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2014年7月2日水曜日
2014年6月24日火曜日
天使の愚かさ(再掲)
以前、岩手大学宮澤賢治センターの通信誌に寄稿した文章です。
数年前に掲載した文章ですが、再掲させて頂きます。
賢治の「虔十公園林」という作品は、先日15日にお亡くなりになった作家のダニエル・キイスさんの「アルジャノンに花束を」に通じる部分があるような気がしてなりません。ご冥福をお祈り致します。
『虔十公園林』と天使の愚かさ(岩大通信)
上野火山
遠い日の記憶である。
少年の頃、いつも市営のテニスコートの金網の所にぼんやり佇んでいる人がいたのを覚えている。彼が知恵遅れだというのは周囲の暗黙の了解だったようだ。誰一人彼を怖がる者もなく、特に馬鹿にするでもなく、ごく普通に一緒に暮らしていた。
春、桜並木を通って学校に行くときも、夏、テニスコートの向こうにあるプールに行くときも、秋、堤防で野球をするときも、冬、雪に埋もれたテニスコートで雪合戦をするときも、彼はいつもそこにいた。ちょっと優しげでちょっと哀しげな彼の眼差しを僕は忘れることができない。彼は、僕にとって一人の虔十だった。
『虔十公園林』という作品に出会ったのは、そんな小学生の頃の教科書だったと思う。不思議なことに、今発行されている検定済みのどの教科書にも虔十公園林が載っていない。それはいったい何故なのだろうか。
小学生の僕の胸をあんなに締め付けた虔十公園林という小さな作品。その中で主人公の虔十は、まぎれもない知恵遅れの少年であった。知恵遅れというこの表現すら今は差別用語になってしまう、そんな時代を僕らは生きていることに愕然とする。人はいったいいつから愚かさから学ばなくなったのだろう。人はいつからあの天使の眼差しを忘れてしまったのだろう。
賢治の描く虔十の愚かさは軽蔑すべき哀れなものでは決してない。寧ろ「天使の愚かさ」そのものなのだ。それは気高く美しい。そしてなによりも、この物語はまともなふりをした意地の悪い利口さに対する、その愚かさの勝利を描いているのだ。
五十年代のアメリカ映画「エデンの東」の中にジェームズ・ディーン演じるキャルがまるで虔十そっくりに畑に列をなした木の苗を踊りながら眺める場面がある。その場面を見ながら、僕はディーンに虔十の姿を重ねて見ていた。誰憚ることのない喜びを僕は見ていた。
天使はこの地上で生きていることが嬉しくてならないのだ。踊り謳いハーハー言うのだ。虔十のハーハー笑う姿を馬鹿にする人間が出てくるが、殴られても蹴られても虔十はひたすらハーハー笑っている。哀しくても嬉しくても虔十はハーハーなのだ。
やがて一緒に遊んだ子供が大人になって、虔十公園林を見てあの日のことを思い出す。天使のように愚かだった虔十の瞳の中の優しさと悲しみを、人は大人になって思い出す。そして、無名の人、虔十によって植えられた杉林は誰に恥じることもない大きく立派な公園林に育っていった。
こんなに哀しく美しい物語を僕は他に知らない。賢治の紡ぎ出す愚かさを主題とする物語に僕は特に心惹かれるのだ。
それは愚かなる人間は社会の「お荷物」と考える常識に対し、愚かさと共に生きることを選んだ賢治のアンチテーゼが垣間見えるからかもしれない。いや寧ろ人間の本質が愚かさそのものだと看破した賢治に惹かれるからかもしれない。
僕は「やまなし」のクラムボンはボンクラのアナグラムだと考えている。愚かであること、ボンクラであることはこの世では生きづらい。けれど、僕らの精神の歪みを映し出す鏡こそ、このボンクラの自己認識であり、天使の愚かさなのだと思う。
教科書に載らなくなったのは、現在という時代がもはや「天使の愚かさ」を重要な価値のひとつと認めることができなくなり、利益と利口さばかりに価値がおかれてしまっているからかもしれない。
愚かさは、この世界を生きる限り常に僕らと共にある。愚かさとは無用で無視したほうがいい唾棄すべきものでは決してない。
僕たちは今、少々利口になりすぎてはいないだろうか。
その利口さ故に記憶喪失に陥っている。幼い日に見た様々な愚かさの風景を、何事もなかったかのように水に流している。
今、賢治を読むことは、自己の記憶喪失に対する贖罪の意味もあるのだと僕は思う。
2014年6月20日金曜日
風を撮る!
雨が降る雨が降る…と警戒ばかりしていてもしょうがない。
雨が降ったら濡れていこうじゃないの!
そんな折、さっき、書斎で作業中、ふと外を見ると風が吹いていた。しかも、気持ちの良い緑を揺らすそよ風だ。
僕は、手元にあったスマホで19秒ばかり動画を撮ってみた。
たった19秒の動画に風が映ればいいな!そんなことを不意に思って撮ってみたんだ。
昔は、すべて記憶していたもんだけど、今は19秒を撮っておくことができる。保存する気になれば保存も出来る。でも、一瞬の想い出は自分だけのもの。その時間、その場所で体験した者のみが味わうことが出来るもの。
当 たり前の風景が、19秒に切り撮ってみると、二度と戻らぬ万華鏡の世界に僕らは暮らしていることがよく分かるんだな。世界は万華鏡だよ。二度と同じ事を繰 り返すことのない万華鏡だ。その意味で、今こうして同時代を同空間で共有し合っている僕らは、皆同じこの世界の住人に過ぎない。上も下もない。イデオロ ギーもない。偉いも偉くないもない。悲しいほど皆同じ運命を持っているのだ。それは、後100年、もしくは150年したら、今のこの世界に生きる者は誰一 人いないという現実。
生とは、その短い時間の中で、できる限り努力して味わうこと以外に、何があるだろう?
風を19秒間だけ、撮ってみて、僕は世界がいつまでも同じであり続けるという幻想から抜け出せた気がする。
経済学者がなんと言おうと、金融で世界ができているわけじゃない!銀行が世界を創り出しているわけじゃない。政府が世界を保障しているわけじゃない。
世界は、僕らが創り出しているんだ。
刻々と変わるこの世界を、僕らは毎秒毎秒創り出しているんだ。
風をもっと撮りたくなってきた!!
2014年6月15日日曜日
飛行機雲の空には…
2014年6月12日木曜日
自意識の話
西荻の渦巻く空だよ! |
昨日の続きだよ
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雨粒と葉っぱ |
2014年6月11日水曜日
遠回りしよう☆
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《雨と紫陽花》 |
近道より、寄り道の方が好きだな。
近道には何か利巧な経済効果の匂いがする。寄り道の方は余剰の香りがするんだ。
この余剰こそが人間を人間たらしめているのではないかと思うことがある。
余剰とは、余計な事や余ったものだが、余計な事は本当に余計な事なのか?余ったものは捨てれば良いのか?
ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』によれば、人間の真の経済学的喜びは、ただひたすら財を溜め込む蓄積にあらず、むしろ「蕩尽」すなわち使い果たすことにあるという。現在の世界経済の動向の歪みは、一部の企業等による寡頭支配によって、利益が一極集中し、利益を貯め込むシステムだからではないのか。利益を世界に吐き出すシステム(出口:すなわち社会的還元)を無くし続けながら、ひたすら財を溜め込んでいる。蕩尽が行われていないのである。
つまり、経済的に「利益を得るのか」、もしくは「損失を出してしまうのか」という「合理性すなわち過剰な蓄積」に捉われている限り、人に本質的な充実感や喜び等をもたらす「蕩尽の享楽・至高の聖性』(本当の人間的悦び)を体験することはできないということになるのですよ。
溜め込む行為は「近道」を辿る。ですが、蕩尽し使い果たすまで余計な事を沢山することは余剰を味わうことであり「寄り道」です。
人生は選択の連続ですから、近道も必要でしょうが、いつも経済的で利益を溜め込むばかりじゃ面白くない。むしろ、寄り道の余剰、もしくはバタイユの使い果たす蕩尽の意味をこの辺で噛みしめてみたいと思うわけです。
現在、シカゴ学派的経済学(いわゆる新自由主義経済学)では、貧困か極端な富裕層しか選択肢がないような、極端な二者択一の幻想を世界中に撒き散らしていますが、バタイユを読めと言いたいですね。
どなたが言ったが忘れましたが「貧困の自由」ですか?
アホですか?アホとしか言いようがないでしょ?いや、アホそのものでしょう?
僕は願い、夢見る。
近道なんかロクなもんじゃない!遠回りや寄り道をしながら、この世界を味わいたい。溜め込む人生より、使い果たしつつ吐き出す人生。真の利益とは溜め込んだ部分の総体ではなく、味わった総体を指す。有益な物事のために使わなければ、それは利益とは言わないのだ。
だから、何だって良い。ケチらずに吐き出そうと思ってます。
溜め込むバカになるよりも、吐き出すバカにワタクシはなりたい!!!
バタイユさんにサンクス☆