2005年11月24日木曜日

幸福な場所

幸福な場所などというものがあるのだろうか。

他と比べて、相対的に良いという場所は確かにあるだろう。たとえば、今のイラクに比べれば、日本は遙かに住みよい場所だろう。ニューヨークのハーレムの一部に比べれば、東京はまだましだろう。アジアやアフリカの貧しい村の生活から見れば、東京のなんと便利で文化的な生活であることか。

だから何なんだ?
少しはましというのは、幸福の証明なのか?生活水準が高いというのは、幸福の尺度なのか?
便利というのは、不便より絶対的に良いものなのか?暴力のはびこる場所に幸福は決して来ないのか?無駄は有益より価値が劣るのか?利口であることは愚かであることより幸福になる可能性が高いのか?この世から馬鹿が一掃されれば、幸福な場所が出現するのか?高尚なものはそれだけで価値を持ち、幸福を保障するのか?対立と葛藤と軋轢がなくなれば、人は幸福の場所を探り当てたことになるのか?優しさだけが、幸福の証明なのか?

これらは、すべて世迷いごとであり、デマである。ふざけるなよ、幸福な場所など、どこにもあるはずがないのである。相対的に絶えず他人と比べた人生がそこにあるだけじゃないか。

私は心の底から思う。
この世にはどこにも、幸福な場所などありはしないが、たったひとつだけ、愛する者とすごす、その『時間』の中に幸福はわずかに存在している。

幸福な場所とは、場所ではなく、時間のことなのだ。それも共有された時間のことだ。
対立と葛藤と軋轢を絶えず含む、その共有された時間を、私は人生と呼んでいる。
人生そのものが幸福な場所といえないだろうか。
生まれ出て、共有する時間をもてることが幸福そのものなのだ。

我々は今いる場所から逃げ出す必要はない。
逃げていく場所などはじめからないのだ。思い出すのは、「希望の原理」という大著を第二次大戦中書き上げた、哲学者E.ブロッホのことだ。
ユダヤ人である彼は、ナチに追われ故郷ドイツを離れ、アメリカに夫婦で渡る。英語が使えなかった彼にまともな仕事はなく、妻が夜になると、カフェの女給をして食いつないだ。高名な学者であったにもかかわらず、妻のいない夜に、彼は粗末なデスクに向かい、「希望の原理」を◯みしめるように書いた。
人間の営為というのは、時に不思議なものだ。絶望の淵にあって、初めて希望を夢見ることが出来るのだ。彼にとってアメリカは決して希望の大地ではなかった。ナチよりましなだけにすぎなかった。
そして、戦後、共産主義者である彼は、東ドイツに戻ることになる。それで、幸福になれたのか?いいや、そこでも彼は決して幸福ではなかったようだ。

このような人生の遍歴は劇作家ブレヒトにも共通している部分である。憧れの東ドイツに入って、なお幸福になれなかった人々。

われわれが、場所に幸福を求めても、それは叶わぬ夢なのである。
場所ではなく、人生時間のなかに、幸福の在処を見つけたいものだ。

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