2005年9月29日木曜日

シェリーの空

若い頃、シェリーの詩を読みふけった時期がある。

シェリーは「空の詩人」だと思う。
その詩のほとんどが、どう考えても、空の上から見た世界としか思えないのだ。
ライト兄弟が飛行機を発明して以来、空は人間にとって身近なものに確かになった。
しかし、人は空を飛ぶ機械を手に入れる前から、魂を飛ばしていたに違いない。
あの青い空を白い雲を突き抜けて、ぐんぐん飛んでいくイメージ。想像力は機械よりも遙かに先を行く。想像力がなければ、それを実現する機械も生まれなかったはずだ。
僕らは想像力で空を飛びはじめたのだ。
ピテカントロプスもネアンデルタールも草原で空を見上げ、空を飛んだのだ。

僕も娘も空を見るのが好きだ。
シェリーはその詩の中で、砂漠やオアシスの上を、風に乗って飛んでいく。
僕らもベランダや公園の草の上に寝っ転がって空を飛ぶ。
娘は時々「おーい!」と空に向かって叫ぶ。
この辺りでは珍しいトビがくるくる回りながら、かなり高いところを飛んでいるのが見える。
また娘が叫ぶ「おーい!」
その時、トビがピューピュルルル〜と鳴くのが聞こえてくる!
横目で娘の顔をちらっと見る。彼女が、遠くの空を、トビと一緒に飛んでいるのがわかる。
この娘の魂は、今空の上にある。

僕らはここにいて、ここにいない。
地上にへばりつくようにして生きる自由。
時々、地上から精神を浮上させ、空に舞い上がる自由。
どちらを選ぶのも自由だが、現代文明には機械で空を飛ぶ事実はあっても、想像力で空を飛ぶ精神の自由は限りなくゼロに近い、と僕は思う。

思い出せ。
ピテカントロプスもネアンデルタールも僕らの直接のご先祖様ではないかもしれないが、ごく初期の僕らの隣人たちであった。彼らの見た空を、思い出せ。

シェリーはとっくに忘れられた詩人かもしれないが、この男の見た空を、思い出せ。

すぐそこにシェリーの空はある。
それに気がつかないのは、文明的精神に特有の、地上にへばりついた習慣がもたらす「現実」という名の幻想のせいである。

僕はネアンデルタールの素朴さとシェリーの想像力を決して忘れまい。すぐそこにある真実は、捏造された事実より重い。

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