たった二枚の葉っぱ |
今期2回目のワークショップでしたが、非常に面白いワークショップが出来ました!
充実した三時間でしたよ!
充実した三時間でしたよ!
なかなか難しいと思われた「感覚の記憶」と「感情の記憶」に関するエクササイズをしっかりと認識して、素直にそして熱い気持ちで取り組んでもらえました。
これは僕自身の気持ちに過ぎませんが、たかが「演技」であっても、たかがなどではないと思うのです。演技には人間が垣間見えます。その演技する人物の実相が見えるんです。僕らはどのような嘘つきであってもその本質はやがては外側へ染み出てくるのを妨げることが出来ないように、他人を演じても、実際は自己の経験と感情とその想像力で実体化するので、必ず「自分自身」が投影されてしまう。演技とはとてつもなく自己暴露的です。そもそも本当の自分なんてものがあやふやな概念なのだから、自分を形作るものは、目の前に起こる事象に対する「反応の形式」こそその人らしさと呼べるものではないかと考えます。
どんなに隠しても、固有の反応形式を僕らは生きている。
その反応の仕方を社会学者であったピエール・プルデューは「ハビトゥス」すなわち「習慣」と呼んだのではないでしょうか。僕らは「習慣」から離れることは出来ない。その典型こそ言語活動ですが。
いずれにせよ、モノを作るという行為そのものがいやでも自己暴露的なのでしょう。
その点も、参加してくれた俳優達の態度を通し、僕自身が自覚したのです。
モノを作るという行為は、自分自身という狭い殻から、宇宙へ飛び出そうとする営為でしょう。しかし、同時に絶えず自己に回帰する営為でもあるように思います。
今朝はウォーキングの途中で何枚か写真を撮りました。
二枚だけ枝に残った、木の葉たちです。
時代はしきりにざわついて、思考の邪魔をするけれど、こういう時こそテレビや新聞の嘘を真に受けず、しっかり自己の思考を整えたいものですね。
政治と経済に群がる亡者どもは、いつしか戦前の「大政翼賛政権」を作り上げるようですが、じっくりとそいつらのツラを見てやりましょう。自己の利益と保身に走り、日本や日本国民、さらには人類を売り渡そうとする連中のツラを見つめてやりましょう。
どんなにきれい事を言っても、どんなに偉そうにしても、本質は自己暴露的です。
すべては、その人間の行為の中に現れているから。
すべては、その人間の習慣の中に表現されているから。
2 件のコメント:
わたしも同感です。シェアさせてください。
ありがとう!
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