人は様々な使命に燃えるものだ。使命感がなくては人生は無益な感じがするだろう。人は多かれ少なかれ使命感の虜になっている。良かれ悪しかれ。
One filled with joy preaches without preaching.
- Mother Teresa
勿論、特に使命感というほどではないにしても、人に教えをたれ、自分が何者なになったかのように錯覚することは日常に溢れているのではないだろうか。人はいつでも何者かになりたいのである。この欲求はあまりにも人間的な部分に根ざされているので、捨て去ることなどできないだろう。いい加減に見えても、卑屈に振舞ってみても、人に認められたいという悲しい人間的欲求に溢れているのが人間的文明の姿である。
不意に風の音が聞こえてくることがある。都会の喧騒の中に、風の音が聞こえることがある。ある日、三歳になる娘が、こんなことを言った。
「風が見えるよ!」
僕には音が聞こえるだけ。なのに幼い娘には風が見えるらしい。風は虹の色をしているという。これも娘の話。
虹色の風か。
僕は風の音を聞きながら、風を見ようとした。そして、気がついた。これは幼い娘の教えなのだ、と。
我々がどれだけ歳をとり、大した者になったとしても、この娘の見ているものは、もはや見えなくなってしまったのだ。だが、娘のその幼い言葉の中に、僕は失われた瞬間を見るのだ。夢と現実が一致していた頃。現実が不思議と奇跡で溢れていた頃。世界が喜びでいっぱいだった頃を。
人は言葉で教えをたれることはできない。人は喜びで人に影響を与えるのである。喜びとは悲しみも苦しみも含むものである。喜びとは、人に与えられた唯一の生きる知恵である。
義務が喜びに変わったとき、人生は意味を持ち始めるのだ。責任が喜びに変わったときに、人生は輝きだすのだ。義務が義務のままで、責任が責任のままであり、信念が信念のままならば、自己嫌悪と責任転嫁と恨みで人は醜くなるばかりだ。
人生には岐路がいくつもあるけれど、正しい義務や責任や信念が形を変えた時、それを僕は岐路と呼びたい。固まってしまって身動きの取れない状態から、自分を解き放ち、新たな価値に気がつく時、人は昨日とは違う今日を歩き始める。昨日嫌悪したものを受け入れることができた時、人は人生の新たな地平に気がつくのだ。驚きと感動はその時こそやってくる。奇跡は不意に現れる喜びそのものなのだ。ただし、そこには痛みと傷が付きまとう。痛みと傷は喜びの副作用である。
人は人に何も教えることはできない。人はたえず発見するだけなのだ。人は喜びとともに生きることはできる。しかし、言葉でその喜びを伝えることはできない。まず何よりも先に、まず伝えるより先に、生きなければ。喜びとともに。
マザー・テレサが聖人であろうがなかろうが僕には関係ない。素晴らしいのは、彼女が喜びに溢れて生きていたということだ。その喜びが、彼女の教えそのものであり、言葉であった。
「はじめに言葉ありき」というのは「はじめに喜びありき」という意味のような気がしてならない。
僕らは実は大した人生を送っているわけではない。世間に認められようが、金を稼ごうが、立派な地位につこうが、まったくどうでも良いことだ。確実に言えることは、僕らはそれぞれがそのひぐらしをしているということ。
そのひぐらし。
いい言葉じゃないか。まったく人生はそのひぐらしだ。大切なのは、瞬間瞬間に喜びが溢れていることだ。激しい怒りがあるだろう。悲しい別れがあるだろう。辛い絶望や挫折もあるだろう。しかし、それもこれも、すべてそのひぐらしの賜物だ。
そのひぐらしの賜物こそ、人生の奇跡なのではないだろうか。そのひぐらしを実感することで、すべてが嬉しくなってくる。
だから、僕は喜んでそのひぐらしを生きていきたいと思っているのだ。
そして、今日もそのひぐらし。
明日のことはわからない。
だから、
人生は素敵なんだな。
いつかきっともう一度風が見えるような気がしている。虹色の風を。
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