【頂いたルチャのマスクを被って著者近影】
『言語化する意味』
言葉の持つ力を信じたい。
生真面目な言葉も、ふざけた言葉も、かたくなな言葉も、優しい言葉も、すべて必要だ。僕らは言葉によって生かされている。
言葉とは一種の祝祭だ。この世を生きて味わう祝祭の結晶。それが言葉だろう。
「なんとなく」というのはたまには良いけど、やっぱりやだな。なんとか言語化しようと試行錯誤を繰り返し、苦悶し苦闘するのがいい。
同じく「人それぞれ」というのも、好きになれない表現のひとつ。なんであれ、どんな状況でも、人それぞれは常に何にでも当てはまる当たり前のこと。故に「人それぞれ」は決して結論にはなり得ないのだ。ただ丸く収まるだけ。そこに批評や批判といった思考が入り込む余地はない。言語化に対する拒絶。それが「なんとなく」と「人それぞれ」ではないかな。
先日も、大学で質問されたのが「批評」と「批判」についてである。
どうも誤解があるようなのだが、批評と批判は「否定」ではありません。むしろ事象や対象を分析することこそ批評や批判の存在価値でしょう。なのになぜかこの国では音が似ているせいか批評と批判が否定と同一視されている。しかしながら批評にも批判にも否定の意味はどこにもないのです。
言語化するとは、世界の表面から隠されている意味を掘り返し、そこに批評や批判を加えることでしょう。見ようとしない限り決して見えてはこない世界の「意味」は批評や批判という鋤や鍬でほっくり返さない限り、人目に晒されることはないのです。
日本の従来の文化の中には、阿吽の呼吸であるとか、みなまで言うなとか、言わずともわかるとか、言語化することを一段低く見る、もしくは言語化することが必ずしも意味があるとは見ない傾向があるようです。
でもね、言語化は必要です。あえて言葉にすることで、具体化し見え始めることも多いから。言葉にしなければ、ないのも同じ。そこにはほんのちょっとの勇気が必要なのかもしれません。
言語化するという行為を通じて批評し批判すると、周囲の反感を買って、自分に対する評価が下がるかもしれません。これもよくこの国で起きること。無難な、批判も批評もない空虚な言説ほど評価は高くなるでしょ。そういうことです。でも、ここはあえて言語化する勇気を持ちたいものです。それは何も反感をあおることでも、ネガティブに他者を攻撃することでもありません。対象と正直に直に向き合う決意こそが、言語化するということのひとつの矜持に他なりません。
言葉を使う祝祭は、ほんの小さな勇気と共にあるのだと思う。
インターネットでも、日常生活でも、学校や会社でも、クラブでも通りを歩いていても、そこら中で息苦しいほど言葉が敵視され、それ故に言葉が貧困に陥っていると思いませんか。言語化することもなく分かった感じになって、その日を過ごすことが多くなっていませんか。SNSではしょっちゅう書き込むのに、曖昧なまま言葉がネット上を漂っていませんか。テレビや広告宣伝の文句に、なんとなく従って日々を過ごしてはいませんか。自分で考えることがどんどん億劫になっていませんか。僕らはこうして言語の力を少しずつ奪われてくんだな。
こんな曖昧でよく分からない力のうごめく時代だからこそ、言語化することは意味のある行為なのだと思います。
寺山修司は生前「書を捨てよう、町へ出よう」と言いましたが、今は「無自覚な合意を捨てよう、言葉にしよう」と言いたいね。
どんな立場にあっても、言語化する努力は、未来を創り出すきっかけになるんだ。
昔料理を教えてくれた斉藤さんという料理長が「言葉で説明するのもいいもんだぜ」と言っていたのを思い出します。本来言葉を必要としないかに見える料理も、実は言語が必要なのですね。
言語化するということ。それはこの世界を生きるべき意味あるものとして認識する大切な方法なのだと思うな。
言葉はそれがたとえ放送禁止用語であっても、美しいものなんだ。
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