英語劇「FRIENDS」を観る☆
先月、教師による英語劇を見る機会がありました。
僕自身、演劇の基礎は英語劇です。英語劇を知らない立場からすると、日本人が何故わざわざ外国語の英語で、しかも演劇を行う必要があるのだろうか?と思われるかもしれません。しかし、この世界決して昨日今日始まったものではなく、もう本格的に日本に根付いて50年以上の年月が流れています。あくまでも本格的にという意味で、日本の大学における英語劇の歴史は、もっと古くなるはずです。
ともあれ、僕は80年代初頭から今もなお英語劇とは様々な形で関わっています。少し前に子供達とモーリス・センダックの「かいじゅうたちのいるところ」(原題:Where the wild things are)を英語劇として上演したりしましたよ。ちょうど1年前ですけど。
日本語で芝居を始める前に英語で演劇と関わることで、言語とコミュニュケーションの関係を否応なく考えざるを得ませんでした。恐らく英語という異言語を通して日本語に入ることができたからこそ、今「方言」に対し、ある種の拘りを持って演劇を行えているのだろうと思います。1990年代以降の僕の戯曲はすべて「方言」含んでいます。
コトバを超えて人は、意思の疎通をしている。言語は、その意思のきっかけに過ぎない。しかし、きっかけに過ぎないその言語に人は感情を掻き立てられる不思議。コトバは道具でありながら、言葉以上もの。コトバを使ってコトバを超える喜びが演劇にはあると思います。
今回は安部公房作「友達」の英語版を観る機会を得ました。
学校で普段生徒たちと向き合って英語を教授している先生方が集まって、多忙な中、英語版「FRIENDS」を上演する。なかなかあることではありません。すでに教え子たちが同じ作品を上演した後であればなおのこと、非常に教師たちにとってプレッシャーのある公演だったと思います。しかし、観劇した後の爽やかさは想像以上!
観ていた生徒は喜ぶ、観客席の大人も喜ぶ、とても明るい雰囲気が会場である赤坂中学の体育館を包んでいました。FRIENDSの劇音楽はタケカワ・ユキヒデさんがお造りになったもので、物語の不思議な味わいによくマッチしていました。
終演後、教え子たちが先生たちの演技に満足している様子を見て、こちらも嬉しなりました。アットホーム、手作り、そんな言葉がぴったりの舞台でした。
久しぶりに原点に戻ることのできた瞬間がそこにあった。
僕はここから来たんだと思った。確かに三十数年前、僕はあの中にいた。
利益の追求も、売り買いもない、ただあるのは英語に対する愛情と演劇に対するリスペクト感。これだけ。これを忘れては先へ進めないもの。
僕にとって、この小さな公演は自らの出自に対する再確認の場になりました。
滅多にない貴重な体験をありがとうございます。
プロデュースの北原先生、ならびに演出の萩弘美先生に心から感謝です。
僕が英語劇出身であることを深く再確認させていただきました。
秘密ですが、今、子供用に「Alice in Wonderland」を英語劇化しています。
ナイショ。。。。。
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