最近、日本で公開されていないアメリカの独立プロ系の映画を何本か観る機会がありました。
その中の一本がこれ。
映画『Pumpkin』2004
そもそもとんでもない罰当たりな物語です。その物語の基本部分が日本では恐らく上映されない最大の理由だと思われます。パンプキンとはこの映画の主人公である女子大生が面倒を見る羽目になる「障碍者」の男のあだ名です。
この映画は障碍者をめぐるコメディなのです。
母親から溺愛される少年は「可愛い子」を意味するパンプキンと呼ばれ続けることで、身体的にも知能的にも障碍者にされてしまっている。
物語は障碍を持つとされていた少年と差別感一杯の女の子の恋の話です。
描き方は細部がコメディとして作られているので、一見すると障碍者を嘲笑っているように思われるかもしれません。
でも、健常者と呼ばれる人々と障碍者と括られている人々が、実は何も変わらない、違いは何ができて何ができないか、でしかないということ。この姿勢が日本では自粛されてしまう点なのではないかと思われます。
以前にも何度も書いたことではありますが、この日本という国にある根本的な問題は、「自粛」という、まるでなにもないかのように物事を扱う姿勢です。
この映画を表面的に扱えば、障碍を持つ者を冒涜しているように見えます。
ですが、よくよく見てみれば、テーマは真逆であって、障碍なんて本来は楽々と乗り越えられるものなのかもしれないという、不思議なほど楽観的な感覚です。そして、健常者などと思い上がっている人間こそ障碍者であることを晒す皮肉にあふれた作品だと思う。
今やハリウッドの大作では扱えない、とても個人的で小さなテーマは、制作費も少ないこのような独立プロ系の作品で実現されるもののようです。これは日本も似たようなものかもしれませんね。
この映画のとってつけたようなラストのリレーのシーンなど、「だからなんなんだ!」と言われそうな軽薄さですが、僕はバックに流れる音楽で作者の意図をなんとはなしに感じることができるのです。
やっぱりね、恥ずかしいけどね、「一生懸命」は「かっこいい」し「素敵」なんだよ。
ねじれたプライドに翻弄されていた女子学生も、本気で笑えるほど自己変革を実行に移したパンプキンに「惚れ直す」。
ふざけた思い上がった出会いから、本気が生まれることもある。
真面目な態度も、実はふざけている場合もある、ということ。
この映画は、人がたいてい自分は健常だと思い込んではいるけれど、その自分自身の障碍に気がつく時のショックを扱っているんだな。
僕らは皆、大なり小なりどこかに障碍を抱えた存在である。
この映画を差別的と思う人がいるとすれば、その人こそ根深い差別心と無関心を無意識に持つ人だと僕は思う。
ドラマは時に精神のリトマス試験紙になりうるのだと思うな。
自粛してはならない。内容がどれほど偏向していようと観る術を奪ってはならないのである。
最近の「ザ・コーブ」という映画の上映自粛は、実に残念なことだと思う。僕らは、ある作品の中で「どのような間違った解釈」や「どれほど悲惨な無理解」や、それを根底から支える無意識の「人種差別的な心理」をこの目で観る必要があるのだ。
パンプキンというこの小さな映画も、障碍者を巡るコメディという一点で自粛されたとすれば、まさに今の時代とこの国の実態を写しているのかもしれません。
どのような誤解や悪意があるのかも、観て聴いて読んで理解しないかぎり、なにも見えてこないのですから。
あっ、映画「ザ・コーブ」は上映されることになりましたね!!偏見や悪意も観る必要はありそうです。
“Pumpkin” Last Scene
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