いい夕陽ですた。
今日も暑いですが、1日仕事☆
仕事が終わったら、懐かしい人とお会いします。
今日も1日、熱血だァ〜!!
な!
☆上野火山☆
近未来SF小説を読みながら、漂う雲に現実確認している。空想は日常をほんのわずかずらしたところにあるんだぜ。
ああ、僕は仕事の合間に小説を読みながら、青空と白い雲のリアリティに身を浸している。
この風景を忘れたくないんだ。
そして、get back to my work!!
☆上野火山☆
今朝は珍しく雨。
大学の集中講義も今日が最終日。熱心に参加して下さった学生諸君に感謝☆
キャンパスにいる頃は、もう雨もあがっているでしょう。
でも、この何日か続いた猛暑に照らされカサカサに乾いた地面もほんのわずか水分補給。
アスファルトとコンクリには水なんかいらないのか?
いや、いるよ。いるんだよ。
この都会の固い地面だって水を求めているんだよ。
今日は朝から「エレファントカシマシ」を聴いています。
「風に吹かれて」と言えばボブ・ディランですが、エレカシの「風に吹かれて」もいいなぁ。
彼らもまた不滅のロッカーだと、僕は思うよ。
エレファントカシマシー風に吹かれて。。。。聴いてくれ!!
朝起きて窓を開ける。
昨夜の雨のせいか空気が心なしかひんやりする。
空は晴れていてこのところ続く真夏日の色なのに、ちょっとだけひんやり。
けっこう体は疲れてはいるんですが、気持ちのいい朝です☆
連日、大学の講義に燃えておりますが、今日から折り返し地点。
「演劇は演劇の言葉だけでは語れない」というのを前提に、様々な分野の一見無関係そうな事象を対比的に観ることで、何か新たな視点を獲得できないだろうか?というのが出発点でした。
そうなってくると、本当に多岐にわたる視点と他の専門分野に足を踏み入れるという愚をあえて犯さねばならず、絶えず精神的葛藤に苛まれます。
でも、これは必要なことだな。
あえて愚かなことをやる人間がいないとこの世界は面白くもないし、刺激もない。
そう、僕は自信の愚かさを背負い、この日々変化し邪悪になりつつある世界と対峙してみたいと思います。
演劇はその果てにある表現手段のひとつにすぎないのだから。
窓を開けたら、スーッと涼しい風が入ってきた☆
もう一本日本映画をご紹介☆
『福井青春物語』
これは最初自主映画として数日で撮影され、それほど多くの人の目に留まらずに消えていった映画かもしれません。
でも、あまりに出来が良いので、一般映画として上映された幸運な作品です。
その幸運も当然だろうと思わせる「熱気」がこの作品はあるんだな。
映画を作ろうとする若者たちは、地元より東京を目指すわけですが、実は地元こそがストーリーに満ち、才能あふれた、豊かな土壌であったことに気がつく過程を丁寧に描いております。僕の田舎である岩手に負けない福井のド田舎ぶりに笑いながら切なくて涙がこぼれます。
これは傑作だぞぉ〜オイッ!!!
監督は残念ながら、この映画で映画作りは辞めて書家になってしまいました。今では自慢の茶髪に墨汁を流し込んで頭で書を書いているようです。
福井人による福井人のための福井人の映画。
ですが、それこそが普遍性を獲得するという逆説。
インターナショナルは、ローカルに宿っているんです。
グローバル化などする必要がない。今ここが世界なのだから。
もう一度言おう。
世界化するというのは、記憶を失うということ。
世界化するよりも、記憶を大切にしたいものです。
記憶こそが、僕らを形作る主要な要素なのだと思う。
映画の中で、すべてがあると思われた東京に、何もないことに気がつくとき、主人公は初めて目覚めるのだ。
本当に大切なことは、目の前にありながら、なかなか見えないものですね。
この映画は現在版権を放棄した「パブリック・ドメイン」になっています。
You Tubeで削除されることなく全編視聴することができます。感謝!!!
映画『福井青春物語』予告編
映画(本編)『福井青春物語』⅙:本編はここからご覧下さい。
最近、日本で公開されていないアメリカの独立プロ系の映画を何本か観る機会がありました。
その中の一本がこれ。
映画『Pumpkin』2004
そもそもとんでもない罰当たりな物語です。その物語の基本部分が日本では恐らく上映されない最大の理由だと思われます。パンプキンとはこの映画の主人公である女子大生が面倒を見る羽目になる「障碍者」の男のあだ名です。
この映画は障碍者をめぐるコメディなのです。
母親から溺愛される少年は「可愛い子」を意味するパンプキンと呼ばれ続けることで、身体的にも知能的にも障碍者にされてしまっている。
物語は障碍を持つとされていた少年と差別感一杯の女の子の恋の話です。
描き方は細部がコメディとして作られているので、一見すると障碍者を嘲笑っているように思われるかもしれません。
でも、健常者と呼ばれる人々と障碍者と括られている人々が、実は何も変わらない、違いは何ができて何ができないか、でしかないということ。この姿勢が日本では自粛されてしまう点なのではないかと思われます。
以前にも何度も書いたことではありますが、この日本という国にある根本的な問題は、「自粛」という、まるでなにもないかのように物事を扱う姿勢です。
この映画を表面的に扱えば、障碍を持つ者を冒涜しているように見えます。
ですが、よくよく見てみれば、テーマは真逆であって、障碍なんて本来は楽々と乗り越えられるものなのかもしれないという、不思議なほど楽観的な感覚です。そして、健常者などと思い上がっている人間こそ障碍者であることを晒す皮肉にあふれた作品だと思う。
今やハリウッドの大作では扱えない、とても個人的で小さなテーマは、制作費も少ないこのような独立プロ系の作品で実現されるもののようです。これは日本も似たようなものかもしれませんね。
この映画のとってつけたようなラストのリレーのシーンなど、「だからなんなんだ!」と言われそうな軽薄さですが、僕はバックに流れる音楽で作者の意図をなんとはなしに感じることができるのです。
やっぱりね、恥ずかしいけどね、「一生懸命」は「かっこいい」し「素敵」なんだよ。
ねじれたプライドに翻弄されていた女子学生も、本気で笑えるほど自己変革を実行に移したパンプキンに「惚れ直す」。
ふざけた思い上がった出会いから、本気が生まれることもある。
真面目な態度も、実はふざけている場合もある、ということ。
この映画は、人がたいてい自分は健常だと思い込んではいるけれど、その自分自身の障碍に気がつく時のショックを扱っているんだな。
僕らは皆、大なり小なりどこかに障碍を抱えた存在である。
この映画を差別的と思う人がいるとすれば、その人こそ根深い差別心と無関心を無意識に持つ人だと僕は思う。
ドラマは時に精神のリトマス試験紙になりうるのだと思うな。
自粛してはならない。内容がどれほど偏向していようと観る術を奪ってはならないのである。
最近の「ザ・コーブ」という映画の上映自粛は、実に残念なことだと思う。僕らは、ある作品の中で「どのような間違った解釈」や「どれほど悲惨な無理解」や、それを根底から支える無意識の「人種差別的な心理」をこの目で観る必要があるのだ。
パンプキンというこの小さな映画も、障碍者を巡るコメディという一点で自粛されたとすれば、まさに今の時代とこの国の実態を写しているのかもしれません。
どのような誤解や悪意があるのかも、観て聴いて読んで理解しないかぎり、なにも見えてこないのですから。
あっ、映画「ザ・コーブ」は上映されることになりましたね!!偏見や悪意も観る必要はありそうです。
追われるように仕事をしておりますが、なかなかブログも更新できずにいました。
またできる限り、ここに日々の思考の断片を記述しておこうと思います。
先日より、大学の夏期講座が始まりました。
相変わらず、僕は話したいことがあまりにもたくさんあって一日2コマ、三時間では足りないぐらいです。
ああ、本当に時間がもっとあったら、と思います。
時代は過度期です。
何がおかしく、何が正しいのか、まるでわからない時代に入りました。
しかし、人生と生活の羅針盤をしっかりと持てば、この時代の下らぬ脅しにうかうかと乗せられるはずもありません。
どうせ引き受けた講義なのだから、なんとしても今のこの時代の見えにくい隠蔽された事実を学生たちに伝えたい☆
僕の演劇的営為は、こんな日々の小さな作業の連続から生まれるんだと思っています。
地道に、しかし激しく、そして強く、自己主張しよう!!
そうして、己の言動にことごとく責任を持とう!!
きっと、そんな生き方から、世界と僕の明日は、少しだけ変わるんだ。
そう思う。