種田山頭火 (1882年-1940年 松山市「一草庵」にて没) |
そこで思い出すのが種田山頭火です。
山頭火は「うしろ姿」の人だと思う。
『山頭火句集』は僕の愛読する書のひとつだが、何度詠んでも飽きないし、いつ開いても新鮮な発見がある。
だらしない人だったのだと思う。
でも、そのだらしなさを人一倍知り抜いていたのも本人だったに違いない。
「いただいて足りて一人の箸をおく」
やっとありついた飯を大切に頂いて感謝する。それが、この人の生きる姿勢だったのだと思う。
飯はうまかったですか?
僕はそう彼に訊きたくなる。
味噌汁はうまかったですか?
きっと彼の涙の味がしただろう。
「こんなにうまい水があふれてゐる」
そして旅の途上で出会う水。
何も持たぬことの幸福がここにある。水に感激できる幸せがここにある。
冷笑することのない幸福がここにあるのだと思う。
「今日の道のたんぽぽ咲いた」
家族を捨てた男には、帰る場所はなかった。
路傍の小さな花さえも、彼の家族だったのだ。旅の道のすぐ脇に生と死があった。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」
しぐれには雨に濡れること、そして涙することの意がある。人は全ての感情を他人に見せるはずがない。
本物の感情は最も個人的で、ひっそりと陰に隠れ、目には見えないのである。
だから、うしろ姿なのだなぁと僕は思う。
人のうしろ姿を見なければ、その人の本質は掴めない。
欧米流のeye contactという真っ正面からの対峙の仕方は、時に偽りを産み出す方法かもしれない。
僕ら日本人はうしろ姿を見る。
うしろ姿は、嘘をつけないから。
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