2016年11月1日火曜日

演劇における音楽の位置の問題

『演劇における音楽の位置の問題』

 


先日、縁あって千葉の方で行われた「焚き火の会」というのに参加しました。
昔、岩手にいた頃は庭先で焚き火は日常茶飯事でしたが、今都内で焚き火ができる環境は、ほとんどありません。従って、都会に住む多くの子供にとって焚き火は想像の外にあるといっても過言ではないでしょう。



参加した多くの子供たちは、時間が経つにつれ、どんどん解放されていくんですね。自分のしたいことをしたいようにやるという人間の基本姿勢を見せていました。
そうなると、残念ながら学校教育なんてものは、焚き火の炎の前では無力だな。なぜなら、教育は教師に仕込まれるものじゃなく、自発的に発見し、楽しんで身につけたり、深めたりすることなんだよな。それは参加した自分も含め子供たちや大人たちを見てはっきり思いました。
誰一人命令したり指示を出したりする大人がいないのがいい。大人も子供も自分の好きなことしかやらない。それでいいんだな。



さて、そんな中で僕は秋刀魚を焼く係りになりまして、ひたすら秋刀魚を焼きまくりました。網に秋刀魚の皮がひっつかないように豚のラードをあらかじめ塗って、少し焦げるぐらいまで焼く。そのジュージューいってる奴を皿に載せ、おろしたばかりの大根下ろしを添えて、スダチのようなレモンを搾り、醤油をかけて食う!うまい!全身秋刀魚の匂いになりながら僕は幸せだった。


夕方、秋刀魚がだいたいはけた頃、何人かの方々と今度はとびきり旨い豚の串焼きを食べた。旨い塩が練り込んであり、肉は柔らかく、ジュースィーイ!!!


唐突に話題は演劇と音楽に関するものになった。
実に唐突に人生は転回する。いや展開するか?
いずれにせよ、実に興味深い話になった。お相手はフルート奏者にしてDJであり、文筆家でもある花田志織さん。
僕は演劇とはドラマだが、音楽を決してSEではないと考えている。むしろ音楽によってドラマが喚起されるのが僕の常である。なので、音楽と科白、もしくは音楽とドラマはどちらも50%で半々だ、と考えている。彼女は僕にこう訊いた。 
「上野さんにとって演劇とは何?」
僕は答えた。
「音楽をベースにドラマを考える、それが僕の演劇ですよ」
すると、志織さんはこう言った。
「それは音楽を演劇で表現なさってるんでしょ?」

いやぁ、良い言葉だな。そうなんだ、確かに僕は音楽を演劇化しているのだと思う。作曲と同じだけ戯曲を作り、演奏と同じように演出する。
僕は音楽を演劇にしているのだと、焚き火で自覚できた。
いつも弾いているピアノと同じように演劇に向き合いたいと思う。僕の演劇は音楽であり、音楽は演劇だ。
音楽は感情であり、空気であり、匂いである。
音楽は色であり、肌触りであり、夢である。
音楽は記憶であり、メッセージであり、時間であり、愛である。


そうか!なんで僕は芝居をやりながら、バンドをやるのか。今はっきりわかる。
僕の演劇における音楽の位置は、焚き火の熾火のようにドラマの中心点にあり周りを照らすものだ。効果音のような添え物ではなく、音楽はドラマそのものを彩り照らすものだった。



「音楽を演劇で表現してるんです」
これ、僕のこれからのキャッチフレーズ☆

志織さん、Thanks!!!!
こんど、セッションしましょう!!!!
Powered By Blogger