栄光のルマン:1971
今から三十年ほど前に亡くなった俳優スティーブ・マックィーンは、財産も自分の制作会社も結婚生活も、すべて、この「栄光のルマン」という映画一本で失ってしまった。
「レーシングは人生だ……その前と後にあるのはすべて、待つことだけ」
この言葉はマックィーンが演じた主人公マイケル・デラニーの科白。
映画の宣伝トレーラーで聴くことができます。
しかし、非常に変わった作品ではあります。科白や対話がほとんどない、ひたすら、レース場面が続いていくんです。「大脱走」や「荒野の七人」が大好きだった僕は中学生で、なんの事前情報もなしでこの映画を観たのです。面白可笑しいドラマ展開などなにひとつなく、緊張と孤独が画面をずっと支配していました。時々、登場人物がポツリと台詞を吐くんです。前述のマイケル・デラニーの科白もそのひとつです。
今でも夕方、外に青い帳が降りる頃、道路を走る車の音と共にこの映画の夕方から夜にかけての場面を思い出すのです。青い空気の中を走るレースカー。その空気は紛れもなくヨーロッパのものなんです。アメリカやアジアではない。ヨーロッパの青い色。
監督が途中で交代しました。最初の監督を務めたジョン・スタージェスは延々続くレース場面だらけの映画にウンザリし、人間ドラマのないこの映画を「壮大なジョーク」と言いました。確かにドラマは人間を描かなくてはなりません。でも、この映画は人間を描いていないでしょうか。種々多様な葛藤や軋轢を面白可笑しく描いてはいませんが、24時間耐久レースという過酷なレースに魅せられ関わる人間達のリアルなドラマがありました。それはあまりにもドキュメンタリー的な手法で描かれたため、お芝居が少ないのです。ですが、マックィーンが試みた手法は実際現代では充分理解され得るドラマ作りの一作法ではないかと思われます。
観客を描かれたドラマのその状況にできる限り深くコミットさせようとする「セミ・ドキュメント」法。
残念ながら往年の巨匠ジョン・スタージェスにはこの作戦が理解できませんでした。ジョン・スタージェスにはわかりやすい俳優のお芝居が必要だった。マックィーンは演じる以上に、登場人物として生きたかった。監督はそれを俳優のエゴと評価し、世間は下らない自己満足の作品と見なしたのです。単なる評価だけではなく、世界的にもこの映画はアメリカ映画らしからぬ娯楽的要素の欠如した非商業作品として完全に無視され興行的には大失敗に終わったのです。
なのに、不思議だなぁ。日本では大ヒットだったんですよ。たぶんハリウッド的な子供だましの娯楽作品も日本人は喜んで受容しましたが、根本的に深く人間の行為を観察することを楽しむ、ドラマのもうひとつの楽しみ方も、日本人は知っていたんではないかな?そんなふうに思います。
日本の観客は、七十年代ぐらいまでは、複雑な味が理解できる味覚の成熟と同様に、ドラマを受容する面でもかなり成熟していたんだと思います。
残念ながら、その成熟も八十年代以降急速に衰えていったんです。理由は簡単。「栄光のルマン」のような映画や舞台を観る機会が激減していたからです。複雑さを喜び楽しむ姿勢を失って、アメリカの観客同様、ひたすら面白可笑しいものを求めるだけの受け身の観客、すなわち、消費者に成り下がったからに他なりません。
でも、2000年を越えた頃から、徐々にまた観客の成熟が増してきているような気がします。それは、テレビの視聴率の低下に如実に表れていると思います。
単に消費者ではない、深く求め味わおうとする貪欲な観客は「栄光のルマン」をぜひ観るべきだと思う。
この映画では、映画スター、スティーブ・マックイーンは演じるよりもむしろ生きることに近づいているから。そして、それは彼が本物の創作者だったことを証明しているから。
あるインタビュアーに彼は「何故、スタントマンを使わず、自分でわざわざ運転するんですか?観客はマスクをしてヘルメットを被ったあなたを画面で認識なんかできないでしょう?」と問いかけられた。
すると、彼はこう答えたそうです。
「観客がわかってくれるさ。観客はそういったことを私に期待してるんだ。で、もっと大事なのは、私自身わかっているということだ。問題はありのままに、ごまかさずに演じるってことさ」
「栄光のルマン」トレーラー
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