ドラマでも音楽でも文学でも哲学でも、場所から離れることはできない。
むしろ、その場所が在るからこそ生まれ出てくるもののようです。
どんなに「物語」から離れようとしても、場所が物語を生むからだろうと思います。
日本人であることを、今一度意識したい。
国籍などにさほど興味はなかったし、もっと外側へ、などと考えていた時期もありました。でも、本当にそんなものなのか?意識しようがしまいが、僕は日本人であり、この島の中で育った。あまりにも当たり前なので、今この場所を意識するのは、外国から成田に帰ってきたときぐらいだと思う。
この西欧から見れば極東と言われる国と文化の中で、どれほどここでだけ生じるドラマを意識してきただろう?
それにしても、かつて以上にややこしい時代になってきました。
日本文化を見直そうとすると「愛国主義者」、日本の抱える問題を自覚しようとすると「反日文化人」。いろんなレッテルを貼られるようです。勿論どうでもいいことですが。
あらゆる出来事には善い側面と悪い側面が同時に存在しています。どんなに社会や世間が善いといっても納得してはいけないことがある。生前の江藤淳さんの仕事にしても、アメリカのチョムスキーの仕事にしても、殺された石井紘基議員にしても、様々な誹謗を浴びながら、与えられた場所で最善を尽くそうとしていたし、しているんだと思う。
ここに、以前ご紹介した黒木和雄監督の「龍馬暗殺」のラストシーンがあります。アップされた方に感謝です。日本映画史に残る名シーンだと思います。有名な坂本龍馬が中岡慎太郎とともに近江屋で暗殺される場面です。
この映画も、ここ日本だから成立する物語であり、作品です。
坂本龍馬は今でもヒーローのように扱われる歴史上の人物ではありますが、彼の背後にグラバーがいて、そのグラバーを通じてイギリスのロスチャイルドと繋がっているともいわれています。彼が歴史の中で有名にはなりましたが、一人の捨て駒として使われた可能性だってあるわけです。単純に日本の夜明けを夢見ながら夭逝した青春のヒーローとして扱うわけにはいきません。
龍馬とはだれだったのか?
彼はなんのために命を落としたのか?
この映画には、なにか底知れぬ大きな陰謀めいた力に絡め取られ、時代に翻弄され、自分の座標軸を見失い、後悔と怒りを爆発させる龍馬という人物が描かれています。斬り合いのシーンもあっという間です。どこかリアルなんだ。
黒木監督がどこまで意識していたのかはわかりませんが、坂本龍馬と中岡慎太郎という二人の人間の中に蠢くイライラ感が、この映画を龍馬を描いた数多くの作品の中で、稀有なものにしています。
それは、七十年代というその時代と、日本という場所でしか存在し得ない何かをフィルムに定着したからだと思います。
いつか機会があったら、全篇観て欲しい。
雨の中を穴が開いて指が突き出たまま革靴で走る龍馬の足下からはじまるこの映画は、他の多くの映画と比べ、何かが違うんです。
モノクロの素晴らしい映像を楽しみながら、同時に今ここでしか成立しないもの、そしてここでしかあり得ない問題意識を喚起させたいと思う。左も右も、老いも若きも、もはやどうでもいい時代に入っていると思う。今ここで耳を澄まし、目をこらそう。
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