若い頃、シェリーの詩を読みふけった時期がある。
シェリーは「空の詩人」だと思う。
その詩のほとんどが、どう考えても、空の上から見た世界としか思えないのだ。
ライト兄弟が飛行機を発明して以来、空は人間にとって身近なものに確かになった。
しかし、人は空を飛ぶ機械を手に入れる前から、魂を飛ばしていたに違いない。
あの青い空を白い雲を突き抜けて、ぐんぐん飛んでいくイメージ。想像力は機械よりも遙かに先を行く。想像力がなければ、それを実現する機械も生まれなかったはずだ。
僕らは想像力で空を飛びはじめたのだ。
ピテカントロプスもネアンデルタールも草原で空を見上げ、空を飛んだのだ。
僕も娘も空を見るのが好きだ。
シェリーはその詩の中で、砂漠やオアシスの上を、風に乗って飛んでいく。
僕らもベランダや公園の草の上に寝っ転がって空を飛ぶ。
娘は時々「おーい!」と空に向かって叫ぶ。
この辺りでは珍しいトビがくるくる回りながら、かなり高いところを飛んでいるのが見える。
また娘が叫ぶ「おーい!」
その時、トビがピューピュルルル〜と鳴くのが聞こえてくる!
横目で娘の顔をちらっと見る。彼女が、遠くの空を、トビと一緒に飛んでいるのがわかる。
この娘の魂は、今空の上にある。
僕らはここにいて、ここにいない。
地上にへばりつくようにして生きる自由。
時々、地上から精神を浮上させ、空に舞い上がる自由。
どちらを選ぶのも自由だが、現代文明には機械で空を飛ぶ事実はあっても、想像力で空を飛ぶ精神の自由は限りなくゼロに近い、と僕は思う。
思い出せ。
ピテカントロプスもネアンデルタールも僕らの直接のご先祖様ではないかもしれないが、ごく初期の僕らの隣人たちであった。彼らの見た空を、思い出せ。
シェリーはとっくに忘れられた詩人かもしれないが、この男の見た空を、思い出せ。
すぐそこにシェリーの空はある。
それに気がつかないのは、文明的精神に特有の、地上にへばりついた習慣がもたらす「現実」という名の幻想のせいである。
僕はネアンデルタールの素朴さとシェリーの想像力を決して忘れまい。すぐそこにある真実は、捏造された事実より重い。
2005年9月29日木曜日
2005年9月28日水曜日
谷をわたる時
言葉を失う人は幸いである。言葉の悦びを深く知る機会を与えられたのだから。
腕を失う人は幸いである。ものに触れることが愛しいことだと気がつけるから。
足を失う人は幸いである。歩くことがこの世を知ることだと気がつくことができるのだから。
耳を失う人は幸いである。何気ない音が人の命と同じだったのだと気がつけるから。
目を失う人は幸いである。思い出の中で人は年老いることがないだろう。永遠の夕陽はこの人の中にある。
子を失う人は幸いである。自らの身体が引き裂かれる痛みを知ることができるから。
親を失うものは幸いである。己の存在の原点、存在の全責任が己自身にあることに気がつくことができるから。
もっとも不幸なのは、
何も失うはずはないという慢心の人であり、もっと欲しいという貪欲の人であり、失うことを恐れる臆病の人である。
人の暮らしは山道を歩くのに似ている。
山の細い道を一歩また一歩と一所懸命歩き、額の汗をぬぐう。やがて木々の織りなすこもれ陽の間に、下の方へ続く道が見える。人は上るときに希望を感じ、下るときに恐怖と絶望を感じるものだ。だが、降りていかねばならない。なぜなら、そこに谷があるからだ。谷をわたらなければ、次の山へは向かえないのである。
そこは、悦びの谷であり怒りの谷であり、そして涙の谷である。
その谷はあまりにも険しいので、人は荷物をひとつ下ろさなくてはならない。
ところが人のとる行動は、実はまったく逆なのである。明日のことを考えるあまり、次の山での生活を思うあまり、日ごとに背負う荷物が多くなっていくのである。その重さに気がつくこともなく、やがて人の形相は変わっていく。苦しみと恨みと嫉妬と欲望へ。
大きな荷物を背負った人は、谷の河をわたる途中で力尽きる。そして、つぶやくのだ。
「これが俺の人生だったのか」と。
「これだけのものを持ったのに、なお俺は後悔するのか」と。
振り向けば、僕の背中にもかなりの量の荷物が乗っているようだ。振り返らない限り、前を見ているだけでは己の荷物には気がつかないのだろう。その荷物を、ひとつ、またひとつと降ろしていくのも無駄ではあるまい。荷物は日ごとに増すのである。あれもこれも欲しくなり、失うことを恐れ、蓄えることに執心し、別れを嫌がるのである。
今日の別れは、可能性の芽である。
その芽に「別離」と「喪失」という名の水をかけてやろう。
芽はやがてその根をはり、茎を伸ばし、葉をつけ、花が咲くかもしれないのだ。
そして、それを僕は人生と呼びたい。
だから、僕は望む。
ほんのちょっと夢見る力とほんのちょっと愛する力を、そして、失うことを恐れぬ勇気をほんのちょっとだけ。
そのほかには、何もいらない。
僕は笑いながら、あの涙の谷をわたろう。
幸福は谷をわたる勇気の中にある。
腕を失う人は幸いである。ものに触れることが愛しいことだと気がつけるから。
足を失う人は幸いである。歩くことがこの世を知ることだと気がつくことができるのだから。
耳を失う人は幸いである。何気ない音が人の命と同じだったのだと気がつけるから。
目を失う人は幸いである。思い出の中で人は年老いることがないだろう。永遠の夕陽はこの人の中にある。
子を失う人は幸いである。自らの身体が引き裂かれる痛みを知ることができるから。
親を失うものは幸いである。己の存在の原点、存在の全責任が己自身にあることに気がつくことができるから。
もっとも不幸なのは、
何も失うはずはないという慢心の人であり、もっと欲しいという貪欲の人であり、失うことを恐れる臆病の人である。
人の暮らしは山道を歩くのに似ている。
山の細い道を一歩また一歩と一所懸命歩き、額の汗をぬぐう。やがて木々の織りなすこもれ陽の間に、下の方へ続く道が見える。人は上るときに希望を感じ、下るときに恐怖と絶望を感じるものだ。だが、降りていかねばならない。なぜなら、そこに谷があるからだ。谷をわたらなければ、次の山へは向かえないのである。
そこは、悦びの谷であり怒りの谷であり、そして涙の谷である。
その谷はあまりにも険しいので、人は荷物をひとつ下ろさなくてはならない。
ところが人のとる行動は、実はまったく逆なのである。明日のことを考えるあまり、次の山での生活を思うあまり、日ごとに背負う荷物が多くなっていくのである。その重さに気がつくこともなく、やがて人の形相は変わっていく。苦しみと恨みと嫉妬と欲望へ。
大きな荷物を背負った人は、谷の河をわたる途中で力尽きる。そして、つぶやくのだ。
「これが俺の人生だったのか」と。
「これだけのものを持ったのに、なお俺は後悔するのか」と。
振り向けば、僕の背中にもかなりの量の荷物が乗っているようだ。振り返らない限り、前を見ているだけでは己の荷物には気がつかないのだろう。その荷物を、ひとつ、またひとつと降ろしていくのも無駄ではあるまい。荷物は日ごとに増すのである。あれもこれも欲しくなり、失うことを恐れ、蓄えることに執心し、別れを嫌がるのである。
今日の別れは、可能性の芽である。
その芽に「別離」と「喪失」という名の水をかけてやろう。
芽はやがてその根をはり、茎を伸ばし、葉をつけ、花が咲くかもしれないのだ。
そして、それを僕は人生と呼びたい。
だから、僕は望む。
ほんのちょっと夢見る力とほんのちょっと愛する力を、そして、失うことを恐れぬ勇気をほんのちょっとだけ。
そのほかには、何もいらない。
僕は笑いながら、あの涙の谷をわたろう。
幸福は谷をわたる勇気の中にある。
そのひぐらし
人は様々な使命に燃えるものだ。使命感がなくては人生は無益な感じがするだろう。人は多かれ少なかれ使命感の虜になっている。良かれ悪しかれ。
One filled with joy preaches without preaching.
- Mother Teresa
勿論、特に使命感というほどではないにしても、人に教えをたれ、自分が何者なになったかのように錯覚することは日常に溢れているのではないだろうか。人はいつでも何者かになりたいのである。この欲求はあまりにも人間的な部分に根ざされているので、捨て去ることなどできないだろう。いい加減に見えても、卑屈に振舞ってみても、人に認められたいという悲しい人間的欲求に溢れているのが人間的文明の姿である。
不意に風の音が聞こえてくることがある。都会の喧騒の中に、風の音が聞こえることがある。ある日、三歳になる娘が、こんなことを言った。
「風が見えるよ!」
僕には音が聞こえるだけ。なのに幼い娘には風が見えるらしい。風は虹の色をしているという。これも娘の話。
虹色の風か。
僕は風の音を聞きながら、風を見ようとした。そして、気がついた。これは幼い娘の教えなのだ、と。
我々がどれだけ歳をとり、大した者になったとしても、この娘の見ているものは、もはや見えなくなってしまったのだ。だが、娘のその幼い言葉の中に、僕は失われた瞬間を見るのだ。夢と現実が一致していた頃。現実が不思議と奇跡で溢れていた頃。世界が喜びでいっぱいだった頃を。
人は言葉で教えをたれることはできない。人は喜びで人に影響を与えるのである。喜びとは悲しみも苦しみも含むものである。喜びとは、人に与えられた唯一の生きる知恵である。
義務が喜びに変わったとき、人生は意味を持ち始めるのだ。責任が喜びに変わったときに、人生は輝きだすのだ。義務が義務のままで、責任が責任のままであり、信念が信念のままならば、自己嫌悪と責任転嫁と恨みで人は醜くなるばかりだ。
人生には岐路がいくつもあるけれど、正しい義務や責任や信念が形を変えた時、それを僕は岐路と呼びたい。固まってしまって身動きの取れない状態から、自分を解き放ち、新たな価値に気がつく時、人は昨日とは違う今日を歩き始める。昨日嫌悪したものを受け入れることができた時、人は人生の新たな地平に気がつくのだ。驚きと感動はその時こそやってくる。奇跡は不意に現れる喜びそのものなのだ。ただし、そこには痛みと傷が付きまとう。痛みと傷は喜びの副作用である。
人は人に何も教えることはできない。人はたえず発見するだけなのだ。人は喜びとともに生きることはできる。しかし、言葉でその喜びを伝えることはできない。まず何よりも先に、まず伝えるより先に、生きなければ。喜びとともに。
マザー・テレサが聖人であろうがなかろうが僕には関係ない。素晴らしいのは、彼女が喜びに溢れて生きていたということだ。その喜びが、彼女の教えそのものであり、言葉であった。
「はじめに言葉ありき」というのは「はじめに喜びありき」という意味のような気がしてならない。
僕らは実は大した人生を送っているわけではない。世間に認められようが、金を稼ごうが、立派な地位につこうが、まったくどうでも良いことだ。確実に言えることは、僕らはそれぞれがそのひぐらしをしているということ。
そのひぐらし。
いい言葉じゃないか。まったく人生はそのひぐらしだ。大切なのは、瞬間瞬間に喜びが溢れていることだ。激しい怒りがあるだろう。悲しい別れがあるだろう。辛い絶望や挫折もあるだろう。しかし、それもこれも、すべてそのひぐらしの賜物だ。
そのひぐらしの賜物こそ、人生の奇跡なのではないだろうか。そのひぐらしを実感することで、すべてが嬉しくなってくる。
だから、僕は喜んでそのひぐらしを生きていきたいと思っているのだ。
そして、今日もそのひぐらし。
明日のことはわからない。
だから、
人生は素敵なんだな。
いつかきっともう一度風が見えるような気がしている。虹色の風を。
One filled with joy preaches without preaching.
- Mother Teresa
勿論、特に使命感というほどではないにしても、人に教えをたれ、自分が何者なになったかのように錯覚することは日常に溢れているのではないだろうか。人はいつでも何者かになりたいのである。この欲求はあまりにも人間的な部分に根ざされているので、捨て去ることなどできないだろう。いい加減に見えても、卑屈に振舞ってみても、人に認められたいという悲しい人間的欲求に溢れているのが人間的文明の姿である。
不意に風の音が聞こえてくることがある。都会の喧騒の中に、風の音が聞こえることがある。ある日、三歳になる娘が、こんなことを言った。
「風が見えるよ!」
僕には音が聞こえるだけ。なのに幼い娘には風が見えるらしい。風は虹の色をしているという。これも娘の話。
虹色の風か。
僕は風の音を聞きながら、風を見ようとした。そして、気がついた。これは幼い娘の教えなのだ、と。
我々がどれだけ歳をとり、大した者になったとしても、この娘の見ているものは、もはや見えなくなってしまったのだ。だが、娘のその幼い言葉の中に、僕は失われた瞬間を見るのだ。夢と現実が一致していた頃。現実が不思議と奇跡で溢れていた頃。世界が喜びでいっぱいだった頃を。
人は言葉で教えをたれることはできない。人は喜びで人に影響を与えるのである。喜びとは悲しみも苦しみも含むものである。喜びとは、人に与えられた唯一の生きる知恵である。
義務が喜びに変わったとき、人生は意味を持ち始めるのだ。責任が喜びに変わったときに、人生は輝きだすのだ。義務が義務のままで、責任が責任のままであり、信念が信念のままならば、自己嫌悪と責任転嫁と恨みで人は醜くなるばかりだ。
人生には岐路がいくつもあるけれど、正しい義務や責任や信念が形を変えた時、それを僕は岐路と呼びたい。固まってしまって身動きの取れない状態から、自分を解き放ち、新たな価値に気がつく時、人は昨日とは違う今日を歩き始める。昨日嫌悪したものを受け入れることができた時、人は人生の新たな地平に気がつくのだ。驚きと感動はその時こそやってくる。奇跡は不意に現れる喜びそのものなのだ。ただし、そこには痛みと傷が付きまとう。痛みと傷は喜びの副作用である。
人は人に何も教えることはできない。人はたえず発見するだけなのだ。人は喜びとともに生きることはできる。しかし、言葉でその喜びを伝えることはできない。まず何よりも先に、まず伝えるより先に、生きなければ。喜びとともに。
マザー・テレサが聖人であろうがなかろうが僕には関係ない。素晴らしいのは、彼女が喜びに溢れて生きていたということだ。その喜びが、彼女の教えそのものであり、言葉であった。
「はじめに言葉ありき」というのは「はじめに喜びありき」という意味のような気がしてならない。
僕らは実は大した人生を送っているわけではない。世間に認められようが、金を稼ごうが、立派な地位につこうが、まったくどうでも良いことだ。確実に言えることは、僕らはそれぞれがそのひぐらしをしているということ。
そのひぐらし。
いい言葉じゃないか。まったく人生はそのひぐらしだ。大切なのは、瞬間瞬間に喜びが溢れていることだ。激しい怒りがあるだろう。悲しい別れがあるだろう。辛い絶望や挫折もあるだろう。しかし、それもこれも、すべてそのひぐらしの賜物だ。
そのひぐらしの賜物こそ、人生の奇跡なのではないだろうか。そのひぐらしを実感することで、すべてが嬉しくなってくる。
だから、僕は喜んでそのひぐらしを生きていきたいと思っているのだ。
そして、今日もそのひぐらし。
明日のことはわからない。
だから、
人生は素敵なんだな。
いつかきっともう一度風が見えるような気がしている。虹色の風を。
2005年9月27日火曜日
あの川の畔で
二人の娘たちと木曽川の畔を歩いていた。
大きな山椒魚がいると聞いて、ぜひ見つけよう!とうろうろしていたのだ。急な坂を下りて、草の茂った川縁を行く。下の娘が抱っこして、と言うものだから、抱きかかえ不安定な道ともいえない道を、一歩一歩進む。
太陽がじりじりと頭上を照らす。首から背中に汗が滴り落ちるのがわかる。
ふいに上の娘がかがみ込む。
地面からなにやら取り上げて眺めている。橙色の小さな石だ。
僕も一緒になって、石を拾う。
川の流れに削られて、なかなかいい感じの石が次々に見つかる。つるつるの表面が自然な感じに摩耗し、手のひらにのせると、適度な重さも感じられ、いつまでも持っていたいという気がしてくる。ひとつとして同じ石はないが、どれもが美しく摩耗している。
山椒魚のことをすっかり忘れて、石で盛り上がる僕と娘たち。
近くにいた僕の母が、つぶやいた。
「あんたが小さい頃、よく集めたわね。ミカン箱いっぱい・・・」
そうだ。僕は幼い頃、石が大好きだった。
今から四十年も前、岩手の小さな川の畔で、僕は一人で石を集めながら一日を過ごすことが多かった。僕には弟がいたが、幼すぎて一緒に遊ぶ気がしない。すると、川へ行っては石集めに精を出したのだ。いつのまにか、ミカン箱数箱分も集めてしまっていた。
周りの大人たちは、皆あきれ顔だが、僕は何故かとっても自慢に思っていた。
あの時の石も、丸く摩耗した美しい石だったことを覚えている。特に気に入っていたのが、橙色で少し透明な感じの石。陽にかざすと太陽の光が石の内部に充満する。石自体が光を放って、輝いているように見える。縁側にねっころがって、何度も何度も眺めていたな。うれしかった。
なんであんなに夢中になって、そんなものを集めていたんだろう。
おそらく理由なんかないな。目的もない。
ただ石が好きで、夢中になっただけ。
いつからだろう、単純に夢中になれなくなったのは。
いつからだろう、目的もはっきりしないまま行動に移すことができなくなったのは。
大切なのは心がふるえることだった。
大切なのは心の底からこみ上げてくる喜びだった。
僕は今もあの川の畔を歩いているに違いない。素敵な石がないか辺りを見回しながら。時々かがんでは拾い上げる。いいぞ!と思うとすかざずポケットにねじ込む。
うれしいことに理由はいらないのだ。
自分の喜びを他人に解釈してもらう必要もない。
僕は四十年経ってもなお、あの川の畔を一人で歩いている。
それは確かだ。
大きな山椒魚がいると聞いて、ぜひ見つけよう!とうろうろしていたのだ。急な坂を下りて、草の茂った川縁を行く。下の娘が抱っこして、と言うものだから、抱きかかえ不安定な道ともいえない道を、一歩一歩進む。
太陽がじりじりと頭上を照らす。首から背中に汗が滴り落ちるのがわかる。
ふいに上の娘がかがみ込む。
地面からなにやら取り上げて眺めている。橙色の小さな石だ。
僕も一緒になって、石を拾う。
川の流れに削られて、なかなかいい感じの石が次々に見つかる。つるつるの表面が自然な感じに摩耗し、手のひらにのせると、適度な重さも感じられ、いつまでも持っていたいという気がしてくる。ひとつとして同じ石はないが、どれもが美しく摩耗している。
山椒魚のことをすっかり忘れて、石で盛り上がる僕と娘たち。
近くにいた僕の母が、つぶやいた。
「あんたが小さい頃、よく集めたわね。ミカン箱いっぱい・・・」
そうだ。僕は幼い頃、石が大好きだった。
今から四十年も前、岩手の小さな川の畔で、僕は一人で石を集めながら一日を過ごすことが多かった。僕には弟がいたが、幼すぎて一緒に遊ぶ気がしない。すると、川へ行っては石集めに精を出したのだ。いつのまにか、ミカン箱数箱分も集めてしまっていた。
周りの大人たちは、皆あきれ顔だが、僕は何故かとっても自慢に思っていた。
あの時の石も、丸く摩耗した美しい石だったことを覚えている。特に気に入っていたのが、橙色で少し透明な感じの石。陽にかざすと太陽の光が石の内部に充満する。石自体が光を放って、輝いているように見える。縁側にねっころがって、何度も何度も眺めていたな。うれしかった。
なんであんなに夢中になって、そんなものを集めていたんだろう。
おそらく理由なんかないな。目的もない。
ただ石が好きで、夢中になっただけ。
いつからだろう、単純に夢中になれなくなったのは。
いつからだろう、目的もはっきりしないまま行動に移すことができなくなったのは。
大切なのは心がふるえることだった。
大切なのは心の底からこみ上げてくる喜びだった。
僕は今もあの川の畔を歩いているに違いない。素敵な石がないか辺りを見回しながら。時々かがんでは拾い上げる。いいぞ!と思うとすかざずポケットにねじ込む。
うれしいことに理由はいらないのだ。
自分の喜びを他人に解釈してもらう必要もない。
僕は四十年経ってもなお、あの川の畔を一人で歩いている。
それは確かだ。
2005年9月25日日曜日
光
この季節になると思い出すことがある。僕がまだ小学五年生の時だ。僕は鼓笛隊でスネア・ドラムを叩いていた。夏が終わり、秋の風が少し肌寒く感じられる頃だ。
ある日、学校の近くの養護施設で文化祭があるので、ドラムを教えて欲しいと頼まれた。頼んできたのは「光」という名の女の子であった。不思議なことだが、彼女とは、小学校の一年生から中学三年までずっと同じクラスだった。そして、彼女も施設の子供の一人だった。
彼女は、事情は知る由もないが、孤児であるばかりでなく、口もあまりうまくきけなかったので、クラスのいじめっ子たちの格好の標的になっていた。いじめは、今に始まったものではなく、昔からあったように思う。僕もいじめたことがあったかもしれない。
クラスで写生をしていた時、僕は土手の上に座って遠くの山を描いていた。ほんの少し雪をかぶった山は僕の目には「ブルー」に見えた。夢中になって絵を描いていたので,近寄ってきた担任の若い女の先生に気がつかなかった。先生は,肩越しに絵をのぞき込んで、不意に「それは違う」と言った。それから、絵筆を取り上げると、僕の山を茶色で塗りつぶした。所々に緑の点を入れながら。
「あの山は何色?」と先生はクラスのみんなに聞こえるように、大きな声で叫んだ。「茶色よね!」と続けた先生に、皆うなづくのが僕には見えた。先生があきれた顔で僕の方を振り返った時、小さな声が近くから聞こえた。
「青く・・・見えるよ」
それは光の声だった。みんなどっと笑い、先生は「これは写生なんだから、嘘は駄目よ」とそう念を押すと、向こうへ行ってしまった。僕には茶色に塗られた山の絵と、光の声だけが残った。
秋になり、とんぼが飛び交うたんぼ道を、自転車に乗って、僕は一人で山の中腹に立つ施設に行った。急な坂を自転車で駆け上がるのを諦めて、降りて自転車を押した。坂の向こうに人影がちらりと見えた。そして、徐々に大勢の子供たちがいるのが判った。みんなが手を振っていた。ちょっと気後れしながら、入り口の所までやってくると、カトリックのシスターが僕に手をさしのべてくれた。
「ようこそ」
シスターの手は温かかった。
夢中になって教えているうちに、あっという間に二時間経ってしまった。普段学校で会う子も何人かいて、学校と違って、みんないきいきしていることに驚いた。光は遠くで見ているだけで、一言も口をきかなかった。でも、嬉しそうだということだけはわかった。シスターがお礼にカルピスを出してくれた。
「ここにいる子たちはみんな光の子です。あなたも光の子ね」とシスターが言った。
帰る時、また百人近い子供たちに「ありがとう!」と手を振られながら、僕は後ろを振り返り振り返り、転がるように坂を下りていった。自転車が石につまづき、思いっきりコケてしまった。後ろから子供たちの爆笑とシスターの心配そうな声が聞こえたが、恥ずかしくって振り返ることもせず、打った腰をさすりながら、ダッシュした。
中学三年の終わり、まだ季節が寒い頃、光は東京へ旅立った。集団就職だった。駅で彼女たちが出発する時、僕は遠くで見ていた。とうとう彼女と口をきくことはなかった。
僕はこの歳になって、少し思うことがある。光というのは、なにも暗闇を照らすものだけではないのだ、ということを。光は過去からやってきて、現在と未来を照らすものなのだ。光は内側から外を照らすものなのだ。一人の少女の思い出は、昔の物語だが、今の僕を振り返らせてくれるひとつの光だ。僕はこうした光に照らされた道を歩いてきたし、これからも歩いていくのだろう。
名もない僕ら一人一人が、それぞれの人生の光源であることを、僕は忘れまい。
ある日、学校の近くの養護施設で文化祭があるので、ドラムを教えて欲しいと頼まれた。頼んできたのは「光」という名の女の子であった。不思議なことだが、彼女とは、小学校の一年生から中学三年までずっと同じクラスだった。そして、彼女も施設の子供の一人だった。
彼女は、事情は知る由もないが、孤児であるばかりでなく、口もあまりうまくきけなかったので、クラスのいじめっ子たちの格好の標的になっていた。いじめは、今に始まったものではなく、昔からあったように思う。僕もいじめたことがあったかもしれない。
クラスで写生をしていた時、僕は土手の上に座って遠くの山を描いていた。ほんの少し雪をかぶった山は僕の目には「ブルー」に見えた。夢中になって絵を描いていたので,近寄ってきた担任の若い女の先生に気がつかなかった。先生は,肩越しに絵をのぞき込んで、不意に「それは違う」と言った。それから、絵筆を取り上げると、僕の山を茶色で塗りつぶした。所々に緑の点を入れながら。
「あの山は何色?」と先生はクラスのみんなに聞こえるように、大きな声で叫んだ。「茶色よね!」と続けた先生に、皆うなづくのが僕には見えた。先生があきれた顔で僕の方を振り返った時、小さな声が近くから聞こえた。
「青く・・・見えるよ」
それは光の声だった。みんなどっと笑い、先生は「これは写生なんだから、嘘は駄目よ」とそう念を押すと、向こうへ行ってしまった。僕には茶色に塗られた山の絵と、光の声だけが残った。
秋になり、とんぼが飛び交うたんぼ道を、自転車に乗って、僕は一人で山の中腹に立つ施設に行った。急な坂を自転車で駆け上がるのを諦めて、降りて自転車を押した。坂の向こうに人影がちらりと見えた。そして、徐々に大勢の子供たちがいるのが判った。みんなが手を振っていた。ちょっと気後れしながら、入り口の所までやってくると、カトリックのシスターが僕に手をさしのべてくれた。
「ようこそ」
シスターの手は温かかった。
夢中になって教えているうちに、あっという間に二時間経ってしまった。普段学校で会う子も何人かいて、学校と違って、みんないきいきしていることに驚いた。光は遠くで見ているだけで、一言も口をきかなかった。でも、嬉しそうだということだけはわかった。シスターがお礼にカルピスを出してくれた。
「ここにいる子たちはみんな光の子です。あなたも光の子ね」とシスターが言った。
帰る時、また百人近い子供たちに「ありがとう!」と手を振られながら、僕は後ろを振り返り振り返り、転がるように坂を下りていった。自転車が石につまづき、思いっきりコケてしまった。後ろから子供たちの爆笑とシスターの心配そうな声が聞こえたが、恥ずかしくって振り返ることもせず、打った腰をさすりながら、ダッシュした。
中学三年の終わり、まだ季節が寒い頃、光は東京へ旅立った。集団就職だった。駅で彼女たちが出発する時、僕は遠くで見ていた。とうとう彼女と口をきくことはなかった。
僕はこの歳になって、少し思うことがある。光というのは、なにも暗闇を照らすものだけではないのだ、ということを。光は過去からやってきて、現在と未来を照らすものなのだ。光は内側から外を照らすものなのだ。一人の少女の思い出は、昔の物語だが、今の僕を振り返らせてくれるひとつの光だ。僕はこうした光に照らされた道を歩いてきたし、これからも歩いていくのだろう。
名もない僕ら一人一人が、それぞれの人生の光源であることを、僕は忘れまい。
2005年9月24日土曜日
永遠と一日
この世に生を受け、はや四十年も後半にさしかかった。
夏が過ぎ、季節は確実に秋である。
うまい言い回しも、気の利いた表現も、人を魅了する文体も、僕は興味がない。
むしろ、いまここで吐かなくてはならない切実な言葉を選びたい。
切実。
これは、僕らが置き忘れて久しいものだと思う。切実に日々を味わい、切実に愛し、切実に打ち込み、切実に求め、切実に生き、切実に死んでいくことのなんと難しいことか。いや、難しいのではない。切実に生きるのが怖いだけだ。
利口者にとって、切実はただの愚かな生き様にすぎない。しかし、己の愚かさを自覚した者にとって、切実はごく当たり前の日常であり、切実でなければ、生きていることにはならないのである。
実を切るように生きるとは、己の吐き出すすべてが、絶えず己自身に返ってくることをよしとする態度のことだ。従って、利口者にはとても耐えられない生き方といえる。
人は幼くして、そのどちらかの生き方を選択してきたのではあるまいか。つまり、成人し、世間を知って、利口になるのではなく、ごく幼い時期から利口になる人間と、愚かさを自覚せざるを得ない人間がいるような気がしてならない。
僕は確実に愚かなのだ。とても利口にはなれない。
うまい言い回しも、気の利いた表現も、人を魅了する文体も、僕には書けそうもない。
うまいことやって金を稼ぐなんていうことも、できそうにない。
たぶん、幼い頃、自らその道を選んだのだと思う。愚かさの道を。
一日はわずか24時間だが、永遠である。
利口者は十年単位で考える。
だが、愚か者は、今日一日を考えるのだ。今日一日を切実に生きたいと考えるのだ。何年生きようが、今日一日の重さにはかなわない。愚か者はそう考える。
一日は永遠であり、永遠は一日に宿っている。
今日もまた一日、生きようと思う。
夏が過ぎ、季節は確実に秋である。
うまい言い回しも、気の利いた表現も、人を魅了する文体も、僕は興味がない。
むしろ、いまここで吐かなくてはならない切実な言葉を選びたい。
切実。
これは、僕らが置き忘れて久しいものだと思う。切実に日々を味わい、切実に愛し、切実に打ち込み、切実に求め、切実に生き、切実に死んでいくことのなんと難しいことか。いや、難しいのではない。切実に生きるのが怖いだけだ。
利口者にとって、切実はただの愚かな生き様にすぎない。しかし、己の愚かさを自覚した者にとって、切実はごく当たり前の日常であり、切実でなければ、生きていることにはならないのである。
実を切るように生きるとは、己の吐き出すすべてが、絶えず己自身に返ってくることをよしとする態度のことだ。従って、利口者にはとても耐えられない生き方といえる。
人は幼くして、そのどちらかの生き方を選択してきたのではあるまいか。つまり、成人し、世間を知って、利口になるのではなく、ごく幼い時期から利口になる人間と、愚かさを自覚せざるを得ない人間がいるような気がしてならない。
僕は確実に愚かなのだ。とても利口にはなれない。
うまい言い回しも、気の利いた表現も、人を魅了する文体も、僕には書けそうもない。
うまいことやって金を稼ぐなんていうことも、できそうにない。
たぶん、幼い頃、自らその道を選んだのだと思う。愚かさの道を。
一日はわずか24時間だが、永遠である。
利口者は十年単位で考える。
だが、愚か者は、今日一日を考えるのだ。今日一日を切実に生きたいと考えるのだ。何年生きようが、今日一日の重さにはかなわない。愚か者はそう考える。
一日は永遠であり、永遠は一日に宿っている。
今日もまた一日、生きようと思う。
2005年9月19日月曜日
さんぽみち
阿佐ヶ谷。
駅の南口をでると、青梅街道へとのびる通りがある。
「中杉通り」だ。
僕は中央線沿線で暮らすことが多かったが、何故か阿佐ヶ谷に住むことはなかった。
リヤカーを引きながら、中野や高円寺をうろうろしながら引っ越したことはあったが、阿佐ヶ谷は僕にとって未知の街であった。
友人が三週間ばかり入院したので、阿佐ヶ谷を訪ねる機会があった。
ある日、僕は病院の帰りコーヒーが飲みたくて駅周辺を歩いてみた。駅前のロータリーをぐるりとまわり、木洩れ日の射し込む通りを歩いた。
街路樹が両側の歩道からはりだし、車道を囲むように枝と葉がのびている。
それはまるで自然のアーケードのようだ。
光がとにかくやわらかい。
もちろん、この地域の人々が計画し維持した結果が、中杉通りのその名の通りの美しい街路樹たちなのだろうが、どうもそれだけでもない気がするのだ。
今から30年前、原宿の表参道は街路樹の木洩れ日のなか、とても素敵な散歩道であった。
そして、今では見る影もない、と思うのは僕だけだろうか。
中杉通りの木洩れ日の中をしばらく歩くと、道沿いに小さなハンバーガー・ショップを見つける。
通りに面したそのお店は、ガラスの窓が開いて、小さな椅子とテーブルが通りに見えている。小さいのに開放的なのだ。店の中には笑顔の絶えない女の子や自然な感じの男の子が客の相手をしている。
僕はコーヒーを受け取ると、二階へあがる。
二階には、三組ほどの客がいたが、僕は窓辺のカウンターに座る。
荷物をカウンターに置き、コーヒーを一口すする。ふと目の前の広いガラス窓の外に、通りの木立とゆっくり歩く人、静かに流れていく車が目に入る。
それは、まるで三十年前に見た表参道の景色そのものだった。もう失われて久しいこの都会の静けさが、そこにあった。
デ・ジャ・ヴュ。
まさにかつて味わったあのさんぽみち。
コーヒーの香りとともに、僕は三十年前の、あの頃の自分に一瞬だけタイムスリップしていた。
この街にとって、この通りはなくてはならないもの。この街をこの街らしくしている大事な要素。決してなくしてはいけないもの。ひょっとしたら、この街の人々はそのことをはっきり認識しているのではないだろうか。
それが、この木洩れ日となって通りを優しく照らしているのではないだろうか。
僕はコーヒーをすすり、耳を澄ます。遠くから静かな排気音が聞こえてくる。
目の前を若者の乗ったバイクが通り過ぎていく。
出逢いは、そこでもまた、再会であった。
駅の南口をでると、青梅街道へとのびる通りがある。
「中杉通り」だ。
僕は中央線沿線で暮らすことが多かったが、何故か阿佐ヶ谷に住むことはなかった。
リヤカーを引きながら、中野や高円寺をうろうろしながら引っ越したことはあったが、阿佐ヶ谷は僕にとって未知の街であった。
友人が三週間ばかり入院したので、阿佐ヶ谷を訪ねる機会があった。
ある日、僕は病院の帰りコーヒーが飲みたくて駅周辺を歩いてみた。駅前のロータリーをぐるりとまわり、木洩れ日の射し込む通りを歩いた。
街路樹が両側の歩道からはりだし、車道を囲むように枝と葉がのびている。
それはまるで自然のアーケードのようだ。
光がとにかくやわらかい。
もちろん、この地域の人々が計画し維持した結果が、中杉通りのその名の通りの美しい街路樹たちなのだろうが、どうもそれだけでもない気がするのだ。
今から30年前、原宿の表参道は街路樹の木洩れ日のなか、とても素敵な散歩道であった。
そして、今では見る影もない、と思うのは僕だけだろうか。
中杉通りの木洩れ日の中をしばらく歩くと、道沿いに小さなハンバーガー・ショップを見つける。
通りに面したそのお店は、ガラスの窓が開いて、小さな椅子とテーブルが通りに見えている。小さいのに開放的なのだ。店の中には笑顔の絶えない女の子や自然な感じの男の子が客の相手をしている。
僕はコーヒーを受け取ると、二階へあがる。
二階には、三組ほどの客がいたが、僕は窓辺のカウンターに座る。
荷物をカウンターに置き、コーヒーを一口すする。ふと目の前の広いガラス窓の外に、通りの木立とゆっくり歩く人、静かに流れていく車が目に入る。
それは、まるで三十年前に見た表参道の景色そのものだった。もう失われて久しいこの都会の静けさが、そこにあった。
デ・ジャ・ヴュ。
まさにかつて味わったあのさんぽみち。
コーヒーの香りとともに、僕は三十年前の、あの頃の自分に一瞬だけタイムスリップしていた。
この街にとって、この通りはなくてはならないもの。この街をこの街らしくしている大事な要素。決してなくしてはいけないもの。ひょっとしたら、この街の人々はそのことをはっきり認識しているのではないだろうか。
それが、この木洩れ日となって通りを優しく照らしているのではないだろうか。
僕はコーヒーをすすり、耳を澄ます。遠くから静かな排気音が聞こえてくる。
目の前を若者の乗ったバイクが通り過ぎていく。
出逢いは、そこでもまた、再会であった。
2005年9月18日日曜日
この時代を生きるということ
もし僕らが百年前の時代に暮らしていたらと考える。
果たして僕らは幸福だろうか?
もし僕らが百年後の時代に暮らしていたら、僕らは幸福だろうか?
どちらも想像にすぎないが、恐らく次のことだけははっきりしている。
僕らは与えられた時代にしか生きられないということ。
逃げることも隠れることもできない。
その時代の条件の下で、その時代の矛盾の中で、その時代の空気の中でしか僕らは生きられないということ。
時代とはひとつの海のようなものだ。
生命を育みながら、押し流し、時にはその命を奪いもする。
東西南北もわからない時代という大海のただ中で、僕らは羅針盤も持たずに途方に暮れているのだ。
どの時代に生きても、人は絶えず途方に暮れてきたのだ。悩みながら、迷いながら、人は海の向こうをめざす。
だから、この時代を生きる中で、僕らが途方に暮れるのは当たり前のこと。
ただし、羅針盤がないときに、人が頼るべきなのは、己の内なる声なのだ。
海鳴りにかき消されそうな、そのかすかな声に耳を傾けるとき、人は北極星の存在に気がつく。
僕らを導いてくれるのは、指導者と呼ばれる人間なんかじゃない。
己の声と、空に輝くあの星の輝きだけが、僕らを未来へと導いてくれるのだ。
僕らはこうして、この時代を航海していく。
果たして僕らは幸福だろうか?
もし僕らが百年後の時代に暮らしていたら、僕らは幸福だろうか?
どちらも想像にすぎないが、恐らく次のことだけははっきりしている。
僕らは与えられた時代にしか生きられないということ。
逃げることも隠れることもできない。
その時代の条件の下で、その時代の矛盾の中で、その時代の空気の中でしか僕らは生きられないということ。
時代とはひとつの海のようなものだ。
生命を育みながら、押し流し、時にはその命を奪いもする。
東西南北もわからない時代という大海のただ中で、僕らは羅針盤も持たずに途方に暮れているのだ。
どの時代に生きても、人は絶えず途方に暮れてきたのだ。悩みながら、迷いながら、人は海の向こうをめざす。
だから、この時代を生きる中で、僕らが途方に暮れるのは当たり前のこと。
ただし、羅針盤がないときに、人が頼るべきなのは、己の内なる声なのだ。
海鳴りにかき消されそうな、そのかすかな声に耳を傾けるとき、人は北極星の存在に気がつく。
僕らを導いてくれるのは、指導者と呼ばれる人間なんかじゃない。
己の声と、空に輝くあの星の輝きだけが、僕らを未来へと導いてくれるのだ。
僕らはこうして、この時代を航海していく。
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