幕末の志士たちは、夜明けを待っていた。
ずっと昔、遠くの空を彼らは眺め、自分たちの置かれた環境を変え、現状を乗り越えようと必死だった。若い彼らには、誇るべきものも確実なものも何一つなかった。あるのはただ今を越えていこうとする意志だけだった。もちろん、これは理想論に過ぎるかもしれないが。
この時代に生きる僕らは、いつの間にか牙を抜かれてしまったようだ。
遠い夜明けを夢見る愚かさを軽蔑し嘲笑いながら、牙を失った腑抜けども。匿名でなければ、言葉ひとつ発せぬ弱虫ども。
生き残ることだけにしがみつき、人を手玉に取ることだけ、批判することだけに汲々とする現代人。あるいは弱さに閉じこもる現代人。彼らは、世の東西を問わず夜明けを見ることはないだろう。
本物の牙は、相手や敵を噛み砕くものではない。
本物の牙は、己自身を切りさいなむものである。
それはあまりにも危険なので、畏れる者は、せめて他者との関係のみで勝負すればよい。それを政治や経済と呼ぶ。
その勝負は決して太陽の光に照らされることはないだろう。つまり、今を越えることが決してないからである。
弱さは確かに罪である。それは弱さに安住し居座るから。
弱さは事実を知ることはあっても、真実を見ることがないから。
そして、最も重要なのは、弱さが優しさと無縁だからだ。
志士たちにも癒される瞬間はあっただろう。
しかし、彼らはことさら癒しを求めたりはしなかった。癒しとは、今や卑しさそのものになり果てている。彼らはむしろ、傷つくことを甘んじて受け入れ、死ぬことすら受け入れた。そしてそれは、国家だとか大望とかいった望みよりむしろ、生きるということの喜びに忠実だったからだと僕は思う。その意味で、傷つくこともまた癒しの一形態なのである。
遠い夜明けは、己をさらけ出すほんのちょっとの勇気の果てに現れるものだろう。だからこそ、この世の夜明けはまだまだ遠いのだ。
人助けする前に、まず己を救い出すこと。
世のため人のためを口にする前に、自己をさらけだすこと。
自分探しをする前に、今日を本気で生きること。
他人に託す前に、孤独に準備すること。
肩から力を抜く前に、力を感じること。
夢中という、その中に夜明けの兆しを感じる。
夜明けは遠いが、今ここに光は射しているのだ。