哲学も芸術も、リアルな政治的状況の前では無力ではないか、そんなことを思っていた。思想とは単純に硬化したドグマの謂ではないのか。そんなことを思っていたのだ。
というのも八十年代以降、脱構築とポストモダンの安売り状態で、人間の思考も行動も表層的になり、全てが商業的な深みのない浅薄なエンターテインメントに成り果てた印象を持っていた。事実、八十年代以降「軽佻浮薄」の合い言葉の下、テレビを中心に思考を停止し経済活動こそが唯一の真理であるかのようにこの世界は進んできたように思う。バブル時代だろうが、バブルがはじけただろうが、そんなことにお構いなく、この時代と世界の価値観として「利益」、「得」、「儲け」が人の究極の目的であるかのように僕らは老いも若きも「教育」されてきたように思う。そうして、なし崩し的に意味の解体がはびこりはじめ、いつのまにか金銭的な価値に還元できなければ全て無意味といった、ハイエク以来のミルトン・フリードマン的な価値観が一般化した時、硬化した既成の価値観から一旦抜け出ようというジャック・デリダの「脱構築」論は魅力的でありながら、同時に僕個人は、どこか宿敵のような感覚を憶えていた。すなわち、八十年代以降のこの抜き差しならぬ価値状況を創り出した原因は、デリダにも少なからずあったのではないかと思っていたわけだ。
そんな僕が、今、彼の「ならず者たち」(みすず書房)を読む。
実に面白い。何が面白いのかというと、その哲学的視点からの現在の思想もしくは価値観を叩き切っているその率直さかもしれない。
深い言葉の洪水の中で、彼は端的にこう言う。
「…ならず者国家に対し戦争ができる立場にある諸国家は、先験的に、このうえなく正統なその主権において、その権力を濫用するならず者国家だということを現しめるだろう。主権があるやいなや、権力の濫用およびならず者国家がある。濫用は使用の法である。それが法そのものであり、それが分割なき全統一性においてしか支配できない主権というものの<論理>である。」
すなわち、ある国家を「ならず者国家」と呼ぶ時、その呼んでいる国家自体がすでにひとつの「ならず者国家」なのである。
彼の問である「来るべき民主主義」とは少なくとも、現在ある資本主義やグローバリゼーションやシカゴ学派による新自由主義経済・純粋資本主義であるはずがない。民主主義とはプロセスであって、すでに成し遂げられた完全な政治体制ではない。日本はこれまで民主主義国家ではなかったし、良くも悪くも社会主義的な国家であった。だからこそ、社会保障も充実していたし、社会福祉は他の国家では例を見ないほど完成されたものだった。
しかし、今、この国はより完全な民主主義国家に向かっていると首相は言うが果たしてそうなのか?今向かっているのは企業による純粋な資本主義体制であって、より厳密な意味での民主主義に向かっているのではない。むしろ、民主主義的要素が日ごとに失われているのである。社会主義と民主主義は同時に存在できるが、資本主義と共産主義は同時に存在できない。
ならず者と呼ばれた国々が、独裁者による暗黒の国家のように喧伝されていたが、例えばカダフィ大佐のリビヤなど先進的な「無償社会保障制度」など他国では考えられない社会保障制度を持っていたにもかかわらず、ならず者国家の烙印を押され、大佐亡き後、すべてそうした社会保障制度は一掃されてしまい、更に石油利権も欧米に収奪されたのである。
デリダを読むことで、現在の世界と価値観の状況を、しっかりと見据えることができたように思う。彼は911以降の世界の異様な動きに正確な観察眼で哲学的営為をすすめているが、この著作は一種の羅針盤のように、日々のニュースや報道で狂わされた方向感覚をもう一度是正してくれる力があるような気がしますね。
今、デリダが面白いな。