《雨と紫陽花》 |
近道より、寄り道の方が好きだな。
近道には何か利巧な経済効果の匂いがする。寄り道の方は余剰の香りがするんだ。
この余剰こそが人間を人間たらしめているのではないかと思うことがある。
余剰とは、余計な事や余ったものだが、余計な事は本当に余計な事なのか?余ったものは捨てれば良いのか?
ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』によれば、人間の真の経済学的喜びは、ただひたすら財を溜め込む蓄積にあらず、むしろ「蕩尽」すなわち使い果たすことにあるという。現在の世界経済の動向の歪みは、一部の企業等による寡頭支配によって、利益が一極集中し、利益を貯め込むシステムだからではないのか。利益を世界に吐き出すシステム(出口:すなわち社会的還元)を無くし続けながら、ひたすら財を溜め込んでいる。蕩尽が行われていないのである。
つまり、経済的に「利益を得るのか」、もしくは「損失を出してしまうのか」という「合理性すなわち過剰な蓄積」に捉われている限り、人に本質的な充実感や喜び等をもたらす「蕩尽の享楽・至高の聖性』(本当の人間的悦び)を体験することはできないということになるのですよ。
溜め込む行為は「近道」を辿る。ですが、蕩尽し使い果たすまで余計な事を沢山することは余剰を味わうことであり「寄り道」です。
人生は選択の連続ですから、近道も必要でしょうが、いつも経済的で利益を溜め込むばかりじゃ面白くない。むしろ、寄り道の余剰、もしくはバタイユの使い果たす蕩尽の意味をこの辺で噛みしめてみたいと思うわけです。
現在、シカゴ学派的経済学(いわゆる新自由主義経済学)では、貧困か極端な富裕層しか選択肢がないような、極端な二者択一の幻想を世界中に撒き散らしていますが、バタイユを読めと言いたいですね。
どなたが言ったが忘れましたが「貧困の自由」ですか?
アホですか?アホとしか言いようがないでしょ?いや、アホそのものでしょう?
僕は願い、夢見る。
近道なんかロクなもんじゃない!遠回りや寄り道をしながら、この世界を味わいたい。溜め込む人生より、使い果たしつつ吐き出す人生。真の利益とは溜め込んだ部分の総体ではなく、味わった総体を指す。有益な物事のために使わなければ、それは利益とは言わないのだ。
だから、何だって良い。ケチらずに吐き出そうと思ってます。
溜め込むバカになるよりも、吐き出すバカにワタクシはなりたい!!!
バタイユさんにサンクス☆
2 件のコメント:
本当の出世って、いい高校に行って一流大学に行って、一流企業に就職することより、遠回りして、たくさん辛いこと悲しいことを経験し、数々の失敗を重ね、そこからたくさんの事を学び、人の暖かみや、有難味が分かってくる事が、本当の出世だと思う。だから、私は、50代になって、過去を振り返った時に、いろいろと遠回りしてきてよかったな。。。とつくづく思います。
味わうってのは、そういうことなんだね☆
近道ばっかり狙うより、とろくてもダサくても味わう方を選びたい。
本当の意味で「世に出る」とはそういうことなんだろうね。
五十代、万歳\(^o^)/だ!!
生きてて良かった☆
まだまだ生きるぜ!!!
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