽と誠実に向かい合った一人の男の歌を聴きましょう☆



そして、こっちがGoing Under Groundのcoverバージョン。


森の中のレストラン<短編小説>


Photo by UMA SOUL



井の頭公園のこんもりした森の中に、タイ料理のレストラン「Pepecafe Forest」があります。
僕はここでランチするのが好きです。ここを教えてくれたのは妻でした。
かつて書いたこの店を舞台にした短編小説をアップ。
吉祥寺と井の頭公園とこの店の雰囲気を楽しんでください☆

『緑のライオン』


by Kazan UENO



「お父さんは最低だよ」
琢己が言った。
僕らは井の頭公園のボート乗り場の近くにある、木々に囲まれたタイ料理のレストランにいる。優衣とボートに乗ってからちょうど一週間経っていた。今日は5ヶ月ぶりのミーティング。
「ペパカフェ・フォレスト」というそのレストランは僕ら親子のお気に入りで、吉祥寺をぶらぶら歩き回った後はここで食べることにしていた。早いもので店内にはもうストーブが数台置かれていた。僕らはちょうど店の真ん中、二台のストーブに囲まれた四人がけテーブルに座っていた。
「どこが?」
僕はカオマンガイを食べながら訊いた。
「だらしないよ。いろんな意味で」
「そうか」
「お母さんに言われっぱなしだろ。一発がーんってやればいいんだよ。ぶん殴って、馬鹿にすんじゃねぇ!とか言ってさ。んなだから、愛想つかされんじゃね?」
琢己はいつものクラッパオガイを口一杯ほおばる。
僕の食べているカオマンガイは「タイの屋台風海南島チキンライス」と呼ばれるもので、タイ米の上にチキンが添えてあり、そこに店オリジナルのカオマン垂れをかけながら食べる。琢己のクラッパオガイは鶏挽肉と野菜を炒めたものとライスがついている。鶏の挽肉は包丁で叩いてミンチにした目の粗い肉で、それとカラーピーマンを炒めたものをライスに混ぜながら食べる。
琢己はさかんに混ぜながら、パクチョイ(香野菜)の浮かんだスープをズズッと啜った。
「昔な」
「うん?」
「昔、女の人殴ったことがあるんだ。よくないなぁ、ありゃ。今でも後悔してる。そのうち、口であれこれ言うのもだんだん嫌になってな。お母さんから見れば、お父さん、不甲斐ない奴だもんな。しょうがない」
「殴ったことあるの?」
「うん。一度だけな。お母さんじゃないけどな」
琢己が生春巻きを垂れにつけ、一気に口に放り込んでから、口をもぐもぐさせながら言った。
「ホーガハイッヘイウハホ」
「うん?」
琢己が水をゴクリと飲む。
「だからぁ、しょうがないっていうなよ。・・・僕だって、しょっちゅうしょうがないって思うけど、我慢してんだ。しばらくミーティングしなかったのも、お父さんに会ったら、また一緒に暮らせないかなぁなんて考えてしまうから。だから会わなかったんだ。こうなったのは運命だから受け入れるけど、しょうがなくなんかないよ。僕はこうやって生きていくしかないんだから。でも、しょうがなくなんかない」
「ああ・・・」

琢己は料理をを黙々と食べる。
それまでのミーティングでは、琢己はほとんど喋ることがなかった。少し気持ちの整理ができたのかもしれない。子供を苦しめる親がどこにいる?自分がそういう親だと自覚すればするほど、自分の未熟さに呆れ果てる。それにくらべ、少年の成長はどうだ。ちょっと前まで、子供子供していたのに、この数ヶ月で急激に男らしくなっている。こっちは父親らしいことはさっぱりなのに。

店の中には、一人で食事をする若い女性。そして、二組の男女のカップル。奥の方には二台のバギーを止めた二人の母親が、子供たちとワイワイ楽しそうに食べている。すぐそばのテーブルでは外国人の女性と日本人の女性がフランス語で何かの企画について話し合っていた。

サンバがかかっていた。
ポニーテールに髭面の若者と髪をショートにした女の子がホールを仕切り、カウンターの向こうには黒いスカルキャップを被った料理長。そして、その脇で女性が二人で楽しそうに笑いながら、食器を洗っている。外では、店の女の子が、ホウキで枯れ葉を一所懸命集めて、枯れ葉の山を作っていた。

「サッカー続けてるのか?」
「ああ。やってるよ。小平のチームに入ってる。今度試合あんだ」
「教えろよ。観に行くから」
「いいよ。来なくて。お母さんが、そろそろやめろっていってるんだ。やめないけどね」
「やめなくていいよ。好きなことは続けろよ」
ああ、と無愛想に返事をしながら、サラダをばりばりと噛みしめる。サッカー少年は冬になりかけているというのに真っ黒な顔で、太陽に鞣された顔をしていた。
「飯はどうしてる?」
「お母さんが作るわけないじゃん。僕が作ってるよ。まぁ上手!って喜んでるよ、お母さん。仕事第一だもんね。時々、お父さんのお料理懐かしいわねって」
「料理の腕が上がったか」
琢己が最後のスープを飲み干す。それからゴクリと水を飲んだ。
「実はお父さん、僕やりたいことがあるんだ」
「やりたいこと?」
「うん。僕、高校出たらコックの勉強しようと思ってる」
「大学に行かないのか?」
「うん。なんか、最初面倒くせぇなぁと思ってたのに、今は料理すんのが楽しいんだよね」
「まだまだ先の話だ。ゆっくり考えろよ。お母さん知ってんのか?」
「まだ何にも言ってない。だから黙ってて。どうせまたギャアギャア騒ぐんだから」
僕はうなずき、スープを飲み、トレイに置く。それから、添えてあったミントの葉をかじった。口の中にスーッとさわやかな風が吹いた。顎で琢己の皿に残っていたミントを促すと、彼もその葉を口に放り込んだ。

「しっかりしてんな、お前」
「お父さんこそ、しっかりしてくれよ。これから、お父さんに相談すること、山ほどあると思うよ」
「いつでも来いよ、こんな親父で良かったら」
琢己が初めて笑顔になる。
「ありがと」
僕は手を伸ばし、息子の髪をくしゃくしゃにする。やめろよ、と琢己が僕の手を掴みながら笑う。そのずっと向こうの壁に大きな絵が飾られているのが目に入った。緑のライオン。そのライオンが吠えながら、笑っていた。
その時、携帯の呼び出し音がした。
手を放した琢己がポケットから携帯を取りだす。
「もしもし・・・うん・・・うん、わかった。・・・もう出るよ。うん」
「お母さんか?」
「うん。もう時間だから、すぐ来いって。パルコの前で拾うって。代われってさ」
琢己が携帯を差し出す。
「もしもし・・・・・・わかってるよ、でもまだ三十分あるだろ?この後コーヒーが出るんだけど、待てないか?・・・・了解。今行く」
「出るの?」
携帯をたたみながら琢己が言った。
「ああ。これから学会の打ち合わせに行くんだそうで、時間がないとさ。三十分繰り上げだ」
「バシッて言ってよ。バシッて」
「しょうがないじゃないか」
「また、それかぁ」
「お前、携帯持ってんのか」
「あたりまえでしょ。塾に行ってるからね」
手慣れた手つきで、携帯をジーンズの前ポケットに押し込むのを、僕は見ていた。

店を出て、階段を下り、池をぐるっとまわって、公園の端にある湧き水のそばを通り、坂を上ってパルコめざして歩いた。遠くで水鳥の騒ぐ声が聞こえた。
歩きながら、琢己が言った。
「お父さん、今日来るのに、僕、ちょっと勇気出したんだからな」
「わかってる」
「ほんとにわかってんのかよ。ほんとはぶん殴りたかったんだからな」
琢己は、男の子からいつの間にか少年になっていた。ちらっと横目で見ると、フード付きのダウンのポケットに手を突っ込み前を見つめて歩いている。
息子の肩に腕を回し、手に力を入れる。少年は前を見て、口元を尖らせたまま歩く。
「ねぇ・・・」
「なに?」
「お母さんのこと好きだった?」
「もちろん」
「愛してた?」
「・・・愛してた」
「嘘だよ。そんなの嘘」
「嘘じゃないよ。嘘じゃない」
嘘じゃなかった。ただ、愛せなくなったのだ。それがいつからかはわからない。何故なのかもわからない。自分の息子に、正直な気持ちを伝えられないのがもどかしかった。

道を渡り、パルコの角に着くと、琢己が言った。
「お母さん、彼氏できたみたいよ。大人は勝手だな」
「ああ」
その時、クラクションが聞こえ、車が道の向こうに止まった。運転席に恵美子がいる。ちらっとこちらを恵美子が見たが、すぐに視線を前へ向けた。
琢己が道を渡り、助手席に回り込みドアを開ける。一瞬顔をこちらに向けた。
「今度の試合、十二月三日!」
おお!と僕は手を挙げた。ドアが閉まると車はすぐに右折し、角を曲がって公園通りの車の波に飲まれて見えなくなった。

琢己は勇気と言った。別れた父親に会うのに勇気が必要なのだと。確かに、殴りたいのに殴らないで耐えるのは、ひとつの勇気だ。怒りも恨みもあるだろうに、恨みがましいことも言わず、自分の人生を受けとめるのは、間違いなくひとつの勇気なのだ。まだ幼さの残る息子が、無言で教えてくれた。
勇気ってのは、高いところから飛び降りることでも、戦争でたくさん人を殺すことでも、猛スピードで車を走らせることでもないよな。耐えることなんだよな。耐えることが勇気そのものなんだよな。
馬鹿な親父は、息子の健気な姿に、いつも学ぶのだ。
僕は琢己の後ろで、笑っていた緑のライオンを思い出していた。

    ・・・・・・・上野火山・小説集『空中スケッチ』より抜粋

2009年4月12日日曜日

Tommy☆

Pinball Wizard: Elton John


うあぁぁ!!びっくりしたッ!ネットでハッケン!!
ロック・ミュージカル“TOMMY”のPinball Wizard!
この役は僕が最も初期にやった役。。。何年前だろ?
すげぇ懐かしいので歌詞も載せます。
いつか、きっちりやりてぇなぁ☆ギンギンにロックしてますよ。
なにせ、原作はThe Whoの「四重人格」というアルバムですから。

@SONG: Pinball Wizard

The Pinball Wizard: Ever since I was a young boy,
I've played the silver ball.
From SoHo down to Brighton,
I must have played them all.
But I ain't seen nothin' like him
In any amusement hall.
That deaf, dumb and blind kid
Sure plays a mean pinball.
He stands like a statue,
Becomes part of the machine.
Feelin' all the bumpers,
Always playin' clean.
He plays by intuition.
The digit counters fall.
That deaf, dumb and blind kid
Sure plays a mean pinball.
He's a pinball wizard,
There has to be a twist.
A pinball wizard,
Got such a supple wrist!

Reporter: How do you think he does it?

Wizard: I don't know!

Reporter: What makes him so good?

Wizard: Well, he ain't got no distractions,
Can't hear no buzzers and bells.
Don't see lights a-flashing,
He plays by sense of smell.
Always has a replay,
Never tilts at all,
That deaf, dumb and blind kid
Sure plays a mean pinball.
He can't beat me now,
I've always been the champ!
I know it's a trick!
No freak's gonna beat my hand!
He can beat my favorite table,
He can beat the best.
His disciples lead him in,
And he just does the rest.
He's got crazy flipper fingers,
I've never seen them fall.
That deaf, dumb and blind kid
Sure plays a mean pinball.
He's a pinball wizard
There has to be a twist.
A pinball wizard,
Got such a supple wrist!
He's a pinball wizard
His score shoots even more!
A pinball wizard,
The world's new pinball lord!
He's scoring more!
He's scoring more!
I thought I was the Bally table king,
But I just handed my pinball crown to him.
To him!  To him!


ホールへ繋がる廊下

人気のない廊下。

通路という言葉より廊下の方がふさわしい。

劇場という特別の空間には下世話も高貴も、すべてを抱え込む雰囲気が充満しています。

その清濁併せ呑む大いなる空間を、僕ら舞台の人間は、「小屋」と呼びます。

この落差こそ芝居なんだな。

☆上野火山☆

2009年4月11日土曜日

コンクリートから緑が

コンクリートを突き破って緑の葉が群生していました。

普通の葉なのに、どこか力強い。それはあらかじめ突き破ったプライド故なのか?

確かにコンクリート突き破る勢いは大事だな。

プライドなんて、たかがそんなもんよ!
あの葉っぱの勢いとプライドぐらいがちょうどいい。

☆上野火山☆

天国への階段

僕の大好きな俳優さんが亡くなりました。

下馬二五七さん。享年六十四歳。

天井桟敷から芝居をはじめ、現在はスーパーカムパニーを代表する俳優であり、名バイプレーヤーでした。

実は5月の公演にも出ていただこうと思っていましたが、スケジュール的に難しかった。
ならば来年の公演と思いお話ししたいと思っていた矢先でした。

いつか、ホントの年齢が知りたくて、幾つですか?って聞いたことがあるんです。そしたら、ムニャムニャ…ってごまかされてしまいました。

下馬さんはそんな方でした。

いつも飄々とまるで天使かビリケンのような方でした。

あなたはとうとう天国の階段を昇って行かれたんですね。


楽しいお芝居ありがとう。僕はあなたを忘れません。


心より御冥福お祈り申し上げます。

☆上野火山☆

2009年4月10日金曜日

ピーター・ブルックと風

King Lear: Directed by Peter Brook, 1970

ピーター・ブルックほど巨匠にもかかわらず、生き方に巨匠臭さのない人も珍しい。
写真は1970年の彼の監督した映画「リア王」の一場面。

ピーター・ブルックが若い時期にグルジェフに傾倒していたというのを知ったのは、彼の自伝「ピーター・ブルック回想録」が出てからですから、随分後になってからです。

僕自身、かつてグルジェフの思想に触れ、大きな影響を受けていると思っています。特にグルジェフワークを続けようという気はありませんが、グルジェフの思想には、目の前の常識をゼロに戻し、感覚を生まれた状態から再開させるなにかがある。
「人は生涯眠ったままなのだ」と言ったのはグルジェフです。
人は如何にして「覚醒する」のか。これこそグルジェフのテーマであり、ピーター・ブルックのテーマでもあったかもしれません。ピーター・ブルックの方が遥かに柔らかいアプローチですが。

ピーター・ブルックの回想録はグルジェフの思想と彼自身の関わりで埋まっている本だとも言えます。その意味では、他の著作物、たとえば「なにもない空間」であるとか「殻を破る」というような本より読者を選んでしまうかもしれません。でも、とても素直に自己の人生に対するグルジェフの思想の影響を語っている辺りに僕はとても共感します。

「リア王」のこの写真を見てもわかるとおり、ピーター・ブルックの舞台は風を感じさせます。映画だからではなく、屋内のステージであっても、どこかで彼の舞台は風が吹く。

おそらく、それは彼自身が覚醒への長い道のりを旅し続けているからではないでしょうか。
まるで、風の中を疾駆する馬のように。


ほんのさわりの部分ですが、どうぞ。

太陽が顔を出す

今朝7時前の太陽です!
建物の壁際から、顔を出し、強烈な光でこちらを照らします☆

いいねぇ!!人間も光合成するんジャマイカ?

今日も1日がんばるぞー!


☆上野火山☆

2009年4月9日木曜日

桜がうねってます

大きな波のような桜のうねり☆

なんか今年の桜は、超長持ちしてます!

いつもの年なら、一週間前には散っていたでしょう。

ちなみに、この写真はうちの妻が撮ってくれました。
ありがとね★☆

☆上野火山☆

ミル・マスカラスの覆面☆


最近、とんとご無沙汰しているのがプロレスですね。

特に覆面レスラーが好きで、マスクマン命でしたね。
一時期、といっても小学生の頃でしたが、最初母親に余った切れ端で覆面を作ってもらいましたが、やがて自分で作るようになった。

近所に家が建ったりすると、自転車で走っていって、「建前」といって柱が建った頃、餅を撒くんですね、それを取りに行った。でも、ほんとの目的は、餅じゃなく、屋根に上げられた紅白の布。

それをもらって帰ってきては、覆面の材料にしてたんだなぁ。

毎回、どんなデザインにするか悩んで楽しかったなぁ。ぜんぜん勉強なんかしなかったもんな。
バイアステープというのを母から教わって、目や鼻の縁取りはバイアステープで処理した。

その頃、衝撃的に感動したのが、ミル・マスカラスの登場だった!

試合の度に違うマスクで登場。
メチャメチャ格好良すぎた。デストロイヤーやミスター・アトミック、ベン・ジャステスなんていうマスクマンとは、覆面自体の概念がまったく違っていたんだな。
その頃は、ルチャ・リブレなんてまだ知らなかったしね。
そして、プライベートではオーバーマスクなんていうカジュアルな覆面で、とにかく目眩くような覆面のオンパレードでしたね。
いつも覆面に見とれていたし、プロレス雑誌のゴングを買っても、覆面のデザインを頭にインプットするので精一杯でした。

それから、徐々にプロレスがレスラーのキャラクターよりも、組織や団体の抗争の方に、比重がずれこんでいった頃、僕はプロレスから遠く離れていったような気がします。

それでも、今でもなお、覆面は好きだな!

いつか、またきっと、すごいデザインのやつを作ってみたいですね。
ミル・マスカラス方式で、後ろの紐で縛るやつを☆

ところで、ミル・マスカラスはメキシコでは映画スターでもあるんだよ。

僕が見たのは、覆面を付けて悪の組織に潜入する「潜入警官」モノでした。

あり?覆面付けて潜入するってどいうこと?なんて言わないでね。

潜入捜査官ミル・マスカラスは、組織の連中には覆面を付けていてもまったくばれず、最後にバイクでドス・カラスたちと組織の秘密基地に乗り込んで壊滅させる、それはそれは胸のすくような映画です。

笑いが止まらないんだけど、ミル・マスカラスは、なにをやっても格好良かです。

ただね、ミル・マスカラスも含め、プロレスが面白かったのは、物語があったからだと思うんです。

逸話のみならず、試合そのものが、物語性に満ちあふれていた。

僕が惹かれたのは、まさにその部分だったんじゃないだろうか。

スポーツはシナリオのないドラマだ、なんて思いません。でも、むしろプロレスはスポーツより限りなく演劇に近かったような気がします。
ライブで物語が激しい動きを通して語られる。

ミル・マスカラスの魅力も、オープニングのスカイ・ハイからプランチャ(別名:フライング・ボディーアタック)で決めるまでの演劇性にあるような気がするんです。

もう一度観てみたいなぁ。。。

汚れっちまった悲しみに

中原中也


僕が学生の頃住んでいた、高円寺、いやむしろ少々中野寄りではありましたが、その近所に詩人の「中原中也」が住んでいたと知ったのは、だいぶ後になってからでした。
近所というより、中原中也の暮らした場所のすぐ隣?って感じかな?
僕は彼と同じ街の匂いを、時代は違うけれど、味わって過ごしたんですね。

中原中也と出逢ったのは、高校生の頃、駅のそばの「北上書店」で新潮文庫の「中原中也詩集」を立ち読みして気に入って、買ったのが最初でした。

中原中也の詩は、汚れと純粋が同時に存在し、僕らの存在が矛盾そのものであることを伝えている。
どうしようもない自分の汚れた部分と向き合いながら、むしろそうやって向き合うからこそ、一条の光が、言葉という表象を越えて、その人間の内部から外側へ発せられる。
青春の詩のように思われている中原中也の詩ではありますが、無頼の精神を体現した生きるスタイルがそこにあります。

生きるというのは、やがてひとつのスタイルを越えて、その人自身の自己造形に至る。

作品と出逢うというのは、強烈な印象の体験であり、強い影響力を受けるということです。

高校生の時から、この「汚れちまった悲しみに」は僕の精神の一部になってしまっていまいました。


町田康×中原中也『汚れっちまった悲しみに』

2009年4月8日水曜日

夜の音楽・MJQ


MODERN JAZZ QUARTET - TRUE BLUES
Milt Jackson , John Lewis, Percy Heath , Conie Kay


もうすぐ、今日も終わり。

時が変わって、明日になります。

本日の仕事は、そろそろ切り上げて、ベッドに入ろうと思います。

その前に、六分間だけ、心を静めるMJQのJAZZを聴こう☆

大人の音楽が夜の静けさに中に広がります。

静かに、静かに・・・・・。


たからやのギター

これが、オイラのギターだぜ☆

中2の時に駅前の「たからや」で値切って買ったんだ。

どういうわけか、今でも捨てられずに、僕の部屋の片隅に置かれてる。

今じゃみんな「アコギ」とか言ってるけど、要するにかつては「ウェスタンギター」と呼ばれたボディーの大きめのアコースティック・ギターです。

メーカーはぜんぜん聞いたことのない「MARUHA」と書いてあります。まるでハム?

でもね、ネックは限りなく細く、弾きやすいのよ。

三十五年ぐらい僕の隣にいます。

たからやのギターのご紹介。


☆上野火山☆

西荻フォークびれっじ

西荻窪の路地裏 Photo by YUKi-TO

昔、西荻窪の北口のそば、ビルの地下に小さなライブスポットがありました。

その名も「西荻ロフト」。

七十年代後半、西荻に暮らしていた僕は、何度も通った懐かしい場所。

八十年代に入り、店はなくなってしまったけれど、僕の記憶の中に、「西荻ロフト」は残っている。

西荻窪については、語っても語り尽くせない何かが僕の中にあるんだな。

ロックしていた僕ですが、西荻は何故か「フォークびれっじ」って感じなんですよ。

どこかしら、アコースティックな感じがするし、「フォークびれっじ」の「びれっじピーポー」が路地に今でもいそうな感じがします。

昭和も、この街はどこか五十年代あたりで止まってしまった感がある。

僕には「ワシントン広場の夜は更けて」が聞こえてくるんですが。。。



2009年4月7日火曜日

夕暮れの前に

夕暮れ前に空を見上げると、薄いピンクの空でした。

夕焼けまでにはいたらない、

午後の光でもない、

それはちょうど桜の花の色のよう。

なぜか、まわりの建物がシルエットになり、

空気が、桜色のインクに染まりました。

一瞬なんだよな。

いろいろなことに気がついて、

いろいろ考えても、

一瞬にして、すべてが生まれ、消えていく。

この桜色の空気も、一瞬の贈り物だな。


☆上野火山☆

花びらの吹き溜まり

歩道のすぐ下に、桜の花びらの吹き溜まりができてました。

そろそろ散り始めた桜の最期の姿が、毎年この吹き溜まりなんだな。

こうして、あと二三週間で若葉の頃がやってくる。

季節の流れを止めることは誰にもできません。


まぁ、ゆったりと急ぎながら、いきますか?

☆上野火山☆

春の海の光よ!

Photo by 若狭常神


ぜんぜん海になんか行く余裕もありませんが、素敵な写真を見つけました。
海の近所に住みたいなぁ、なんて昔から思ってましたが、いつになったら実現することやら、今も内陸奥深くに暮らしております。

しかし、海の光を夢見ることはできる。
あの波間に輝く乱反射は川でも見えなくはないですが、やはり海のものでしょう。

特に、夏の暑い照り返しでも、冬の凍えるような氷の輝きでもない、春の煌めきがそこにある。

芝居が文学と違うのは、戯曲という要素以外は、瞬間の芸術であるということです。それは文学よりも、むしろ音楽に近い。
音楽は光でもあります。心の中に射し込む光。だから、僕の芝居では音楽はバックグラウンドの背景音以上の意味を帯びます。
すなわち、音楽は感情そのものだからです。

春の海の光を思い出しながら、やっぱり芝居のことを考えてしまった。

それが、僕です。

2009年4月6日月曜日

劇団のブログの表紙


やっぱりこの写真にしてみました。Jackの写真。

何かこっち方が落ち着く感じだな。

ほんと、ブログでもホームページでも、ページトップの写真やデザインて悩みますね。

うん、でもこれでいこうと思います。

もし良かったら、「空中スケッチ公式ブログ」も覗いてみてください。

渋いブログスポットになりました。

ひだまりの朝

廊下に射し込んだ朝陽が「ひだまり」をつくっていました。
「水たまり」も、良い感じだけど、「ひだまり」もなかなか捨てがたい。

光が、まるで水のように溜まってるって感覚がいいんだな。

廊下にできた「ひだまり」をしばし眺めていました。

まあ、これもブログ的過ぎるかな?とは思ったけど、いいもんはいいもんね。

「ひだまり」
明日から、もう少し、身のまわりの「ひだまり」に気をつけてみよう。
そんな気になりました。

そして、子供たちは学校へ走っていきましたとさ。

☆上野火山☆

2009年4月5日日曜日

岩をも通す

BBCで放送された「居合」の特集をアップ。

演劇にも通ずるものがあると思います。

ここで師範が語る言葉は、全て人間を見つめ、人間を描こうとするものにとって意味があると思うんだよな。
たとえば、内股を切るのは、そこに動脈があるから、あるいは、強い思いは岩をも打ち砕く等、興味深い話が続く。僕らの現実と想像力のリアルが試され、実験されているような気がする。僕らはここで語られているリアルから、随分遠く離れてしまっているんじゃないか?

日本の文化を誇るというのは、まさにこういう所にあるんだと思う。
日本は良い国で、今まで悪いことなんかなんにもやってない、などと思い込むことが日本の誇りにつながるわけではない。そんなのはどうでもいい。良いも悪いもない。この国に綿々と受け継がれてきた大切な流れがあるはずだ。
新しさばかりに目がいくうちは、ここで語られることに興味はわかないかもしれない。
でも、大事な大事な指摘が為されていることに気がついて欲しいな。
それは、意志の力が、物質を越えるということだ。金銭欲以外の意志を忘れた時代に、これは貴重だと僕は思うな。刀と向き合うというのは、人間と向き合うのと同じだ。人の精神もひとつの刃だから。
金勘定してる場合じゃないぜ。

恐らくここに描かれている緊張感とリラックスの在り方が、他の文化にはない稀有なものなのかもしれない。



桜はまだまだ

今年は気温が下がったりするせいか、桜が長く咲いてる感じがします。

例年なら、とっくに散り始めてますからね!

近所でお花見やってました☆

ブログっぽく日記でした。

いい春の1日。

☆上野火山☆

いちご白書

The Strawberry Statement : 1970

高校生の頃、今はなき一関の駅前にあったオリオン座という小さなオンボロ映画館で観た映画の中に「いちご白書」という作品があった。
原作は小説ではなく、アメリカの左翼学生が書いた手記のようなものだった。その原作も文庫で読んだが、これは映画を観るべき作品だと思う。

ひょんなことから、まったく無気力でベトナムなど関心もなかった学生が、恋人のために、やがて熱烈に反戦運動に身を投じていく過程を描いているんだな。

やる気のない前半と、サークルゲームという円陣を組んでストを起こすラストでは、主人公の在り方が大きく変わっている。恐らく多くの学生が世界中でそんな感じで学生運動に関わっていったんじゃないだろうか?普通の、そしてあまりにも平凡な学生のその変貌ぶりを主演のブルース・デイビソンは繊細に描き出している。彼に大きな影響を与える恋人役にキム・ダービー。彼女は七十年代の青春を代表する女優さんの一人でした。
舞台は学生の最も激しい抵抗運動があったとされるカリフォルニア大学バークレー校のキャンパス。

何も言わない青春より、何かを言おうとする青春。
言おうとすることで、苦しむならば、青春に終わりはない。
何も言わなければ、苦しみはないが、それはもはや青春ではない。

最近、あんまり観るチャンスはないかもしれないけど、いつか観て欲しい作品だな。
映画のラストシーンまで見せてくれるトレーラーです。


2009年4月4日土曜日

これから移動

西荻から田無に移動なんですが、おっと、地下鉄が来ました!

乗り込んだ途端に発車!!

携帯で更新できると、ブログって、実況中継になっちゃうね。

ただ西荻の駅の看板をアップしたかっただけなんですけど。。。

今、阿佐ヶ谷出ました!
実況中継終了☆

☆上野火山☆

一人旅


家の娘が、一人旅から今日帰ってきます。

親類の家に世話になりながら、関西方面を歩いてきた模様。

いい旅だったに違いない。

僕たちは、あるときから、みんな、一人旅をはじめるんだ。

その旅は、遠いこともあれば、近いこともある。

大事なのは、一人だということ。

いろんな人の世話になるのが自分一人だということ。

一人からはじまって、一人で終わる旅。

途中でいろんな人と出会い、人間の輪が広がりながら、それでも、やがて一人になる。

僕は、旅の、その道を行く、君の後ろ姿を想像してみた。

こうして、僕らは、少しずつ大人になっていくんだ。

詩人ブルース・リー

The Dying Sun

by Bruce Lee

The dying sun lies sadly in the far horizon.


The autumn wind blows mercilessly;
The yellow leaves fall.


From the mountain peak,
Two streams parted unwillingly,


One to the West, one to the East.


The sun will rise again in the morning.


The leaves will be green again in spring.


But must we be like the mountain stream,


Never to meet again?



カンフースターであったブルース・リーは僕ら昭和の子供たちにとって忘れることのできないヒーローだった。
蹴りで学校の廊下の羽目板を割っては、しょっちゅう先生に叩かれていたような気がする。ヌンチャク振り回して、頭にタンコブ作っていたのもあの頃だ。
でも、ブルース・リーが詩人だったことはあまり知られていない。
アクションスターとして伝説になった人物だが、その心の底には、哲学し、詩を書き留めるもう一人の人格があった。その詩的な営みの中で「截拳道(ジークンドー)」と呼ばれる彼独自のカンフーが完成していったのだと思う。
上の彼の詩は、男女を詠ったものなのか、友情を詠ったものなのかは分からない。
ただ、この詩の中に、時の流れと、言い知れぬ孤独があり、ただの手慰みやメモ程度を越えた「詩」を、僕は感じる。「考えるより、感じろ」と言ったのはまさしく彼だが。
山から下り落ちる川の二筋の流れは、人と人の出会いと別れ、あるいは、存在の孤立、そんなものを言っているような気がする。相容れない、僕らのそれぞれの存在とその行く末。
この小さな詩の中に、彼のこの世との関わり方が、少しだけ垣間見える。
見栄や虚栄心も人一倍あっただろう。でも、それを越えるような深い生の感覚の中から、あの鋭いアクションが生まれてきたのだろう。彼のアクションは様式美そのもの、つまり、京劇や歌舞伎に繋がる永い東洋の伝統の中から生まれてきたものだ。
あらためて「燃えよドラゴン」のワンシーンを眺めて、その様式美を感じます。
僕の演劇的土壌であるMethod Actingには、様式を嫌う傾向がありますが、様式を否定しすぎると飛躍もなくなるんだな。様式は必要です。
アクション映画と馬鹿にするむきも世の中にはありますが、ブルース・リーの様式美が不滅の輝きを放っているというのは、真実だと思うな。
彼のこの詩と、戦う姿を見比べて欲しい。比較することで、そこに何か共通したブルース・リーという人物の残した別の印象を発見するかもしれない。

2009年4月3日金曜日

Have you seen the light!


The Blues Brothers:1980


“ Have you seen the light! ”
これはハチャメチャな名画「Blues Brothers」の中の台詞だよ。

空虚で荒んだ時代八十年代が幕開けしようとしていた頃、ひとつのアメリカ映画が公開された。
それが、この「The Blues Brothers」だッ!

刑務所を出所してきた孤児の兄弟が、最高のブルースバンドを生み出すまでのナンセンスな物語。
でも、何故か、馬鹿馬鹿しいのに、どんどん引き込まれていく。
「あなたがた・・・警察の方?」
「いえ、ミュージシャンです」
と真顔で答える主人公の二人に、僕なんか最後は兄弟のように心が一体化してしまいます。
「お前ら最高!」なんて、織田ユウジのように叫びたくなります。
言い過ぎですか?

どんどん引き込まれていくその原因は、この映画の「徹底的な人生に対する肯定感」にあるような気がします。
とにかく思うんだ、生きてて良かったってな!
その感覚はとっても大事なんですが、何故か時代の中でやがて失われていく感覚でもありました。

主人公ジェイクを演じる俳優・ジョン・ベルーシがこの後すぐ亡くなってしまうのは、どこか時代が彼の体現したはちゃめちゃな元気さとは対極の所へ向かっていることの現れだったのでないかなと思います。ともかくも彼はこの世から去り、ブルース・ブラザースは伝説になった。

今、この時代は彼を理解できるだろうか?

On the beat☆


劇団のブログの表紙を変えてみた。
それが上の画像です。

「beatnik」ゆかりの人々のコラージュですけど、気に入ってます。
あっちのブログのレイアウトが今ひとつ決まらずにいたのですが、やっぱり自分のハートに従うのが一番ざんす。
少々デカイんですけど、インパクトと、なんか、そうだなぁ、ココロ?ってのかな、やろうとしている演劇とどこか重なる気がするんです。
Beatだもんね、やっぱり。心拍数、Heartbeat、うん、beatnikは遠い昔の話ではなく、今もう一度必要とされてるのかもしれないな。
ケルアックが、beatの持つ社会不適合者というネガティブなイメージを、On the beatという表現を生み出して明るく変えていったように。
この時代のネガティブは明日の希望かもしれないんだ。

もしよかったら、劇団ブログのトップをご覧下さい。
このトピックのタイトルをクリックしても飛べますよん!

このブログにも何度か登場したケルアックのお言葉「On the beat」も、結構古びることなく、今でも通用する感じがします。
「のってけ!」ぐらいの意味なのですが、On the beat! いいじゃない!
やっぱりくよくよくよくよ悩んで動かないより、On the beatで動き出した方が、短い人生、なんかの役にはたつだろう。
上手くやろうとして、石橋を叩いても渡らない人間がいるけれど、そんな生き方は、人生を最初から棒に振っていますね。
怖がって、ただ待っていても、何も起こらない。
やるか、やらないか、そのどちらかだな。

だから、
石橋は、とりあえず渡ってみようよ☆
んでさ、おっこったら、また振り出しに戻ればいいじゃない。

そう!まずはOn the beatだ!!!

2009年4月2日木曜日

仕事の合間に☆

こんな本を読んでます♪

Jonah Goldberg;" LIBERAL FASCISM "

最近、アメリカで話題になった本だそうで、ちょいと目を通していたのですが、う〜む、この本は現代のファシズムは左翼が中心であり、実際は一般的に思われているようなファシズムというものは保守陣営や右翼が最終的に至る思想状況ではない、と言いたい本なのですね。

だいだいね、右と左に分ける前提からこの本は出鱈目です。
日本においても、一部でファシズムの復活待望論が出始めていて、世界でも同じ状況のようです。

いずれにしろ、保守であれ革新であれ、政治的立場に関係なく、一部の企業の利益のために国家を破綻させていく者たちがいる。
彼らは口々に、より良き未来を語るのだが、それは騙しの手口。
ファシズムは甘い言葉と共にやって来る。

この本、タイトルはいいし、良いとこ突いてるんですが、いかんせん、主張が現在の保守派の擁護論から一歩も出ていません。
こういうダメダメな本がヒットするアメリカって。。。。おわってんじゃね?



☆上野火山☆

2009年4月1日水曜日

ソローの家

walden

ウォールデンの森には今もなお、ヘンリー・ソローの家が(小屋ですね)残ってるんだな。
「森の生活」という本は、もう何度も読みましたが、決して色あせることのない書物です。

演劇を営んでいる僕にとって、森で暮らすことになんの意味がある?と言われれば、確かに遠い生活環境に思えます。
ですが、演劇は「追体験」の場です。
僕自身、山と川の間で育ち、小学生から高校生に至る時代は、それこそ森のすぐ近くに暮らしていたことを忘れまい。
山椒魚を捕ったランバイ山の小さな森の中の沼、そして、崖にぶら下がった蔦でターザンごっこをしたこと。イワイ川で泳ぎ、魚を捕り、田んぼではイナゴを捕って、佃煮にして食べた。。。。。
そして、いつも手には小さなナイフがあった。

小さな出来事を思い出してみると、ソローのウォールデンの森は案外近くになったような気がします。
ナイフ一本だけで森に入って行ったソローの決意は、都会生活で小さな十徳ナイフすら携帯を許されない生活を当たり前と思い込んでいる今の僕らには、理解しがたいものかもしれない。

でも、道具なんてものは案外それほど種類を必要としないのかもしれません。
携帯電話より一本のナイフの方が便利だと思える生活は、やっぱり魅力的なんじゃないだろうか。
携帯電話で逮捕される人はいませんが、ナイフを持っているとたちどころに逮捕です。

ときどき、いつか森に暮らしたいと、夢見てしまいます。
ナイフを一本だけ持って。
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