2010年11月30日火曜日

落ち葉の音


窓の外に落ち葉を掃く人がいます。

遠くでカラスの声がする。カラスが少し数が減ってるそうですね。

秋というよりもう冬になってきました。

太陽は明るいです。

空も青く澄み渡っている。

本当に悲しいとき、人は笑うんだ。無理するなよって言いたくなるけど、僕は黙っている。

人は何かを信じたいんだよ。

だから

信じたいから、笑うんだ。

だから

哀しいのさ。

僕は今日も電車に乗って、落ち葉を見ています。

君のことを思い出したよ。

僕にできることは、それだけさ。


『落葉のコンチェルト』アルバート・ハモンド

2010年11月29日月曜日

テレビドラマってやつ


あまりこのブログではテレビドラマについて語ってこなかった気がするので、これからはもう少しあれこれ語ってみたいと思います。

それは何故かと言えば、最近こんな記事を見たからです。
ある雑誌記者の話らしいのですが、「・・・『Q10』というドラマがありますが、一部で脚本家が良いので期待なんて言われてるけど、この脚本家が何年も前にヒットさせた『野ブタ。をプロデュース』はアイドル達のお陰でヒットしたに過ぎないんだよね・・・」

人々のテレビ離れが言われはじめ、軒並み視聴率が下がり続けるテレビ業界の中にあって、ドラマがより一層険しい時代に入っているように思えます。次々と量産される作品はまさに消費されるために創れらる、そんな感じです。

でもね、良いドラマもあるんですよ☆ほんとに。
『木更津キャッツアイ』『タイガー・アンド・ドラゴン』、最近では『MOTHER』・・・本当は挙げだしたら切りがないほど良質のドラマはあるんです。良いものもダメなものもごちゃ混ぜのまま、視聴率で判断されたり、アイドルが出ているから「軽くてダメ」などという評価が繰り返しマスコミの紙面を飾り、小馬鹿にした言葉が踊るんですね。

僕は、もう何年も前に放送された『野ブタ。をプロデュース』が大好きです☆

このドラマはオンタイムでは最終回しか観てませんでした。たまたま最終回を観たとき、あまりの出来の良さに衝撃を受け、DVDで見直したのでした。その後DVDも購入しましたよ。原作も読みました。
原作の斜めに少し歪んだ感じをドラマでは、良い具合に調整し、高校生の恋愛ドラマになりそうなのをあえて捨てて男女の友情物語に昇華させました。脚本も演出もベストです!青春期が決して輝き美しい季節だなんて描かなかった所、にもかかわらずあえて偽悪的も描かなかった、「孤独」を観る者に感じさせる所が、他にはない深みがそこにあった。これは脚本の勝利であり、演出の勝利であり、若い俳優達の挑戦の勝利だったと思うんだな。決して油断して観ていてはいけないと思うんです。

にもかかわらず、アイドルが出たからヒットしたなどという知能の欠片も感じないコメントをする雑誌記者!馬鹿者が!!こういう馬鹿者達が日本の演劇、映画、テレビドラマをダメにしているんだと心底思うよ。

木皿泉という脚本家は素晴らしいと僕は思うな。
この後の『セクシーボイス&ロボ』というドラマも孤独な少女とオタク青年の物語で秀逸でした。不幸なことに一回だけ実際にあった事件とかぶるという理由で欠番になった回があったのですが、それもまた放送という世界に蔓延る「自粛」の犠牲になったのだと思います。是非観たかったなぁ。自粛なんかするなよ!ドラマと現実はまったく別物だって!何でそんなことがわかんないんだろなぁ~あああ!

そして、現在放送中の『Q10』。これもなかなかいいんだよ。時々抽象化しすぎて観念に入り込むところが今後どう展開するのか気になるところではありますが、今回は特に青春期の「死」を扱っているところが、やっぱりエライ☆
十代は「死」の観念に囚われている時代かもしれない。それから、あの頃ってやっぱり寂しい年頃だったんだぜ。若さって不自由なんだよな。
忘れていた大人も、ボンヤリと己の十代を思い出すかもしれない。
「あなたの青春はどこにありましたか?」
そして、
「あなたは、あの頃、どこへ行こうと思っていたのですか?」

この作者のドラマは絶えず僕たちにそんな問いを突きつけているんだぜ☆

『野ブタ。をプロデュース』から「真夜中のギター」の場面:

2010年11月23日火曜日

生きよ、今日が最後の日のように

今朝の新聞に韓国のドラマ「私の名前はキム・サムスン」の最終回に使われた詩が載っていました。

踊れ、誰も見ていないかのように。
恋せよ、傷ついたことがないように。
歌え、誰も聞いていないかのように。
働け、金が必要でないかのように。
生きよ、今日が最後の日のように。
                 「恋せよ、傷ついたことがないように」by アルフレッド・D・スーザ

いい詩だね☆
残念ながら僕はこのドラマを観てません。が、最終回に出てくるそうです。
この詩の引用だけで、きっと良いドラマなのだろうと想像できます。
今度観てみよう!

今日一日、最後の日のように生きたいものです。
そうして明日を始めよう☆

チャイナ・リスク

「日本の鉄道技術“盗用”中国が各国に売り込み攻勢

産経新聞 11月22日(月)19時41分配信
 【ワシントン=古森義久】中国の国有企業が日本の高速鉄道技術を基礎に日本製より速度の高い高速列車を作り、中国独自の製品として諸外国に売り込もうとしていることについて、日本側から「約束違反」との抗議が起き、新たな日中摩擦となりつつある。米紙ウォールストリート・ジャーナルが18日、報じた…。」(←クリックでニュースソースへ)



尖閣諸島の話もまだホットな状況ではありますが、だいぶ前から日本の中国進出企業による「技術提供」という名の下に次々と大切なこの国の技術がただで中国に渡されています。
例えば、携帯電話の金型(プラスチック成型用の金属製の型)はかつては日本の専売特許で下町の工場で専門の技術者による精緻な手作業による技術でした。携帯電話等の小型で複雑なデザインはそうした日本の工場の技術者とその個人的に技術によって支えられていました。
しかし、現在日本では携帯電話の金型の生産は一切行われておりません。(どこかで行われていたら貴重なものなので教えて下さいね☆)
何年も前に大企業が小さな町工場に発注をかけなくなり、その代わりに技術の提供(コンピューターソフト化への協力)を求め、職場を失った技術者の一部を中国に呼び、日本の金型工場は潰れ、金型技術は中国のモノとなりました。この国は中国にその技術をただでくれてやったというわけです。

中国という大きな国の経済的、もしくは市場的メリットばかりに目を奪われて、貴重な技術やノウハウ、知的財産を次々にただで手渡していく今の日本の企業とは、いったい何なのだろう?
チャイナ・リスクとはいずれ来るであろう巨大な中国金融バブルの崩壊だけでなく、このような現在の日本の企業による無思慮な技術提供がやがてはこの国を蝕んで行くであろうという警鐘なのではないだろうか。
戦後65年の日本の表面的な太平な世は、目の前の利益ばかりを追い求める限りなく無思慮で無頓着な愚か者を生み出してきたのかもしれません。

我を振り返りながら、もう少し遠くを見つめてみたいと思います。

2010年11月22日月曜日

超ピタゴラスィッチ☆

先ほどツイートした「すんごいピタゴラスィッチ☆」はこれだッ!!
ピタゴラの大好きな僕のお気に入り☆

OK Go - This Too Shall Pass - Rube Goldberg Machine version - Official

あれこれ

久しぶりに歯医者さんへ行った。
歯は丈夫な方で、だいぶ前に親知らずを抜いたとき、その隣の歯が虫歯になったのを除けば、歯医者さんは眼科より縁遠いお医者さんだったと思います。

しかしここに来て、歯自体が丈夫な分、歯茎とそれを支える骨の部分が弱っているようです。
あれまぁ~、歯が丈夫ってのも油断しますね。

うん、いろんな問題が実際油断から生まれるってのも最近感じることなんだな。
自分だけは大丈夫だとか、自分は問題ないなんて思っていると、あるとき足下からすくわれるのかもね。雨の中さっき病院に行ってきましたが、予約もなかなか取れないんだな。
あれこれあれこれ考えてもしょうがないけれど、あんまり行ったことのない病院って緊張するのね。
いい歳して緊張かよって思ったけど、結構します。緊張。
そんなことをあれこれ考えてしまった。

みなさんも歯は大切にね。
あれこれ考える前に☆

待ってる間、これも久しぶりに「ラモーンズ」聴きました!よかった~☆

2010年11月20日土曜日

全体主義への道

以前よりグローバリズムの広がりは新たな世界規模の全体主義の始まりに違いないと書いてきた。
ここに来て大きく報道されることのない記事の中に、確実に一歩全体主義に世界が近づきつつあることが見て取れるような気がする。

「【ロンドン=松井学】スウェーデンの検察当局は十八日、イラク戦争やアフガニスタン駐留米軍の機密文書をインターネットで暴露した内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者ジュリアン・アサンジ氏に対し、レイプなどの容疑で逮捕状を請求したと発表した ...」(産経ニュース)

この出来事に対するTwitterにおける本人のツイート:
“ @wikileaks WikiLeaks
Julian Assange: the charges are without basis and their issue at this moment is deeply disturbing.”

現在彼は特定の所在地を持たないために国際手配されているようだ。

最近ではCIAの内部文書等の掲載などといった「内部告発」サイトとして認知されている貴重なデータベースである「ウィキリーク」(Wikileak)はその存在だけで脅威だと思われているはずである。いずれこうなるだろうとは予測されてはいたが、やはりという感じがする。日本においても様々な形で「国策逮捕」が行われている。僕らが自分の目で見ようとしないだけで、途方もない数の国策逮捕者がこの日本国内でも出ているのである。その意味でも、このウィキリークの事件を遠い外国の出来事として切り捨てるのではなく、その後に注目すべきだろう。

更に今日、アメリカが一歩インターネットの検閲に乗り出すという記事が出た。
Internet censorship one step closer to law(←クリックで元サイトへ)

この世界はいったいどこに向かっているのだろうか?
今日もいい天気だ☆
とりあえず、一歩外に出て歩き出そうか!

2010年11月19日金曜日

『世界大戦争』という映画

『世界大戦争』東宝 1961年
1961年(昭和36年)10月8日。一本の映画が公開されました。
それが東宝の空想特撮映画『世界大戦争』でした。

このところツイートしていたので、このタイトル、何度か目に留まった方もいらっしゃったかもしれません。正直言ってタイトルがこの映画の価値を下げていると思います。「宇宙大戦争」「怪獣大戦争」等の中に入ったらまったく区別がつきません。
でもね、この映画、タイトルの凡庸さに比べるとその内容のあまりの密度の濃さに圧倒されるんですよ。
昨日ご紹介した「Go For Broke!」が埋もれたアメリカ映画の名作ならば、この「世界大戦争」も日本の映画史に残る傑作でありながら半ば埋もれた作品になっています。

僕は少年時代、恐らく昭和40年代初頭だと思いますが、テレビでこの映画初めて観たのです。
登場人物達のあっけない最後に、呆然としていたのを覚えています。我が家の白黒テレビで観た、あの最後の溶岩に飲み込まれていく国会議事堂のシーンが頭に焼き付いて、しばらく夢に見た記憶があります。
そして、東京に出てきた今から三十何年か前、池袋の名画座で今度は総天然色カラー・シネマスコープサイズで観ることができました。家族が最後の晩餐をする食卓に射し込む夕陽の色や、核ミサイルが爆発する一瞬の静寂が圧倒的に僕を取り囲んでくれた。テレビで観たあの風景をもう一度僕はスクリーンで確認したんだ。

この映画の本質は特撮のみならず、人間ドラマにあります。その人間ドラマの濃さ故に特撮が生きる。そんな作品です。
パニック、群像ドラマというのは多々ありますが、この映画はとても控えめな庶民の日常を淡々と綴ります。主人公の田村茂吉はタクシーの運転手、一生懸命仕事一筋で頑張って、ちょっとばかり株なんてものもやって、とにかく娘の幸せな結婚を願い、幼い息子には大学まで行かせようと夢中になって働いていた。保育園に預けられた少女は熱が出て頭を冷やしながら母を待っている。母は横浜で掃除婦をしている。母は電話で娘に美味しいクリームパンとゆで卵を買っていくからね、と伝える。
人々は世界で何が起きているのか知らない。政府は逐一公表することはない。
従って、人々が世界の終わりをほんの数時間前に知ることになる。
東京は逃げる人々でごった返すが、田村茂吉は家族と共に家で過ごすことにする。子供達の大好物を用意して、美味しそうに食べる子供達の笑顔を見ながら酒を飲む。病気の女房が育てた庭のチューリップが見たかった。そして、自分の行けなかった大学へ息子を行かしてやりたかったと呟くのだ。
そして、クリームパンとゆで卵を持った母は娘の待つ保育園にたどり着くことなく、最後の時を迎えることになる。
一瞬静寂になり、白く輝き、世界は瓦解していった。

この表現の丁寧さは、同時期にアメリカで創られた名作『渚にて』を彷彿とさせるものです。
どちらの映画も名作です。
キューバ危機という第三次世界大戦前夜まで行った時代のリアルがそこにあるのでしょう。ですが、今は別の危機の時代ではないでしょうか。それは以前にも増して情報統制と情報撹乱の中、リアルがなかなか見いだせないもどかしい時代の恐怖かもしれません。遠い時代の今とは無関係な物語ではなく、僕らの知るべき現実がこの映画にはあるような気がしますよ。
とてもとてもリアルな映画だと思いますね。

予告編はアメリカ版しかないそうです。いつか本編を観て頂きたい隠れた名作です☆☆☆☆☆

「世界大戦争」(The Last War)1961:東宝

2010年11月18日木曜日

Go For Broke!


1951年製作のアメリカ映画『Go For Broke!』は有名な日系人部隊442を描いたものです。
先日、橋田壽賀子さんのドラマでも描かれていたあの部隊です。

もうすぐ、ドキュメンタリーの「442」が公開されるそうですが、実に楽しみです。というのも、敵性外国人と位置づけられ日本人でありながら米兵となりヨーロッパ戦線で死力を尽くしたその姿は、アメリカと対峙した日本の他の兵士達と何ら変わるところのない誇り高い人々だったと思うからです。
英霊とは靖国にのみ存在するのではありませんね。彼の国にも英霊はいるのです。誇るべき日本人はいるのです。

Live with Honor , Die with Dignity .というのが彼らの生きる姿勢。
今の僕ら現代日本人もどこか見習いたい厳しさと神々しさがあります。この65年の歳月の中で、僕らは失ったものをなんとしても取り戻さなければならない。
Go for Broke!とは、もともとは「何もかもなくすまで、破産するまでやれ!」という意味だったのですが、慣用化し「とことん行け!」または「全力で行け!」「徹底的に行け!」という意味になったようです。

戦後、数年して作られたこの「Go for Broke!」という映画は、当時は一般的だった日本人に対する偏見に満ちた上官が、訓練とやがてイタリア戦線、そしてフランス戦線を共に戦い抜くことによって、日系人達の底力と勇気、更に命を賭す健気さに気づいていく物語です。
この映画、隠れた名作だと思うよ。

『Go for Broke!』1951 America
A tribute to the U.S. 442nd Regimental Combat Team, formed in 1943 by Presidential permission with Japanese-American volunteers. We follow the training of a platoon under the rueful command of Lt. Mike Grayson who shares common prejudices of the time. The 442nd serve in Italy, then France, distinguishing themselves in skirmishes and battles; gradually and naturally, Grayson's prejudices evaporate with dawning realization that his men are better soldiers than he is. Not preachy.

劇場のイドラについて


フランシス・ベーコンのイドラという概念があります。アイドルの語源ですけど。
四つのイドラのうち「劇場のイドラ」を考えてみたい。

これは、高校の倫理の教科書でも説明されている通り「伝統や権威を無批判に受け入れることによって生じる偏見」ということです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(Wikiより引用)
イドラ(idola)とはラテン語で偶像の意味。フランシス・ベーコンによって指摘された人間の偏見、先入観、誤りなどを帰納法を用いて説いたもの。アイドル(idol)の語源である。4つのイドラがある。

1. 種族のイドラ…感覚における錯覚であり、人類一般に共通してある誤り。
2. 洞窟のイドラ…狭い洞窟の中から世界を見ているかのように、個人の性癖、習慣、教育によって生じる誤り。世間知らずの意もあるらしい。
3. 市場のイドラ…言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見。言葉や言語が引き起こす偏見。口コミなどが挙げられる。
4. 劇場のイドラ…思想家たちの思想や学説によって生じる誤り。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまうこと。

この4つのイドラを取り除いて初めて、人は真理にたどり着け、本来の姿を取り戻すとベーコンは考えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

フランシス・ベーコン自身はシェイクスピアだったとか噂があったり、冷凍の実験中に風邪ひいて死んじゃったとか、政治的に汚い奴だったとか、まぁいろいろ言われているわけですが、例えばこのイドラ論などは忘れてはいけない彼からの大切な贈り物だと思われます。

現在、様々なところでよく耳にする「メディア・リテラシー」などという言葉は「劇場のイドラに惑わされるな」ということなのだと思う。
ここ三十年ぐらいの間に、マスメディアがほとんど真実を伝えなくなった、というのは僕の思い過ごしですか?
ネットが普及した現在、日々様々な嘘やまやかしが暴露されているのですが、にもかかわらず、恥知らずなことにますますあからさまな嘘が日夜垂れ流されているんですね。

もはや僕らが学ぶ理由はひとつしかありません。
権威や権力が発するデタラメを真に受けることなく、自ら判断し選択する人間になること。
学びはそのためにある。そして、それが切実さと遊びが混じり合っていれば、なお結構☆
つまり、自分を探すのではなく、自分という主体を創り出すことなんだ☆

信じる前に、鵜呑みにする前に、まず疑うこと。
国が発表したから、専門家が言ったから、テレビで言ってるから、ネットで話題だから・・・・全部疑おう。
それには学びが必要なんだ。生涯にわたる学びがね。
劇場のイドラは今この時代にこそあらゆる場所で生み出されている「怪獣」なのだと、僕は思うよ。

紅葉

秋です☆

昨日と打って変わって今日は快晴!

やっぱり秋でした☆


☆上野火山☆

2010年11月17日水曜日

ボブ・シーガー

1985年の6月に公開された映画がありました。それは『マスク』と言います。
緑の仮面の男が主演のあのマスクではありません。

それはもう一つのエレファントマンの物語。
少年の名はロイ・リー・“ロッキー”・デニス。頭蓋骨形成異常、頭蓋骨にカルシウムが溜まり変形する通称ライオン病と呼ばれる病に冒されていた。しかし、バイカーだった母とその仲間達との交流を通して少年は病を抱えながらその短い生涯を一途に生きた。
そんな実話が元になった映画でした。
ピーター・ボグダノビッチという監督はペーパームーン以降は不遇でしたが、台詞のない俳優の演技を上手にすくい取るので僕は好きでした。この映画でも母親を演ずるシェールの無言の涙だったり、息子の声を思い出しながら遠くを見つめる場面だったり、とにかく台詞のない部分の演出がいいんだな。いいんだよ、ホント。
単なる闘病お涙頂戴映画に堕していないのは、作り手側が主人公に共感していても、それでもなおセンチメンタルを超え、希望を見ようとする姿勢があるからじゃないかな。
あの八十年代の中頃にして七十年代の匂いがたっぷりする映画なんだ。よって、当時は日本ではヒットとまではいかなかったのではなかっただろうか。だからこそ、この作品は傑作です。そういう作品を傑作にする姿勢があるんだな、この映画には。

その姿勢をこの映画の最後を飾るボブ・シーガーの曲に感じます。
Bob SegerのRoll Me Awayは生き続けるとは何かを歌った曲です。何とも濃い歌声なので好き嫌いはあるかもしれません。が、僕は大好きだな。
まずは曲を聴いて、歌詞を味わおう☆
人生の道を決めるとき、僕らの心は歌い出すんだよ。心の声を聴くというのは、心の歌声に耳を澄ますことだったんだ。
Roll Me Away-Bob Seger-(Lyrics and Song)


元々はブルース・スプリングスティーンが使われることになっていたそうですが、諸事情によってボブ・シーガーになりました。後に出たディレクターズ・カット版ではスプリングスティーンに変えたそうですが、駄目です。
映画のラストシーンを観ると、この曲以外は無理だということが分かる。この曲で正解でした。この曲以外には考えられない。映画のラストは一人の少年が一所懸命生きた人生が走馬燈のように流れていく。・・・No money in my pocket. Sun shining on my face......

“MASK” 1985 Last Scene

2010年11月16日火曜日

お知らせ☆

なかなかブログの更新できずにいます、がTwitterなんていう流行ものを導入してみました☆

ブログにするほどでもないツブヤキはTwitter で書き込みます。

本来は舞台公演等のお知らせ用にと思って導入したTwitterですが、しばらくテストで使ってみようと思います。
ブログが少し止まっていても、Twitterは動きますから、もし興味のおありになる方はフォローして下さい、ナウ。

☆上野火山☆


2010年11月11日木曜日

こんなん、どすか?

ヘタにもほどがある。

しかし度が過ぎると微笑ましい感じもする。

正直言ってダイッ嫌いなタイタニックのテーマもこうなると清々しいな☆

ニコニコでさっき見つけた香ばしい動画をプレゼンツ!!(元ネタはYouTube)

窓から差し込む陽の光と青い空☆

そして、このリコーダーの音に、俺は笑いが止まらない!!!

My Heart Will Go On - Recorder By Candle Light by Matt Mulholland


おまけ☆
このマット・マルホランド自身による「プロみたいに吹けるリコーダー講座」だよ!
合わせて観ようね☆心がどんどん生温かくなってくるね!!

Play The Recorder Like A Pro - A tutorial by Matt Mulholland

2010年11月5日金曜日

中国について考える本☆


『変わる中国、変わらぬ中国 ー 紀行・三国志異聞』(彩流社刊) 佐藤竜一 著

ビデオが流出し尖閣諸島問題で揺れる日中関係ではありますが、昨今の中国のあり方を見て脊髄反応的に反中を掲げてもおっちょこちょいの誹りは免れないでしょう。無関心も頂けませんが、心して行動したいものです。

そんな折、僕の友人の(現)岩手大学講師である佐藤竜一君が新著を上梓しました。
かつて八十年代に中国を訪れた彼から聞かされた話はとても豊かで味わいのあるものでした。僕のあずかり知らぬ中国の細々としたお話。便所の話に始まって料理や文学、そしてやがて政治体制の話と彼との対話は忘れがたいものでありました。

今回出版されたこの『変わる中国、変わらぬ中国 ー 紀行・三国志異聞』という本は、そんな彼の体験的中国論です。
中国を愛する彼ですが、そのバランス感覚は優れたものです。
例えば、第一部・99ページから始まる「南京大虐殺記念館」に関する記述や、それに続く「国営放送の弊害」などの項では、現在の中国の抱える問題につながる党の方針に無自覚に従う中国の人々の思考停止状態に対する危惧を、短い文章の中で鮮やかに見せてくれる。中国の一般民衆の中にある「愛国無罪」的な中華思想的思考状況がしっかりと描かれています。
同時に、人々との心の触れ合いをセンシティブに描いていく。
アイリス・チャンによる「The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II」など足下にも及ばない中国への深い愛情と絶望がきちんと表現されている。
深い批判と絶望は、よりいっそう深い愛情から生まれるんだな。それがよくわかるんだ、この本を読むと。

この本の後半は「三国志」にさかれています。
そもそも三国志から始まった彼の中国に対する愛は、やがて宮沢賢治を経て、詩人・黄瀛(こうえい)に行き着き、政治思想よりもむしろ文学的芸術的愛情から、彼は中国という巨大な文化と再会したのだということがわかる。
だからここには調子の良さは一切ないのです。むしろ地味で静かな情熱に充ち満ちている。

彼の厳しくも優しい眼差しは、中国の人々の暮らしや学生達の息遣いまでこちらに届けてくれる。
それは相手が日本人であれ中国人であれ、筆者である彼、佐藤竜一君には他者や先人に対するリスペクトする心があるからなんだよな。
絶対忘れたくねぇな、リスペクトする精神ってやつ。
そこからすべては始まるんだよな。

旅行記であり文学論であり、同時に政治史的に八十年代以降の中国と向き合った一人の男の物語だと僕は思うよ。

みんな読んでね☆

ここをクリックすると書店ですぜ!(興味のある方はこちら)

2010年11月2日火曜日

Rage Against The Machine - Revolution In The Head And The Art Of Protest

もはや単なるロックバンドを超えたプロテスト・バンド「Rage Against The Machine 」☆

未だにこの国では何かと言えば極上のエンターテインメントなどというコピーがそこら中に溢れていますが、時代はもはやエンターテインメントなどというユルい状況ではなくなってるんだ。

少し目を覚ます意味で、1時間45分にわたるRage Against The Machineに関する研究動画を観てみるのも一興かもしれない。そろそろ、足の引っ張り合いや出る杭は打たれる式の下らないあげ足取りはやめて時代の本当の問題と向き合おうぜ☆

まずはここに現在のロックのひとつの姿がある☆

Rage Against The Machine - Revolution In The Head And The Art Of Protest

Arguably the most provocative band of the last 20 years, Rage Against The Machine have since their explosive debut, been the group most associated with the American protest movement. This film dissects the work and career of RATM and looks at their place in this always fascinating lineage of artists and performers who have spoken out on behalf of, and drawn attention to, the world's marginalised, downtrodden and oppressed. Picking up the flame from a linear musical tradition going back to the War Of Independence, with the best known protagonists coming up during the 1950s and 60s civil rights movement via artists such as Pete Segar and the young Bob Dylan, the anger remained as brutal as ever during the final decade of the 20th Century in Rage and contemporaries like Public Enemy. FEATURING: Brand new interviews with; renowned Rage producer and engineer, Garth Richardson; RATM Biographer, Colin Devenish; the band's live sound engineer, Dave 'Rat' Levine and the man who signed them Michael Goldstone. With further contributions from folk-protest singer and author Jerry Silverman, ex-'Rolling Stone' editor Joe Levy, and Professor of American Studies and English at Washington State University, T.V. Reed.

歌謡曲のお話

時代を追想するとき音楽は強烈な導入剤になる。それは確か。

不思議なのは自分の体験しなかった時代の音楽ですら、時代を追体験する重要要素となり得るってこと。

1930年代のアメリカなんて僕にはまったく計り知れない時代と場所だが、トミー・ドーシー・オーケストラの「It’s only a Paper Moon」を聴くと確実に1930年代のアメリカに飛んでいける。勿論、映画「ペーパームーン」のイメージなんですが。

戦後間もない頃の「リンゴの唄」も東京のドヤ街をすぐ想像できるほど映像と強く結びついている曲だな。

最近、映画で聴いて引き込まれたのは是枝監督の「歩いても 歩いても」で挿入された「ブルーライトヨコハマ」でした。
年老いた母が語る小さな物語の背後に流れるこの曲は、苦くそして痛く観る者の心に突き刺さってきました。昭和四十年代を静かに思い出したんですね。

「ハチのムサシは死んだのさ」って知ってます?
これも昭和四十年代のまさに昭和歌謡曲だな。この曲を聴いて特定の何かを思い出すわけではないのですが、ボンヤリと子供の頃の自分を追想してしまいます。随分インパクトのある曲なので、演劇やドラマで使用されたことはあまりないように思います。いつか僕が使っちゃうかも。
聴き直してみるといいんだな!アメリカン・ニュー・シネマの洗礼を受けた世代としては主人公が死んでいくという物語にえらく共感してしまうんですね。人生がトントン拍子にうまくいって最後はハッピーエンドのはずがないじゃないか!!もしそんなものがあれば、そんなのは嘘だッ!!っていう思いに突き動かされていた時代。
世間は高度成長期でイケイケだったけれども、個人の精神状況は決してイケイケではなかった。それどこらかむしろ、どこか「悲しみと哀れ」が世界を包んでいた、そんな気さえします。
昭和歌謡とは殺伐とした世相の中で、それでも生きる意欲と魂を歌い込み描き込んでいたような気がします。
故・内田良平さんの詩は、太陽に向かって討ち死にしたハチのムサシの滑稽だけど潔い生き方を夕陽に照らされた畑の中で描いています。
僕たちはひょっとしたら宮本武蔵よりハチのムサシの生き方を真似した方がいいんじゃないか?なんてこともちょっぴり思います。このドンキホーテ的姿勢こそ今必要な生きる姿勢なんだと僕は思うよ。
たかが歌謡曲。時代のあだ花かもしれない。それでも、こうして思い出す人間もいるんだから、捨てたもんじゃない。
ハチのムサシは死んだのさ、でもオレのムサシは死んじゃいないぜ。

「ハチのムサシは死んだのさ」 平田隆夫とセルスターズ

2010年11月1日月曜日

久しぶりの太陽光

すごい西日!と言われ、ベランダへ☆

久々に見る輝く太陽がそこにありました。
台風が去っても、台風一過というわけにはいかないぐずついた天気でしたが、午後から幾分よい天気になりました!

嘘臭いことばかりの世の中ですが、空を見上げれば清々しいですね☆

リアルをしっかり受け止め味わいたいものです。天を見上げて「明日天気にな〜れ」と祈るほどナイーブでもなくなり、すっかり汚れちまった俺ですけど、こんな空を見せたかったな。
昨日夕方5時1分前、西荻窪の駅で飛び込みがありました。
すっかり慣れっこになってしまったかのような飛び込みですが、慣れるはずがないんだ。今朝の新聞にも載ってない事故ですが、あの人には今日という日がなく、この太陽の光を見ることは永遠にないのだと痛切に思う。

久しぶりに見た太陽光の向こうに「死ぬな!!」と俺は叫んだぜ!
この世で何人逝こうが人数じゃないんだぜ。
一人でも無駄に逝くなよ!と俺は馬鹿のように心の中で叫ぶ。

あっという間に太陽は沈んだ。
それでも光に晒されて俺は心の光合成ができたと思う。

明日、また光を見よう!!
一人の愚か者として、一日を味わおう。
俺はそう決めた。


☆上野火山☆

Powered By Blogger