二人の娘たちと木曽川の畔を歩いていた。
大きな山椒魚がいると聞いて、ぜひ見つけよう!とうろうろしていたのだ。急な坂を下りて、草の茂った川縁を行く。下の娘が抱っこして、と言うものだから、抱きかかえ不安定な道ともいえない道を、一歩一歩進む。
太陽がじりじりと頭上を照らす。首から背中に汗が滴り落ちるのがわかる。
ふいに上の娘がかがみ込む。
地面からなにやら取り上げて眺めている。橙色の小さな石だ。
僕も一緒になって、石を拾う。
川の流れに削られて、なかなかいい感じの石が次々に見つかる。つるつるの表面が自然な感じに摩耗し、手のひらにのせると、適度な重さも感じられ、いつまでも持っていたいという気がしてくる。ひとつとして同じ石はないが、どれもが美しく摩耗している。
山椒魚のことをすっかり忘れて、石で盛り上がる僕と娘たち。
近くにいた僕の母が、つぶやいた。
「あんたが小さい頃、よく集めたわね。ミカン箱いっぱい・・・」
そうだ。僕は幼い頃、石が大好きだった。
今から四十年も前、岩手の小さな川の畔で、僕は一人で石を集めながら一日を過ごすことが多かった。僕には弟がいたが、幼すぎて一緒に遊ぶ気がしない。すると、川へ行っては石集めに精を出したのだ。いつのまにか、ミカン箱数箱分も集めてしまっていた。
周りの大人たちは、皆あきれ顔だが、僕は何故かとっても自慢に思っていた。
あの時の石も、丸く摩耗した美しい石だったことを覚えている。特に気に入っていたのが、橙色で少し透明な感じの石。陽にかざすと太陽の光が石の内部に充満する。石自体が光を放って、輝いているように見える。縁側にねっころがって、何度も何度も眺めていたな。うれしかった。
なんであんなに夢中になって、そんなものを集めていたんだろう。
おそらく理由なんかないな。目的もない。
ただ石が好きで、夢中になっただけ。
いつからだろう、単純に夢中になれなくなったのは。
いつからだろう、目的もはっきりしないまま行動に移すことができなくなったのは。
大切なのは心がふるえることだった。
大切なのは心の底からこみ上げてくる喜びだった。
僕は今もあの川の畔を歩いているに違いない。素敵な石がないか辺りを見回しながら。時々かがんでは拾い上げる。いいぞ!と思うとすかざずポケットにねじ込む。
うれしいことに理由はいらないのだ。
自分の喜びを他人に解釈してもらう必要もない。
僕は四十年経ってもなお、あの川の畔を一人で歩いている。
それは確かだ。
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