2013年1月24日木曜日

ベランダにて

ベランダのヴィオラ

久しぶりに太陽が暖かく感じる日ですね。

陽の光に誘われて午前中ベランダに出ると、ベランダの端っこで妻の可愛がっている小さな花の鉢を見た。
「ヴィオラ」というスミレの一種。花言葉は「誠実」だって。照れるぜ(???)
その白くて柔らかい花びらに水滴が一粒。

まだまだ寒い日が続くけど、ちょっと和んだな。「癒やし」という言葉はあんまり好きじゃないんだけど、「和み」はいいな。


今年は政治も経済もガタガタな日本ではあるけれど、個人としては、あらゆる部分で仕切り直して行こうと思っています。
一月だって、後もう一週間で終わり。
変化の時代の、その変化の過程で、僕らは時々和む時間が必要だ。
生涯ロックしたいものだとつくづく思うが、それでも時には和みが必要だ。
茶番と嘘八百と偽善と偽装と陰謀で溢れた僕らの時代に、ベランダでヴィオラがひっそり花を咲かせているんだぜ。じっと見ているだけで和むじゃないか。

最近、昔読んだ本を引っ張り出して読んでいるだんな。新しい本よりかつて読んだ本をもう一度確認したくなっている自分がいる。

時代は本当に進歩しているのか?世界は本当により良くなっているのか?


数年前に百歳で亡くなったお祖母様に生前一冊の本を頂いた。「Shorter Poems - ALEXANDER」というタイトルのその本は、テニスンをはじめとする英文学上の数々の作家たちによる小さな詩を集めたアンソロジーだった。さながら詩の宝石箱のような本。
僕は数日前、書庫の本棚にその本を発見して以来、仕事机の上に置いて、眺めている。
表紙を開くと次のような書き込みがペンで書かれてあった。

「Wishing dear Jean
        a Merry Xmas
                        Margaret」
On the day of the Departure, Xmas, 1924

僕は、しみじみ思うんだ。1924年にアメリカの一人の女性から、日本人の一人の女性に手渡された一冊の詩集が、大きな戦争や様々な苦難の時代を経て、調子の良い時代、うっかりした時代、沈んだ時代を乗り越えて、今ここにある。ということを。
欲や見栄や世間体なんかどうでもいいな。人はこれまでもしっかり生きてきたし、これからもしっかり生きていくだろう。
重要なのは、君や僕がこの時代を作り出し、生きているということ。
あと百年も経てば、今のほとんどすべてが忘れ去られ、忘却の彼方に消えてしまうということ。
しかしそれでも、人の中にある微かな「誠実」は時として時代を超えることもあるのかもしれない。

たまたま開いたページがすべてを言い尽くしている場合もあるな。
今開いたページにはLongfellowのThe Buildersという詩が書かれている。

「All are architects of Fate,
                Working in these walls of Time;
Some with massive deeds and great,
                Some with ornaments of rhyme.
Nothing useless is, or low;
                Each thing in its place is best;
And what seems but idle show
                Strengthens and supports the rest……」

訳:あらゆるものが 運命を創り出し
                時間というこの壁の中で動いている
  あるものは強烈な行動や偉大さと共に
                またあるものはその周囲を彩るものとして
 なにひとつ無駄なものも 程度の低いものもない
                ふさわしい場所で それぞれが最高なのだ
 そして ただ下らないと思えたものが
          そのほかのものたちを強め支えてくれていることを忘れまい……。


2013年1月4日金曜日

凧揚げからはじまった!

  
冬の太陽に向かって凧を揚げる☆ 

一年の始まりが凧揚げだなんて最高だな☆

正月三箇日の三日目。
近所の広い広い公園に行く。ここは時々熱気球も上がるぐらい広い敷地面積を誇る場所なので、着いたときには、大勢の人たちがすでに「凧揚げ」に勤しんでいた。
僕が少年の日に楽しんだ奴凧なんか、今やなくなってほぼ元気象観察機器だったゲイラカイトがすべてを占めていた。
中に、ご老人が一人、手作りらしい和凧を揚げていたのが印象的でした。

僕らが持って行ったのは「アースカイト」という超小型の骨組みのない簡易凧。
にもかかわらず、これがなかなか飛ぶ姿が面白く、バランスを取るのがとにかく難しい。
試行錯誤しているうちに、空高く(?)舞い上がり、強い風の力を受けて、空を滑空し始めた。
時々、とんでもない回転を起こし、地面に急降下するものの、時間が経つうちに、良い感じで空に留まるようになった。
子供の頃を思い出す。
凧をどう飛ばして良いのか分からなかった僕は、ひたすら凧糸をひっぱりながら「走る」。それだけ、走っている間だけ、空中に留まるが、ハーハー!言って止まると途端に地面に落ちてくる。
やがて、糸をクイックイッと引っ張りながら、風の向きを考えて、引っ張りながら上空へ舞い上がらせる方法を身体で覚えていったようです。メンコ(僕の田舎ではパッタですが)で勝てるようになったのも、確かに身体で覚えた記憶がある。子供の教育はすべて身体と一体になっていたように思います。

子供たちと一緒に凧を飛ばしながら、僕は子供時代に戻り、あの広い磐井川の堤防で飛ばした凧を思い出していた。いい歳のオヤジになっても、幼い頃のあの日々から今が繋がっていることを実感する。技術も知恵も、夢中になって、損得勘定なしに取り組んではじめて身につけたものばかりだということに、今更ながら気がつくんだね。それは人に認められたいからでもなく、大儲けを狙った利益追求でもなく、出世するんでもなく、単純に修得する喜びと興奮に満ちていたような気がする。

この世界の喜びのひとつは「凧揚げ」から始まったのかもしれないね。


今年もよろしくお願いします!
良い年にしましょう!!


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