この世に生を受け、はや四十年も後半にさしかかった。
夏が過ぎ、季節は確実に秋である。
うまい言い回しも、気の利いた表現も、人を魅了する文体も、僕は興味がない。
むしろ、いまここで吐かなくてはならない切実な言葉を選びたい。
切実。
これは、僕らが置き忘れて久しいものだと思う。切実に日々を味わい、切実に愛し、切実に打ち込み、切実に求め、切実に生き、切実に死んでいくことのなんと難しいことか。いや、難しいのではない。切実に生きるのが怖いだけだ。
利口者にとって、切実はただの愚かな生き様にすぎない。しかし、己の愚かさを自覚した者にとって、切実はごく当たり前の日常であり、切実でなければ、生きていることにはならないのである。
実を切るように生きるとは、己の吐き出すすべてが、絶えず己自身に返ってくることをよしとする態度のことだ。従って、利口者にはとても耐えられない生き方といえる。
人は幼くして、そのどちらかの生き方を選択してきたのではあるまいか。つまり、成人し、世間を知って、利口になるのではなく、ごく幼い時期から利口になる人間と、愚かさを自覚せざるを得ない人間がいるような気がしてならない。
僕は確実に愚かなのだ。とても利口にはなれない。
うまい言い回しも、気の利いた表現も、人を魅了する文体も、僕には書けそうもない。
うまいことやって金を稼ぐなんていうことも、できそうにない。
たぶん、幼い頃、自らその道を選んだのだと思う。愚かさの道を。
一日はわずか24時間だが、永遠である。
利口者は十年単位で考える。
だが、愚か者は、今日一日を考えるのだ。今日一日を切実に生きたいと考えるのだ。何年生きようが、今日一日の重さにはかなわない。愚か者はそう考える。
一日は永遠であり、永遠は一日に宿っている。
今日もまた一日、生きようと思う。
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