2009年4月13日月曜日

森の中のレストラン<短編小説>


Photo by UMA SOUL



井の頭公園のこんもりした森の中に、タイ料理のレストラン「Pepecafe Forest」があります。
僕はここでランチするのが好きです。ここを教えてくれたのは妻でした。
かつて書いたこの店を舞台にした短編小説をアップ。
吉祥寺と井の頭公園とこの店の雰囲気を楽しんでください☆

『緑のライオン』


by Kazan UENO



「お父さんは最低だよ」
琢己が言った。
僕らは井の頭公園のボート乗り場の近くにある、木々に囲まれたタイ料理のレストランにいる。優衣とボートに乗ってからちょうど一週間経っていた。今日は5ヶ月ぶりのミーティング。
「ペパカフェ・フォレスト」というそのレストランは僕ら親子のお気に入りで、吉祥寺をぶらぶら歩き回った後はここで食べることにしていた。早いもので店内にはもうストーブが数台置かれていた。僕らはちょうど店の真ん中、二台のストーブに囲まれた四人がけテーブルに座っていた。
「どこが?」
僕はカオマンガイを食べながら訊いた。
「だらしないよ。いろんな意味で」
「そうか」
「お母さんに言われっぱなしだろ。一発がーんってやればいいんだよ。ぶん殴って、馬鹿にすんじゃねぇ!とか言ってさ。んなだから、愛想つかされんじゃね?」
琢己はいつものクラッパオガイを口一杯ほおばる。
僕の食べているカオマンガイは「タイの屋台風海南島チキンライス」と呼ばれるもので、タイ米の上にチキンが添えてあり、そこに店オリジナルのカオマン垂れをかけながら食べる。琢己のクラッパオガイは鶏挽肉と野菜を炒めたものとライスがついている。鶏の挽肉は包丁で叩いてミンチにした目の粗い肉で、それとカラーピーマンを炒めたものをライスに混ぜながら食べる。
琢己はさかんに混ぜながら、パクチョイ(香野菜)の浮かんだスープをズズッと啜った。
「昔な」
「うん?」
「昔、女の人殴ったことがあるんだ。よくないなぁ、ありゃ。今でも後悔してる。そのうち、口であれこれ言うのもだんだん嫌になってな。お母さんから見れば、お父さん、不甲斐ない奴だもんな。しょうがない」
「殴ったことあるの?」
「うん。一度だけな。お母さんじゃないけどな」
琢己が生春巻きを垂れにつけ、一気に口に放り込んでから、口をもぐもぐさせながら言った。
「ホーガハイッヘイウハホ」
「うん?」
琢己が水をゴクリと飲む。
「だからぁ、しょうがないっていうなよ。・・・僕だって、しょっちゅうしょうがないって思うけど、我慢してんだ。しばらくミーティングしなかったのも、お父さんに会ったら、また一緒に暮らせないかなぁなんて考えてしまうから。だから会わなかったんだ。こうなったのは運命だから受け入れるけど、しょうがなくなんかないよ。僕はこうやって生きていくしかないんだから。でも、しょうがなくなんかない」
「ああ・・・」

琢己は料理をを黙々と食べる。
それまでのミーティングでは、琢己はほとんど喋ることがなかった。少し気持ちの整理ができたのかもしれない。子供を苦しめる親がどこにいる?自分がそういう親だと自覚すればするほど、自分の未熟さに呆れ果てる。それにくらべ、少年の成長はどうだ。ちょっと前まで、子供子供していたのに、この数ヶ月で急激に男らしくなっている。こっちは父親らしいことはさっぱりなのに。

店の中には、一人で食事をする若い女性。そして、二組の男女のカップル。奥の方には二台のバギーを止めた二人の母親が、子供たちとワイワイ楽しそうに食べている。すぐそばのテーブルでは外国人の女性と日本人の女性がフランス語で何かの企画について話し合っていた。

サンバがかかっていた。
ポニーテールに髭面の若者と髪をショートにした女の子がホールを仕切り、カウンターの向こうには黒いスカルキャップを被った料理長。そして、その脇で女性が二人で楽しそうに笑いながら、食器を洗っている。外では、店の女の子が、ホウキで枯れ葉を一所懸命集めて、枯れ葉の山を作っていた。

「サッカー続けてるのか?」
「ああ。やってるよ。小平のチームに入ってる。今度試合あんだ」
「教えろよ。観に行くから」
「いいよ。来なくて。お母さんが、そろそろやめろっていってるんだ。やめないけどね」
「やめなくていいよ。好きなことは続けろよ」
ああ、と無愛想に返事をしながら、サラダをばりばりと噛みしめる。サッカー少年は冬になりかけているというのに真っ黒な顔で、太陽に鞣された顔をしていた。
「飯はどうしてる?」
「お母さんが作るわけないじゃん。僕が作ってるよ。まぁ上手!って喜んでるよ、お母さん。仕事第一だもんね。時々、お父さんのお料理懐かしいわねって」
「料理の腕が上がったか」
琢己が最後のスープを飲み干す。それからゴクリと水を飲んだ。
「実はお父さん、僕やりたいことがあるんだ」
「やりたいこと?」
「うん。僕、高校出たらコックの勉強しようと思ってる」
「大学に行かないのか?」
「うん。なんか、最初面倒くせぇなぁと思ってたのに、今は料理すんのが楽しいんだよね」
「まだまだ先の話だ。ゆっくり考えろよ。お母さん知ってんのか?」
「まだ何にも言ってない。だから黙ってて。どうせまたギャアギャア騒ぐんだから」
僕はうなずき、スープを飲み、トレイに置く。それから、添えてあったミントの葉をかじった。口の中にスーッとさわやかな風が吹いた。顎で琢己の皿に残っていたミントを促すと、彼もその葉を口に放り込んだ。

「しっかりしてんな、お前」
「お父さんこそ、しっかりしてくれよ。これから、お父さんに相談すること、山ほどあると思うよ」
「いつでも来いよ、こんな親父で良かったら」
琢己が初めて笑顔になる。
「ありがと」
僕は手を伸ばし、息子の髪をくしゃくしゃにする。やめろよ、と琢己が僕の手を掴みながら笑う。そのずっと向こうの壁に大きな絵が飾られているのが目に入った。緑のライオン。そのライオンが吠えながら、笑っていた。
その時、携帯の呼び出し音がした。
手を放した琢己がポケットから携帯を取りだす。
「もしもし・・・うん・・・うん、わかった。・・・もう出るよ。うん」
「お母さんか?」
「うん。もう時間だから、すぐ来いって。パルコの前で拾うって。代われってさ」
琢己が携帯を差し出す。
「もしもし・・・・・・わかってるよ、でもまだ三十分あるだろ?この後コーヒーが出るんだけど、待てないか?・・・・了解。今行く」
「出るの?」
携帯をたたみながら琢己が言った。
「ああ。これから学会の打ち合わせに行くんだそうで、時間がないとさ。三十分繰り上げだ」
「バシッて言ってよ。バシッて」
「しょうがないじゃないか」
「また、それかぁ」
「お前、携帯持ってんのか」
「あたりまえでしょ。塾に行ってるからね」
手慣れた手つきで、携帯をジーンズの前ポケットに押し込むのを、僕は見ていた。

店を出て、階段を下り、池をぐるっとまわって、公園の端にある湧き水のそばを通り、坂を上ってパルコめざして歩いた。遠くで水鳥の騒ぐ声が聞こえた。
歩きながら、琢己が言った。
「お父さん、今日来るのに、僕、ちょっと勇気出したんだからな」
「わかってる」
「ほんとにわかってんのかよ。ほんとはぶん殴りたかったんだからな」
琢己は、男の子からいつの間にか少年になっていた。ちらっと横目で見ると、フード付きのダウンのポケットに手を突っ込み前を見つめて歩いている。
息子の肩に腕を回し、手に力を入れる。少年は前を見て、口元を尖らせたまま歩く。
「ねぇ・・・」
「なに?」
「お母さんのこと好きだった?」
「もちろん」
「愛してた?」
「・・・愛してた」
「嘘だよ。そんなの嘘」
「嘘じゃないよ。嘘じゃない」
嘘じゃなかった。ただ、愛せなくなったのだ。それがいつからかはわからない。何故なのかもわからない。自分の息子に、正直な気持ちを伝えられないのがもどかしかった。

道を渡り、パルコの角に着くと、琢己が言った。
「お母さん、彼氏できたみたいよ。大人は勝手だな」
「ああ」
その時、クラクションが聞こえ、車が道の向こうに止まった。運転席に恵美子がいる。ちらっとこちらを恵美子が見たが、すぐに視線を前へ向けた。
琢己が道を渡り、助手席に回り込みドアを開ける。一瞬顔をこちらに向けた。
「今度の試合、十二月三日!」
おお!と僕は手を挙げた。ドアが閉まると車はすぐに右折し、角を曲がって公園通りの車の波に飲まれて見えなくなった。

琢己は勇気と言った。別れた父親に会うのに勇気が必要なのだと。確かに、殴りたいのに殴らないで耐えるのは、ひとつの勇気だ。怒りも恨みもあるだろうに、恨みがましいことも言わず、自分の人生を受けとめるのは、間違いなくひとつの勇気なのだ。まだ幼さの残る息子が、無言で教えてくれた。
勇気ってのは、高いところから飛び降りることでも、戦争でたくさん人を殺すことでも、猛スピードで車を走らせることでもないよな。耐えることなんだよな。耐えることが勇気そのものなんだよな。
馬鹿な親父は、息子の健気な姿に、いつも学ぶのだ。
僕は琢己の後ろで、笑っていた緑のライオンを思い出していた。

    ・・・・・・・上野火山・小説集『空中スケッチ』より抜粋

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