2006年6月12日月曜日

世界は陽の出をまっている!

感動という言葉の持つ意味が「浅薄で軽々しく」なっているらしい。
確かに、今の世の感動のなんという薄っぺらさよ。
シニシズムの反対の際にありそうな「感動」もまた、病の兆候を帯びているようだ。

感動とは「痛切」なものだ。決して、単なる心の浄化というわけにはいかない。

スミアゴルという忌まわしい生き物が「指輪物語」の中に登場する。この物語を感動と共におぞましくしているのも、このスミアゴルの存在である。スミアゴルは物語の登場人物中、もっとも汚れ、愚かな存在であり、他の登場人物の負の部分をすべて抱え持たされた存在である。

スミアゴルの最も薄汚れた部分は、呪われた指輪の魔力にはまって、欲望に屈してしまうその精神的虚弱さであり、意志の脆弱さである。弱さは人間の誰もが抱え持つ部分だが、その弱さの虜になるところに、作者トールキンの鋭い文明批判が隠されている。
最近の感動は弱さの肯定と、弱さを吐露する行為を神聖化する態度によって、強化されているようだ。だとすると、トールキンの態度はその逆、つまり、弱さを受け止め、それと戦う態度が示されているが故に、指輪物語は現代の感動作品からほど遠いと言わざるを得ない。
しかし、だからこそ、僕はトールキンを支持する。

弱さとは聖なる部分ではない。邪悪そのものである。
己の邪悪さを直視することしか、真に感動へは行き着けないのだ。
なぜなら、「感動」とは「共感の次元」に至る道筋だからである。
その意味で、真に感動するとは痛々しく、痛切なものである。痛みの伴わない感動は、どこか偽物なのではないかと僕は思う。

世界は陽の出を待っている。
だが、その陽の出は、痛みを乗り越えたものだけが見いだすことのできる、苦しみの果ての光だろう。
確かに、世界は陽の出を待っている。
それは、傷つくことを恐れぬ、己の弱さと対峙する勇気の代償なのである。

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