2005年12月22日木曜日

サンクチュアリ

家のすぐ近所にある中央公園に、「バード・サンクチュアリ」というこんもりと木の生い茂った場所がある。「鳥獣の保護区」という意味なのだろう。鳥たちやリスがたくさん集まってくる。
だが、僕にとってそこはひとつの小さな「聖域」そして、「墓」である。

生まれてまだ半年ほどの上の娘を胸のあたりにぶら下げて、所沢に買い物に行ったことがある。
人込みの中をかき分けるようにして買い物をし、疲れ果て、いつのまにか外はだいぶ暗くなっていた。夕食を何処かその辺でとろうということになった。どの店も人で混み合い、赤ん坊連れの夫婦を入れてくれる店などなさそうだ。妻は溜息をつき、「帰ろうか」と言った。
僕もほとんどその気になりかけた時、目の前の飲み屋兼定食屋の寂れた感じの小さな入り口に気がついた。その店の中には人の気配があまりない。妻の方を見ると、いいんじゃない、という諦めた顔。二人でさっそく入ってみることにした。

ボックス席が六つほどで、僕らを含めて客は三組。皆ひそひそ話をし、静かである。
妻は弁当定食、僕はうな丼を注文する。肩紐をはずし、寝ている娘を胸のあたりから隣の椅子へ下ろし、転がす。幼い娘はまあるい顔で、唇をむにゃむにゃ動かし、髪の毛はすべて逆立っている。僕らは他愛もない話をしながら、食事をする。
しかし、僕は食事の間中ずっと視線を感じていた。すぐ隣のボックスに座っている抜けた歯に煙草を挟んでスパスパやっている男と厚化粧の女。女の化粧の匂いがそこら中に充満している。二人とも五十はとうに過ぎているようだ。さっきから別れ話のような話をぼそぼそやっているのは知っていたが、女の方が寝ている赤ん坊を強い視線で何度も何度も見るのである。

「だからよ、おんなじこと言わせんなよ、お前は・・・」と男。女は男の方に視線を移す。
「あんたでしょ、人の話聞いてないの・・・」女の目が再び娘に注がれる。
娘も何か感じたのか、突然泣きだし、ぐずりだす。僕が抱き上げ、それでも泣きやまず、妻が受け取る。妻の腕の中で身もだえする娘。すーっと脇から赤ん坊を抱き上げる手。あの女だ。呆気にとられて見つめる妻。
「ああよしよし、可愛いわねぇ。名前は?」
「花琳です・・・」と妻が答える。
「かりんちゃんか、女の子なんだ。いいなまえね、ほらほらもう泣かないの、ねぇ・・・」
娘は不思議に泣きやむ。キョトンとした顔で女を見つめている。産毛のような逆立った髪を撫でる女。
「柔らかいね、髪の毛。たまんないね。赤ちゃんてみんなこうだよ・・・・柔らかいね・・・・」
女の声は、酒で焼けたのか、ざらついていた。
「おい!」男の声に女が振り返る。
「お前、いい加減にしろよ」男が煙草をくわえた口の右端をひきつらせながら言う。
「いいじゃないかちょっとぐらい・・・赤ちゃんの匂いかがせてよ。連れて帰っちゃおうかな」
ええっ!と妻の目が大きくなる。女が大声で笑い出す。
「冗談だよ。冗談に決まってるじゃないか。ねっ、頬ずりしてもいい?」女が妻に聞く。
妻がほっとしたようにうなずく。
女は赤ん坊を見ると、ゆっくりと顔を近づけていく。まるで薄いガラスでできたワイングラスの感触を確かめるように、慎重に、そして大切に頬を重ね合わせる。深く息を吸い込む。ゆっくりゆっくり頬を擦りあわせる。
「赤ちゃんの匂いだね・・・昔この匂いかいだことがあるよ・・・女の子だった。女の子だったんだ・・・・」
僕たちはその時、女の目のはじっこにキラッと光る水晶玉を見た。水晶玉は、やがて頬をつたい、落ちていった。
顔を上げようとしない女を僕らはただ見つめていた。

食事が終わり、店を出ようと立ち上がった時、女が慌ててトートバッグから何か取り出して、妻の手に握らせた。
「店であまったご飯で作ったおにぎり。松茸ご飯なの、あんまし松茸入ってないけど食べて、ね、ね。せっかくだからさ」
あんまりしつこく言うものだから、僕らは断りきれず、ラップに包まれたおにぎりを持って店を出た。

翌朝。冷蔵庫から出したおにぎりはもうだめになっていた。
「どうする?」と僕。
公園に行こうと言い出したのは妻だった。僕らは公園の端にあるバード・サンクチュアリまでやってきた。妻は、ちょっと待ってて、というと林の中に入っていった。
やがて、林から出てきた妻の手は泥だらけ。
「おにぎり、埋めてきた・・・・」とポツリと言った。

その日以来、公園のバード・サンクチュアリは僕らにとって本当のサンクチュアリ(聖なる場所)になった。忘れられた娘の墓に。

アメージング・グレース

妻がかつて発声のクラスに通っていたことがある。

ある日、そのクラスにも歌の発表会というのがあって、観に来るように言われた。僕は仕事の都合で一部の途中から、会場に駆けつけ見ることになった。様々なミュージカルナンバーが、手作りの衣装を着た一人あるいはグループで演じられていった。

僕がその歌を聞いたのは、2部も終わりかけた最後から2,3、曲目ぐらいだったように思う。元気のいいコーラスが続いたあと、一人の女性が青白いスポットライトの中で歌い始めた。あの歌、アメージング・グレースを。

スポットライトの中で歌っていた彼女と出会ったのは十年以上も前。まだ仲間と素人に毛が生えたような舞台作りに夢中になっていた頃だ。僕らはまだ半分学生で、彼女はスタッフとして衣装を担当してくれていた。口数の少ない彼女は黙々と衣装を縫っていたのを覚えている。お金も評判も大して持ち合わせのない僕らにとって彼女たちスタッフの存在はかけがえのないものだった。

なぜあの頃彼女は僕らのところに来ていたのだろう。ある日、彼女に尋ねたことがある。
「好きだから」と言うのが彼女の返事。
その頃は、ミュージカルが多くて、小さな舞台でも結構派手で、それなりに満足感もあった。その興奮の渦中に参加できただけでも、何か心踊るような幸福を彼女は感じていたようだ。たとえそれが舞台の袖であっても。

確かに「好き」という感覚を持てることは何よりもまして「幸福」の第一歩だ。実際、どんな副次的メリットが伴おうと「好き」でなければ、人は悲しいほど不幸である。そして、あの頃彼女も僕らも幸福であったはずだ。

しかし、人生の面白さは、幸福イコール楽しいということにはならないということである。
彼女がたまたまある時キャストとして舞台に立つことになった。ほんとに頑固な人で、稽古が滞ることもしばしばであった。怒鳴りつけたり、怒鳴り合ったり、泣いたり、笑ったり、お互いに不愉快になったりもしたが、それでも、それはそれで幸福だったのだと思う。それぞれが好きに生きていたから。
その舞台を最後に彼女とは会わず終いになり、月日はやがて流れ、一年、二年・・・と過ぎ去っていった。

十年後。僕は思わぬところで彼女と再会したのである。その晩、話をすることはなかったが、彼女の歌声を聞いた。決してうまい歌であるとか歌唱力があるとかいうのではない。が、観客の前で歌うことの悦びがそこにはあった。アメージング・グレースがあんなに心にしみる歌だということがはじめてわかった。あの歌は確かにひとつの祈りであった。

それから、数年して妻から彼女が子供を産んだということを聞く。
その子の身体が不自由だという話も風の便りに聞く。
彼女は母になり、不自由な子を乳母車で押しているという話も聞く。
彼女は乳母車を押しながらアメージング・グレースを歌っているのだろうか。
もっと若かった頃、夢中になって衣装を縫っていたことを覚えているだろうか。
舞台の夢は遠くなってしまったが、
熱く燃えた時代は過ぎ去ってしまったが、
彼女が我が子のために、アメージング・グレースを歌っていることを僕は願う。

幸福とは、たった一人の人間に、心の底から歌を歌うことができるということ。
耳をすませば・・・・。

2005年12月17日土曜日

ともだち

僕には友と呼べる人はそう多くない。
でも、それでいいと思っている。

これまで多くの人と知り合ってきたが、友と呼べそうな人はそう多くないのだ。
友は数ではない。それは確かだ。
気が合うとか、趣味が同じだとか、職業が近いとか、実はぜんぜん関係がない。
もちろん、不意に出会いはやってくるので、自分の生活圏でしか人は出会えないのだが。

人はそもそも孤立している。
しかし、それは表面的な世界にすぎないと思う。もしも、完全な孤立があるとしたら、それは絶海の孤島で一人漂着するとか、この都会のアパートの一室で一人餓死するとか、銀座や渋谷や新宿の大通りで、人並みに揉まれながら感じる孤立である。人は表面的な関わりを持たないという意味では完全に孤立している。だが、と僕は思うのだ。

だが、僕らの孤独は重要だ。
孤独でなければ、人の痛みを感じることはできないから。
孤独でなければ、もう一人の孤独な人と出会うことはできないから。
孤独でなければ、自分がここに生まれた意味を見いだすことは到底不可能だから。
孤独でなければ、愛するということが何なのか、永遠にわからないから。

僕は幼い自分の娘たちに孤独を感じる。
その姿は悲しいというより、人間の本来の存在形態だと思えるのだ。
一人遊びに夢中になるとき、人は充足する。一人遊びに夢中になれないとき、人は不安になる。
僕は娘たちを見るたびに、一人遊びをし、一人遊びに熱中する人間になりたいと心から思う。
ともだちは、一人遊びの中で出会うものだ。

実際、人は共感の次元を生きているのだ。
僕の喜びは、彼や彼女の喜びであり、僕の怒りは、彼や彼女の怒りである。
そして、僕の悲しみは、彼や彼女の悲しみである。
それは、時も場所も越えている。共感の次元に境界線はない。
その意味で、僕らは孤立してはいないのだと僕は思っている。

耳をこらし、眼を澄ますこと。
見えてくる、聞こえてくる様々な感情に魂をひらくには、孤独である必要があるのだ。

僕は一緒にコーヒーを飲んだり、メールをしあったり、食事をしたり、何年かにいっぺん会ったりする数少ないともだちみんなに感謝している。
ありがとね、みんな!

2005年11月24日木曜日

生きる力

僕は一人の愚者として生きている。
そして、この世のあらゆる人が全て愚者なのだと確信している。
これは相対主義を言っているのでない。絶対的善に対し相対化しようとする昨今の発想もまた、その根っこに愚かさを抱え込んでいる。
確かなことは、僕ら人類は、あまりにも未熟であり、未だにその愚かさに気が付かぬほど愚かだということだ。
文明であろうと、社会であろうと、国家であろうと、それは賢明さの結果ではなく、むしろ全て愚かさの結果ではなかったか。
文明のありとあらゆる要素、すなわち、制度だろうが、システムだろうが、テクノロジーだろうが、全てが倒錯しているのである。
親が子を育てるのではない。親が子を持つことで成長できるのだ。教師が教えるのではない。教師が日々学ぶまず最初の学生なのである。創り出すものは、創られ、壊すものは、壊されているだろう。
この逆転し倒錯した現状に対する認識と発見を「愚者の精神」と呼びたい。
そして、己の愚者の精神に気が付くことは、覚醒の第一歩である。
通常の一般認識を逆方向から眺め、捉え直してみれば、僕らが日々をどれほど倒錯させて生きているかが分かるだろう。人が希望を声高に語るとき、僕らは絶望へ突き進んでいることに気が付かねばならない。
人が絶望を呟くとき、その声に耳を傾けることができれば、それは希望への扉なのである。
この世には誰一人として、心身共に健全である人間などいやしない。
ハンディを背負うことのない人間など、一人だっていやしない。
誰もがどこかが歪み、不完全であり、不安であり、コンプレックスを抱えて生きている。
重要なのは、歪んだ己を見つめる勇気があるかどうかだ。
それは百人の敵に囲まれて玉砕覚悟で塹壕から這い出る勇気とは違う。三千メートル上空からダイブする勇気とも違う。
ごく普通の、ごく自然な、己の凝り固まったプライドをかなぐり捨てる勇気のことだ。
愚か者になる勇気のことだ。
もし、愛というものがあるとすれば、それは自己愛から始まるのだろう。
しかし、その自己愛は自己保身や自己満足のことではない。
己の馬鹿さ加減を、恥も外聞もなく見つめる態度。そして、外に目を向ければ、他に対する愛は、恐らくとてもとても共感のこもったものになるだろう。
他者に対する愛はそこから始まる。
愚か者こそが、最も共感の次元に到達する可能性のある者なのである。
愛は、愚か者の栖なのである。
知性だとか、知識だとかによりかかっている裡は駄目だ。知性や知識は、分ける行為である。無限に差異を生む行為を有り難がっている裡は、人は分かった風な口をきく小僧に過ぎない。
分けることを止めたとき、異なった事象に共通項を見いだしたとき、人はほんのちょっと小僧から脱することができる。少しは素直な餓鬼に戻れるのである。
知識は積もり積もった過去からやってくるが、智恵は未だ知らぬ未来から光としてやってくるのだ。智恵の光は分けることを知らない。ただ照らしだし、全く共通項がないと決めてかかっていた事柄の、その共通項に気づかせてくれるだけなのだ。しかも、不意に。
光を感じていたい。
愚かさとは、己が光源であることの自覚でもある。故に、全ての出発地点なのである。
愚かさの住まう場所では、ありとあらゆる政治も宗教も科学も哲学も、全て芸術に近づく。考えてみれば、科学にしても、政治にしても、宗教にしても、哲学にしても、究極的には、みな物語であり、やがて詩となり、それは絵画や音楽へ近づくのではないか。
その意味で、愚者の精神とは芸術的精神の謂いである。
僕らは絶えずこの「生活」とか「人生」という作品を創り出している。もがきながら、ダンスを踊っているのである。僕らはもっともっと踊らなくてはならない。小利口な冷笑はダンスに似合わない。
ネアンデルタール人は、現代人よりはるかに愚かだったが、はるかに幸福だった。
それが彼らの墓に見ることが出来る。
彼らの墓には、遺体の下に綺麗に花が敷き詰めてあったそうだ。このシンプルな行為は現代人の献花にはない単純な愚かさが生み出す優しさがある。ここには経済的な観念が皆無なのである。
僕らはルソーが夢見たほど単純に原始に戻ることなどできない。しかし、かけがえのない愚かさを自覚することはできる。人間の本質は愚であり、その上に、後天的人格が被さっているに過ぎないのだ。本質は三歳ぐらいからほとんど変化していないように思う。変化しているように見えるのは、外側の人格と呼ばれている一種の服のようなものなのである。
他人の前に、己の愚かさを見よ。
そこに己の本質があるから。
明日に向かって生きるな。
今が明日を生み出すのだから。
この一瞬一瞬が、蘇る瞬間である。
生きる力とは、愚か者として蘇った者に与えられた、愛し、喜ぶ力のことである。

桜のころ

娘が小学一年生になった春。
桜はなぜかいつもより早く咲いた。三月のうちに満開になり、入学式の日には一斉に散ってしまっていた。残っていたのは、一本だけ植えられていた八重桜だけだった。
娘にはタッ君という幼稚園からの友達がいた。タッ君は三人兄弟で、二番目。上はお姉ちゃん、下は妹で、中に挟まったタッ君はとても優しい男の子だった。我が家の娘はこのタッ君が大好きで、いつもなんだかんだとついてまわり、世話してもらっていた。
学区がわずかに違ったため、娘とタッ君は別々の小学校に通うことになった。最初寂しがった彼女も、入学式を過ぎると、あっという間に新しい友達をつくり、新たな生活を送り始めていた。
一ヶ月が過ぎ、五月になった。
朝の九時ぐらいだったろうか、書斎で仕事をしていた僕は一本の電話を受けた。
「・・・今朝八時三十五分に逝きました。穏やかな顔でした・・・」
タッ君のお父さんから、タッ君のお母さんの死の知らせであった。
彼女が癌だと分かったのは、前の年の夏頃。幼稚園の年長さんの役員で、夏祭りの時に張り切っている姿を見たのが最後だった。
タッ君のお母さんには、僕も妻もとても感謝しているのである。それは、我が家の娘のことを理解してくれた、初期の数少ない人物の一人であったからだ。他の子供たちより、ほぼ一年年齢も精神的にも幼い娘は、いつも落ち着きのない、我が儘な、何をやるか分からない困った子供という印象がその頃確かにあった。少なくとも周りの大人たちの評価は、大方その傾向があったのだ。
しかし、タッ君のお母さんは違う印象を娘に抱いた人だった。
ある日、娘はタッ君の家に遊びに行き、ビデオのアニメを見たのだそうだ。そして、なぜか娘は泣いたのだという。
「・・・あんなに物語に入り込んで、あんなにその世界を感じとるなんて、この子はすごいわ!・・・」
彼女はそんな風に娘のことを僕らに伝えてくれた。
僕は、むしろこう思う。人が本気で感じ取っていることを、何の偏見もなく受け止めることのできるあなたの方が素晴らしい。なぜなら、人は多かれ少なかれ偏見の中で生きているので、あまりにも目の前で起きる素晴らしい出来事を、偏見のフィルターで蓋をしてしまうことが多いからだ。
だから、僕ら夫婦は今は亡き彼女に心から感謝しているのである。
彼女は亡くなるまで、息子のことを心配していたそうだ。心ない、病に対する誹謗や中傷が息子の耳に入ることを恐れた。息子が入学式を終えるまでは死なない。彼女は心に決めたのだ。そして、その通りに生きた。
桜が散り、入学式が終わり、五月の声を聞いたとき、彼女は自分の使命を終えたことを悟ったのかもしれない。
「・・・もう疲れたわ・・・死んでもいい?」
彼女の夫は、ゆっくりとうなずく。
やがて、水が地上から蒸発するように、音もなく、彼女は逝った。
桜のころ。
僕はこの出来事を決して忘れることはないのだ。
人は決して孤独ではない。なぜなら、いずれ失われるにしろ、存在の記憶は意外なところで保たれているものだ。
桜のころ。それははじまりの季節ではないと思う。桜が散るように、子と親が別れる惜別の季節でもあるのだと、僕は思う。

損得感情

損をするというのは、そんなに悪いことだろうか?
損をせずに生き続けるなんてことができるのか?
得だけを目指す人生ってどんな人生だ?

そこで私は声を大にして言う。
『損はしろッ!得だけを考えるなッ!』と。

経済は道具である。経済から日々を眺めるのは重要なことだが、経済だけが我々を形作っているのでもない。より良い経済体系などない。とどのつまりが自由主義経済であり、競争社会である。我々は後戻りができないのである。
これが故に、つまり経済がすべてと考えるところに現代人の空虚さがある。
この空虚さはニューヨークはおろか、アマゾンの奥地にまで蔓延している。
現代人は大都会から片田舎に至るまで、経済性という虚しいダンスを踊っているのである。
現代の『幸福論』の多くは、成功哲学から宗教に至るまで、この世の利潤の素晴らしさを少しも疑わない。二十世紀から二十一世紀に至る中心思想(イデオロギー)は宗教でも哲学でもない。それは経済学なのである。
世界の政治的なうねりは、あたかも宗教戦争の様を呈しているが、その背後にうごめいているのは、他でもない経済的な利権争いであることは誰の目にも明らかであろう。

経済は究極のところ「損得勘定」である。ケインズにしろマルクスにしろ複雑系経済学にしろ、ようは損をせずに如何に得して生きるかを説いているに過ぎない。
勿論、経済が崩壊した社会など最早考えることなどできないところまで来てしまってはいるが、少なくとも日常の些末な暮らしの中では、損得勘定という感情を抜きに人が出会い、付き合い、語り合うことができないものだろうか、と私は考えるのである。

現代人にとって、損をするというのは、まるで致命的な病に冒されたかのような感覚がつきまとっている。株でもうけるというのは、株で損をした人間がいて、初めて成立する話だろう。電車に乗り込む時、他人より先に入ろうとして、横入りする行為は、そのために後回しにされた人がいるから、先に入って席が取れるのだ。損があって、得は成立している。従って、人はできるだけ損をしまいと思う。損は一種の病のようなものであって、できる限り避けて通るべきものになる。

損と得とは持ち回りである。損が病気で得が健康でも、損が異常で得が正常でも、損が間違いで得が正しいわけでも、損が愚かで得が利口なのでもない。
損得勘定という感情に溺れるのが、愚かで不健康で間違っているのである。

アメリカで行われた面白い調査がある。ある研究者が現役の大学生たちに次のような質問をした。
「あなたは年収を3万ドルから5万ドルに引き上げる。ただし、他の人間の年収は君の2倍になる。もう一つの選択肢は、君の年収を3万ドルから4万ドルにしよう。その代わり他の人間は1.5倍になる。さぁ、どちらを選ぶ?」

学生が選んだのは後者である。明らかに5万ドルに増収しているにもかかわらず、学生の多くは後者を選んだのである。
更に、質問は続く。

「休暇をもらうことになった。君たちには2週間、他の人達にはその倍の4週間あげることにする。ただし、もう一つ選択肢がある。君たちに4週間あげよう。他の人達には10週間あげるが」

学生達は迷うことなく、後者を選んだ。

ここに損得勘定の愚かさがある。金銭に関しては明らかに他人と比較して損の割合の少ない方を選んでいる。にもかかわらず、休暇の方は、他人と比較することなくより長期の休暇を選んでいるのである。
損得勘定はどこか他人との比較の上で、もしくは、楽な方へただ向かう人間の性向から成り立っているようだ。

親と子の関係が損得勘定で結びついた時、悲劇が起きるのは明らかだろう。
子に得することを教え、損する意味を教えなければ、損した時の打撃はいかばかりか。目の前の苦しむ人間を子が放っておくことを奨励する親がいるとすれば、その親も確実に損得勘定の感情の虜になっている。
生活のあらゆる面を、損得勘定という尺度で量らねばならぬとしたなら、生きるというのは、なんと息切れのするものになることだろう。優しさとは、時には損を引き受ける勇気のことではなかったか。

他人と比較して、自分が情けないことは、本来多々あるはずである。楽な方へと向かうことが適わぬ場合も、多々あるに違いない。損して得とれ、という気はないが、損はして当然、時には得もいいもんだ!ぐらいのスタンスでちょうどいい塩梅なのではないかと、私は痛切に思う。
人生という道のりで、我々が損得勘定という感情を乗り越えなければならない場合が多々あるはずだ、というのは日々の最低の心構えであり、虚無から遠ざかる一つの方法ではないかと思う。

『損はしろッ!得だけを考えるなッ!』
自分の生きる日々を、本当に愛おしく思うなら、己の愚かさを引き受けろ。

幸福な場所

幸福な場所などというものがあるのだろうか。

他と比べて、相対的に良いという場所は確かにあるだろう。たとえば、今のイラクに比べれば、日本は遙かに住みよい場所だろう。ニューヨークのハーレムの一部に比べれば、東京はまだましだろう。アジアやアフリカの貧しい村の生活から見れば、東京のなんと便利で文化的な生活であることか。

だから何なんだ?
少しはましというのは、幸福の証明なのか?生活水準が高いというのは、幸福の尺度なのか?
便利というのは、不便より絶対的に良いものなのか?暴力のはびこる場所に幸福は決して来ないのか?無駄は有益より価値が劣るのか?利口であることは愚かであることより幸福になる可能性が高いのか?この世から馬鹿が一掃されれば、幸福な場所が出現するのか?高尚なものはそれだけで価値を持ち、幸福を保障するのか?対立と葛藤と軋轢がなくなれば、人は幸福の場所を探り当てたことになるのか?優しさだけが、幸福の証明なのか?

これらは、すべて世迷いごとであり、デマである。ふざけるなよ、幸福な場所など、どこにもあるはずがないのである。相対的に絶えず他人と比べた人生がそこにあるだけじゃないか。

私は心の底から思う。
この世にはどこにも、幸福な場所などありはしないが、たったひとつだけ、愛する者とすごす、その『時間』の中に幸福はわずかに存在している。

幸福な場所とは、場所ではなく、時間のことなのだ。それも共有された時間のことだ。
対立と葛藤と軋轢を絶えず含む、その共有された時間を、私は人生と呼んでいる。
人生そのものが幸福な場所といえないだろうか。
生まれ出て、共有する時間をもてることが幸福そのものなのだ。

我々は今いる場所から逃げ出す必要はない。
逃げていく場所などはじめからないのだ。思い出すのは、「希望の原理」という大著を第二次大戦中書き上げた、哲学者E.ブロッホのことだ。
ユダヤ人である彼は、ナチに追われ故郷ドイツを離れ、アメリカに夫婦で渡る。英語が使えなかった彼にまともな仕事はなく、妻が夜になると、カフェの女給をして食いつないだ。高名な学者であったにもかかわらず、妻のいない夜に、彼は粗末なデスクに向かい、「希望の原理」を◯みしめるように書いた。
人間の営為というのは、時に不思議なものだ。絶望の淵にあって、初めて希望を夢見ることが出来るのだ。彼にとってアメリカは決して希望の大地ではなかった。ナチよりましなだけにすぎなかった。
そして、戦後、共産主義者である彼は、東ドイツに戻ることになる。それで、幸福になれたのか?いいや、そこでも彼は決して幸福ではなかったようだ。

このような人生の遍歴は劇作家ブレヒトにも共通している部分である。憧れの東ドイツに入って、なお幸福になれなかった人々。

われわれが、場所に幸福を求めても、それは叶わぬ夢なのである。
場所ではなく、人生時間のなかに、幸福の在処を見つけたいものだ。
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