2010年10月22日金曜日

弁証法の世界


ヘーゲル的な意味での「弁証法」が西欧思考法の基準になっているのは確かだ。
そしてその構造はこの世界を覆い尽くしている。

「正反合」などと単純化してしまえばそれまでだが、ある命題(テーゼ)とそれに対抗する反命題(アンチテーゼ)の衝突により止揚(アウフヘーベン)すなわち矛盾する諸契機の発展的統合が起こるという公式もしくは思考形式。

資本主義に対抗する共産主義、米ソ冷戦構造、キリスト教世界とイスラム教世界、共和党と民主党、自民党と民主党、右翼と左翼、親米と反米、親日と反日、連合国側とそれ以外、地球の北と南、白人種と有色人種、二極化する極端な格差、自由と平等、戦争と平和、夢と現実、金になるかならないか・・・・・。
驚くほどこの世界は対立矛盾するモノの対比であふれている。
止揚(アウフヘーベン)するというのは、対立や矛盾を含みつつ低次から高次の段階へ進む運動乃至は過程を言うのですが、この世界には「対立構造」をあえて意図的に創り出して、葛藤を必要以上に煽る勢力があるように思われてならないのだ。

劇作家として、人間存在は「対立・軋轢・葛藤」でその存在が確認できるのだというのは十分承知しているけれど、上記の対立関係が意図的に創り出されていると考えると、その意図の持つ邪悪さに心の底から嫌悪感を感じるのである。
例えば、共産主義という思想はマルクスが想起したモノだが、マルクスは誰の金銭的援助でこの思想を構想し著作することが可能になったのか。マルクスの援助者は同時代人であるアナキスト「バクーニン」によればある特定の銀行家、すなわち資本家が意図的にマルクスをヘッドハンティングして執筆させたのが「資本論」であり「共産党宣言」なのであった。
この銀行家の家系は今もなおヨーロッパに脈々と続いている名家であるが、何故わざわざ自分たちに不利な思想をあえて創り出させたのだろうか?
弁証法は実に強力な構造を持つモノで、一度対立関係を創り出してしまえば自動機械のように動き出しそのエンジン部分に時々刺激を加えさえすれば半永久的に動き続けるのだ。動き続けることで、様々な対立のヴァリエーションを生み出しながら、特定の集団の意志のままに、時には戦争や経済活動を通じて利益を生み出しているである。

僕らはそろそろ目を覚まし、こうして作られ意図された構造から一歩外へ抜け出さなければならない時期に来ていると思うのだ。
我々の中に価値観として植え付けられた様々な常識を疑おう。
例えば、東京裁判でA級戦犯になり処刑された人々の中に「帝国海軍」の軍人がひとりもいなかったのは何故だろう?
例えば、ベトナム戦争で枯れ葉剤(ダイオキシン)を撒かれて被害を被ったのは敵の北ベトナム人ではなくアメリカに協力した南ベトナム人だったのはなぜだろう?
例えば、何故SARS(サーズ)に罹ったのは東洋人だけなのだろう?・・・・・・。

このような無数の疑問が、表面に置かれている「弁証法的対立構造」で見えなくなっているのだと僕は思う。
二項対立の単純構造を疑わなければならない時代に僕らは生きているんだよ。

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