2014年8月4日月曜日

朗読劇の告知です☆


入道雲と夏の空だッ!!
やっと告知できます!!


様々な立て込んでいたことが、スッキリ!!してきて、やっと集中度が高まってきました!!!
ぜひ、みなさんにご覧頂きたい小さな小さな舞台です。こんな舞台を大切にすることが一歩なんだよ。
元々は二時間半の大きな芝居ですが、今回は45分ほどの朗読劇に書き直しました。
戦争で捨てられた同胞を、もう一度思い出したいと思います。
お時間がございましたら、ぜひ足をお運び頂けますようお願い申し上げます。
劇場でお会い致しましょう!!



■第10回 平和を祈る演劇祭■

朗読劇『空にはきらきら金の星 ~落雀の候~』
    作・演出 上野火山
【日程】
08/22(金) 17:00~17:45
08/23(土) 15:15~16:00

【入場料】
大人:1,000円
子供:500円

【会場】
保谷こもれびホール(小ホール)
東京都西東京市中町1-5-1 保谷駅より徒歩15分
▲詳しくは《保谷こもれびホールオフィシャルサイト》をご覧下さい


【チケット予約】
下記のメールアドレスまで、《氏名、チケット枚数、電話番号》をお書きの上、メールでお申し込み下さい。
当日、受付にて、氏名をお伝え頂きチケットをお受け取り下さい。お支払いは受付でお願い致します。


※チケットは二日間有効で、チケットをお持ち頂ければ入退場自由です。
どの劇も一枚のチケットで観ることが出来ます。



《演劇祭全体のタイムテーブル》

08/22(金)
●この子たちの夏    15:30~16:50
●空にはきらきら金の星 17:00~17:45 
●マイス        17:55~19:05
●らっきょう      19:45~20:00

08/23(土)
●らっきょう      13:00~13:45
●マイス        13:55~15:05
●空にはきらきら金の星 15:15~16:00 
●この子たちの夏    16:10~17:30


本気の夏!!

市ヶ谷駅から☆
法政大学で行っている「比較演劇学」の夏期集中講義が先週の土曜日に終わりました!
ボアソナード・タワー☆現在キャンパス工事中!!!

 
まずは、今年の夏のひとつめのイベントが終了!!半年分の講義を一週間で、というのは本当に大変。
受講する学生の諸君も大変。夏の暑い中、市ヶ谷の線路沿いの道を大学まで通うと、聞こえてくるのは激しい蝉の声。
熱いんだけど、蝉の声に心洗われる瞬間でもあります。
あとは、頼まれ仕事が幾つか終焉したので、朗読劇に集中すること。



「本気」というのは、絶えず自分に問いかける重要な問だと思っている。
なんとなく、とか、取りあえず、とか、そういう姿勢は何にも生み出さない。今日も昼間、本気について語ってしまったが、伝わらなかっただろうなぁ。
伝わらないんだよ、本気、というのは。なかなかね。
本気は傷つくことも含む態度のことだと思う。責任から逃れ、傷つかないように生きる限り、決して「本気」を理解することは出来ないだろう。



先週の講義の中で、自分は「本気」で語ることが出来ただろうか?
自分の傷口を躊躇なく開くことが出来ただろうか?
吐く言葉は、すなわち自分自身に向かって返ってくることを自覚できただろうか?
何よりも自分自身の愚かさに直面できただろうか?
たかがひと夏の講義に過ぎないが、本気で語りたいと心から願っている。
この夏の熱気の中で、暑さと、時々心の中をよぎる悲しみが、僕に前を向かせる。

本物を創り出す作業は、これからが佳境です。
「本気」出して行くぜ!!


2014年7月17日木曜日

朗読劇稽古開始☆



今年の夏は本当に忙しい。

急遽頼まれたシナリオが一本、そしてその演出。
更に英語の指導も多く、今月末からは大学の集中講義も始まります。
そして、来月に迫った朗読劇☆





昨日から本格的に読み合わせがはじまりました。
大変悲惨な物語ではありますが、終戦と共に国家によって捨てられた人々を熱く描くことが出来たら嬉しいです。
集まってくれた若い俳優たちは、皆素晴らしい若者たちです。
脚本をよく読もうとしてくれるので、質問も出る。その質問に答えることで、演出するこちら側も考えが深まる。
いいな。こんなサイクルが作品を深く追求するムードを生むのだと思う。
来週の稽古で全出演者がそろうことになりますが、今から楽しみでなりません。


非常に知的な集団で共同作業できることは、「探求」にとって欠かせない要素です。
感覚や感性のみならず、知的に探求する姿勢は、全ての創作活動の「核」だと思います。そうした核が育っていく雰囲気が今回の稽古にはあります。
これは本当にかけがえのない演劇的環境と言えると思います。


妥協せず、追求し、自分の知らない時代の知らない体験を具現化し、追体験すること。これこそ演劇の醍醐味であり、演劇にのみ与えられた特権かもしれません。
今年の夏は、本当に忙しいけれど、本当に燃える夏になりそうです。
このワクワク感がたまらない!頑張るぜ!



近々、この「平和を祈る演劇祭」のチケットの予約、受け付け開始します。
少々お待ち下さいませ。


2014年7月2日水曜日

お知らせ☆

演劇祭・最新情報更新しました。

メニューの『最新公演情報』をご覧下さい!

2014年6月24日火曜日

天使の愚かさ(再掲)

以前、岩手大学宮澤賢治センターの通信誌に寄稿した文章です。

数年前に掲載した文章ですが、再掲させて頂きます。

賢治の「虔十公園林」という作品は、先日15日にお亡くなりになった作家のダニエル・キイスさんの「アルジャノンに花束を」に通じる部分があるような気がしてなりません。ご冥福をお祈り致します。

『虔十公園林』と天使の愚かさ(岩大通信)

       上野火山

遠い日の記憶である。

少年の頃、いつも市営のテニスコートの金網の所にぼんやり佇んでいる人がいたのを覚えている。彼が知恵遅れだというのは周囲の暗黙の了解だったようだ。誰一人彼を怖がる者もなく、特に馬鹿にするでもなく、ごく普通に一緒に暮らしていた。

春、桜並木を通って学校に行くときも、夏、テニスコートの向こうにあるプールに行くときも、秋、堤防で野球をするときも、冬、雪に埋もれたテニスコートで雪合戦をするときも、彼はいつもそこにいた。ちょっと優しげでちょっと哀しげな彼の眼差しを僕は忘れることができない。彼は、僕にとって一人の虔十だった。

『虔十公園林』という作品に出会ったのは、そんな小学生の頃の教科書だったと思う。不思議なことに、今発行されている検定済みのどの教科書にも虔十公園林が載っていない。それはいったい何故なのだろうか。

小学生の僕の胸をあんなに締め付けた虔十公園林という小さな作品。その中で主人公の虔十は、まぎれもない知恵遅れの少年であった。知恵遅れというこの表現すら今は差別用語になってしまう、そんな時代を僕らは生きていることに愕然とする。人はいったいいつから愚かさから学ばなくなったのだろう。人はいつからあの天使の眼差しを忘れてしまったのだろう。

賢治の描く虔十の愚かさは軽蔑すべき哀れなものでは決してない。寧ろ「天使の愚かさ」そのものなのだ。それは気高く美しい。そしてなによりも、この物語はまともなふりをした意地の悪い利口さに対する、その愚かさの勝利を描いているのだ。

五十年代のアメリカ映画「エデンの東」の中にジェームズ・ディーン演じるキャルがまるで虔十そっくりに畑に列をなした木の苗を踊りながら眺める場面がある。その場面を見ながら、僕はディーンに虔十の姿を重ねて見ていた。誰憚ることのない喜びを僕は見ていた。

天使はこの地上で生きていることが嬉しくてならないのだ。踊り謳いハーハー言うのだ。虔十のハーハー笑う姿を馬鹿にする人間が出てくるが、殴られても蹴られても虔十はひたすらハーハー笑っている。哀しくても嬉しくても虔十はハーハーなのだ。

やがて一緒に遊んだ子供が大人になって、虔十公園林を見てあの日のことを思い出す。天使のように愚かだった虔十の瞳の中の優しさと悲しみを、人は大人になって思い出す。そして、無名の人、虔十によって植えられた杉林は誰に恥じることもない大きく立派な公園林に育っていった。

こんなに哀しく美しい物語を僕は他に知らない。賢治の紡ぎ出す愚かさを主題とする物語に僕は特に心惹かれるのだ。

それは愚かなる人間は社会の「お荷物」と考える常識に対し、愚かさと共に生きることを選んだ賢治のアンチテーゼが垣間見えるからかもしれない。いや寧ろ人間の本質が愚かさそのものだと看破した賢治に惹かれるからかもしれない。

僕は「やまなし」のクラムボンはボンクラのアナグラムだと考えている。愚かであること、ボンクラであることはこの世では生きづらい。けれど、僕らの精神の歪みを映し出す鏡こそ、このボンクラの自己認識であり、天使の愚かさなのだと思う。

教科書に載らなくなったのは、現在という時代がもはや「天使の愚かさ」を重要な価値のひとつと認めることができなくなり、利益と利口さばかりに価値がおかれてしまっているからかもしれない。

愚かさは、この世界を生きる限り常に僕らと共にある。愚かさとは無用で無視したほうがいい唾棄すべきものでは決してない。

僕たちは今、少々利口になりすぎてはいないだろうか。

その利口さ故に記憶喪失に陥っている。幼い日に見た様々な愚かさの風景を、何事もなかったかのように水に流している。

今、賢治を読むことは、自己の記憶喪失に対する贖罪の意味もあるのだと僕は思う。

2014年6月20日金曜日

風を撮る!




雨が降る雨が降る…と警戒ばかりしていてもしょうがない。
雨が降ったら濡れていこうじゃないの!


そんな折、さっき、書斎で作業中、ふと外を見ると風が吹いていた。しかも、気持ちの良い緑を揺らすそよ風だ。
僕は、手元にあったスマホで19秒ばかり動画を撮ってみた。
たった19秒の動画に風が映ればいいな!そんなことを不意に思って撮ってみたんだ。

昔は、すべて記憶していたもんだけど、今は19秒を撮っておくことができる。保存する気になれば保存も出来る。でも、一瞬の想い出は自分だけのもの。その時間、その場所で体験した者のみが味わうことが出来るもの。


当 たり前の風景が、19秒に切り撮ってみると、二度と戻らぬ万華鏡の世界に僕らは暮らしていることがよく分かるんだな。世界は万華鏡だよ。二度と同じ事を繰 り返すことのない万華鏡だ。その意味で、今こうして同時代を同空間で共有し合っている僕らは、皆同じこの世界の住人に過ぎない。上も下もない。イデオロ ギーもない。偉いも偉くないもない。悲しいほど皆同じ運命を持っているのだ。それは、後100年、もしくは150年したら、今のこの世界に生きる者は誰一 人いないという現実。


生とは、その短い時間の中で、できる限り努力して味わうこと以外に、何があるだろう?
風を19秒間だけ、撮ってみて、僕は世界がいつまでも同じであり続けるという幻想から抜け出せた気がする。

経済学者がなんと言おうと、金融で世界ができているわけじゃない!銀行が世界を創り出しているわけじゃない。政府が世界を保障しているわけじゃない。
世界は、僕らが創り出しているんだ。
刻々と変わるこの世界を、僕らは毎秒毎秒創り出しているんだ。


風をもっと撮りたくなってきた!!




2014年6月15日日曜日

飛行機雲の空には…




梅雨の合間の青空の一日。

日曜日ではありますが、午前中から午後にかけて、仕事をし、帰宅後は原稿に向かっておりました。

ふと、窓の外を見ると、そこには遠く飛行機雲がたなびいている。
実に欲深い人間なので、時間は限られているにもかかわらず、あれもこれもやれることは何でもやっておきたいと思うのです。
なので、てんてこ舞いでへとへとです。

ですが、そんな日々の中で、見上げた空に真っ直ぐな線は、何か心洗われる感じがします。今、かつて書いた戯曲をコンパクトな読み芝居に改訂する作業に追われています。時の経過を経てなお残ったものこそ、本質なのでしょう。自分に問いかける意味でも、大切な作業だと思っています。新作だけではなく、旧作の理解のし直しは意味があると思う今日この頃です。

夕方、子どもたちの新しい大きな本棚の搬入があり、大事な本が次々と収まっていく風景は、なかなか楽しいものでした。

さて、日曜日の今日は、僕の特製マカロニ・サラダを作る約束をしておりました。これから、ひと休みして台所に行こうと思います。

明日は、また若い映画人と語り合う約束をしてるので、これも楽しみ☆

では、今日はこの辺で!
徐々にツイッター化しているブログだね!
これもまた楽しい!



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