2019年5月11日土曜日

懐疑的であることはたいせつだよ

"The Power of the sun"   by Kazan UENO
『懐疑的であることはたいせつだよ』



信じるという言葉があります。

僕らが日常的に使うこの「信じる」という言葉は、実に多様な意味がありますね。神や真実の存在を信じたり、あなたの言うことを信じたり、新聞の記事を信じたり、ネットの噂を信じたり、SNSの投稿を信じたり、、、、、どれもが同じようですが、ちょっと違う。

信じる行為を可能にさせるのは、信仰や信頼や愛情や友情や尊敬や、様々な要素によって質のことなるものだからです。
とはいえ、僕らは常に何かを信じたいし信じるからこそ何らかの確信を持って前へ進んで行けるし、信じるからこそ様々な問題への対処が楽になる。

ですが、本当に信じることで救われてますか?信じることで大概は救われるのでしょう。信じるからこそ、何かに囚われ、がんじがらめになり、疑うことが罪悪に思え、身動きがとれなくなる、なんてことありませんか

昔読んだ本の中で、クリシュナ・ムルティという方が「私は何も信じない」と言っておりました。確か彼の著作のタイトルにもなっていましたね。
自分の教団を持ちながら、信者たちを捨て、教団を畳んだ彼は、自ら何も信じないと言うことで、彼の後を追う信者たちに「自らの力で考えよ」と言ったのだと思う。

同じようなことがかつてドイツでもありました。
実存哲学の巨星、マルチン・ハイデガーは戦後ナチスに協力したということで、評価を著しく下げてしまった晩年が哀しい哲学者でしたが、戦争中、弟子であり愛人でもあったハンナ・アーレントをドイツからアメリカに送り出す時、こう言いました。

「思考せよ」

単純に何かを信じるのではなく、考え続けることこそ価値のあることだと伝えたわけです。

信じるという行為は、本当に難しいことですね。例えば夫婦だって信じることがなければ一緒に暮らすことなんてできやしない。信じることは、それほど僕らの日常に深く根ざした根本理念とも言えるかもしれません。
それでもなお、信じることの「怪しさ」、場合によっては「いかがわしさ」に注目せずにはいられません。


日々流されているニュースにしても、特にあからさまなフェイク・ニュースというわけではないにしても、すべて信じ込むような人はいませんよね。何か事件が起こると似たような事件が立て続けに報道されますが、それは報道する側が取捨選択もしくは忖度しているわけです。僕たちがニュースを選べるわけもなく、すでにメディアによって取捨選択と忖度が行われて、その結果として見せられているに過ぎないのです。
だとすると、一概に一連の報道を基に傾向を探ることは、報道を流す側の忖度に乗っかってしまうことになりはしませんか?
テレビは駄目だけど新聞は信じるというメディアの種類の問題ではなく、受け取る側のこちらの姿勢の問題なのです。鵜呑みにするのは受け取る側が「信じ」込む準備ができているからです。準備は教育かもしれないし、目上の人間から受け継いだ信念かもしれないし、社会的立場で培った常識かもしれません。いずれにせよ、自らを疑うことがない場合は、容易に「信じる」という行為が生まれやすいのではないかな。

それとは対称的なのが「懐疑的である」ということです。
一般に懐疑的であるというのは、どこか斜めに見た嫌らしい態度のように見られがちです。懐疑的=疑り深い、というのかな。

とはいえ、懐疑的であるというのは思考するということであり、疑うことのない思考は思考ですらないかもしれない。人間の頭の中は絶えず様々な事象が入れ替わり立ち替わり現れ、疑問(疑念)と検証(確認)を繰り返しています。
疑うことがなければ確認もないので、疑うことがなければ放置されるわけです。安易な信じるという行為の究極の危険性はここにあると言えます、
すなわち、思考をやめ、事象を「放置する」ということ。


クリシュナ・ムルティの「何も信じない」も、ハイデガーの「思考せよ」も共に、放置せず、人任せにせず、自らの精神をフルに使って、頭脳を働かせ「疑え!考えろ!」と言っているのではないかな。僕にはそう思えてならないのです。


懐疑的であるというのは、実に良いことです。
懐疑的であるからこそ、思考するのですから。
懐疑的であることにあまり良い印象を持たない日本という国の常識的なものの見方こそ、見直すべきものだろうとしばしば思うのです。






「懐疑的であること」にあたる英語の"Skepticism"は決してネガティブな意味はないと思うけどね。
何事も簡単にあるいは安易に信じすぎず、疑いましょう。






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