2005年10月25日火曜日

みんなにあいにきた

「あのね、パパ」

と五歳になる娘が言った。

「パパはそんなにしごとが好きなの?」

娘は僕の膝の上にいる。書斎。
僕は夢中になって、パソコンに向かいキーボードをひっきりなしに叩いている。
ふと見ると、膝の上の娘が肩越しにこちらを見上げている。
僕はキーボードを打つ手をとめ、娘を正面から抱きかかえる。

「どした?」僕が訊く。
「ねぇ、ほんとはもっと大事なことがあるんじゃない?」
「うん?」僕は彼女の顔を見る。
すると、娘は、じっと僕の顔を見つめて、言った。

「みんなにあいにきたんだよ」

僕は何の事やらわからない。

「パパの男くさい声を聞くために、太ったおなかをさわるために。
  ママの怒ったり、笑ったり、優しい目を見るために。
  お姉ちゃんとけんかして、なかよく遊ぶために。
  あたしは、みんなに、あいにきたんだよ」

子供は、ほんのちょっと前にエデンの園にいたのだ。
ひょっとしたら、まだ彼女の一部はエデンの園にいるのかもしれない。
この子が僕らに会いに来たのは、本当だろう。
そんなことを、大人はとっくに忘れて生きている。

でもね、僕も君に会いに来たんだよ。
君と、君のお姉ちゃんと、ママに。

子供たちの声には、子供たちの言葉の中には、自分もかつて暮らしていたであろうエデンの園の香がする。
そして、この愚かな父に、子供たちは、いつも勇気をほんのちょっぴりくれるのだ。

ありがとね。あいにきてくれて。

2005年10月7日金曜日

屋上で風が吹いている

国立で週に一度英語を教えている。

昼間の授業が終わり、僕はコンピューターを抱えて外に出る。
夕方五時。
近くのTully’sの屋上で原稿を書く。他の客もいないので、好きな音楽を聴きながら、のんびり時を過ごす。’80年代のSteely Dan。Ajaの空気感が好きだな。
柔らかな風が僕の全身を撫でては通り過ぎていく。
空は、夕方から曇りだ。
もうすぐ雨が降るらしい。だが、そんなことにはお構いなく、僕は書く。
一息ついて、コーヒーブレイク。いい感じだ。
僕はコーヒーが大好きだ。ゆったりと時を過ごすには、酒はいらない。適度な覚醒が必要だから。

事故に遭わずバイクを楽しむこと。
自分の書きたいこと、書かねばならぬことに集中すること。
他人の目や評価は気にせぬこと。人を出し抜くこととは無縁であること。
今は金がない。全く笑い出したくなるほど金には縁がない。
昼間、夕飯のことで妻にメールしたら、彼女から返事が届く。
「この食いしん坊・・・」僕は笑い出した。
確かに僕は食い意地が張っている。この人にはかなわない。
妻も子供たちも、みんな元気だ。ああ、この人たちと共に僕は生きている。生かされている。
これこそが幸福だ。いいぞ。この調子だ。

人生はしっかりと生きようとするものには、必ず答えてくれるものだ。
これまでもそうだったし、これからもそうだ。
まずはしっかりと生きること。平凡でいい。放っておいても波風はたつから。
格好悪くてもいい。それが生きるということだから。
決して逃げずに、しっかりと大地に足をつけて、僕の宝ものたちを抱きしめて生きる。雨が降ろうと、雪が降ろうと、僕は抱きしめる。
二度とない人生だもの。一回きりだから、心底味わいたいと思うんだ、この人生を。

また風が吹いてきた。
さて、仕事に戻ることにしようか。

2005年9月29日木曜日

シェリーの空

若い頃、シェリーの詩を読みふけった時期がある。

シェリーは「空の詩人」だと思う。
その詩のほとんどが、どう考えても、空の上から見た世界としか思えないのだ。
ライト兄弟が飛行機を発明して以来、空は人間にとって身近なものに確かになった。
しかし、人は空を飛ぶ機械を手に入れる前から、魂を飛ばしていたに違いない。
あの青い空を白い雲を突き抜けて、ぐんぐん飛んでいくイメージ。想像力は機械よりも遙かに先を行く。想像力がなければ、それを実現する機械も生まれなかったはずだ。
僕らは想像力で空を飛びはじめたのだ。
ピテカントロプスもネアンデルタールも草原で空を見上げ、空を飛んだのだ。

僕も娘も空を見るのが好きだ。
シェリーはその詩の中で、砂漠やオアシスの上を、風に乗って飛んでいく。
僕らもベランダや公園の草の上に寝っ転がって空を飛ぶ。
娘は時々「おーい!」と空に向かって叫ぶ。
この辺りでは珍しいトビがくるくる回りながら、かなり高いところを飛んでいるのが見える。
また娘が叫ぶ「おーい!」
その時、トビがピューピュルルル〜と鳴くのが聞こえてくる!
横目で娘の顔をちらっと見る。彼女が、遠くの空を、トビと一緒に飛んでいるのがわかる。
この娘の魂は、今空の上にある。

僕らはここにいて、ここにいない。
地上にへばりつくようにして生きる自由。
時々、地上から精神を浮上させ、空に舞い上がる自由。
どちらを選ぶのも自由だが、現代文明には機械で空を飛ぶ事実はあっても、想像力で空を飛ぶ精神の自由は限りなくゼロに近い、と僕は思う。

思い出せ。
ピテカントロプスもネアンデルタールも僕らの直接のご先祖様ではないかもしれないが、ごく初期の僕らの隣人たちであった。彼らの見た空を、思い出せ。

シェリーはとっくに忘れられた詩人かもしれないが、この男の見た空を、思い出せ。

すぐそこにシェリーの空はある。
それに気がつかないのは、文明的精神に特有の、地上にへばりついた習慣がもたらす「現実」という名の幻想のせいである。

僕はネアンデルタールの素朴さとシェリーの想像力を決して忘れまい。すぐそこにある真実は、捏造された事実より重い。

2005年9月28日水曜日

谷をわたる時

言葉を失う人は幸いである。言葉の悦びを深く知る機会を与えられたのだから。

腕を失う人は幸いである。ものに触れることが愛しいことだと気がつけるから。

足を失う人は幸いである。歩くことがこの世を知ることだと気がつくことができるのだから。

耳を失う人は幸いである。何気ない音が人の命と同じだったのだと気がつけるから。

目を失う人は幸いである。思い出の中で人は年老いることがないだろう。永遠の夕陽はこの人の中にある。

子を失う人は幸いである。自らの身体が引き裂かれる痛みを知ることができるから。

親を失うものは幸いである。己の存在の原点、存在の全責任が己自身にあることに気がつくことができるから。

もっとも不幸なのは、
何も失うはずはないという慢心の人であり、もっと欲しいという貪欲の人であり、失うことを恐れる臆病の人である。

人の暮らしは山道を歩くのに似ている。
山の細い道を一歩また一歩と一所懸命歩き、額の汗をぬぐう。やがて木々の織りなすこもれ陽の間に、下の方へ続く道が見える。人は上るときに希望を感じ、下るときに恐怖と絶望を感じるものだ。だが、降りていかねばならない。なぜなら、そこに谷があるからだ。谷をわたらなければ、次の山へは向かえないのである。
そこは、悦びの谷であり怒りの谷であり、そして涙の谷である。
その谷はあまりにも険しいので、人は荷物をひとつ下ろさなくてはならない。
ところが人のとる行動は、実はまったく逆なのである。明日のことを考えるあまり、次の山での生活を思うあまり、日ごとに背負う荷物が多くなっていくのである。その重さに気がつくこともなく、やがて人の形相は変わっていく。苦しみと恨みと嫉妬と欲望へ。

大きな荷物を背負った人は、谷の河をわたる途中で力尽きる。そして、つぶやくのだ。
「これが俺の人生だったのか」と。
「これだけのものを持ったのに、なお俺は後悔するのか」と。

振り向けば、僕の背中にもかなりの量の荷物が乗っているようだ。振り返らない限り、前を見ているだけでは己の荷物には気がつかないのだろう。その荷物を、ひとつ、またひとつと降ろしていくのも無駄ではあるまい。荷物は日ごとに増すのである。あれもこれも欲しくなり、失うことを恐れ、蓄えることに執心し、別れを嫌がるのである。

今日の別れは、可能性の芽である。
その芽に「別離」と「喪失」という名の水をかけてやろう。
芽はやがてその根をはり、茎を伸ばし、葉をつけ、花が咲くかもしれないのだ。
そして、それを僕は人生と呼びたい。

だから、僕は望む。
ほんのちょっと夢見る力とほんのちょっと愛する力を、そして、失うことを恐れぬ勇気をほんのちょっとだけ。
そのほかには、何もいらない。
僕は笑いながら、あの涙の谷をわたろう。

幸福は谷をわたる勇気の中にある。

そのひぐらし

人は様々な使命に燃えるものだ。使命感がなくては人生は無益な感じがするだろう。人は多かれ少なかれ使命感の虜になっている。良かれ悪しかれ。

One filled with joy preaches without preaching.
                            - Mother Teresa

勿論、特に使命感というほどではないにしても、人に教えをたれ、自分が何者なになったかのように錯覚することは日常に溢れているのではないだろうか。人はいつでも何者かになりたいのである。この欲求はあまりにも人間的な部分に根ざされているので、捨て去ることなどできないだろう。いい加減に見えても、卑屈に振舞ってみても、人に認められたいという悲しい人間的欲求に溢れているのが人間的文明の姿である。

不意に風の音が聞こえてくることがある。都会の喧騒の中に、風の音が聞こえることがある。ある日、三歳になる娘が、こんなことを言った。
「風が見えるよ!」
僕には音が聞こえるだけ。なのに幼い娘には風が見えるらしい。風は虹の色をしているという。これも娘の話。
虹色の風か。
僕は風の音を聞きながら、風を見ようとした。そして、気がついた。これは幼い娘の教えなのだ、と。
我々がどれだけ歳をとり、大した者になったとしても、この娘の見ているものは、もはや見えなくなってしまったのだ。だが、娘のその幼い言葉の中に、僕は失われた瞬間を見るのだ。夢と現実が一致していた頃。現実が不思議と奇跡で溢れていた頃。世界が喜びでいっぱいだった頃を。

人は言葉で教えをたれることはできない。人は喜びで人に影響を与えるのである。喜びとは悲しみも苦しみも含むものである。喜びとは、人に与えられた唯一の生きる知恵である。
義務が喜びに変わったとき、人生は意味を持ち始めるのだ。責任が喜びに変わったときに、人生は輝きだすのだ。義務が義務のままで、責任が責任のままであり、信念が信念のままならば、自己嫌悪と責任転嫁と恨みで人は醜くなるばかりだ。
人生には岐路がいくつもあるけれど、正しい義務や責任や信念が形を変えた時、それを僕は岐路と呼びたい。固まってしまって身動きの取れない状態から、自分を解き放ち、新たな価値に気がつく時、人は昨日とは違う今日を歩き始める。昨日嫌悪したものを受け入れることができた時、人は人生の新たな地平に気がつくのだ。驚きと感動はその時こそやってくる。奇跡は不意に現れる喜びそのものなのだ。ただし、そこには痛みと傷が付きまとう。痛みと傷は喜びの副作用である。

人は人に何も教えることはできない。人はたえず発見するだけなのだ。人は喜びとともに生きることはできる。しかし、言葉でその喜びを伝えることはできない。まず何よりも先に、まず伝えるより先に、生きなければ。喜びとともに。

マザー・テレサが聖人であろうがなかろうが僕には関係ない。素晴らしいのは、彼女が喜びに溢れて生きていたということだ。その喜びが、彼女の教えそのものであり、言葉であった。
「はじめに言葉ありき」というのは「はじめに喜びありき」という意味のような気がしてならない。 

僕らは実は大した人生を送っているわけではない。世間に認められようが、金を稼ごうが、立派な地位につこうが、まったくどうでも良いことだ。確実に言えることは、僕らはそれぞれがそのひぐらしをしているということ。
そのひぐらし。
いい言葉じゃないか。まったく人生はそのひぐらしだ。大切なのは、瞬間瞬間に喜びが溢れていることだ。激しい怒りがあるだろう。悲しい別れがあるだろう。辛い絶望や挫折もあるだろう。しかし、それもこれも、すべてそのひぐらしの賜物だ。
そのひぐらしの賜物こそ、人生の奇跡なのではないだろうか。そのひぐらしを実感することで、すべてが嬉しくなってくる。
だから、僕は喜んでそのひぐらしを生きていきたいと思っているのだ。

そして、今日もそのひぐらし。
明日のことはわからない。
だから、
人生は素敵なんだな。
いつかきっともう一度風が見えるような気がしている。虹色の風を。

2005年9月27日火曜日

あの川の畔で

二人の娘たちと木曽川の畔を歩いていた。
大きな山椒魚がいると聞いて、ぜひ見つけよう!とうろうろしていたのだ。急な坂を下りて、草の茂った川縁を行く。下の娘が抱っこして、と言うものだから、抱きかかえ不安定な道ともいえない道を、一歩一歩進む。
太陽がじりじりと頭上を照らす。首から背中に汗が滴り落ちるのがわかる。

ふいに上の娘がかがみ込む。
地面からなにやら取り上げて眺めている。橙色の小さな石だ。
僕も一緒になって、石を拾う。
川の流れに削られて、なかなかいい感じの石が次々に見つかる。つるつるの表面が自然な感じに摩耗し、手のひらにのせると、適度な重さも感じられ、いつまでも持っていたいという気がしてくる。ひとつとして同じ石はないが、どれもが美しく摩耗している。
山椒魚のことをすっかり忘れて、石で盛り上がる僕と娘たち。
近くにいた僕の母が、つぶやいた。

「あんたが小さい頃、よく集めたわね。ミカン箱いっぱい・・・」

そうだ。僕は幼い頃、石が大好きだった。

今から四十年も前、岩手の小さな川の畔で、僕は一人で石を集めながら一日を過ごすことが多かった。僕には弟がいたが、幼すぎて一緒に遊ぶ気がしない。すると、川へ行っては石集めに精を出したのだ。いつのまにか、ミカン箱数箱分も集めてしまっていた。
周りの大人たちは、皆あきれ顔だが、僕は何故かとっても自慢に思っていた。

あの時の石も、丸く摩耗した美しい石だったことを覚えている。特に気に入っていたのが、橙色で少し透明な感じの石。陽にかざすと太陽の光が石の内部に充満する。石自体が光を放って、輝いているように見える。縁側にねっころがって、何度も何度も眺めていたな。うれしかった。

なんであんなに夢中になって、そんなものを集めていたんだろう。
おそらく理由なんかないな。目的もない。
ただ石が好きで、夢中になっただけ。
いつからだろう、単純に夢中になれなくなったのは。
いつからだろう、目的もはっきりしないまま行動に移すことができなくなったのは。
大切なのは心がふるえることだった。
大切なのは心の底からこみ上げてくる喜びだった。

僕は今もあの川の畔を歩いているに違いない。素敵な石がないか辺りを見回しながら。時々かがんでは拾い上げる。いいぞ!と思うとすかざずポケットにねじ込む。
うれしいことに理由はいらないのだ。
自分の喜びを他人に解釈してもらう必要もない。

僕は四十年経ってもなお、あの川の畔を一人で歩いている。
それは確かだ。

2005年9月25日日曜日

この季節になると思い出すことがある。僕がまだ小学五年生の時だ。僕は鼓笛隊でスネア・ドラムを叩いていた。夏が終わり、秋の風が少し肌寒く感じられる頃だ。

ある日、学校の近くの養護施設で文化祭があるので、ドラムを教えて欲しいと頼まれた。頼んできたのは「光」という名の女の子であった。不思議なことだが、彼女とは、小学校の一年生から中学三年までずっと同じクラスだった。そして、彼女も施設の子供の一人だった。

彼女は、事情は知る由もないが、孤児であるばかりでなく、口もあまりうまくきけなかったので、クラスのいじめっ子たちの格好の標的になっていた。いじめは、今に始まったものではなく、昔からあったように思う。僕もいじめたことがあったかもしれない。

クラスで写生をしていた時、僕は土手の上に座って遠くの山を描いていた。ほんの少し雪をかぶった山は僕の目には「ブルー」に見えた。夢中になって絵を描いていたので,近寄ってきた担任の若い女の先生に気がつかなかった。先生は,肩越しに絵をのぞき込んで、不意に「それは違う」と言った。それから、絵筆を取り上げると、僕の山を茶色で塗りつぶした。所々に緑の点を入れながら。
「あの山は何色?」と先生はクラスのみんなに聞こえるように、大きな声で叫んだ。「茶色よね!」と続けた先生に、皆うなづくのが僕には見えた。先生があきれた顔で僕の方を振り返った時、小さな声が近くから聞こえた。
「青く・・・見えるよ」
それは光の声だった。みんなどっと笑い、先生は「これは写生なんだから、嘘は駄目よ」とそう念を押すと、向こうへ行ってしまった。僕には茶色に塗られた山の絵と、光の声だけが残った。

秋になり、とんぼが飛び交うたんぼ道を、自転車に乗って、僕は一人で山の中腹に立つ施設に行った。急な坂を自転車で駆け上がるのを諦めて、降りて自転車を押した。坂の向こうに人影がちらりと見えた。そして、徐々に大勢の子供たちがいるのが判った。みんなが手を振っていた。ちょっと気後れしながら、入り口の所までやってくると、カトリックのシスターが僕に手をさしのべてくれた。

「ようこそ」

シスターの手は温かかった。
夢中になって教えているうちに、あっという間に二時間経ってしまった。普段学校で会う子も何人かいて、学校と違って、みんないきいきしていることに驚いた。光は遠くで見ているだけで、一言も口をきかなかった。でも、嬉しそうだということだけはわかった。シスターがお礼にカルピスを出してくれた。

「ここにいる子たちはみんな光の子です。あなたも光の子ね」とシスターが言った。
帰る時、また百人近い子供たちに「ありがとう!」と手を振られながら、僕は後ろを振り返り振り返り、転がるように坂を下りていった。自転車が石につまづき、思いっきりコケてしまった。後ろから子供たちの爆笑とシスターの心配そうな声が聞こえたが、恥ずかしくって振り返ることもせず、打った腰をさすりながら、ダッシュした。

中学三年の終わり、まだ季節が寒い頃、光は東京へ旅立った。集団就職だった。駅で彼女たちが出発する時、僕は遠くで見ていた。とうとう彼女と口をきくことはなかった。

僕はこの歳になって、少し思うことがある。光というのは、なにも暗闇を照らすものだけではないのだ、ということを。光は過去からやってきて、現在と未来を照らすものなのだ。光は内側から外を照らすものなのだ。一人の少女の思い出は、昔の物語だが、今の僕を振り返らせてくれるひとつの光だ。僕はこうした光に照らされた道を歩いてきたし、これからも歩いていくのだろう。

名もない僕ら一人一人が、それぞれの人生の光源であることを、僕は忘れまい。
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