一昨日、フジテレビで今期放送されたドラマ『ゴーイングマイホーム』が終わりました。
「視聴率!」「視聴率!」という大合唱の昨今、このドラマは途中打ち切りの噂まであったそれこそ視聴率が最悪だった番組だそうですが、僕としては、正直言って、このドラマは二十一世紀に入ってから放送された、恐らく最高の作品であったように思います。
終わってしまったので、機会があったらDVDで見て頂けたらと思いますが、これまで、もしくは近年、すっかり失われてしまったドラマの様々な要素が、そこにはありました。
この作品に対する批判は低視聴率ばかりではなく、劇中に登場する妖精のクーナに対してもあるようです。登場人物たちがいい歳をして妖精探しが聞いて呆れる、という批判です。
はじめから、ファンタジーを狙った作品ではなく、むしろそれとは真逆の「生活の現実感」というリアリズムで描かれる以上、クーナという妖精そのものが劇の主体でないことは明らかでした。むしろ、クーナという神秘的な存在を契機に、それぞれの家族が失ったものを再確認し、もう一度生き直すドラマだったはずです。「喪失」と「再生」。もし、僕らの人生に力があるとすれば正しく「絶望する」ことだと僕は思っています。正しく絶望し、正しく後悔すること。
しっかりと傷つくことをなくしてしまった現代を生きる僕らが取り戻さなければならないのは、希望や夢ではなく、寧ろ自分自身の絶望と後悔のリアリティーではないのか、とこのドラマは僕らに問いかけているのではないでしょうか。
登場人物一人一人、それは主人公から数回だけ登場する食品会社の社長さんに至るまで、見事なほど全員「絶望」と「後悔」を味わっています。それは登場人物たちの心の中の小さな棘になっている。いずれその棘と向き合わなければならないのですが、そのタイミングは人それぞれ。ですが、この心の中に小さな棘という「絶望」と「後悔」を抱える状態こそ、真に人生と言えるのではないでしょうか。
主人公の小学校になる娘は、借りた本を返す前に亡くなったクラスメートを一人で後悔と共にどう弔ったらいいのか悩んでいます。主人公はは病気で倒れた年老いた父とどう向き合ったら良いのか分からずにいます。そこにも本人も気がつかない「後悔」があるのです。彼の妻は、フードコーディネーターという職を選んだのも、母親が彼女に決してお弁当を作ってくれたことがなかったという「絶望」からでした。やがて亡くなる祖父にも、祖母にも、兄弟たちにも、仕事上の部下たちにも、長野で知り合った様々な人々の中に、「絶望」と「後悔」がありました。
このドラマの恐るべき部分は、こうした登場人物の心象風景を日常の佇まいの中で、的確に描いているところです。これは監督・脚本・編集された是枝監督の過去の作品、たとえば「歩いても 歩いても」や「誰も知らない」に通ずる静かな「力」そのものです。画角の広い映画そのものの表現方法がこれほどテレビドラマを豊かにするんだと確信しました。カットの多さや手ぶれやリズムばかりが偏重される昨今、フィックスの広い画角は新鮮で、見事な空気感を伝えていました。
俳優たちの仕事も、演出同様細かく丁寧で、隙がひとつもない、本物の人間がそこにいましたよ。
速度が緩く、意味が分からない、という意見もあるようですが、もしこの作品の「意味」が掴めないとしたら、それは自分自身の理解力の問題を疑った方が良いのではないか、とさえ思います。もっと物語の起伏があった方がドラマらしいという意見もあるようです。ですが、その起伏を必要以上に求めてしまうところに、すでに既成のドラマに対する固定観念があるのではないでしょうか。スピード感があって起伏のあるドラマも面白い。けれど、この「ゴーイングマイホーム」のような静かに魂を震えさせるドラマもまた、僕らには必要なのだよ。僕はそう言いたい。
ありがとう!素晴らしきドラマに、感謝!!!
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