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2009年4月3日金曜日

On the beat☆


劇団のブログの表紙を変えてみた。
それが上の画像です。

「beatnik」ゆかりの人々のコラージュですけど、気に入ってます。
あっちのブログのレイアウトが今ひとつ決まらずにいたのですが、やっぱり自分のハートに従うのが一番ざんす。
少々デカイんですけど、インパクトと、なんか、そうだなぁ、ココロ?ってのかな、やろうとしている演劇とどこか重なる気がするんです。
Beatだもんね、やっぱり。心拍数、Heartbeat、うん、beatnikは遠い昔の話ではなく、今もう一度必要とされてるのかもしれないな。
ケルアックが、beatの持つ社会不適合者というネガティブなイメージを、On the beatという表現を生み出して明るく変えていったように。
この時代のネガティブは明日の希望かもしれないんだ。

もしよかったら、劇団ブログのトップをご覧下さい。
このトピックのタイトルをクリックしても飛べますよん!

このブログにも何度か登場したケルアックのお言葉「On the beat」も、結構古びることなく、今でも通用する感じがします。
「のってけ!」ぐらいの意味なのですが、On the beat! いいじゃない!
やっぱりくよくよくよくよ悩んで動かないより、On the beatで動き出した方が、短い人生、なんかの役にはたつだろう。
上手くやろうとして、石橋を叩いても渡らない人間がいるけれど、そんな生き方は、人生を最初から棒に振っていますね。
怖がって、ただ待っていても、何も起こらない。
やるか、やらないか、そのどちらかだな。

だから、
石橋は、とりあえず渡ってみようよ☆
んでさ、おっこったら、また振り出しに戻ればいいじゃない。

そう!まずはOn the beatだ!!!

2009年4月2日木曜日

仕事の合間に☆

こんな本を読んでます♪

Jonah Goldberg;" LIBERAL FASCISM "

最近、アメリカで話題になった本だそうで、ちょいと目を通していたのですが、う〜む、この本は現代のファシズムは左翼が中心であり、実際は一般的に思われているようなファシズムというものは保守陣営や右翼が最終的に至る思想状況ではない、と言いたい本なのですね。

だいだいね、右と左に分ける前提からこの本は出鱈目です。
日本においても、一部でファシズムの復活待望論が出始めていて、世界でも同じ状況のようです。

いずれにしろ、保守であれ革新であれ、政治的立場に関係なく、一部の企業の利益のために国家を破綻させていく者たちがいる。
彼らは口々に、より良き未来を語るのだが、それは騙しの手口。
ファシズムは甘い言葉と共にやって来る。

この本、タイトルはいいし、良いとこ突いてるんですが、いかんせん、主張が現在の保守派の擁護論から一歩も出ていません。
こういうダメダメな本がヒットするアメリカって。。。。おわってんじゃね?



☆上野火山☆

2009年4月1日水曜日

ソローの家

walden

ウォールデンの森には今もなお、ヘンリー・ソローの家が(小屋ですね)残ってるんだな。
「森の生活」という本は、もう何度も読みましたが、決して色あせることのない書物です。

演劇を営んでいる僕にとって、森で暮らすことになんの意味がある?と言われれば、確かに遠い生活環境に思えます。
ですが、演劇は「追体験」の場です。
僕自身、山と川の間で育ち、小学生から高校生に至る時代は、それこそ森のすぐ近くに暮らしていたことを忘れまい。
山椒魚を捕ったランバイ山の小さな森の中の沼、そして、崖にぶら下がった蔦でターザンごっこをしたこと。イワイ川で泳ぎ、魚を捕り、田んぼではイナゴを捕って、佃煮にして食べた。。。。。
そして、いつも手には小さなナイフがあった。

小さな出来事を思い出してみると、ソローのウォールデンの森は案外近くになったような気がします。
ナイフ一本だけで森に入って行ったソローの決意は、都会生活で小さな十徳ナイフすら携帯を許されない生活を当たり前と思い込んでいる今の僕らには、理解しがたいものかもしれない。

でも、道具なんてものは案外それほど種類を必要としないのかもしれません。
携帯電話より一本のナイフの方が便利だと思える生活は、やっぱり魅力的なんじゃないだろうか。
携帯電話で逮捕される人はいませんが、ナイフを持っているとたちどころに逮捕です。

ときどき、いつか森に暮らしたいと、夢見てしまいます。
ナイフを一本だけ持って。

2009年3月31日火曜日

二人


ディランとギンズバーグが語り合ってる写真。

いったい何を話しているんだろう?

二人はそれぞれ自分の世界を言葉に載せた詩人たち。

二人の道は似てはいても、違っていた。

それでいいんだよな、

それでいいんだ。


人は、人生のどこかで、ときどき、すれ違いながら、

生きる。

それでいいんだ。

そうやって、僕らは、二人になる。


僕たちは、孤独だが、

決して、

寂しくはない。


僕たちは、二人だ。

2009年3月29日日曜日

ギンズバーグが吠える!

Photo by John Hopkins 
in London
  • Allen Ginsberg's "Howl" 
  • I saw the best minds of my generation destroyed by
  • madness, starving hysterical naked,
  • dragging themselves through the negro streets at 
  • dawn looking for an angry fix,
  • angelheaded hipsters burning for the ancient 
  • heavenly connection to the starry dynamo in the
  • machinery of night,
  • who poverty and tatters and hollow-eyed and high
  • sat up smoking in the supernatural darkness of
  • cold-water flats floating across the tops of cities
  • contemplating jazz,..............................
ビート詩人と呼ばれたアレン・ギンズバーグの「吠える」の冒頭です。
二十代の後半、僕は友人と彼の朗読会に行ったときのことを忘れることができない。

ジャズベースとともに、そのビートに乗りながら、まさに吠えるように、汗を滴らせながら、彼は詩を読んでいた。
詩は声に出して初めてこの世に存在する事を許される。
それはプネウマ(息)そのものだ。

何故意味あるものが失われ、何故無意味がはびこり、何故愚かさが賢明さを破壊しようとするのか、
時代が変わろうと、不安は変わらず、むしろ、狂気の度合いは増しているのかもしれない。

現代という「狂気の時代」にこそギンズバーグは読まれるべきもののような気がします。

狂気の時代に、人は自分たちが狂っているという自覚を失っているものです。
だからこそ、この時代は、今という時代は、確実に狂っているのではないですか?

吠えるべき対象は、古い時代の誰かではなく、我々自身でしょう。
たとえば、ヒトラーやナチスが悪いというのは容易い。
むしろ、今目に見えないものの中にこそ、狂気の原因と、策略が隠されている。
我々自身の中に深く浸透している価値観にこそ、狂気の因子は潜んでいる。

ギンズバーグはこの世を去りましたが、残された我々がどう生きるのかが今試されているのだと思う。

酔狂な、そして同時に、真剣そのものの生き方が、今試されているのだと思う。

次に、この時代に向かって吠えるのは、僕らの番なのだ。

2009年3月28日土曜日

アデンの想い出




ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどと誰にも言わせまい。

「旅にまっとうなものはひとつしかない。それは、人間に向かって進んでいくものだ。それがオデュッセウスの旅なのだ。僕が無駄に古典の勉強をしていたのでなかったのなら、そんなことはわかっていて当然だったのに。そしてこの旅はもちろん帰還することで終わる。旅の価値はその最後の日に決まる。」

          ーポール・ニザン『アデン・アラビア』より


僕に言葉の持つ真の美しさを教えてくれた師の一人がポール・ニザンだ。
そして、十九歳の人生をやり直すことで懸命だった頃、僕を支え、鼓舞してくれたのはアデン・アラビアだった。

この美しい本は、青春の屈折した感情を実に上手くすくい取り、僕たちに指先からこぼれ落ちる滴のように、煌めいて見せてくれた。
観念と詩とリアルが同居するあの青春の日々。
その時代に、この書物と出逢えて、僕は幸運だったと思う。
成人式に出る必要もないと結論づけたのも、まさにこの本の影響。
僕は二十歳を美しく彩ることを拒絶し、全てを諦めて、浪人していたのだ。
その惨めな暮らしの中で、腹を減らしながら読んだ言葉は、僕を更に一日生かしてくれたのだと思う。
飯が食えなくても、人は生きることができる。
勿論数日間ぐらいは。
ただ、生きた言葉がなければ、僕らは生きながら死に果てる。

ニザンの言う「旅」とは、人生だ。
人生の価値は、その最後の日に決まる。

青春とは、死を想うことなんだ。
死を想うことなしに、二十代を過ごすことがあるとすれば、それは青春を生きていることにはならないんだ。
逆に、死を想いながら生きる八十代は、見事な青春を生きているのかもしれない。

アデン・アラビアは光を屈折させる、一種のプリズムだったんじゃないかな。
全ての常識的価値観の転倒。
彼自身が、共産党員から、やがて脱退、そして
オードリュイクで戦死という三十五歳の短い生涯を選んだ。
イデオロギーに対する絶望感とそれを乗り越えようとする希望。
人は自分の選び取った人生しか生きることができない、というのが僕の二十歳の頃のこの本に対する感想だったような気がする。

決して忘れることのない一冊です。
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