家のすぐ近所にある中央公園に、「バード・サンクチュアリ」というこんもりと木の生い茂った場所がある。「鳥獣の保護区」という意味なのだろう。鳥たちやリスがたくさん集まってくる。
だが、僕にとってそこはひとつの小さな「聖域」そして、「墓」である。
生まれてまだ半年ほどの上の娘を胸のあたりにぶら下げて、所沢に買い物に行ったことがある。
人込みの中をかき分けるようにして買い物をし、疲れ果て、いつのまにか外はだいぶ暗くなっていた。夕食を何処かその辺でとろうということになった。どの店も人で混み合い、赤ん坊連れの夫婦を入れてくれる店などなさそうだ。妻は溜息をつき、「帰ろうか」と言った。
僕もほとんどその気になりかけた時、目の前の飲み屋兼定食屋の寂れた感じの小さな入り口に気がついた。その店の中には人の気配があまりない。妻の方を見ると、いいんじゃない、という諦めた顔。二人でさっそく入ってみることにした。
ボックス席が六つほどで、僕らを含めて客は三組。皆ひそひそ話をし、静かである。
妻は弁当定食、僕はうな丼を注文する。肩紐をはずし、寝ている娘を胸のあたりから隣の椅子へ下ろし、転がす。幼い娘はまあるい顔で、唇をむにゃむにゃ動かし、髪の毛はすべて逆立っている。僕らは他愛もない話をしながら、食事をする。
しかし、僕は食事の間中ずっと視線を感じていた。すぐ隣のボックスに座っている抜けた歯に煙草を挟んでスパスパやっている男と厚化粧の女。女の化粧の匂いがそこら中に充満している。二人とも五十はとうに過ぎているようだ。さっきから別れ話のような話をぼそぼそやっているのは知っていたが、女の方が寝ている赤ん坊を強い視線で何度も何度も見るのである。
「だからよ、おんなじこと言わせんなよ、お前は・・・」と男。女は男の方に視線を移す。
「あんたでしょ、人の話聞いてないの・・・」女の目が再び娘に注がれる。
娘も何か感じたのか、突然泣きだし、ぐずりだす。僕が抱き上げ、それでも泣きやまず、妻が受け取る。妻の腕の中で身もだえする娘。すーっと脇から赤ん坊を抱き上げる手。あの女だ。呆気にとられて見つめる妻。
「ああよしよし、可愛いわねぇ。名前は?」
「花琳です・・・」と妻が答える。
「かりんちゃんか、女の子なんだ。いいなまえね、ほらほらもう泣かないの、ねぇ・・・」
娘は不思議に泣きやむ。キョトンとした顔で女を見つめている。産毛のような逆立った髪を撫でる女。
「柔らかいね、髪の毛。たまんないね。赤ちゃんてみんなこうだよ・・・・柔らかいね・・・・」
女の声は、酒で焼けたのか、ざらついていた。
「おい!」男の声に女が振り返る。
「お前、いい加減にしろよ」男が煙草をくわえた口の右端をひきつらせながら言う。
「いいじゃないかちょっとぐらい・・・赤ちゃんの匂いかがせてよ。連れて帰っちゃおうかな」
ええっ!と妻の目が大きくなる。女が大声で笑い出す。
「冗談だよ。冗談に決まってるじゃないか。ねっ、頬ずりしてもいい?」女が妻に聞く。
妻がほっとしたようにうなずく。
女は赤ん坊を見ると、ゆっくりと顔を近づけていく。まるで薄いガラスでできたワイングラスの感触を確かめるように、慎重に、そして大切に頬を重ね合わせる。深く息を吸い込む。ゆっくりゆっくり頬を擦りあわせる。
「赤ちゃんの匂いだね・・・昔この匂いかいだことがあるよ・・・女の子だった。女の子だったんだ・・・・」
僕たちはその時、女の目のはじっこにキラッと光る水晶玉を見た。水晶玉は、やがて頬をつたい、落ちていった。
顔を上げようとしない女を僕らはただ見つめていた。
食事が終わり、店を出ようと立ち上がった時、女が慌ててトートバッグから何か取り出して、妻の手に握らせた。
「店であまったご飯で作ったおにぎり。松茸ご飯なの、あんまし松茸入ってないけど食べて、ね、ね。せっかくだからさ」
あんまりしつこく言うものだから、僕らは断りきれず、ラップに包まれたおにぎりを持って店を出た。
翌朝。冷蔵庫から出したおにぎりはもうだめになっていた。
「どうする?」と僕。
公園に行こうと言い出したのは妻だった。僕らは公園の端にあるバード・サンクチュアリまでやってきた。妻は、ちょっと待ってて、というと林の中に入っていった。
やがて、林から出てきた妻の手は泥だらけ。
「おにぎり、埋めてきた・・・・」とポツリと言った。
その日以来、公園のバード・サンクチュアリは僕らにとって本当のサンクチュアリ(聖なる場所)になった。忘れられた娘の墓に。
1 件のコメント:
訳ありの彼女が赤ちゃんを抱き、頬を涙で濡らす。
赤ちゃんの柔らかくて、ミルクのような匂いがして、日本人なのに瞳が青みがかって、透き通ってる様子。本当に神様がくれた芸術品だ。
彼女の思いを受け取ってくれたお礼の象徴が“松茸おにぎり“なのだ。
蘇った感情が上野夫妻に渡る。
感謝と“せつなさ“が松茸おにぎりに凝縮されている。
翌朝、いたんで食べられなくなっていた。
奥さんは公園に埋める。
墓標なき墓が一つ出来た。ごみ箱には捨てられなかったのである。
せつない話だった。。。
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