2014年6月12日木曜日

昨日の続きだよ


雨粒と葉っぱ
昨日の続き☆


遠回りしよう!無駄足を踏もう!それが生きるということでしょう。
実際この世界に無駄は一切ないんです。
無駄でいいんです。

無駄、無駄足、無駄使い、無駄骨、こんなの全部ウソっぱちだ!
すべてに意味があって、すべてが有用なのです。それを無意味にするのは、僕らの中にある損だけはしたくないというセコさかもしれないな。
だってそうでしょ?無駄が発見や発明や理解や愛情を生み出すんでしょ?
だから、回り道して行きましょう!
遠回りして、無駄骨をおって、大いに日々の暮らしのすべてを楽しみましょう!
この世界の豊かさは、お金では図れない。むしろ、どれだけ無駄を楽しんだかにある。


まぁ、同じようなことを言い訳に、従業員に給料払わず過労死させた上、更に国会議員なった社長さんもいらっしゃいますが、そんなバカは放っておいて、本質を掴みましょう。


遠回りして行こう☆
無駄を沢山やろう☆
楽しもう☆
自分を成長させる負荷は必要☆

これは詭弁ではなく、本質。


2014年6月11日水曜日

遠回りしよう☆


《雨と紫陽花》


近道より、寄り道の方が好きだな。
近道には何か利巧な経済効果の匂いがする。寄り道の方は余剰の香りがするんだ。

この余剰こそが人間を人間たらしめているのではないかと思うことがある。
余剰とは、余計な事や余ったものだが、余計な事は本当に余計な事なのか?余ったものは捨てれば良いのか?

ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』によれば、人間の真の経済学的喜びは、ただひたすら財を溜め込む蓄積にあらず、むしろ「蕩尽」すなわち使い果たすことにあるという。現在の世界経済の動向の歪みは、一部の企業等による寡頭支配によって、利益が一極集中し、利益を貯め込むシステムだからではないのか。利益を世界に吐き出すシステム(出口:すなわち社会的還元)を無くし続けながら、ひたすら財を溜め込んでいる。蕩尽が行われていないのである。
つまり、経済的に「利益を得るのか」、もしくは「損失を出してしまうのか」という「合理性すなわち過剰な蓄積」に捉われている限り、人に本質的な充実感や喜び等をもたらす「蕩尽の享楽・至高の聖性』(本当の人間的悦び)を体験することはできないということになるのですよ。

溜め込む行為は「近道」を辿る。ですが、蕩尽し使い果たすまで余計な事を沢山することは余剰を味わうことであり「寄り道」です。

人生は選択の連続ですから、近道も必要でしょうが、いつも経済的で利益を溜め込むばかりじゃ面白くない。むしろ、寄り道の余剰、もしくはバタイユの使い果たす蕩尽の意味をこの辺で噛みしめてみたいと思うわけです。
現在、シカゴ学派的経済学(いわゆる新自由主義経済学)では、貧困か極端な富裕層しか選択肢がないような、極端な二者択一の幻想を世界中に撒き散らしていますが、バタイユを読めと言いたいですね。
どなたが言ったが忘れましたが「貧困の自由」ですか?
アホですか?アホとしか言いようがないでしょ?いや、アホそのものでしょう?

僕は願い、夢見る。
近道なんかロクなもんじゃない!遠回りや寄り道をしながら、この世界を味わいたい。溜め込む人生より、使い果たしつつ吐き出す人生。真の利益とは溜め込んだ部分の総体ではなく、味わった総体を指す。有益な物事のために使わなければ、それは利益とは言わないのだ。

だから、何だって良い。ケチらずに吐き出そうと思ってます。

溜め込むバカになるよりも、吐き出すバカにワタクシはなりたい!!!


バタイユさんにサンクス☆

2014年5月27日火曜日

お知らせ


Facebookの方ではお知らせしたのですが、改めてこちらのブログでもお伝えします。


『東海大学出版部から「賢治学」が出版されます☆岩手大学宮澤賢治センター編です。僕も一文書いております。
岩手大学から宮澤賢治に関する知を発信、ということで、今の拝金主義的傾向の真逆の精神が語られています。新自由主義からの離脱は賢治を考えることから始まるかもしれません。
ぜひご一読を!』

お知らせでした☆

ご購入はこちらで:
『賢治学』アマゾン 

ならず者たち


哲学も芸術も、リアルな政治的状況の前では無力ではないか、そんなことを思っていた。思想とは単純に硬化したドグマの謂ではないのか。そんなことを思っていたのだ。
というのも八十年代以降、脱構築とポストモダンの安売り状態で、人間の思考も行動も表層的になり、全てが商業的な深みのない浅薄なエンターテインメントに成り果てた印象を持っていた。事実、八十年代以降「軽佻浮薄」の合い言葉の下、テレビを中心に思考を停止し経済活動こそが唯一の真理であるかのようにこの世界は進んできたように思う。バブル時代だろうが、バブルがはじけただろうが、そんなことにお構いなく、この時代と世界の価値観として「利益」、「得」、「儲け」が人の究極の目的であるかのように僕らは老いも若きも「教育」されてきたように思う。そうして、なし崩し的に意味の解体がはびこりはじめ、いつのまにか金銭的な価値に還元できなければ全て無意味といった、ハイエク以来のミルトン・フリードマン的な価値観が一般化した時、硬化した既成の価値観から一旦抜け出ようというジャック・デリダの「脱構築」論は魅力的でありながら、同時に僕個人は、どこか宿敵のような感覚を憶えていた。すなわち、八十年代以降のこの抜き差しならぬ価値状況を創り出した原因は、デリダにも少なからずあったのではないかと思っていたわけだ。

そんな僕が、今、彼の「ならず者たち」(みすず書房)を読む。
実に面白い。何が面白いのかというと、その哲学的視点からの現在の思想もしくは価値観を叩き切っているその率直さかもしれない。

深い言葉の洪水の中で、彼は端的にこう言う。
「…ならず者国家に対し戦争ができる立場にある諸国家は、先験的に、このうえなく正統なその主権において、その権力を濫用するならず者国家だということを現しめるだろう。主権があるやいなや、権力の濫用およびならず者国家がある。濫用は使用の法である。それが法そのものであり、それが分割なき全統一性においてしか支配できない主権というものの<論理>である。」
すなわち、ある国家を「ならず者国家」と呼ぶ時、その呼んでいる国家自体がすでにひとつの「ならず者国家」なのである。

彼の問である「来るべき民主主義」とは少なくとも、現在ある資本主義やグローバリゼーションやシカゴ学派による新自由主義経済・純粋資本主義であるはずがない。民主主義とはプロセスであって、すでに成し遂げられた完全な政治体制ではない。日本はこれまで民主主義国家ではなかったし、良くも悪くも社会主義的な国家であった。だからこそ、社会保障も充実していたし、社会福祉は他の国家では例を見ないほど完成されたものだった。

しかし、今、この国はより完全な民主主義国家に向かっていると首相は言うが果たしてそうなのか?今向かっているのは企業による純粋な資本主義体制であって、より厳密な意味での民主主義に向かっているのではない。むしろ、民主主義的要素が日ごとに失われているのである。社会主義と民主主義は同時に存在できるが、資本主義と共産主義は同時に存在できない。
ならず者と呼ばれた国々が、独裁者による暗黒の国家のように喧伝されていたが、例えばカダフィ大佐のリビヤなど先進的な「無償社会保障制度」など他国では考えられない社会保障制度を持っていたにもかかわらず、ならず者国家の烙印を押され、大佐亡き後、すべてそうした社会保障制度は一掃されてしまい、更に石油利権も欧米に収奪されたのである。

デリダを読むことで、現在の世界と価値観の状況を、しっかりと見据えることができたように思う。彼は911以降の世界の異様な動きに正確な観察眼で哲学的営為をすすめているが、この著作は一種の羅針盤のように、日々のニュースや報道で狂わされた方向感覚をもう一度是正してくれる力があるような気がしますね。

今、デリダが面白いな。

独立国家なのだろうか☆

気がつけば、311以後怒濤のように新法案が可決され、毎日のように個人の自由が規制されながら、多国籍企業もしくは海外金融資本に対する規制はどんどん緩められていきます。規制緩和や自由主義とは個人に対してではなく、明らかに既得権益を持つ海外株主にとっての自由であり、個々の国民の自由は範疇外というのが正直なところではないでしょうか。国家は自存すべきと言うならば、それは極右になり、社会保障はなくてはならないと言えば、それは極左になる。ところが、これは何度も言ってきたことですが、まったくデタラメであり、それらは本来共存するものなのです。自由と平和、そして平等は時には対立概念になりえます。が、海外勢力からの文化的地域的独立と社会保障の整備にはなんの矛盾もない。
僕らは、右だ左だと、これまでの表層的な言説に惑わされ、本質を見失っているようです。


日本人が日本語を失って良いはずがないのと同様に、この国の文化を売り渡してはならない。日本は戦後、一度たりとも独立国家であったためしがないのです。この国は植民地でした。だからこそ、気がつき考えなくてはならない。日本を護ることは戦争に駆り出して日本国民を殺すことではない。今、この国が傾いているのは外国の代理戦争への道でしょう。知らない間に、「航空自衛隊経ケ岬分屯基地(京丹後市丹後町)への米軍早期警戒レーダー(Xバンドレーダー)配備計画で、市は26日、関連工事の着工が27日に決まったと発表した」(産経新聞)そうです。そう、知らない間に、この国は最前線に立たされているようです。本来必要のない衝突を起こし「愛国」という美名の元で、日本人のためではなく、海外金融資本のため、彼らの手先になろうとしているわけです。
民主党から現在の自民党に代わり、なにが代わったのか?なにも代わっていない。ただひたすら、国民の状況は過酷になっているのではないですか。
本質を見極めたいと思います。


また、少しずつ、このブログで語っていきたいと思います。よろしくおねがいします☆


2014年1月8日水曜日

2014年も八日も過ぎて


しばらくブログというものに嫌気がさしていて、遠ざかっていました。ごめんなさい。
そのうちに、年も明け、2014年すなわち平成26年になったのでした。
また、いろいろアップしていきますので、今年もよろしくお願い致します。



去年は友人が二人あちらへ旅立ちました。

 一人は俳優で監督の塩屋俊さん。そして、もう一方は振付師・演出家の竹邑類さん。
塩屋さんは大学の先輩でもありましたし、僕が演劇を志す最初のきっかけを作って頂いた方でもありました。彼の抱いていたその志は決して忘れません。


そして、竹邑さんは僕の翻訳劇を演出していただいたご縁でおつき合い頂きました。「まずは続けないさい」と、演劇を続けることの真の重要性を教えてもらいました。作家・三島由紀夫さんが短編小説『月』の中で、夜になると70歳になる17歳の少年として描いた竹邑さん。その三島作品の登場人物でもあった竹邑さんが、17歳の少年時代からアートに関わりながら、やがて物語とほぼ同じ71歳で此の世を旅立たれるというのは、なんとも不思議な感じがします。現実も一つの物語のような気がしてなりません。ホワイト・レビューという竹邑さんの珠玉の舞台を僕は忘れません。





仕事に追われながら、年末から新年にかけて、映像作品を色々と観ることができました。
その中で、是枝裕和・監督:NONFIX『しかし… 福祉切り捨ての時代に』(1991年)というドキュメンタリーは、強く強く心に残りました。この映像を観せてくれた、僕の大学のクラスの学生であり、是枝監督にも指導を受けている「橘田さん」に心から感謝します。ありがとう!


「しかし… 福祉切り捨ての時代に(1991年)」はフジテレビのNONFIXで放映されたドキュメンタリーであります。しかし、この小さな作品の扱う問題は、放送から二十年以上経った今なお解決されてはいないどころか、問題は深く広く、まるで小さかった傷口が広がり周囲が壊死していくようなそんな印象さえ受けます。事態は確実に悪化している。監督した是枝裕和さんはこの作品を本としても出版しておられます。

1990年(平成2年)12月5日。環境庁次期事務次官候補が自ら命を絶った。山内豊徳さん。53歳。水俣病裁判の国側の責任者として和解拒否の弁明を続けていた企画調整局の局長でありました。さらにもう一人の登場人物、銀座での売れっ子ホステスから一転、当時荒川区で難病に一人苦しみながらなんとか日々を生き抜こうとしていた原島のぶ子さん。二人にはまったく接点はないけれど、福祉政策の歪みと福祉の受給という、「福祉」のその一点で人生が交差しているのです。

近年でもメディアが、お笑い芸人等の生活保護不正受給を大問題化することによって、巷ではあたかも生活保護を申請すること自体が良くないという印象操作が行われていました。この流れから、社会保障自体をいずれ廃止すべきではないか、といった極論が今やまるで当然のことのように大手を振って歩き出しています。勿論これは、昨日今日始まった民主党や自民党といった政権の持つ問題ではなく、むしろ今世界に蔓延している新自由主義的価値感の生み出す問題なのです。がしかし、この生活保護をはじめとした福祉の切り捨てという問題は、何十年も前から国民に気づかれないほど小さな小さな形で、止むことなく続けられてきたこの国の決定的な政策、政府の決定事項なのだと思われます。そしてそれが、今現在、更に悪化しているというわけです。山内豊徳さんは水俣の患者と国側の間に挟まれ、自死に追い込まれました。官僚として死に逃げるよりも根回しの技術を持てば良かった、等と後付けの評価はこの種の出来事では無意味です。なぜなら、この問題はこの国が欧米と共に「個人の幸福」もしくは「個人の福祉」よりも、「国家の一部の層の幸福」を取る方に確実に舵を切ったからこそ起こっている出来事だからです。問答無用のこの状況では、根回しなど何の役にもたたない。だからこそ、心ある山内さんのような官僚には頑張って欲しかった。しかし、彼の陥ったその抜き差しならぬ状況は想像するに余りあります。

原島さんという女性の人生も、まったく動こうとしない福祉関係の役人の心ない対応の中で、年末に命を絶つというなんともやりきれない最後であり、無縁仏として荼毘に付されるという哀れさは、観る者に他人事ではない切実さで迫ってくるものでした。
決して忘れてはならないドキュメンタリー作品ですね。そして是枝監督の原点にあるものとも言えるのではないでしょうか。何度も観て心に刻みつけたい作品です。



年の初めに、暗い話題と思われたかもしれません。
しかし、世の中では、やれアベノミクスだの、その効果で金融関係の給料が上がるだの、やれ東京オリンピック開催だの、一見明るいニュースが沢山あるようですが、その実、矛盾ばかりが露呈しています。
例えば、東京オリンピックの主要開場になるであろう新国立競技場は、ザハ・ハディッドという英国の女性建築家による設計で建設費は約1800億円、年間維持費は約41億円にものぼる見通しであり、更にそのあまりにも巨大な構築物のせいで、国立競技場周辺の景観は全て変わってしまうということだ。これなども、本当にそんな巨大施設を建設する必要があるのだろうか。そんな中で今、真剣に言われているのは、オリンピック直後に日本を戦後最大の不況が襲うのでは?という懸念。これなどは明らかに国力を上げるよりも、寧ろ日本という国の国力を減退させる方に向かってはいないか?という疑問も出てくるように思う。

 
今年もまた、世界と巷と時代と歴史をあれこれ考えつつ、しっかりと歩みを進めていこうと思います。
見えにくい問題をしっかりと見つめたい。世界はまだまだ捨てたものじゃないのだから。
今年も、よろしく!

2013年12月4日水曜日

短編小説の感想☆

久しぶりのブログアップです☆
短編小説の感想を書いてみました。素晴らしく良く書けている小説でした。
ますます素敵な作品を書いて下さいね!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小説『おっとナンテン』に寄せて
—今は亡きものに物語ることー



先日、大学で新聞を一部渡された。講義の終わりに学生の一人が出席カードを出す代わりに新聞を渡してくれたのだ。
そっと差し出された山梨日日新聞の一面にその作品は書かれてあった。
小林けい子さん作の「おっとナンテン」である。
僕は早速帰宅するとその小説を読んでみた。

その短編の中には、昭和を生きた家族の肖像が書かれてあった。四人姉妹と父と母。そして、家族はやがてばらばらになるが、何かが微かに受け継がれていく風景がそこにあった。

家族と共に暮らすとき、人はその日常が永遠に続くような錯覚の中で生きている。やがて一人、また一人、と家族は姿を消していき、家自体も拡大したり縮小したり、場合によっては消滅する。しかし、その渦中にある時は、人はその栄枯盛衰に意識が及ばない。しかしながら、だからこそ我々人間は日々の暮らしを営んでいけるのだろう。

物語る人とは、その時間の中で変化し、遷ろう世界の有り様を魂に留め置き、それを言葉という手段や、絵画や彫刻、あるいは音楽という手段で他者に伝える人のことだ。人は記憶する生き物だが、己の人生を生きるのみ。従って、そもそも限定された経験枠の中で、物語を読んだり見たり聞いたりして、その不可能な経験を「追体験」として味わうのである。己自身の人生の枠を超えるとき、他者への「共感」も生まれるのかもしれない。
その意味では、この世界に、「私と無関係な物語」などないことになる。

まさしく、この「おっとナンテン」という小説も、作者自身の経験を描きながら、そこに読むものが己自身の経験を投影する「追体験」と「共感」の余地を残しているのだ。私自身、商売の家庭で育ってはいないけれど、キリスト教会で頑固に牧師にこだわっていた父や、貧しいその暮らしを支えた母を思い出さずにおれなかった。

物語を読むという行為は、そこに「私」を見いだすことだ。
「おっとナンテン」は、その「私」の物語なのだと思う。他人行儀な、観察に基づいたどこかで見た風景や知識で武装された物語世界ではなく、そこには自分自身の生きた日々と、読む者を裏切ることのない人間の「愚かさ」と「賢さ」が見事に書き込まれているのだ。
読み終わった後、不思議に涙が溢れてくる。それは単なる懐かしさではなく、失われいくものと、今もなお現在進行形のこの人生に対する愛惜の情から溢れ出た涙かもしれない。
それでも人生はつづく。そして、やがて誰かに何かを手渡してこの去って行くのだろう。
この短い小説の中に、人が此の世を生きる小さな小さな知恵があった。
それは、最後に出てくる言葉だ。

人生とは「懐かしく」「可笑しい」。
そして「愛おしい」。

素晴らしい物語を、ありがとうございました。
   
Powered By Blogger