2005年9月28日水曜日

谷をわたる時

言葉を失う人は幸いである。言葉の悦びを深く知る機会を与えられたのだから。

腕を失う人は幸いである。ものに触れることが愛しいことだと気がつけるから。

足を失う人は幸いである。歩くことがこの世を知ることだと気がつくことができるのだから。

耳を失う人は幸いである。何気ない音が人の命と同じだったのだと気がつけるから。

目を失う人は幸いである。思い出の中で人は年老いることがないだろう。永遠の夕陽はこの人の中にある。

子を失う人は幸いである。自らの身体が引き裂かれる痛みを知ることができるから。

親を失うものは幸いである。己の存在の原点、存在の全責任が己自身にあることに気がつくことができるから。

もっとも不幸なのは、
何も失うはずはないという慢心の人であり、もっと欲しいという貪欲の人であり、失うことを恐れる臆病の人である。

人の暮らしは山道を歩くのに似ている。
山の細い道を一歩また一歩と一所懸命歩き、額の汗をぬぐう。やがて木々の織りなすこもれ陽の間に、下の方へ続く道が見える。人は上るときに希望を感じ、下るときに恐怖と絶望を感じるものだ。だが、降りていかねばならない。なぜなら、そこに谷があるからだ。谷をわたらなければ、次の山へは向かえないのである。
そこは、悦びの谷であり怒りの谷であり、そして涙の谷である。
その谷はあまりにも険しいので、人は荷物をひとつ下ろさなくてはならない。
ところが人のとる行動は、実はまったく逆なのである。明日のことを考えるあまり、次の山での生活を思うあまり、日ごとに背負う荷物が多くなっていくのである。その重さに気がつくこともなく、やがて人の形相は変わっていく。苦しみと恨みと嫉妬と欲望へ。

大きな荷物を背負った人は、谷の河をわたる途中で力尽きる。そして、つぶやくのだ。
「これが俺の人生だったのか」と。
「これだけのものを持ったのに、なお俺は後悔するのか」と。

振り向けば、僕の背中にもかなりの量の荷物が乗っているようだ。振り返らない限り、前を見ているだけでは己の荷物には気がつかないのだろう。その荷物を、ひとつ、またひとつと降ろしていくのも無駄ではあるまい。荷物は日ごとに増すのである。あれもこれも欲しくなり、失うことを恐れ、蓄えることに執心し、別れを嫌がるのである。

今日の別れは、可能性の芽である。
その芽に「別離」と「喪失」という名の水をかけてやろう。
芽はやがてその根をはり、茎を伸ばし、葉をつけ、花が咲くかもしれないのだ。
そして、それを僕は人生と呼びたい。

だから、僕は望む。
ほんのちょっと夢見る力とほんのちょっと愛する力を、そして、失うことを恐れぬ勇気をほんのちょっとだけ。
そのほかには、何もいらない。
僕は笑いながら、あの涙の谷をわたろう。

幸福は谷をわたる勇気の中にある。

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